第2章 9.戦闘
この話を読む前に、第十四部分の「魔導書より抜粋」を読んだ方がより分かりやすいと思います
空気が張り詰め、森の木々がザワザワと騒いでいる。木の枝で休んでいた小鳥たちは一斉に飛び立ち、あたりの草むらからは小動物たちが飛び出してくる。
まるで地震が起こる前のように、何かから逃げていく。
明らかに何かがおかしい。
空気が気持ち悪いと言えばいいのだろうか。先程までと比べて禍々しい気配がする。
宏人は立ち上がり『魔力眼』へと意識を集中させた。何も映らない。少なくとも、こんな気配を出せる存在はこの近くにはいないということになる。だがそれでもこのような気配を出すことのできる存在がいるのは間違いない。
「何も映らないってことは、少なくとも十メートルは離れてるってことだよな……。なのにこの存在感って化け物かよ」
ゆっくりと鞄から長剣を取り出す。鞘を取り外しその刀身を外気に晒す。天に輝く太陽の光を浴びてキラリとその刀身が煌めいた。
重く、そして硬い質感。修行で使ってきた木剣とは違う感触。そのことに不安になってくる。
だが、そんな宏人の不安をその存在は待ってくれない。
ズシン、ズシンと地が揺れ、その振動が樹上にいる宏人にも伝わってくる。その振動は時間が経つにつれ段々と大きくなってくる。
思い出されるのは、この世界に転移してきた初日のこと。あの時は宏人はまだ無力だった。ただ圧倒的存在に逃げることしかできなかった。だが今は違う。
「この半年間を思い出せ。俺は今まで何をしてきた。この時のためだろ」
そう自分に言い聞かせ、不安に塗り潰されそうになる気持ちを昂らせる。
そして、それから数秒が経ち、とうとう『魔力眼』に反応があった。
『魔力眼』で見たその場所には、体長約五メートルはある熊のような形をした赤いものがあった。
思っていたよりも小さい。それが宏人の感想であった。これだけの威圧感を出せるにしては体が小さかったのだ。
いや、
「それは、アイツも同じか……」
これよりもすごい威圧感をこの半年間を味わってきたのだ。それに比べればなんと小さきことか。
思わず口角が上がってしまう。
宏人は一度眼を閉じた。そして深く呼吸を繰り返し、昂る気持ちをリセットさせる。
そして、その存在が目視できる距離に近づいた頃にスタッと地面へと降り立った。
それは、巨大な熊の魔物だった。体長約五メートルの巨体を持つ熊。もともと、熊という生き物は身体が大きな生き物だ。だがこれはその範疇を大きく逸脱している。
太く長い腕には鋭い爪が計二十本付いており、それが地面に食い込んでいる。身体中を覆っている剛毛は一本一本が硬くしなやかで、まるで鋼鉄の鎧を身につけているような重厚感がある。大きく開いた口腔内からはナイフのような牙が何本も見える。
「この威圧感って、多分ランクCくらいあるんじゃないか?そんなのがこの森にいるのか……」
宏人は魔導書で読んだ内容を思い返しながら、目の前を歩く熊の魔物を見る。
身体中を覆う毛は赤みを帯びた茶色をしている。恐らくはCランクの赤毛熊だろう。
魔物は森の中を我が物顔で歩いていく。魔物の身体に当たった木の枝はパキンという乾いた音を発して、軽く折れる。歩く度に、ズシン、ズシンと一定のリズムで大地が揺れ、その度に大気が震えた。
宏人は未だ実戦を経験したことは一度しかない。初日のゴブリンとの戦闘とも呼べるかわからないものだけだ。だから、戦いのことなど分かるはずもない。だがそれでも、この半年間にウルスラグナから学んだ事は忘れていない。
宏人は魔物から一切目を離すことなく、ゆっくりと慎重に魔力を操っていく。全身に魔力を行き渡らせ、〈身体強化〉を発動させた。
長剣を中段に構えて、魔物を見据える。右足を大きく後ろへとずらし、そこに集中して力を蓄える。そして、勢いよく飛び出した。
右足が地面を掘り返し、宏人の身体が弾丸のように魔物へと近づいていく。
「グルァァァァァァァァァ!!」
地面を蹴った音で魔物は宏人に気づいたのか、両前脚を大きく広げ威嚇するように叫び出す。だがそれでも宏人は止まらなかった。
一番に狙うのは後ろ足だ。移動手段を削ぐ事で、相手の機動力を殺す。そしてそのまま頸を狙う。
宏人は剣を地面と平行に倒し、そして後ろ足が間合いに入った瞬間剣を大きく横薙ぎに払った。
「なんっつう硬さだよ!」
剣が魔物の体毛に遮られ、上手く切り込むことができない。勢いが死んだ剣は肉を切り裂き骨にぶつかって止まった。
宏人はすぐさま剣から手を離し、バックステップで距離をとった。その距離およそ十五メートル。
宏人は焦ることなく次の動作への準備に移る。
深呼吸をし、左右の拳を軽く握る。そしてゆっくりと左手を突き出すように真っ直ぐに伸ばす。右手はあばらの下まで引き、所謂正拳突きの構えをとった。
勿論、宏人には空手の経験などない。これらは全てウルスラグナの動きを真似たものである。
『剣だけで戦おうとするな』。それがウルスラグナから何度も言われ続けてきた言葉だ。
戦いの場はいつも不安定で、不確定要素が多い。その時に剣だけに頼り続けていれば、いつかは自分の身を守ることなどできなくなる。
だからこそ、剣以外の鍛錬を怠るなと何度も言われ続けてきた。
魔物は一箇所に留まる宏人を見て、何を思ったのか叫び声をあげ宏人へと突進ししていく。
その速度は車よりも早い。熊は元々時速六十キロで走ることができるが、魔物化の影響で身体能力が色々と上昇しているのだろう。今は時速八十キロ程度で宏人との間を詰めてきている。
僅か数秒でその距離を詰めた魔物は、大きく口を開け宏人の頭を噛み砕こうとする。ヌラリと唾液で光る牙が宏人へと襲いかかる。
そのすぐあとに、宏人の鮮血が噴き出すであろうその突撃に対して、宏人は一切微動だにせずただ構えを続けている。
そして、森中に頭蓋骨の割れる、ベキャリという音が響き渡った。
変更点
『魔力眼』の効果範囲五メートル→十メートル