第2章 7.前日
今回は珍しく筆がのってしまった……
多分年内はこれで最後の更新かな?
〈身体強化〉の制御に成功したその翌日。俺は自室で荷物を纏めていた。
服を一式に十日分の食料、僅かばかりの貨幣をウルスラグナに用意してもらった少し大きめの鞄の中へと入れる。腰には自衛できるように短剣二本と長剣一本を挿している。その手触りを確認しながら、俺は部屋の隅にある棚へと足を運ぶ。
最近は寒い日が続いている。ウルスラグナに聞いたところではそろそろ冬――この世界でいう『氷期』へと差し掛かっているらしい。この洞窟内ではあまり気温の変化は感じられないが、外は半年前と比べて随分と寒くなった。
そこで俺は、ウルスラグナに貸し出された黒のコートを羽織り、手には行動の邪魔にならないよう、フィンガーレスグローブを嵌める。だがグローブはあくまでも気休めである。この程度で寒さを凌げるとは到底思えない。
そう、俺は明日この洞窟を出て行く。今はその前段階、準備の最中だ。
俺は必要な用具を手に取り、一つ一つ確認しながら準備をしていく。俺も半年前に比べれば多少は強くなっただろうが、それでも外の世界は危険だ。それに、今の俺は鍛錬で強くなった程度で、経験はまるでないからな。
だからこそ、ここで慢心せず入念な準備をする事が大切だと俺は考えた。
「準備は一通り済んだ、か……後は」
そう独り言を言い、俺は扉の方を向く。正直言って気が乗らない。なぜなら結果は分かっているからだ。
この前だって叱られたばかりなのだ。なのにそのすぐ後にこうして旅に出ると言えば、不機嫌になるのは目に見えている。それもこの前とは比べ物にならないほど。
俺は重く、溜息をつく。そのせいで背中が丸まり、さらに気分が下がっていく。やはり行きたくない。
だが、
「言わなきゃならない。それは分かってるんだよなぁ」
そう。今ここで気乗りしなかったからと言って、黙って出て行った場合、あいつが何をするのか予想できないのが怖い。
「よし、気合い入れろ」
そう呟き、頬を叩く。ペチンという乾いた音が部屋に響いた。頰に感じる鋭い痛みが脳へと一気に走り、気持ちを奮い立たせてくれるような気がした。
ジンジンと痛みの残る頰は赤く染まり、微かに熱を帯びている。
そして俺は意を決した表情で、扉を開いた。
◆
ウルスラグナの洞窟、その中の麻希の部屋で俺は固まっていた。
「ねぇ……どこにもいかないでよ」
その理由は目の前の麻希の表情にある。
麻希が目に涙を貯めて、俺を真っ直ぐと見つめてくる。ベッドに上体を起こしている体勢の為、自然と立っている俺を上目遣いで見つめる事となっている。
俺が着ている黒のコートの袖をギュッと握りしめ、まるで駄々をこねる子供のような感じだ。
その表情と行動に、何故か胸を鷲掴みにされるような感覚が訪れた。
それが何故起きたのかは分からない。だが恐らくは必死に自分を引き留めようとする麻希の姿に、少し罪悪感を抱いていたのだろうと、このときは思っていた。
「ねぇ……」
「っ、すまん。ちょっと呆けてた」
麻希に腕を揺さぶられ、飛んでいた意識を戻す。その様子に麻希はさらに不機嫌になった。
頬を膨らませ、涙目でこちらを睨んでいる。
そりゃそうだな、と俺は思った。ついこの間に麻希に会いにいかなかった事で怒られた筈なのに、そのすぐ後にこうやってこの洞窟を出て行くと言っているのだから。
それに、麻希は魔力の問題でついて行けないというのだから。
「どこにも、行かないで。ひろとがいなくなったら、私……」
「麻希……」
袖を掴む腕を胸の部分へと移動させて軽く引き、麻希が俺の方へと体を寄せてくる。そのせいで俺は体勢を崩し、地面に膝をつけてしまう。麻希はそのまま顔を俺の胸に当てると、離さないように先程よりも強く服を握りしめる。
その様子に、俺は何も言えずただ見ていることしかできなかった。
そして、少し時間が経ち胸が微かに冷たさを感じた。
恐る恐る確認すると、ベッドのシーツに小さく染みが出来ているのが分かった。恐らくはポタポタと麻希の顎から少量の水滴が垂れているからだろう。
ここで俺が謝る事は簡単だ。だがそれが最善手だとは思えないし、それにこれは俺が、俺自身が決めた事だ。例え自己満足だと言われようがこれだけは絶対に変える事は出来ない。
ならば、今ここで俺がするべき事はなんなのか。それをこの僅かな時間で考えればいい。
「――」
駄目だ。何も思い浮かばない。そもそも、こんな経験今までなかったからな。こんな時にどうすればいいのか全く分からない。
だが、こういう時、アニメやドラマではこうしてたよな。
「――え」
俺がとった行動に麻希が身を硬くする。驚きで顔を上げようとするが、俺の胸に痞えているのか上手く上げる事が出来ていない。
それもその筈。俺は今麻希を息が詰まりそうな程抱きしめているからだ。
抱きしめてほぼゼロ距離になったため、麻希の吐息が熱いくらいに感じる。麻希の心臓の鼓動が感じられる。自分の鼓動も麻希に聞こえるかもしれないというほどに、うるさくそして早くなっている。
そしてそのまま何も話す事なく数分が経過した。
その頃になってくると、宏人の頭も冷え、勢いでとった行動に対して激しく後悔する事となる。
だが、麻希が何も言わないし、タイミングも逃したため、いつこれをやめればいいのか分からなくなってしまった。そのため、先程まで離すまいと力を入れていた腕は、徐々に力を失いつつある。
「ねぇ、どうしても行かないといけない、の?」
「――ああ、絶対だ」
不意に、麻希がそう俺に聞いてきた。それに対して俺は数秒のフリーズの後、真剣に言葉を返す。
「そう、なんだ。私が何を言ってもむだなんだね」
「ああ」
そう答えると、完全に力の抜けた俺の腕から麻希が頭を抜く。そして涙を溜めた目で
「なら、わかった」
そう言った。
◆
「それで?マキは説得できたのか」
「うるせぇよ。もういいだろ、その話は――そんな事よりも、なんだよ大事な用って」
ウルスラグナが俺をからかうようにそう言った。それに対して俺は少し怒気を含んだ声で言葉を返す。
すると彼は口元に手を当て、笑いを堪えるような仕草をした。
「ああ、そうだったな。今日お前をここに呼んだのは渡したい物があったからだ」
「渡したい、もの」
俺が繰り返しそう聞くと、ウルスラグナは小さく頷き、そして表情を真剣なものへと変化させた。その変わり様は凄まじいもので、先程までの緩やかな空気が一変、冷たく張り詰めたものへと変化した程である。
彼は一切表情を変化させず、ただその紅い眼で俺のことを見ているだけだ。だがその視線は鋭く、それだけで人を殺せそうなくらいに凶悪で、そして強かだった。
「……」
ゴクリ、と無意識に喉を鳴らす。久しく忘れていた目の前の圧倒的威圧感に冷や汗が滲み出てきた。
頰を垂れる冷や汗が、丁度下の位置にあった俺の太腿を軽く濡らす。
「俺からお前へ渡すものは、この俺の眼、『魔眼』だ」
そう言いながら、ウルスラグナはただ変化なく、俺の眼を見つめている。だがそこに大きな違和感を覚えた。
――彼の眼が金色に輝いていたからだ。
普段の彼の眼は燃え盛る炎のような紅に染まっている。その証拠に、俺がこの部屋に入った時には普段通りの紅い目をしていた筈だ。だが、今俺を見つめる眼は間違いなく金色に明るく輝いていた。
この短時間で、眼の色が変化する事など有り得るのだろうか。
いや、この際そんな事はどうでもいい。彼は先程何と言ったのか。魔眼と言ったのだろう。そもそも魔眼とは何だ、そんなものあの魔道書には書かれてはいなかった筈だ。
俺が頭の中で様々な事を考えていると、ウルスラグナはゆっくりと口を開いた。
「『魔眼』とは、様々な能力を持つ眼の総称だ。その能力は様々だが、俺が持つ魔眼は『魔力眼』と呼ばれるもので、視界に映る魔力を色として見ることができる能力を持つ」
魔力を色で見ることができる、それは凄いのだろうか。いまいち理解できない。いや、『魔眼』という聞いたこともない単語に、理解する為の脳が混乱してしまっているからだろう。
「まあ、物は試しだ」
そう言って彼は俺の頭を掴む。そしてそのままなにかを唱えるそぶりをしたと思えば、その瞬間。
激しい頭痛に襲われる。初めは彼の頭を掴む手に力がこもりすぎているのかと思ってしまったが、そんな生温いものではない。それはまるで棘の生えた大きな虫が、頭の中で暴れ回っている。そんな妄想すら覚えてしまう程の激痛だった。痛みに気を失おうが、猛烈な激痛によって意識は再度覚醒してしまう。それが何度も起こってしまう。
耐え難い苦しみに俺は、思わず頭を掴む彼の手を必死に離そうとするが、それは叶わなかった。
離そうとしたその手があまりにも重く、力強かったからだ。まるで巨大な岩を連想させる、そんな重みがその腕にはあった。
時間にして数十秒、だが痛みで苦しみに苦しみ抜いた宏人にとっては永遠にも等しい時間が経った時、それまでの痛みとはまた一風変わったものが訪れる。
右目が燃えるように熱を帯び始めたのだ。
「があああああっ!」
まるで煮えたぎる溶岩に右目だけを入れるような感覚だろうか。溶けてしまうのではないか、という程の熱が宏人の右目部分から発生している。いや、それだと正しくはない。実際に宏人の右目はドロドロと液状に変化しているからだ。液状になった右目は、ポタポタと地面へと滴り落ちていく。
「―――」
ここまでくるともう痛みを感じなくなってくる。苦しみを苦しみと感じなくなってくる。だがそれは痛みが消えたわけでは無い。ただ激痛に脳が麻痺してしまっただけだ。
右目がドロドロと対流するのが、閉じた瞼を通して伝わってくる。だがドロドロと対流していたそれは、ある瞬間から少しずつ変化していき始めた。
固まってきているのだ。まるで今までの目を捨て、更に新たな目へと生まれ変わっていくかのように。それはまさに蛹のような状態である。
そして灼熱のような熱が完全に収まった時、右目が形成されているのが分かった。
ゆっくりと瞼を小さく開き、数度瞬きを繰り返す。そして恐る恐る右目を大きく開けていく。
ウルスラグナがそんな俺の行動を予想していたのか、手に一つの手鏡を持って俺の目の前に立っていた。
そのまま手に持っている手鏡を手渡してくる。ひんやりとした手鏡だ。何の装飾もない、ただただ機能性だけを追求した手鏡だ。
その取手部分を握りしめ、俺は右目を見る。
そこには、ウルスラグナと同じ輝くような金色に光る眼が一つあった。
右へ一度、左へ二度右目を動かす。鏡の中の目も俺と同じように動いた。どうやら本物のようだ。
「これが、俺の目、なのか……」
「ああ、正真正銘お前の眼だ」
ウルスラグナがそう俺に諭すように声をかけてくる。だが、未だに信じることができない。先程までの黒い瞳はどこに行ってしまったのか。
ただ困惑するだけの俺を見て、ウルスラグナは言い聞かせるように、
「まあ、じきに理解するか。ならば使い方だけでも教えてやらねばな」
「使い、方……」
「ああ、そうだ。まずは右目に魔力を集めろ」
俺はウルスラグナに言われたように、右目に魔力を込める。すると、
「―――」
「今、お前の眼には俺に色がついて見えるはずだ。しかも真っ赤にな」
「あ、ああ」
先程までウルスラグナがいた所、そこに丁度ウルスラグナ程の大きさの赤い人影ができていた。
「その赤い色をしているのが、魔力だ。その色が赤くなればなるほど魔力濃度が高くなる。生物ならば、保有魔力量が多いという事だ。逆に魔力濃度の薄い場所は透明に近くなる」
たしかに、ウルスラグナは真っ赤に色がついているが、その少し離れた空気の部分は透明に近い色になっている。だが、完全に透明とはなっていない。これは大気中にも微量の魔力が含まれているからだ。
「あれ、でも、これ……」
「気づいたか?今お前が見えているのは前方だけではない。後方まで見えているはずだ。いや感じている、か。それがその魔力眼の特徴、周囲の魔力反応を見る事ができるという能力だ。まあ不意打ち防止程度にしかならんが、今のお前には充分すぎるだろう」
「ああ、そうだな」
「まあ、使いすぎには気をつけろ。まだ慣れていない状態なんだ。頭に負担をかけすぎる」
さっきまで激しい頭痛に襲われていたんだしな、とウルスラグナは呟いた。だがその声は魔力眼に気を取られている宏人には届かない。もし届いていたならば、お前のせいだよとでも反論されただろう。
「何はともあれ、俺からの最後の贈り物だ。存分に活用してくれ」
「何から何までありがとうな。ま、あの激痛はもう二度と味わいたくはないがな」
そう軽口を叩きあう。消えていた痛みがジンジンと戻り始めているが、時間が経てば治る程度のものだと考える。
当面の問題はこの魔力眼である。たしかにすごい能力ではあるが、使いこなすまでには相当な時間が必要だと、俺は確信した。
とはいえ、これでここでやるべき事は全て終わったはずだ。後は明日に備えて充分に休息をとるのが最善だ。そう結論づけ、俺は自室へと歩を進めた。