第1章 3.逃走
目の前には俺たちに敵意を向ける、人型の生物ゴブリンがいる。
ゴブリンは襤褸を身に纏い、右手には錆びた鉈を背中には壊れかけの弓を背負っていた。
自然と体に力が入る。冷や汗が頰を伝い、そして顎から垂れていく。汗が口に伝い、口内になんとも言えない塩味が広がった。
張り詰める空気の中、先に動いたのはゴブリンの方だった。ゴブリンは右手に持った鉈を振り上げ、叫び声を上げこちらへと向かってくる。
それを間一髪のところで右側へ避けることに成功、そのまま全速力で走り出す。見たところ、制服の袖が少し裂けていた。反応が後数秒でも遅れていれば、最低でも腕くらいは切られていたかもしれない。
「グギャ、ギャギャッ!」
後ろでゴブリンが気味の悪い叫び声を上げているが無視する。
今はあいつから離れることだけを考えるんだ。
しかし、突然の衝撃によって脚がふらつく。そしてそのまま地面に倒れこんでしまった。そのせいで背負っていた麻希を落としてしまう。
右脚に衝撃が走ったのだ。恐る恐る右脚を確認すると、そこには矢が刺さっていた。
「がああぁぁぁぁぁぁっ!」
痛みに耐えられず絶叫する。だが、矢を放った犯人であるゴブリンは攻撃の手を止めない。第二射、第三射と休む間もなく矢を放ってくる。
それらは運良く体から外れたが、まだまだゴブリンの手は止まらない。
急いで落とした麻希を連れ、木の陰に隠れる。足に刺さっていた矢を引き抜き、着ていたシャツの袖部分を引きちぎる。そしてそれで脚をきつく縛る事で強引に止血する。
「どうするどうするどうする」
考えろ、考えろ、考えろ。
一瞬たりとも思考を止めるな。考えるんだ。
「アイツを倒す、いや殺すしか……」
こっちには麻希が居るんだ。失敗は許されない。
俺がここで倒れて、残った麻希にゴブリンが何をするのか、出来る事なら考えたくない。
ならば、
「やられる前にやる」
俺は覚悟を決め、背負っている麻希を木の陰に隠し、足元に落ちていた石を握りしめる。
木の陰からゴブリンの様子を観察する。ゴブリンは弓を構えたまま、こちらへとゆっくりと移動してきている。
俺は制服のもう片方の袖を引きちぎり、落ちていた木を中に入れる。そして、ゆっくりと木の陰から出していく。
狙い通り、ゴブリンは矢を放ってきた。後は、タイミングを計るだけだ。
俺はゴブリンが矢を準備するタイミングを見計らって、木の陰から勢いよく飛び出すした。
ゴブリンの顔目掛けて石を投げ、怯んだ隙に横腹に思い切り蹴りを入れる。
「グギャッ!?」
ゴブリンは勢いよく吹っ飛んでいき、背後にあった木に背中からぶつかった。その衝撃で背中の矢筒が壊れ、中に入っていた矢が何本か折れる音がした。そして、ゴブリンの骨が折れる音も。
また、木にぶつかったとき、ゴブリンは持っていた鉈を落としていた。
俺はゆっくりと近づいていき鉈を持ち上げる。そして、蹴りの衝撃で気絶しているゴブリンへと近づいていく。
そしてちょうど振り下ろしたときに、頭へ来るように鉈を振り上げた。
「ハァ、ハァ、ハァ」
大丈夫だ。俺ならやれる。そうだ、簡単な事だ。今持っている鉈をこいつの頭目掛けて振り下ろす、それだけだ。それに、こいつが最初に襲ってきた。そうだよ、これは仕方のない……。
「やっぱ、無理だな。俺には出来そうにない」
俺は後ろに倒れるように座り込む。
コイツは俺たちを殺そうとしてきた。だから反撃した。それでいい。それで終わりだ。
万が一、俺がコイツを殺してしまったらアイツに、麻希に合わせる顔がない。
「それにしても、最初のドラゴンといいゴブリンといい、やっぱりここは異世界か……」
アニメやラノベでありがちな展開だ。問題はラノベなんかの主人公達と違い、今の俺たちにこの森で生きていけるほどの力が無いことだ。
「早く、この森を抜けないと」
俺は木の陰に隠していた麻希を背負い、再び森を出るために歩き出そうとした。だが、その最初の一歩は地響きのような叫び声によって踏み出すことができなかった。
「なんだ? なんなんだこの声は!」
俺は思わず耳を塞いでしまう。麻希が落ちそうになるが、そこは体を丸める事でカバーする。
そして、声が聞こえなくなった。だが未だに耳鳴りがする。そして、嫌な予感がする。それは俺だけじゃないだろう。
あの叫び声。声量からしてなかなかの大きさだろう。そして、方向。あれは俺たちが来た方向から聞こえてきた。
そこから導き出される答えは、
「やっぱりあのドラゴンかよッ……」
巨大な赤い物体が土埃を上げ、木をなぎ倒しながら、俺たち目掛けて迫っている。それを見間違えるはずがない。間違いなくあのドラゴンだ。
恐らく、さっきのゴブリンの鳴き声だな。ゴブリンの声で起きたドラゴンが八つ当たりでこっちに来たって感じか? ハッ、つくづくクソだ。
「取り敢えず、どこか隠れる場所があれば」
俺は辺りを見回しながら走り出す。後ろからは木が薙ぎ倒される音が地響きと共に聞こえてくる。十中八九あのドラゴンだ。
大丈夫だ。この森の中なら、小回りの効く俺の方が有利。だから、大丈夫。
木の根を飛び越え、目の前の木を左に曲がる。そのままドラゴンの背後に回るように逃げる。
右脚がうまく上がらず木の根に躓くが、麻希を落とさないよう俺は必死に走った。
どこか、どこでもいい、隠れる場所さえあれば。
だが、辺りを見渡しても木、木、木。なんでこんなに木しか無いんだ!森だからか?畜生!
そうだ、あの洞窟。最初にドラゴンを見つける前にあったあの洞窟なら。
この際何が出てきてもいい。あのクソッタレなドラゴンよりはマシだ。
◆
男は見ている。少年の足掻きを。
生にしがみつく少年と、それに背負われる少女の姿。
男が何を思い、何を考え、そして何を感じたのか。それは男にしか分からない。
だが、男は猛獣のように笑っていた。
それだけは確固たる事実であった。