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幸運を運ぶ犬

作者: 紬夏乃




 ファルケンシュタイン公爵家当主である父が抱きかかえた可愛らしい子犬を前に、ルイーゼは目を瞬いた。


「ほらルイーゼ、犬だぞ。欲しがっていただろう?」


「もう、もうお父様ったら! 私はもう立派なレディなのよ!」


 父が差し出す子犬を前に、ルイーゼは腰に手をあて頬を膨らませる。『犬が飼いたい』と、確かに幼い頃ねだった記憶があった。欲しがったのは三つか四つのころ。ぬいぐるみをねだるような、幼い欲求だった。叶えられぬまま年月が過ぎ、ルイーゼはもう『生きものを玩具のように欲しがってはいけない』と理解している。欲しいと思うものだって、ぬいぐるみから装飾品や書物に変化しているのだ。十二歳になったのに! と憤りながら、それでも隠しきれない喜びに目を輝かせてルイーゼは子犬を見つめた。


「レディになったからさ。今ならこの子を迎えても、きちんと世話をしてやれるだろう?」


「……もちろんよ!」


 そういうことなら、とルイーゼは満面の笑みで頷く。レディと認められているのなら不満はない。だってもう、命の大切さも、飼い犬だからと勝手気ままに扱っていいわけがないことも、きちんと理解しているのだから。


 ファルケンシュタイン公爵はゆっくりとしゃがんで、そっと子犬を床に降ろす。ルイーゼも床に膝をついて、伺うように子犬の顔を覗き込んだ。おそるおそる手を差し出すと、子犬はしっぽを振りながら甘えるようにすり寄ってくる。


「と言ってもまだお試しでね。この子がうちを気に入ってくれて、お前たちが仲良くなったら正式に飼おうと思っているよ」


「まだうちの子ではないの?」


「ああ、そうさ。オリヴァー殿下の飼い犬が子を産んでね、『娘が犬を飼いたがっている』と話したところ、それならばと預けてくださったんだ」


 オリヴァー・カール・フォン・シュティグロート殿下。この国の第二王子だ。第一王子が病弱なため、王位を継ぐのは第二王子の彼ではないかと有力視されている。フンフンと鼻を鳴らし懸命にルイーゼの手の匂いを嗅ぐ子犬をしげしげと見つめ、ルイーゼはぽつりと呟く。


「お前、王家の犬なの?」


 子犬は顔を上げ、犬はよくわかりませんね、と言いたげな顔でルイーゼを見つめ返した。「ちっとも高貴そうには見えないわ」と笑って、ルイーゼは子犬の頭を撫でてみる。くうんと鼻を鳴らし、手に頭をすりつける様子が愛らしい。「後日殿下が様子見にいらっしゃるから、それまで仲良くするんだよ」という父の言葉に頷いて、ルイーゼは子犬を撫でながら「ねえ、うちを気に入った? 気に入ったとおっしゃい」と何度も子犬に言い聞かせていた。



§



 すっかり寝支度を整えた夜。扉をカリカリと引っ掻く音に怯えたルイーゼは、続いて聞こえてきたクゥーンクゥーンという鳴き声に肩を落とし、寝台から出て扉を開けた。


「お前、居間に自分の寝床があるでしょう?」


 扉を開けるなり子犬はしゅるんと滑るように部屋に入り込んで、嬉しそうにしっぽを振る。ルイーゼは呆れたような笑みを浮かべた。


「わたくしはもう寝るところなのよ。ここにお前の寝床はないのに、一体どうするつもりなの?」


 子犬はきらきらと輝く瞳でルイーゼを見つめ、返事をするように「きゃん!」と鳴く。好きな場所に丸まって寝るのかしら、とルイーゼはあくびをかみ殺し、子犬を撫でて寝台に向かった。チャッチャッと後ろから響く音に振り返ると、子犬は何食わぬ顔でルイーゼの後についてくる。ルイーゼが子犬を見つめながら寝台に入れば、当然のような顔つきで子犬はルイーゼの寝台にぴょんと飛び乗った。


「お前ねえ……」


 呆れてルイーゼが呟けば、子犬はフンッフンッと鼻を鳴らしながらシーツを掻き、掘るような仕草を見せる。すっかりここで寝るつもりらしい、とルイーゼは諦めたように笑い、身を横たえた。


「もう! 好きにするといいわ」


 子犬も寝床を整え終えたらしい。ルイーゼに身を寄せて、くるんと丸まり満足そうに鼻息をもらす。


「ふふっ、あったかい」


 子犬からは陽だまりのような、穀物のような香ばしい匂いがする。柔らかく上下する背中と健やかな寝息に安らいで、ルイーゼは心地よい眠りに誘われていった。




「きゃああ!!」


 翌朝、部屋に響いた侍女の悲鳴にルイーゼは驚いて飛び起きた。何事かと辺りを見回せば、扉の前には口に手をあてわななく侍女の姿が見える。視界の端をぴゅうと何かが横切って、目で追えば子犬が壁の隅に顔を押しあててうなだれていた。


 ラグがぐちゃぐちゃにまくれ上がり、引き出しは開けられ中身が床に散乱している。そして——ソファーの上に飾っていたはずの、ルイーゼが大切にしているぬいぐるみは腕や足がもげかけて、綿が飛び出していた。部屋の惨状にルイーゼはぽかんと口を開ける。侍女がキッと眉をつり上げ、険しい声を出した。


「この、なんてことを!!」


「待ってちょうだい」


 ルイーゼはつとめて落ち着いた声を出し侍女を制止した。


「何の準備もなしに部屋にいれたわたくしが悪いのだわ」


 ルイーゼは寝台を降り、ゆっくりと子犬に歩み寄る。


「ですがお嬢様、叱らねばいたずらを繰り返します」


「いけないことをしている最中を見つけたら、きちんと叱るわ。……それにほら、見てちょうだいこの子の顔」


 ルイーゼは思わず吹き出した。柔らかく撫でられた背におそるおそる振り向いた子犬は、耳をぺったりと伏せて眉間にしわを寄せ、なんとも情けない顔つきでルイーゼを見上げている。


「悪いことをしたと分かっているのよ。なんて情けない顔をしているの、お前」


 ふぅーんとこぼされた鳴き声に、侍女も思わず苦笑を浮かべる。ボロボロになったぬいぐるみを拾い上げ、そっとルイーゼに歩み寄った。


「わたくしもお前が危なくないように気をつけるけれど、お前もあんまりないたずらをしてはだめよ」


 変なものを口にしていないかとルイーゼが子犬を覗き込み顔に手を伸ばすと、ぴゅうぴゅうと鼻を鳴らし子犬はルイーゼの手にすり寄った。ルイーゼは子犬の頭を撫でて、「……それにしても」と思わず笑い声を上げる。


「あの逃げ足! すばしっこいったらなかったわ。そうだ、決めた!」


 子犬の顔を両手で包み、ルイーゼは満面の笑みを浮かべる。


フリンク(すばやい)にしましょう! お前の名前よ!」


「良い名をもらったわね、フリンク」


 侍女も膝をついて、フリンクに声をかける。「大声を出してごめんなさいね」とフリンクに謝る侍女を笑顔で見上げ、それから彼女の手にある無残な姿のぬいぐるみを見つめ、ルイーゼは不安そうに眉を下げた。


「……直せるかしら?」


「ええ、お任せください。部屋も元通りにしてごらんにいれます」


「さすがね」


 ルイーゼは安心して微笑む。もう大切なぬいぐるみを噛まれないように玩具を用意してあげなければ、と考えながら、ルイーゼはフリンクのほっぺたをむゆっともんだ。



§



 それからルイーゼとフリンクは、とても仲良く日々を過ごした。絡まり合うように庭を駆け、時に泥まみれになって共に叱られた。


 泥に塗れたとき、フリンクは庭で使用人たちに丸洗いされた。ルイーゼが「わたくしがやりたいわ」とねだっても、皆「お嬢様のなさることではございません」と取り合わない。「……見ているだけ」と言って、ルイーゼはくちびるを尖らせながら洗われるフリンクを眺めた。びしょ濡れのフリンクが解放されて、また腕の中に飛び込んでくるまでの時間を待って。フリンクはもう、すっかり家族の一員となっていた。




『もうそろそろ殿下が様子見にいらっしゃるだろう』と父に聞かされてから数日後、いつものように庭で遊んでいたときに、フリンクが突然顔を上げて走り出した。


「待ってフリンク、どこへ行くの」


 ルイーゼが止めても聞かず、フリンクは垣根を越えて走っていく。慌ててルイーゼが追いかけると、垣根の向こうから嬉しそうなフリンクの鳴き声と誰かが笑う声が聞こえてきた。


「ハハッ元気そうだね。私を覚えていてくれたの?」


 聞き覚えのない声に、ルイーゼはおずおずと垣根から顔を覗かせる。視線の先で、少年と青年の間にいるような、まるで若木のようにしなやかな人がフリンクにじゃれつかれ笑っていた。さらさらと流れる艷やかな黒髪、芸術品のように整った相貌。その人はルイーゼに気づき、柔らかな笑顔を浮かべルイーゼに声をかけた。


「こんにちはレディ。私はオリヴァー、この子の様子を伺いにきたんだ」


「ごきげんよう」


 ルイーゼはどぎまぎしながら垣根から姿を現す。


「ルイーゼ・フォン・ファルケンシュタインと申します。ようこそおいでくださいました、殿下」


 ——第二王子だ。ルイーゼはスカートをつまみ、深く礼をとった。


「オリヴァーで構わないよ。偶々時間が取れたからと、急に来てしまって悪かったね」


「いいえオリヴァー様。お越しいただき光栄です」


 母親の元で茶会などには顔を出し始めたけれど、ルイーゼは社交界デビュー前。王子殿下と初めて直接言葉を交わすことに緊張しながらも、ルイーゼは落ち着いて見えるよう振る舞った。初々しい様に目元を和らげ、オリヴァーは優しくルイーゼに問いかける。


「この子に名を付けてくれた?」


「はい、フリンクと」


「そう。良い名を付けてもらったね、フリンク」


 フリンクはまるで正式な主に再会できたことを喜ぶかのように、オリヴァーの足に前足をかけてしっぽを振っている。少し嫉妬しながら、それと『やっぱり連れ帰ろう』と言われるのではないかと不安を感じながら、ルイーゼは思わずスカートを握りしめて視線を揺らした。


「元気そうでよかった。大事にしてもらっているんだね。フリンクにいい家族が出来たことを嬉しく思うよ」


 オリヴァーは片膝をついてフリンクを撫で回し、笑みを深める。フリンクは飛び跳ねながら「きゃん! きゃん!」と嬉しそうに返事をした。


「……それは」


「この子の顔をひと目見れば分かるよ。これからもずっと、仲良くしてやっておくれ」


 オリヴァーが笑顔でルイーゼを見つめる。目を見開き、『家族になることを認められたのだ』と理解して——ルイーゼは頬を赤らめて震えるくちびるを押さえた。


「はい、はい……! もちろんです!」


「また会いに来てもいいかな? 時間が取れたとき、急に来ることになるけれど」


「ええ、歓迎いたします!」




 オリヴァーは本当に偶々空いた時間を利用してフリンクの様子を確認しに来たらしく、そのまま暇を告げて待たせていた馬車に乗り込み、城へ帰っていった。ルイーゼはフリンクと共にお行儀よく彼を見送り、馬車が遠くなった瞬間歓声を上げる。


「フリンク! お前今日から、本当にわたくしの家族なのよ!」


 分かっているのかいないのか。「きゃん!」と鳴いてしっぽを振るフリンクを抱きしめて、ルイーゼは満面の笑みを浮かべた。


「改めてよろしくね、フリンク!」


 その日は食卓にお祝いの料理が並んだ。フリンクにも特別なディナーが用意されて、正式に家族になれたことを揃って祝った。


 オリヴァーがたまに訪ねてくることを、ファルケンシュタイン公爵は承知しているらしい。「いつ来るか分からないけれど、フリンクに会わせてさしあげなさい」という父の言葉に、ルイーゼは笑顔で頷いた。当主が承知しているならルイーゼに否やはない。それに、とっても可愛いフリンクに会いたくなるのは当然のことなのだから!



§



 それからの日々、ルイーゼとフリンクは正式な家族として一層仲良く暮らした。フリンクには一室が用意される予定だったのに、あまりにルイーゼと離れたがらないものだからフリンクの生活用品はすべてルイーゼの部屋に据えられた。ルイーゼの部屋はフリンクが危なくないように模様替えされて、片付けられたものの代わりのようにフリンクの玩具が散らばっている。


 オリヴァーも小まめに顔を見せる。本当にふらっと現れては、忙しい日々の気晴らしをするようにフリンクと戯れて帰っていく。可愛いフリンクをとても可愛がってくれるオリヴァーに、ルイーゼは好感を抱いていた。




「やあ、ルイーゼ嬢」


「ごきげんよう、オリヴァー様」


 天気の良い午後、庭でフリンクと遊んでいるところにオリヴァーが訪ねてきた。オリヴァーが来ると真っ先にフリンクが気づいて、オリヴァー目掛けて走っていく。駆けていくフリンクを追い掛けると、その先でオリヴァーが笑っているのだ。すごいものだと感心しながら、ルイーゼはフリンクにじゃれつかれるオリヴァーに挨拶を返した。


「今日はフリンクに良いものを持ってきたよ」


「まあ、何かしら。よかったわねフリンク」


「これをどうぞ。ルイーゼ嬢、後でフリンクに与えてやっておくれ」


 オリヴァーはフリンクにではなく、ルイーゼにラッピングされた贈り物を差し出す。ルイーゼが首を傾げながら受け取ると、オリヴァーは目を細めくちびるに人さし指をあてた。


「ここで与えて、もし変な場所に隠しては大変だから。この子が安心できる場所で開いて」


「はい、分かりました」


 中身は何だろうかと思いながら、ルイーゼは贈り物を背中に隠す。オリヴァーはしばらくフリンクと遊んで、「じゃあ、またね」と帰っていった。ルイーゼはいつものように彼を見送って、足元のフリンクを見つめる。


「部屋に戻りましょうか、フリンク。何を頂いたのかしらね?」


 しっぽを振って「きゃん!」と返事をするフリンクを連れて、ルイーゼは私室に戻った。玩具だろうか、それともおやつだろうか。少しわくわくしながらラッピングを開くと、中には手ごろな大きさの骨が入っていた。


「……骨?」


 本当にこれを喜ぶのかしら? と首を傾げながらルイーゼはお行儀よく座るフリンクに骨を与えた。フリンクはくんくんと骨の匂いを嗅ぎ、どこかシレッとした顔で骨を咥えて歩いていく。そっと見守っていると、フリンクはベッドの下に骨を隠して、犬は何も隠していませんよ? という顔でルイーゼの元に戻ってきた。


「……見ていたから知っているのだけれど」


 何のことですかね……ととぼけるような顔でフリンクは寝そべり、前足を舐めた。ルイーゼは思わず吹き出して、知らないふりに付き合ってあげることにする。よく分からないけれど、どうやら骨はフリンクの宝物になったらしい。使用人が捨ててしまわないよう伝えておかなければ、と考えながら、ルイーゼはくすくす笑ってフリンクの背中を撫でた。




 後日オリヴァーが訪ねてきたときに、フリンクが骨を気に入っていたとルイーゼは礼を言った。「おやつとして好きだからね」と笑う彼に、ルイーゼは慌てて声を上げる。


「あ……っだめ、オリヴァー様!」


 しまった、とオリヴァーは口を押さえたけれど、もう遅い。『おやつ』を聞き逃さないフリンクは興奮してオリヴァーに飛びついた。


「何も持っていないんだけど、どうしたものかな」


 フリンクはもうすっかりおやつが貰えるものと思って大はしゃぎだ。ふたりは顔を見合わせ困ったように笑う。ルイーゼが根負けして、使用人を呼びおやつを用意させた。「少しだけだよ」とフリンクにおやつを与えるオリヴァー、嬉しそうに鳴き飛び跳ねるフリンク。ルイーゼはたまらず声を上げて笑った。


 ルイーゼのドレスと共布で、フリンクにスカーフも仕立てた。可愛い、可愛いと喜びながらルイーゼはフリンクにスカーフを巻く。頭をすっぽりと包み込む巻き方は気に入らなかったらしく、フリンクは首を勢い良く振ってスカーフを脱ぎ捨てた。「つけましょう?」と説得するも不満なようで、フリンクは耳を倒し斜め上を見て「ハヌゥ〜ンナンゥゥ〜」と鳴く。あまり聞いたことのない鳴き声に、ルイーゼは目を丸くしてフリンクを見つめた。


「とても文句を言っていることはわかるわ」


 幸いスカーフを首に巻くことは気に入ったらしい。オリヴァーにお披露目すると、「とても格好良いね」と褒めてもらえた。


 ボールを垣根の隙間にいれてしまったと、フリンクに呼ばれたこともあった。ルイーゼは誰か、と使用人を呼ぼうとしたけれど、オリヴァーは愉快げに笑って上着を脱ぐ。


「持っていて」


 そう言われ預けられた上着にルイーゼがぽかんと口を開けると、オリヴァーはためらいなく地に手をついて垣根の隙間に腕を伸ばす。呆気にとられるルイーゼと、くうんと鼻を鳴らしオリヴァーを見つめるフリンク。「ほら、気を付けて」とオリヴァーが取れたボールをフリンクに与えて、フリンクは喜んでボールを咥える。王子殿下になんてことをさせるのだ、うちの犬は……と、ルイーゼは言葉を失ってフリンクを凝視した。


 クッションの上で伸びて眠るフリンクに思わず吹き出したこともある。仰向けに腹を見せ、くぅん、ヴヴッと寝言をもらす。


「お前、犬でしょう?」


 と。思わずそうつぶやいてしまうくらい、伸びて眠るフリンクが可愛らしくて可笑しかった。




 そんな日々を、幾日も。


 いつものように庭で遊んでいると、フリンクが急に顔を上げ、嬉しそうに駆け出した。オリヴァー様がいらっしゃったのだわ、と頬を緩め、ルイーゼはフリンクの後を追う。


 フリンクはまだ子犬だが、体はずいぶんと大きくなってきた。とても追いつくことはできないけれど、鳴き声を追えば笑う彼がいる。


 少し走れば、案の定垣根の向こうからフリンクの嬉しそうな鳴き声と、オリヴァーの笑い声が聞こえた。立ち止まり息を整え、スカートの裾を整えてルイーゼは垣根から顔を覗かせる。


 片膝をついてフリンクを撫でていたオリヴァーが、興奮しきったフリンクに飛びかかられて尻もちをつく。フリンクはぶんぶんとしっぽを振って、押し倒さんばかりの勢いで乗しかかり、オリヴァーの顔を舐め回した。


「こら、分かったから、少し落ち着いて」


 笑いながらオリヴァーがささやく。その優しい眼差しが、柔らかな声が。甘く甘く胸に響いて——ルイーゼは高鳴る鼓動に恋心を自覚した。自分ももっと彼と距離を詰められたらいいのに、と。ルイーゼと、フリンクと、オリヴァー。こうしてずっと一緒に過ごせたらいいのにと——




 オリヴァーが帰るまでの間、自分がいつも通りに振る舞えたかルイーゼは自信が持てなかった。どうしようもなく頬が赤らんで、声が上擦ったように思う。私室に戻り、ルイーゼはソファーに腰掛けて膝を抱えた。


 好きになって、どうするというのだ。オリヴァーは王位を継ぐであろう王子殿下。そしてルイーゼは——家門を守るため婿をとらなければならない、公爵家の一人娘だった。


(こんな気持ち、知りたくなかった)


 目が熱い。視界が滲む。ファルケンシュタイン公爵家は、ルイーゼが知る限り第一王子にも第二王子にも、特別肩入れをしていなかった。急に子犬をもらい受け、オリヴァーとの距離を詰め始めたのは、きっと、父がオリヴァーに付いたということだろう——そうルイーゼは考えていた。ならばルイーゼは、彼が有利になるよう動かされる立場なのだ。


「……ふ、ぅッ」


 こらえきれない嗚咽が漏れる。こぼれ落ちた涙を追いかけるようにルイーゼは膝に顔を埋め、くちびるを噛み締めた。


「フゥン、フゥーン」


 近くでフリンクの甘える声が聞こえる。そっと顔を上げると、フリンクがボールを咥えしっぽを振ってルイーゼを見つめていた。手を差し出せば、フリンクはルイーゼの手の上にボールを落とす。さあ投げてごらんなさいよ、犬が最高に楽しいことを教えてあげますから、みたいな顔をして、フリンクが「ワンッ」と鳴く。潤む瞳で弱々しく笑い、ルイーゼはボールをぽんと投げた。


 フリンクが飛び跳ねてボールを追う。それからボールを咥えて、どうです! すごいでしょう!! とフリンクが瞳を輝かせてルイーゼの元にボールを運んでくる。ルイーゼはまたボールを投げてやって、フリンクは大はしゃぎでボールを追いかけて。


「…………ふふ、ふふふっ」


 ルイーゼは涙をこぼしながら笑った。慰めてくれるフリンクが愛しくて。ボールひとつで大はしゃぎする様子がたまらなく可愛くて。


「ねえ、お前がいるならわたくしはきっと大丈夫だわ」


 ——例え、彼を王にするために婿が定められても。ルイーゼは涙を流し笑いながら、ボールを投げ続けた。



§



 ルイーゼが恋心を自覚してからまだ間もない日。ルイーゼは突然父から書斎に来るよう言いつけられた。


「どうなさったの、お父様」


「うん、そのねえ、急なことだと思うんだけど」


 ファルケンシュタイン公爵はルイーゼを呼び出しておきながら、歯切れ悪く言い淀む。言葉を探すように視線をうろつかせ、ンンッと咳払いをし、公爵はルイーゼを見据えた。


「ルイーゼ、お前オリヴァー殿下をどう思う?」


「どうもなにも。聡明でお優しく、尊敬できる方だと思っておりますけれど」


 ルイーゼはしれっとそう答えながら、拳を握りしめた。ルイーゼの想いが勘付かれたのか。釘を刺すため呼び出されたのだろうか。それとも、まさかもう縁談が。ルイーゼは必死に動揺を抑え、父を見返した。


「そうかぁ…………」


 ファルケンシュタイン公爵はなぜかがっくりと肩を落とし、深いため息をついて。なんだかとても嫌そうな、苦々しい顔つきでしぶしぶ口を開いた。


「じゃあオリヴァー殿下との縁談を進めるけれど、構わないね?」


「は!?」


 ルイーゼはたまらず大声を出し、父を問い詰めた。子供だと侮ることなんて許さないと言わんばかりの迫力で厳しく追及した。


 ファルケンシュタイン公爵が口を割ったところによると、なんと始めから王家とファルケンシュタイン公爵により仕組まれたことだったのだ。


 第一王子が近年他国からもたらされた治療法により、ついに病を克服した。だがその吉報は、まだ大々的に公表されていない。第一王子派と第二王子派、王は国が真っ二つに割れることを危惧したのだ。なぜなら第一王子は『お体さえ丈夫であれば』とその高い能力を惜しまれていて、第二王子もまた『健康な上に兄君と比べ遜色ない』と支持されているからだ。


 今までは健康上の問題から第二王子が王位を継ぐだろうと見なされていた。しかし第一王子が病を克服したとなれば、『第一王子こそが相応しい』と支持する者、『今まで病がちだった王子より、元より健康で能力の高い第二王子が想定通り王になるべき』と反発する者に分かれるだろうと王が頭を悩ませるのは当然のことだった。


 では第二王子であるオリヴァー自身はどう考えているのか。実は、当の彼こそが『第一王子こそ王位につくべき』と考える支持者の筆頭だった。オリヴァーは心から兄を尊敬し、兄こそが王に相応しいと考えていた。闘病生活を支え、平癒を願い続けてきたのだ。


 王らは話し合い、第一王子の立太子と同時に第二王子の婿入りを発表しようと秘密裏にオリヴァーの婿入り先を探し始めた。徐々に第一王子の露出を増やしながら、『第二王子は大恋愛の末本人の強い希望により名家に婿入り』と、そう物語を作り上げようと決めたのだ。


 名家の当てはひとつある。ファルケンシュタイン公爵家だ。王らは狙いを定め、さてどうやって周囲から怪しまれずにオリヴァーを公爵家の令嬢と交流させるか、と策を練り始めた。その時たまたまオリヴァーの飼い犬が子を産んで、それを聞いた公爵が狙われているとも知らず、世間話ついでに「娘が犬を飼いたがっていて、そろそろ可愛い子犬を探してやろうと思っているのです」なんて言い出した。口実が向こうの方からのこのことやってきたのだ。


 王とオリヴァーはたいそういい笑顔で、思惑に公爵を巻き込んだ。話を聞いた公爵が出した条件はひとつ、『娘には純粋に犬と触れ合って欲しい。そのため娘にも使用人にも、王子の件を伏せること』オリヴァーは喜んで同意し、彼からもひとつ希望を出す。『子犬とルイーゼの相性が悪ければ、子犬を譲るのはやめ別の方法を考えること』——そうしてルイーゼに秘されたまま、ルイーゼとオリヴァーと子犬、三者の顔合わせが始まる——



§



「急な話でごめん。そろそろ君に打ち明け協力を求めて、緩やかに根回しを進める予定だったのだけど……」


 父から全て打ち明けられた翌日、ルイーゼはぽかんと口を開けてフリンクにじゃれつかれるオリヴァーを眺めた。オリヴァーは眉を下げて笑い、ルイーゼを見つめる。


「先日の君の様子を見て、思ったんだ。もしかしたら君も、私と同じ想いを持ってくれたんじゃないかと。そう思うと気が逸って」


 オリヴァーは持っていたボールを投げフリンクを走らせて、真っ直ぐルイーゼに向き合った。


「まさか自分にこれほど急激な変化が起こるとは想定していなくて。でも」


 オリヴァーがルイーゼの前で片膝をつく。一度目を伏せ、艷やかな笑みを浮かべてルイーゼを見上げた。


「私が、思惑抜きで本当に恋に落ちてしまって。貴方とフリンクと一緒ではない未来はもう思い描けないんだ。ルイーゼ、私と結婚してくれますか?」


 そう言って、オリヴァーはルイーゼに手を差し出す。ルイーゼは震えるくちびるを片手で押さえ、そっと差し出された手に手を重ねた。


「ええ、もちろん。わたくしも同じ想いだもの……!」


 オリヴァーが笑みを深めてゆっくりと立ち上がる。ふたりは手を取り見つめ合う。ボールを咥えて戻ってきたフリンクが、新しい遊びだと思って飛びついてきた。


「わあ! 待って、もうフリンク!」


 突然の衝撃にルイーゼがよろめいて、オリヴァーがそれを支える。ふたりは声を上げて笑い、地面に膝をついた。飛び込んでくるフリンクをルイーゼがぎゅっと抱きしめる。


「お前本当に、ちょっぴりぬけててとびきり可愛くて、その上たくさんの幸せをくれる、『幸運を運ぶ犬』ね!」



§



 ——第二王子が子犬を譲ったことをきっかけにファルケンシュタイン公爵家の一人娘と恋に落ちた——


 第一王子が病を克服し、活発的に政務に就き始めたことから王は第二王子がファルケンシュタイン家に婿入りすることを認める。その話はまたたく間に貴族の間に広がった。


 きっかけは仕組まれたものだったのだと気付く者はいない。だって、ふたりは本当に仲睦まじく、想い合っているのだから。


「ねえ、今度あなたの犬も連れていらしてね、きっとよ!」


 婚約者として堂々とファルケンシュタイン家を訪れるようになったオリヴァー。フリンクと遊ぶ彼に、ルイーゼは満面の笑みを向ける。


「それで、皆で家族になるの!」


 王都から国中へ、ルイーゼたちの馴れ初めは広がって——そして、犬は国中で『幸運の運び手』と大切にされるようになるのだった。



最後まで書いても犬種が決めきれませんでした。

感想で「この子だと思う!」を教えていただけたらとてもうれしいです。


【追記】各所で教えていただいた犬種を活動報告にまとめました。たくさんありがとうございます!

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― 新着の感想 ―
素敵なお話をありがとうございました。 わんちゃんは明るく陽気で賢いゴールデンちゃんを浮かべて、情けない顔で怒られてくしゅんとしたり、おやつに反応して『くれるんだよね?僕いいこ!!』と尻尾ブンブンで待っ…
私は『ボーダーコリー』イメージでした。元気で賢いもこもこちゃん。きっとスカーフもよくお似合いかと。牧羊犬なんで王家で飼われるかなぁてのはありますが。御用牧場で飼われてた子と御静養でいらした王子たちと仲…
ハッピーなお話をありがとうございます。とても楽しかったです。 私の脳内では勝手にビーグル犬で再生されてたのですが、ちょっとコメディ味が強すぎるかな?笑
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