月見の夜に
俺はしがないサラリーマン。
唯一の楽しみは仕事が終わった後に、家でビールを片手に配信サイトでドラマを見ることだ。
今日は中秋の名月。ニュースアプリには「今年は綺麗に見えます」と出ていたが、都会に住みだしてから空を見ることが減った。高層ビルと電線の切れ目から見える月には、正直ありがたみを感じない。
どうせこの窓の外も——
「うわ!!!!!!」
反射より先に叫んでいた。
窓の向こうから、ずるり、と絵巻物が立ち上がったみたいに何かが侵入してきたのだ。布。いや、布というには厚みがあり過ぎて、幾重にも波打つ色。朱、萌黄、紫、白、金——。蛍光灯の白々しい光がその重なりに紛れ、突然、琴の音のような柔らかさに変わる。
十二単の女が、俺のワンルームに立っていた。
床に広がった裾の存在感がすごい。見た目の半分くらいが布だ。
女は周囲を一周見渡し、俺と視線が合うと、少しだけ首を傾げた。
「狭いわね」
それだけ言って、当然のようにローテーブルの前へ進む。十二単がフローリングをうねり、昨夜こぼしたポテチの粉を一瞬でさらっていった。
「……え、えっと、誰?」
どうにか絞り出すと、女は机の上の銀色の缶を手に取った。
プシュッ——。
俺のビールが開いた。
「ちょ、ちょっと待って! それ俺の——」
「ありがとう」
女は口をつけ、喉を鳴らした。
ごく、ごく、ごく。
十二単でビールを飲む人間を、俺は人生で初めて見た。飲み方も豪快だ。缶の底が、満月みたいに見える。
「ぷはぁ……これ、月にはないのよ」
月。
当たり前のように言われ、俺はソファに腰を落とす。思考が現実に追いつくのを待ちながら。
「ほんとに、誰?」
女は缶を机に置き、俺の方へ向き直る。
黒曜石みたいに暗い瞳の奥で、小さな光が点滅している。遠い衛星から届く微弱な信号みたいな、遅れて届くまばゆさ。
「昔むかし、竹から出てきた女よ」
「は?」
「“かぐや姫”って言ったら分かるかしら」
「……え、あの?」
「そう。それ」
「月から、どうやって?」
「ふらりと。今夜はみんな月を見るから、なんだか落ち着かなくて」
「なんか、申し訳ないな……」
彼女はリモコンを手に取る。
画面に赤いNのロゴが現れる。
十二単と資本主義のロゴの組み合わせは、目に悪い。
「これ。あなた、よく見ているでしょう?」
「……まあ」
「月から下々の行動は見えるけど、やっぱり“生”で味わいたいのよね」
「生って……それも映像だけど」
「細かいことはいいの」
彼女はサムネイルを流し見して、韓国ドラマのシリーズを指さした。
俺が最近、仕事の愚痴を忘れるために見続けている恋愛群像ものだ。
再生を押そうとするその手を、思わず掴んだ。
「あの、本当に、かぐや姫?」
彼女は微笑んだ。
どこかイラつくほど優雅で、たぶん俺が一生到達できない種類の余裕。
「証拠が欲しい?」
「欲しい」
「仕方ないわね」
彼女は立ち上がり、窓際へ。カーテンを指先でつまみ、胸元の小袖の下へそっと重ね入れる。
次の瞬間、カーテンが半透明の薄い衣に変わり、淡い光を放った。
「はい、天の羽衣よ」
「え? あの、記憶がなくなるってやつ?」
「あー、人間界ではそう言うんだっけ?」
「確か、そんなのを読んだ気がする」
「ただのサウナ着みたいなもんよ。サウナ行く時に使って」
「えぇ……そんな軽い扱いなんだ……」
「安心して。軽い素材だけど吸水性と速乾性は保証するわ」
「そういう意味じゃないけど……」
彼女は肩をすくめ、床に座り直してドラマを再生する。
最初のエピソードは、主人公たちが駅ですれ違い、すれ違ったまま何年も経ってから再会する話。月の引力みたいに、惹かれては離れ、離れては惹かれる。近ごろの疲れた心にちょうどいいテンポだ。
徐々に彼女のペースに飲まれ、俺も落ち着いてきた。
「ポテチいる?」
「ポテチ?」
「ポテトチップス。ジャガイモを薄く切って揚げたお菓子」
「いる」
袋の口を開け、彼女は一枚つまむ。口に入れ、軽く目を見開いた。
「……なんて罪な味」
「うん?」
「月では淡白が尊ばれるの。邪念のない味、と。最初は誇らしかったけど、誇らしさばかりではお腹が膨れない。あなたたちの食べ物は、罪な味……でも、どうでもよくなるくらい美味しいわね」
俺は笑って缶を開ける。
ドラマでは、主人公が恋人の元を飛び出して雨の街を走っている。
彼女は字幕を追いながら時々うなずく。笑うところは笑い、泣くところは泣かない。代わりに、指先が少しだけ揺れる。琴の弦を押さえるみたいに、何かを静かにこらえる仕草。
「退屈だったんですか、月って」
「“退屈”という言葉は、月にはないの。でもね——」
彼女は缶を見つめる。
銀色の側面に、白い天井が歪んで映る。
「向こうは、終わりがないのよ。誰も歳を取らないし、欲しいものは欲しいと口にしない。だから、何も始まらない。始まらないものは、終わりもしない。私がこちらにいる間だけ、私は“終わってしまうもの”の価値を感じられる」
「終わってしまうものの価値、か」
「そう。あなたが観ている物語も、終わるでしょう。それが好き。終わるから、ひとつひとつが、ここに残る」
少し沈黙。
テレビの縁で、駅のホームの背中がチラつく。
彼女の視線は俺の顔と、窓の外の月を行ったり来たりしている。
「あなたは、どうして月を見なくなったの?」
「……見ても、ただの明かりの一つにしか思えないから」
「昔は、月しか目印がなかったのにね」
「でも、地元で見る月は綺麗だった」
彼女は立ち上がり、窓を開けた。
夜風がふっと入り、十二単の裾がかすかに持ち上がる。ビルの隙間に、熱を持たない白い月。
ベランダの柵に指を添え、彼女は身を乗り出す。
月を見上げる横顔は、どういうわけか昔から知っていた横顔に思えた。
俺は窓辺からその背中を見守る。幾重にも重なる布の陰に、人ひとりの心が確かに入っている。そう思わせる温度があった。
部屋に戻った彼女は、畳むでもなく十二単を整える。整える、という言葉に十二単はよく似合う。座るだけで、布は賢く落ち着く。
俺はコンビニ弁当を二つ出し、レンジにかけた。
チン、と鳴る音に、彼女は嬉しそうに目を細める。
「その鐘、いい音」
「鐘ではない」
「月も鐘が鳴るけれど、人の国は弁当が鳴るのね」
箸を持った彼女は、白ごはんを一口。次に鶏の唐揚げを一つ。
嚙みしめる顔に、ごく小さな驚きが走る。
「どう?」
「……これも罪深い」
「それは褒めてる?」
「褒めてるわ。でも、この罪もあなたと分かち合えば軽くなる」
「なんか宗教みたいになってきたな」
「宗教なんて、言葉遊びみたいなものだから」
「君が言うと説得力があるな……」
笑い合う。
笑い合えるのは、彼女が本当に“遊びに”来ているから。
逃げてきたのではない。避暑地に顔を出すみたいに、ふと現れただけ。
「あなた、明日は仕事?」
「うん。九時から会議」
「会議。人が同じ方向を向く儀式ね」
「いや、向いてる“ふり”の儀式かな」
「ふりでも、向くのは良いのよ。ふりの角度を、人はだんだん本物に近づける。あなたの上司は、ふりが上手そう」
「上司、見たことあるの?」
「あるわ。あなたの斜め後ろに立ってモニターを見るとき、目を細める。あれは文字が小さいからではないの」
「じゃあ、なぜ?」
「あなたのこと、優秀だと思ってるから。逆に隣の坂本さんを見る時は眉をひそめるわね」
俺は笑って、缶をもう一本開ける。
時計は日付を越えかけている。
ドラマはいつの間にか泣く場面を過ぎて、笑いに戻っていた。
彼女は時々、画面ではなく俺の横顔を見る。その視線は、物語よりも人の方が面白い、と正直に言っている。
「あなた、そろそろ求婚した方がいいんじゃないかしら」
ふと彼女が言った。
静かに、しかし目の奥に微かな棘を光らせて。
「求婚? 彼女すらいないのに?」
「そう。人はひとりだと、だんだん鈍るわ」
「じゃあ、どうしたら?」
「手を伸ばすこと」
「簡単に言ってくれる」
彼女はまた笑ったが、どこか寂しそうでもあった。
「帰りたくないの?」
「帰るわ。帰りたくないけど、帰るしかないの」
「どうして」
「こちらで“終わるもの”に触れ続けると、私は薄くなる。あなたたちは、私には味が濃すぎるから」
そう言いながら、彼女は味の濃い唐揚げを口に入れ、満足そうに目を細めた。
彼女は立ち上がる。
窓の外の月は、さっきよりも大きく見えた。
「最後に、ひとつだけ」
まだ冷えていない缶ビールを手にとり、掌でくるりと転がす。茶器を扱うみたいな所作。
缶の表面に、うっすら白い霧が降りた。温くなっていた缶が急に冷える。
金属が鳴るような小さな音。口縁に真珠みたいな水滴がひとつ生まれる。
「冷やしておいたわ。冷蔵庫のビール、全部飲んじゃったから」
「……ありがとう」
裾を整えて、彼女は窓辺に立つ。
十二単の重みが、これから起こることの軽さと釣り合いを取るように、床を柔らかく押す。
言葉を探す。見つからない。見つからないから、正しい。
「また来ますか」
やっとのことで出た言葉。問いというより、願いの形をした独り言。
「秋は、いいわね。これ着てても暑くないし」
微笑み。
約束でも、否定でもない。
「そろそろ」
彼女の輪郭が薄くなる。
月の光がこちらの空気を軽くするたび、十二単の色が水の中の絵の具みたいに溶けていく。
空気が、静かになる。
静けさにも種類がある。
今の静けさは、冷蔵庫のモーター音や遠くのサイレンをひとつも殺さず、そのまま包むタイプだ。
「あなた」
最後の瞬間、彼女はこちらを見る。
目の奥の小さい光が、星のように瞬く。唇が動く。
「これからは、月を見てね」
それだけ言って、彼女は消えた。
消えた、というより、「戻った」。
窓の向こうに、都会の夜景の中で丸い白が浮かぶ。
さっきまでの月より、少し綺麗に見えた。
部屋には、ポテチと弁当の容れもの、空き缶、そしてキンキンに冷えた一本が残った。
テレビは一時停止のままで、駅のホームで立ち尽くす主人公が、いつまでも同じ表情を続けている。
リモコンは置いたまま、代わりに窓を開ける。
夜風。
遠くの道路を走るトラックの唸り声。
誰かが笑う声。
誰かが怒鳴る声。
すべて、今夜だけのもの。
夢だったのか現実だったのかは、もうどうでもいい。
どちらでも、いい。
月を見た。
丸い、丸い、冷たい白。
そこに誰かが座っているような気がする。
座っていなくても、いい。
思う。
また来る秋くらいは、月を見るか。
あの、冷やしてもらった一本を開けながら。
月見の夜に、俺は初めて、月に話しかけた。
声にはしない。
声にすると、逃げるから。
けれど、きっと届く。
——月が綺麗ですね。
窓の外で、雲がわずかにほどけた。
白い丸は、少しだけ笑っているように見えた。