第1章------(7) 地の底の国へ
翌日。
はるかは天使の僕の実地訓練で、エメラルドグリーンの海のある霊界にいた。
見渡す限りの大海原だった。
空は青く、高い。白い雲がすうっと刷毛でひいたようにのびている。爽やかな風も心地よい。そして太陽の光を受けてきらめく海には、いくつもの島があった。
その島々の間を、船がひっきりなしに行きかっている。
船の大きさは様々だった。
二、三十人が乗れるような立派な船から、大きな波が来たらすぐ転覆してしまいそうな小舟まで、海面を埋め尽くすように浮かんでいる。一見、全ての舟が好き勝手に運航しているように見えるが、そうではない。ちゃんとルールが定められていて、船乗りたちは互いに衝突しないよう、「ヨホーイ、ホーイ」と声を掛け合っている。
それは一種、幻想的な美しい風景だった。
船首がカーブした、美しいかたちをもつ、南国の植物の茎で作られた舟。青でもあり、緑でもある、エメラルドグリーンの深い海。青い空。
人々の異国情緒あふれる衣装。
ともすれば、水晶の青年に想いを寄せて、ぼうっとなりがちなはるかの心も目の前の光景に魅せられる。だが、
「確かに景色は素敵だわ。でも、これじゃ暮らすのが大変なのでは?」
はるかは現実的に言った。隣にいた天使の僕の先輩は肩をすくめた。
「大変だろうねえ」
島はたくさんあったが、どれも土地が狭く、公共施設をひとつの島にまとめて配置することができなかった。それで住人たちはお役所や病院に行くにはこの島、学校はあっちの島、マーケットはこっちの島といったように、いちいち用向きにあわせて、島から島へ舟で移動しなければならないのだ。
「この海はいつもこんなに静かなの? 嵐が来たりしないのかな」
はるかは鏡のような水面を眺めながら、聞いた。
ちなみに、横田四丁目にも海がある。その海は暗い群青色で、時折、嵐を引き起こす。
「ぼくの知ってる限りじゃ、今まで、この霊界の海が荒れたことはないようだよ」
「ならいいけど――でも、わざわざ舟で渡らなくても、あの程度の距離なら、瞬間移動で行けそうですよね」
「瞬間移動できる霊人はやってるよ。でも、出来ない人も多い」
「なるほど」はるかは声を低くした。
霊人のレベルが高い、つまり生命ポイントの高い霊人ほど、アフターワールドでは自由に生きられる。
何より、レベルが高ければ高いほど行動できる範囲が広くなるし、様々な技を使うことが出来るようになる。
姿を消して、瞬時に目的地に移動する技――瞬間移動もそうした技のひとつだった。
この瞬間移動はたいへん便利で、はるかも時々使う。
だが、どこへでも移動できるわけではない。
やはり各人のレベルに応じて、制約がある。また、体調の良し悪しによっても、技がうまく発動しないこともある。目的地があやふやなまま技を使えば、霊界と霊界のはざまに落ちて、迷い込んでしまう危険性もあった。それで、はるかは初めての霊界では移動の技は使わないようにしている。
天使の僕の先輩は遠くを眺めながら言った。
「この霊界には千人の霊人が暮らしているんだ」
「千人!」
はるかは驚いた。あの小さな島々に、それほど多くの人々が暮らしてるとは思えなかった。先輩ははるかの驚きに同意するように、頷いた。
「島の数がけっこう多いんだ。それで助け合いながら、何とか暮らしているようだよ。それにこの霊界は中間霊界のなかでもそれほど高い位置にあるわけじゃない。それで霊人レベルの低い霊人たちも集まってきてしまってるんだ」
そのため、瞬間移動が出来る霊人たちと、出来ない霊人たちで対立してしまっているのだという。
霊力の高い霊人は自由に島から島へ移動できるから、舟など必要ない。だが、それができない霊人たちは舟がなければ、生活が出来ない。それに舟の数が多すぎて、海上で渋滞することも多い。そのことが不公平だという意見が出ているという。
「それで橋を渡そうなんて計画がもちあがるのね」
はるかは豆粒ような島々から伸びる白い糸のような直線を眺めた。
今、この霊界では全ての島に橋を渡そうとする一大事業が行われていた。橋がとおれば、多くの住民たちの生活が便利になる。そして、天使の僕であるはるかたちの仕事は橋の工事を手伝うことだった。
先輩は立ち上がった。
「じゃ、今日は初日だから、まず、この霊界のなかで一番、静かなところへ行って、創造主に祈ることからはじめようか。それが終わったら、ぼくは工事の手伝いをする。きみは女たちに混じって、労働者たちの食事作りの手伝いをするんだ」
「わかりました」
「大切なのは皆が心をあわせて、協力するということだ。今、この霊界はレベルの高い者と低い者たちで、少し対立している。その彼らの心を解きほぐし、お互いのために協力しあう空気を作り出さなくてはならない。そういう雰囲気が高まれば、それは善の条件として天に受け取られる。そしてそれは結果的に工事の効率化にもなる」
「はい」
はるかは深く頷いた。それは、天使の僕の初期研修で習ったことだった。また、日頃から、真吾が横田四丁目でやっていることでもあった。だから、すんなり理解できる。
「皆でより大きなもののために協力しあうようにするんですね。そして天使の僕がその核となり、人々を誘導する」
「そういうことだね」先輩は満足そうに言った。
「きみはやっぱり優秀なようだ。さすがは英傑の養い子だ。英傑から何か特別な教育を受けたりしてるのかな」
「そ、そんなこと全然、ありません。真吾さんにはまだまだ子供扱いされてます」
はるかは顔を赤くして答えた。
実際、はるかは真吾から天使の僕としての役割や心構えについて、ほとんど教えられていない。
多忙の真吾にそれだけの時間がないということもあるのだが、元来、真吾は口下手だ。言葉であれこれ言うより、自分が率先して人助けをして、その背中を見せようとするところがあった。
天使の僕にはるかを任命した後、真吾が言ったのは、一言だけだった。
「まあ。肩の力を抜いて、頑張りなさい。お前なら、きっと出来るよ」
その言葉が、はるかは嬉しかった。
尊敬する真吾に期待されている。
彼女はその期待を裏切らないように、結果を残さなければならない。
昨日、はるかがうっかり魔界のことを聞いてしまった時も、真吾は真摯に答えてくれた。本来、一般の霊人たちには明かされない霊界の秘密まで話してくれたのは、やはり、はるかを信頼してくれてのことなのだとわかる。
(真吾さんの期待を裏切ったらいけない。だから、わけのわからない夢とか占いとかに振り回されている暇はないの。ごめんね)
彼女は心のなかで、誰にともなく、謝る。
老婆の水晶玉に映った青年のことは気にかかる。あの美貌の青年のことを思い出すと、心がしめつけられるように苦しい。夢に現れた竜の話も同情に値する。
(でも、堕天使だなんて――恐ろしすぎる)
彼女は身を震わせた。
ルキフェルはサタン軍の中でも最も恐ろしいと言われている堕天使だ。このアフターワールドでは常にどこかで天使と堕天使が戦争をしていたが、あの勇猛なラファエルたちでさえ、ルキフェルと正面から戦うことは避けるという。
(多分、水晶の人は、その――堕天使たちの地の底の国に閉じ込められているんだ。そんなのを助けられるわけがない。悪いけど、やっぱりあたしは何もできない……)
彼女は自分の心に蓋をするように思った。
◇
ところが、その日の夜だった。
はるかは、夢のなかで見覚えのある場所にいた。白い、淡い空間にうっすらと大樹が見える。〈忘却の丘〉だ。
そうと気づいて、回れ右をする。
「イヤだ。どうしてここに」
けして望んだわけでないし、むしろ、二度と来たくなかったのに、なぜかここにいる。思わず、はるかは大樹を背中にして、逃げ出した。
あの大樹の根本には竜がいるはずだった。今、あの竜と会いたくない。なぜなら、彼女は竜の願いを叶えることは出来ないのだから。だが、息があがるほど走った後、眼前に見えてきたのは、先ほどの大樹だった。
「……!」
はるかは肩で息をしながら、立ち止まった。眩暈を感じる。今度ははっきり小さな竜の姿が見える。竜ははるかに気付いていた。じっとこちらを見ている。
「こ……今日は。また、会ったわね」
仕方なく、彼女は挨拶した。竜は小首を傾げるようにした。
〈お前は、いつかの娘か〉
「そうよ。いつかの娘よ。道に迷ったから、帰り方を教えて欲しいんだけど」
彼女は余計な会話の糸口を与えないように、つとめて冷たく言った。アメジストの竜の瞳が、面白そうに瞬く。
〈お前は自分の夢のなかで、いつも迷うのか。奇妙なやつだな〉
「……」
はるかは竜を睨みつけた。
確かに彼女は夢を見ていたはずだった。一日の仕事を終えて、疲れて、満足して眠りについて、うつらうつら夢を見ていたところまでは覚えている。だが、それらの夢と今の夢は明らかに違う。
ここは彼女の夢であって、夢ではない。
〈忘却の丘〉がどのような空間なのか、彼女はよくわからなかったが、やはりここは極めて特殊な、特別な空間なのだと感じていた。彼女は唇を噛むと、頭をさげた。
「お願いします。もとの空間に返して」
〈我はもう少しお前と話したいと思うぞ〉
「話なら、この前したでしょ。あれで十分――」
〈二度も同じ霊人が我のもとを訪ねてくるのは初めてだ。我が血族の娘よ、我はお前に興味を持った〉
竜が思念を発する。はるかは内心、ぎくりとしながら後ずさる。
(やめて――興味なんて持たないでよ。お願いだから……)
関わりたくない、その思いが強くなる。
気の毒だと思う。可哀そうだと思う。けれど、彼女には何の力もない。水晶の青年には心が騒ぐけど、かれは人のものだ。ならば、はるかが竜のために危険をおかすいわれはないはずだ。
(あたしはあなたの願いを叶えられない。本当にダメなの。他をあたって。気の毒だとは思うけど――)
彼女はどうにか言い訳を探して、この場から立ち去ろうと考える。その時だった。竜の体が震えたかと思うと、次の瞬間、大きな波動が流れてきた。その波動に包み込まれて、彼女は「しまった」と思った。
はるかの思念の一部が竜に伝わってしまったようだった。竜は必死な様子で聞いてきた。
〈お前は今、誰を思い浮かべた? まさかセラか? あの姿は――我の恋人か? もう一度、見せてくれ〉
「違……違うから」
彼女は思念を切って、耳を両手でふさいだ。だが、遅かった。頭のなかに圧倒的な何かがなだれ込んでくる。それは、竜の青年に向けた積年の想いであった。




