第1話 蔵書狂と商人少女
知識の海に沈んでいると、領域内に誰かが足を踏み入れた。
珍しい、来訪者だ。
何年ぶりのことだろうか。
意識を深層から室内へと移す。
そこには無数の本棚が所狭しと並べられていた。
新旧問わず、欠片の法則性もなく書物が詰め込まれている。
利便性など皆無に等しいが、他に誰かが使うわけでもないの困りはしない。
間もなく部屋の扉が開かれた。
堂々と入ってきたのは一人の少女だ。
年齢は十七くらいか。
金髪碧眼の端正な顔立ちで、自信に満ちた表情をしている。
貴族ほどではないものの、少女は華やかで上等な服を着ていた。
その馴染んだ着こなしからは、買い与えられた物ではない印象を受ける。
平民が手を出せるような品ではないだろう。
少女がそれなりの財を持つことは一目で分かった。
周囲を見回す少女は、優雅に一礼をする。
彼女は少し声を張って呼びかけた。
「蔵書狂はいるかな。私はエイダ・ルース。商人だ」
「……我が名はヴィブル」
言葉を返すと、若き商人エイダは驚いた顔をした。
それから彼女は再び問いかける。
「どこにいる?」
「自我は今この場に存在する」
淡々と答える。
もう何万回と述べたことがあるので慣れたものだ。
誰もが居場所を知りたがる。
相手の姿が見えないことに不安を覚えるのだろうか。
しかし、エイダは少し違った。
彼女の双眸には知的好奇心の光が宿っている。
口元は薄い笑みを浮かべて、会話相手の真意を探ろうと図っていた。
長い沈黙を経て、エイダは慎重に話を続ける。
「迷いの森にある図書館。そこに棲む主は人間に知識を授けてくれるという。間違いはないね?」
「対価として別の知識を要求するがな」
「ああ、問題ないさ。君を満足させられるものを用意したよ」
エイダは自信ありげに紙の束を掲げてみせた。
どうやらそれは何かの資料らしい。
絵と文章を使って綿密に記されている。
近くの机に資料を置いたエイダは胸を張って述べる。
「王国が隠蔽した汚職事件をまとめてみた。貴族を買収して集めたんだ。どうだ、君の持っていない知識だろう」
「確かにそうだな」
正直、予想した内容とは違った。
この辺鄙な場所に暮らす身からすれば、王国の汚職などまるで無関係なことである。
しかし知識は知識だ。
端から侮ってかかるのは主義に反する。
別に実用性を求めているわけではないので、むしろ新鮮な知識には興味が湧く。
室内全域に拡散された視点を操り、机の資料へと集中させた。
いずれの汚職事件も、人物像まで詳細に説明がされている。
それでいて客観的な事実のみを記載しており、余計な情報が介在していない。
意外と悪くない、というのが率直な感想だった。
ここ十数年の王国の歴史も垣間見える。
事実関係も含めて調べるのは、かなりの労力を要したはずだ。
資料がエイダの自作ならば、彼女には編纂の才能がある。
「どうだろう。気に入ってもらえたかな」
エイダは不敵な笑みを湛えてこちらの答えを待つ。
自らの提供する知識に自信があるらしい。
臆した様子もなく、机に尻を載せて腕組みをしている。
汚職事件という着眼点は面白い。
情報の精度も高く、特に不満な部分もなかった。
つまり対価としては及第点を超えており、それなりの知識なら渡してもいいだろう。
結論が出たところで改めて問いかける。
「お前が要求する知識は何だ」
「魔術の知識がいい。ただし私の脳内に流すのではなく、書物の形で貰いたいな。なるべく初歩的で誰でも分かりやすい内容でね」
エイダは奇妙な要求を突き付けてくる。
別に構わないが不可解だ。
初歩的な内容の魔術など、知識としての稀少性は皆無である。
世の中にありふれたもので体系化も為されていた。
わざわざここまで来て頼む代物ではない。
書物の形式で欲しがる理由も不明だ。
その疑問を直接投げかける。
「……脳に知識を刻めば、記憶する手間が省けるが」
「それじゃ駄目なんだ。知識をまとめた書物が欲しい」
「分かった」
エイダが強く主張するので承諾する。
彼女は既に対価を支払ったのだ。
こちらから色々と詮索するのは無粋と言えよう。
それ以上は詳しい事情を尋ねない。
知識を提供した者が求めている。
交渉は成立したのだから、あとは要求通りに授けるだけだ。
汚職事件の資料が宙に浮かび、近くの本棚へと吸い込まれて収まった。
入れ替わるように複数の棚から本が飛び出すと、高速で頁がめくられていく。
古びた羊皮紙が散り散りになって宙を舞い、机の上で積み重なる。
エイダの要望に沿った内容が選別されて再構築されているのだ。
そこに革表紙が貼り付いて体裁を整える。
出来上がったのは一冊の魔導書だった。
やや分厚く、背表紙には何も書かれていない。
完成と同時に、不要となった既存の本が棚へと戻る。
一連の作業を終えたところでエイダに告げた。
「これを読めば誰だろうと魔術師になれる」
「ありがとう! 助かったよ、蔵書狂ヴィブル。君との出会いは忘れないだろう」
無題の魔導書を小脇に抱えたエイダは、嬉しそうに踵を返して退室する。
その足取りは軽く、小躍りしそうな勢いであった。
無人となった図書館は再び静寂に包まれる。
(変な奴だ)
そんな感想を抱くも、すぐに別の思考へと移る。
どうせ二度と会うことはないのだ。
深く考察するまでもない。
エイダ・ルースとの出会いについて、この時はまだ些事に過ぎないと考えていた。