第106話 次代の賢者
ルナはエイダを離さそうとしない。
無言で顔を押し付けている。
そのうち鼻をすする音が聞こえてきた。
目を赤くしたルナは顔を上げて言う。
「エイダちゃんには長生きしてほしい……」
「すまないが、これは代償なんだ。何ら不当なものではない。むしろヴィブルの温情なのだよ。本来なら寿命の半分を捧げたところで、あれだけ強力な魔導書は貰えなかったはずだ。そうだね?」
「否定はしない」
蔵書狂の力は理外の領域にある。
人間が扱っていいものではない。
数十年分の寿命など代償としては軽すぎる。
それこそ大勢の人間を生贄にするくらいでなければ釣り合わないだろう。
エイダはそれをよく理解していた。
己の価値の低さを把握しながら、それでも頼んできたのだ。
すべての寿命を捧げなかったのは命惜しさではない。
今の彼女を見ていると分かる。
国王を打倒した後、その責任を取って国の舵取りをすると決めていたからこそ、半分だけ寿命を残しておいたのであろう。
エイダは優しい手つきでルナの頭を撫でた。
彼女は抱き返しながら告げる。
「あとどれだけ生きられるか知らないが、私は人生を満喫するつもりだ。ルナもそう悲しまないでほしい」
「うん、分かった……」
「よし。良い子だ」
エイダは微笑し、ルナの目を見つめる。
思慮深い視線はここではない、どこか遠い先を捉えているようであった。
過去と現在の記録しかできない蔵書狂とは違う……ルナの瞳越しに未知の世界を覗き込んでいる。
エイダは告白した。
「もし私が先に死んだら、君が次の賢者になってくれるかな。何者かになりたいと思った時に継いでもらいたいんだ」
「あたしには難しいよ」
「いや、できる。私が言うのだから間違いない。勇者の末裔であることを加味すれば、私よりもずっと適任だね」
不安そうなルナに対し、エイダは自信満々に断言してみせた。
彼女は確信している。
その主観は、己の判断が誤りでないことを微塵も疑っていない。
他人には読めない根拠があるのだろう。
託された信頼をどう思ったのか、ルナがこちらに尋ねてきた。
「どう思う?」
「お前はまだ若い。賢者に相応しい能力は持たないが、今後の成長次第で補填可能だろう。学ぶ意志さえあれば、一人前と呼んでも差し支えのない程度にはなれる」
率直な意見を述べると、エイダが堪らず笑った。
彼女はまたルナの頭を撫でて言う。
「手厳しいけど、私も概ね同じ意見だね。果てしない努力を要するものの、決して不可能な道ではない。ルナなら知と武を兼ね備えた賢者になれるはずさ」
エイダは己の死を受け入れるどころか、先の世界を案じている。
その在り方は英雄と呼ぶに値するだろう。
欺瞞と保身で賢者を騙った彼女は、もういなかった。