第1章------(9) 地の底の国へ
その日から、はるかは天使の僕の仕事の後、図書館に立ち寄って、遅くまで調べ物をするようになった。
天使の宮殿の図書館には膨大な蔵書があった。
このアフターワールドの創生の歴史からはじまり、あらゆるジャンルの書物が揃っていた。だが、はるかが調べようと思っている地の底の国についての書物は通常の書架には置いておらず、司書から個別に借り受けなければならない。勿論、図書館からの持ち出しは厳禁だ。
「本当はお前のような小娘に貸し出して良い本じゃないのだけどねえ」
司書の天使はため息をつきながら、本をはるかに手渡してくれた。
本来、地の底の国の存在は、一般の霊人には知らされていない。
アフターワールドは無数の霊界が重なりあって構成されている。
その階層の区分としては、最上位が「天国」であり、その後に「パラダイス」、「高級霊界」と続き、だいぶ下がって「中間霊界」があり、その下に「地獄」があるとされている。それで終わりだ。
だから、地の底の国などという階層自体、存在しないことになっている。その秘密を知るのは一部の霊人と天使たちだけだった。
「お前が英傑の紹介でここに通うようになってから、一週間。しかも今日は堕天使一覧も見たいという。そんなものを見て、どうするつもりさ」
司書は胡乱な目を向けてきた。
「どうって――勉強したいと思う気持ちに、理由なんてあるんですか」
内心、ひやりとしながら、はるかは言い返す。
「天使の僕に抜擢されて、やる気があるのは結構だけど、お前さん、まだまだ新米だろう? なんで、魔界のことなんか知っている? 英傑に聞いたのか? 余計なことに首を突っ込まず、与えられた仕事をこなすことだけ考えたほうがいいんじゃないのかい?」
「言われなくても、やってます。この勉強は今後のためのものです。それから真吾さんは関係ありません」
やや強気に言って、はるかは本のタイトルと自分の名前を紙に書き込んで、司書に渡す。それからカウンターに置かれた数冊の分厚い本を抱きかかえる。
司書はまだ何か言いたそうだったが、呆れたように肩をすくめただけだった。
そのようにして、はるかは地の底の国について調べはじめた。
けれども、結局、そのことについて調べることは、かの地へ霊人が訪れることの難しさを改めて知るだけのことにすぎなかった。
(魔界。地の底の国。堕天使たちの住処……)
古い、かび臭い本のページをめくりながら、はるかは考えていた。
そこが危険な場所であることは、文献からもよくわかる。
だが、なぜ、そもそも魔界は存在そのものを隠されているのだろう。
長い間、このアフターワールドは戦争状態にある。地獄から堕天使軍が攻めあがってきて、天使軍と戦いを繰り広げていることは、霊人なら誰でも知っている。だから、堕天使のことは恐怖の象徴として、皆が知っている。なのに、堕天使たちが住まう魔界については、一切、知らされていない。
(変なの。どうして秘密にする必要があるんだろう)
何しろ、魔界について記された本を見るだけでも、一苦労だ。
天使の宮殿など一般の霊人たちには訪れる機会もない。その場所の図書館の奥まった書架に隠されるようにしてある書物。
彼女は息をついて、ぱらぱらページをめくった。
その古びた本には魔界の特質、文化、歴史といったものが詳細に書かれている。
もっとも、それは天使側からの視点の記述のため、どの項目も曖昧なところが多く、具体的な地名や人名が少ない。また、一番肝心の、魔界へ行くための道筋も書かれていない。
「例えば、この、堕天使軍が中間霊界に攻め入る時のこと――」
彼女は指で一枚のページを叩いた。
〈彼らは地獄の底から突如として現れる。そして、悪魔の竜と堕天使に従うあらゆる禍々しい生き物の大群を引き連れ、中間霊界へと向かう。そして地獄の版図を広げるため、天使軍と戦う〉
彼女は考えこむように、唇を噛んだ。
「これだけじゃわからないわ。地獄の底から突如として現れる、ってどういうことよ。その具体的な場所が知りたいのに……」
その本を開いたまま、別の本のページをめくる。そこには地獄の地図が載っている。
はるかは目を凝らして、二冊の本を見比べた。
(この数千年で堕天使軍がしかけてきた戦争。特に大群を引き連れた大規模なもの。その戦場となった霊界)
それは地獄であったり、中間霊界最下層であったりした。
そのなかで、はっきり地名が記されているところが、数か所ある。
(基本的に堕天使軍がどこから攻めてくるかわからないけど、この数か所の町は、戦争が起こる確率が高いんだわ。てことは、この町のどこかに魔界に通じる道があるのかもしれない。でもこれらの町は――地獄の最下層というわけじゃない。単純に考えて、魔界は地獄の下にあるはず。どういうことだろう……)
天使たちの住まうパラダイスは中間霊界から見上げることができる。それと同じように、魔界も地獄のずっと下にあるのだとはるかは思っていた。
(とにかく、一度、この地図にある町のどこかへ行ってみたほうがいいのかも)
現地に行けば、何かしら手がかりがつかめるかもしれない。
だが、地獄は気軽に行ける場所ではない。
先日は天使の僕の実習だったので、ごく簡単に地獄におりることができたが、本来、中間霊界人であるはるかが地獄へ行くためには、様々な手続きが必要となる。
それに彼女には天使の僕の仕事もある。仕事の合間をぬって、誰にも知られず地獄におりることはまず不可能だった。彼女はため息をついた。
(仕方がない。じゃ、地獄に行く方法は後回しにして、堕天使たちについて調べてみよう)
はるかは堕天使一覧を手に取った。
◇
その日の夜、はるかは夢のなかでまた忘却の丘にいた。
けして来たいと望んでいるわけではないのに、最近、頻繁にこの場所へ来る。竜によると、それははるかが竜の血族であることが関係しているということだった。
〈本来、この忘却の丘はどの霊界にも属さぬ特殊な場所だが、どうやら、お前がセラを知ったことで、セラに焦がれる我の念と通じてしまったようなのだ。おまけにお前は我の血族――生前、お前と我は直接、まみえたことはなかったが、他者に比べ、絆が深い。血と血が呼びあい、お前は無意識にこの地へ来てしまうようになってしまったのだろう〉
「よく、わからないわ」
はるかは正直に言った。
「でも、普通の霊人があまりこの場所に来たら、いけないんでしょう?」
〈そうだ。だが、短時間なら問題なかろう〉
竜は大樹の根本でくつろぎながら答える。竜の輪郭が時折、ほのかな緑色に輝く。そのまますうっと白く溶けていきそうになるが、しばらくすると輪郭が浮かびあがってくる。はるかはそれを不思議な表情で眺めながら思った。
(ここに来るのは、何度目だろう)
初めは、老婆の水晶を見せられた日の夜だった。
その後も毎日とは言わないまでも、ちょくちょくこの場所へやって来るようになった。訪れる回数が増えるたびに、この不思議な空間にも慣れてきた。また、竜と話すうちに、友情めいたものを感じはじめている。
何より、竜の恋愛話が壮絶だった。
この竜はあまりにも通常の人間と違った人生を歩んできたらしい。具体的なことは何ひとつわからなかったが、竜からつたわってくる波動だけで、十分、そのことを感じとることが出来た。
(小竜ちゃんは、ものすごく苦労している。この人にはセラさんしかいないんだとわかる。それが霊界に来て、こんなかたちで離れ離れになるなんて、可哀そう)
竜にすっかり同情したはるかは、何とか竜の助けになれないかと思っているが、竜の要求をかなえることは難しい。
「運命の人かあ」
はるかはぼんやり言った。
「すごいね。小竜ちゃんは、生前、そんな人と出会ったんだね。でもねえ、あの水晶玉のお婆さんはあの人はあたしの運命の恋の相手だって言ったんだよ。どう思う?」
〈……我は知らぬ。だが、お前がセラに恋をし、またセラがお前を好ましく思うのなら、我は何も言わぬ〉
「そ、それでいいの?」
はるかは驚いて言った。竜は寂しげに微笑んだようだった。
〈言っただろう、娘よ。我の力はもうほとんど残っていないのだ。おまけにルキフェルにこのような場所に閉じ込められ、姿すら変えられてしまった。この姿で、どうしてセラを愛することができよう〉
「小竜ちゃん」
はるかは泣きそうになる。竜が本心からそのように言っていることが伝わってくる。思わず、はるかが竜の首を抱きしめると、竜はアメジストの目元をやわらげた。
〈もう、我は長くはないのだ。せめて一目、セラと会いたい。セラに我の最後の力を与えたい。それが我の望みだ〉
「……ごめんね。それはあたしには出来ない」
〈そうだろうな〉
「それでも、今、魔界のことを調べてる。何とか、方法を探したいと思ってるの。でも、魔界にたどり着く方法さえ、わからない」
彼女は竜の胸元に顔をうずめた。竜の胸は暖かかった。耳をすますと、ゆっくり呼吸しているのがわかる。竜は躊躇うようにした後、低い声で言った。
〈娘よ。もし、頼めるならば、ベリアルを探せ〉
「ベリアル……」
〈そうだ。堕天使ベリアルは堕天使の王ルキフェルと対立している。ルキフェルの裏をかいてセラを助け出すには、ベリアルの協力が不可欠であろう。それから、魔界への道は――我が知ってる〉
「小竜ちゃんが?」
はるかは驚いて、竜を見つめる。竜ははるかを見つめ返した。
〈そうだ。それにベリアルは比較的、我々と近しい堕天使で、日頃から地獄のとある町に来ていることが多い。運が良ければ、魔界へ下らずとも会うことができるだろう。もし、お前が本気で我に協力してくれるというのなら、ベリアルと交渉してくれぬか。いや、会うだけでもいい。我の念をこめたものを渡してくれ。それでベリアルには通じる〉
静かに、しかし底知れない切実さをこめて、竜が思念を伝えてくる。
はるかは凍りついたように竜を見つめた。
地獄へ行くことは危険だ。
だが、魔界へ行くことに比べれば、危険度は相当、軽減される。
「小竜ちゃん……」
彼女は迷うように竜を見た。
竜は必死なのだ。
はるかの他に頼める相手がいない。
そして、竜は自分の死期を悟っている。
アフターワールドで暮らす霊人たちに死という概念はなかったが、はるかは直感的に竜の波動がだいぶ弱っていることを感じていた。
本来なら、霊人は永遠に生きる。
だが、目の前のひとは――魔王に竜の姿に変えられ、長い間、どこの霊界にも属さない場所に閉じ込められている。今にも背後の大樹に溶けて消えてしまいそうなこの小さな竜が、アフターワールドの通常の霊人と同じように死と無縁であるとは言い切れなかった。
時間が過ぎた。
やがて、彼女は痺れた舌先を動かした。
「……地獄のその町に行って、ベリアルを探すだけなら、してもいい。地の底の国へ行くことはできないけど」
〈それでいい。感謝する〉
竜は深々と頭をさげた。




