第1章------(8) 地の底の国へ
はるかは疲れ果てていた。
前日は早々に布団に入って、よく眠ったはずなのに、疲れが全くとれておらず、頭がぼうっとしている。と言うのも、眠っている間中、夢のなかにあらわれた竜の恋バナを延々と聞かされ続けていたからだった。
(あの竜……)
彼女は疲れた頭で思った。
(あんな性格だなんて思わなかった)
竜としては、悪気はなかったのだろう。
それは、はるかも分かっている。けれども、竜は必死すぎた。はるかの思念のなかにおのれの恋人の残像があると知るやいなや、我を失ったように、恋人への自分の想いを伝えてきた。
はるかは、竜の生前を知らない。
名前や出身国。その経歴や生き様。
何も知らなかったが、以前、夢に現れた時の落ち着いた物腰から、きっとあの竜は年老いた、分別ある女性なのだろうと想像していた。だが、昨夜の”彼女”は違った。
乙女だった。
押し寄せてきた想いは、はるかが赤面してしまうほど、純粋で可憐で、一途だった。どうしてそこまで誰かを愛することができるのだろう、と思うほど崇高な愛情を示したかと思うと、はじめての恋に翻弄される女子中学生のような初心な熱気があり、そしてまた、母親が我が子に抱く愛情のようなものまである。
それらの想いがごちゃ混ぜになったものが堰を切ったように溢れてきて、気が付けば――はるかは竜の恋の想いの海のなかを浮かんでいた。
「……小竜ちゃん」
彼女は水をかきながら、呼びかけた。
「小竜ちゃん!」
返事がないので、さらに大きな声で叫ぶ。
「この海。あなたが作り出したんでしょう? お願いだから、元に戻して」
少し、間があった。
〈小竜――とは、我のことか〉
「他に誰がいるのよ。あなたが自分の名前を忘れてしまったから、そう呼ぶことにしたわ。名前がないと不便だから」
はるかは言った。
相手は叡智を秘めた竜の姿をしており、その喋り方や物腰も、堂々とした、落ち着きはらった人格を感じさせるものだったが、彼女の内面の本質は乙女である。それを知った時、はるかは竜を「小竜ちゃん」と呼ぶことに決めた。
今はこんな姿ではあるが、本来、この竜ははるかと同年齢か、それよりも少し年上の少女に違いない。
ベアトリーチェまではいかない。ベアトリーチェは見た目は美少女でも、中身が違う。とにかく、はるかは竜をそういう相手だと思って、接することにした。はるかが思念でそのことを伝えると、竜は驚いたような波動を返してきた。
「文句があるなら、名前を思い出しなさい」
〈……我の呼び名はそれでいい〉
竜は諦めたように言った。それから、海を振動させるように、クツクツと笑いはじめた。はるかは叫んだ。
「だから、海! この海を元に戻して!」
〈やや、すまないっ!〉
たちまち周囲の景色が変わる。あっという間に海が消えて、足が大地を踏む。もとの白い淡い空間に戻り、はるかは安堵の息をついた。大樹の根本には、小さな竜が座っている。竜はばつが悪そうに、はるかを覗き込んできた。
〈我としたことが――すまない。つい、興奮してしまった〉
興奮し、感情の歯止めがきかなくなって、海を作り出してしまった。
海と言っても、勿論、アフターワールドでのことだから地上界でいうような海ではない。また、横田四丁目にあるような固定化された海でもない。単なる思念の副産物だ。固定化されていない、すぐに消えてなくなってしまうようなものだった。
だが、その副産物で、うっかり、広大な海を作り出してしまうほど竜の青年への想いは深い。はるかはこめかみを押さえた。
「まあ、落ち着いて。あなたの気持ちはよくわかったわ。生前、あの水晶の人と恋人だったって話も、本当なのね」
〈信じてくれるか〉
「信じるも何も――」
はるかが言いかけると、再び、竜の思念がぶわっと沸き起こりかける。はるかは「わかったから。もう、それはいい」と言って、慌てて止めた。
「でも、正直、まだ混乱してる。とても信じられない不思議な話なんだから。えっと、説明して? まず、あの水晶の人はセラって名前なの?」
〈そう。セラだ〉
竜は何でも聞いてくれ、と言うように、瞳を輝かせた。はるかは竜を刺激しないよう注意しながら、言った。
「あなたたち二人は生前、地上界で恋人か、夫婦だった」
〈そうだ〉
「でも、今は離れ離れ。小竜ちゃんが忘却の丘というところに閉じ込められて、セラさんもどこかに監禁されている」
はるかは、老婆の水晶で見た青年の映像をあらためて竜に送った。
〈お前の言う通りだ。その後、セラがどうなったのかわからなくて心配していたのだが、とりあえず、生かされてはいるのだな。それを知って安心した〉
「セラさんが捕まっている場所はわかる?」
〈映像を見る限り、地の底の国だろう〉
「やっぱり……」
はるかは唇を噛んだ。竜は心配そうに言った。
〈一時の気まぐれだと思うのだが、魔王ルキフェルはセラをことのほか気に入ってしまったようなのだ。だが、そもそも地獄で呻吟していたセラを引き上げたのは、堕天使ベリアルだった。ベリアルがセラを本来の姿に戻して、自分の城に連れ帰って自慢してると、それに目をつけたルキフェルが横から奪ってしまったのだ〉
「どういうこと?」
はるかは、ぎょっとなって聞き返す。新たな堕天使の名が登場した。その言葉はあまりにさらりと告げられたので、はるかは咄嗟に意味をよく理解できなかったが、竜がとても重要なことを言ったのだということはわかった。
だが、竜ははるかが聞き返したことには答えず、おのれの深い想いに沈み込むように嘆息した。
〈セラはどうも堕天使たちを惹きつける何かを持っているようだったからの。生前のセラの生きざまを見れば、それも頷けるというものだが、それにしても厄介な――いや、それは生前も同じであった。我はいつもはらはらしていた〉
はるかは先ほどの言葉を問いただすことより、目の前の好奇心に負けて、聞いた。
「ねえ。堕天使を惹きつける生き様って、セラさんは、何をしていた人なの」
〈む。何か言ったか〉
「だから、職業よ。何か仕事してたんでしょ?」
あの美しい青年の職業なら、俳優かモデルあたりだろうか、とはるかは考える。どこかの国の王子様という考えも捨てがたかった。どちらにしても、普通の会社員や公務員などではないだろう。案外、芸術家かもしれない。
そんなことを考えていると、竜は長い首をもたげた。
〈マフィアのボス〉
「嘘でしょ」
はるかは即座に言った。だが、竜からは、嘘をついているような波動は伝わってこない。彼女は不安になった。すると、
〈嘘だ〉と言って、竜は低く笑った。はるかは顔を真っ赤にした。
「小竜ちゃんっ!」
〈怒るな。そうだな、セラは会社の社長をしていたよ。大勢の人間を使っていた〉
「そう。それならわかるわ。それで、小竜ちゃんはいつセラさんと知り合ったの?」
〈昔――我がまだ高校生だった頃だ。我は日本からある国に留学してて……〉
「高校生! 小竜ちゃん、日本人だったの?」
はるかは叫ぶように言った。
どうも目の前の竜が、かつて女子高生だったというイメージがわかない。しかも日本人。はるかと同郷だったのだ。急激に竜に親しみをおぼえ、はるかは心が浮き立つのを感じた。
そんなふうにして、彼らは少しずつ、話をはじめた。やがて、気が付いたら、竜の恋バナが終わらなくなっていた。
それは、それなりに楽しい時間だった。
はるかは竜の話を夢中で聞き、続きを促した。気をよくした竜は、最後のほうでは自分たちの初めての愛の行為の時のことを語り始めた。その描写は生々しく、はるかは顔を真っ赤にして、微動だにすることもできず――しかし、全部、話を聞いてしまった。
(あー……疲れた)
目覚めた時、彼女が疲れてきっていたのは、仕方のないことだったろう。
「さて。起きるか」
はるかは「よいしょ」と声をあげると、布団から出た。今日も天使の僕の仕事がある。彼女は忙しいのだ。いつまでも奇妙な夢の余韻にひたっていることはできない。
「おーい。はるか、ご飯だぞお」
真吾の声がした。階下から、米の炊ける良い匂いと焼き魚の香ばしい匂いが漂ってくる。はるかは慌てて返事をした。
「今、行きます!」
階段を駆け下り、洗面台へ向かい、顔を洗う。彼女の一日がまた始まった。
(とにかく、魔界について、もう少し調べてみよう)
彼女は考え直すことにした。
(小竜ちゃんの話を聞いて情が移ったのもあるけど、小竜ちゃんの話が本当だとして、本当に何とかできないものなのか、もう一度、考えてみよう……)
はるかは慌ただしく家のなかを走り回りながら、思っていた。
(あたし自身が魔界へ行くのは無理だとしても、誰かに頼むとかできないかな。そうだ。天使の宮殿の図書館なら、霊界のどんな資料でもそろってるはずだわ。あそこを使わせてもらえないか、真吾さんに聞いてみよう)
彼女は立ち止まって、居間でのんびりお茶を飲んでる真吾を見た。
「あのさ。ちょっとお願いがあるんだけどな」
彼女は出来るだけ可愛い声になるよう心がけて、言った。




