第1章------(6) 地の底の国へ
「ねえ。真吾さん。地の底の国って知ってる?」
翌日、少し遅めの昼食を食べ終わった後、はるかは真吾に聞いてみた。真吾は「え」と言って、食べ終わった丼を片付ける手をとめた。
「その言葉、どこで聞いた?」
少し、硬い表情になって、聞き返してくる。いつも朗らかな真吾にしては珍しい反応だった。はるかは自分が聞いてはならないこと
を聞いたのだと、直感的に理解した。彼女はすぐさま頭をめぐらし、当たり障りのない言葉を探した。
「そのう――昨日、天使の僕のお遣いで地獄に行った時に、噂で……」
言いながら、視線を泳がせる。
彼女は、地獄で得体の知れない老婆の結界に招き入れられたことを真吾にうちあけてなかった。あまりに唐突で、不思議な体験だったので、時間が経つにつれて、彼女自身、あれが現実に起こったことなのか今ひとつ自信が持てなくなっていたのだ。
(あのお婆さんに幻術か何かを見せられてただけっていう可能性だってあるし)
彼女はひそかに思った。
それに育ての親の真吾に、水晶のなかの運命の恋人について伝えるのは、気恥ずかしい。まして、夢のなかに現れた竜の話など出来るわけがなかった。
(あんな途方もない……)
彼女は小さくため息をついた。
(この霊界のどこかにある地の底の国の王の怒りに触れて、竜の姿に変えられてしまった人。あの竜が会いたがってる恋人っていうのが水晶のなかの人だというなら、あの竜は女なんだわ。それで――よくわからないけど、あの竜の気持ちがあたしに流れて来て、あたしは昨日からおかしな状態になってしまってるんだ)
今でも、心の奥に水晶の青年を恋い慕う気持ちがある。
虜囚となっている青年を思うと、胸が痛む。
この恋情は、あの竜の想いなのだとはるかは感じていた。
はるか自身も、水晶のなかの青年を見て、どきりとした。心が吸い寄せられてゆくのを感じた。だが、会ったこともない相手に対して、ここまで深い愛情や悲しみを感じることはできないだろう、ということは理解できた。
(それともリアルで……地上界で生きていた頃、どこかで会った――?)
それも昨日から考えていることだった。
だが、地上界での彼女の人生に青い目を持った人間は登場しなかった。彼女はごく普通の日本の小学生で、海外旅行にも行ったことがなかったのだから。
彼女の知っている外国人とは、英会話の授業のために週に一、二度、学校にやってくる外国人講師くらいなものだった。その講師は、オーストラリア人の中年女性だった。あの水晶の青年とは似ても似つかない。
(あの竜、ちょっと可哀そうだったな。恋人を助けようとして、失敗して、姿を変えられて、あんなところに)
だが、それはあまりに荒唐無稽な話だった。
老婆の言ったように、このアフターワールドのどこかに囚われている青年を助け出し、夢のなかの竜のもとへ送り届けることなど、はるかに出来るはずがない。
(そう。あれはただの夢だ。きっと、昨日、変なお婆さんに会ったから、その影響で見てしまったんだわ)
そう思って、無視しようとした。
だが、夢として忘れてしまう前に、少しだけ確かめようと思った。夢のなかで竜が言った聞きなれない地名――たとえば、〈地の底の国〉や〈忘却の丘〉というものが、実在するのか、などを。
それで、昼食後、はるかは思い切って聞いてみたのだが、真吾はどうやら地の底の国を知っているようだった。そして、その名はあまり気軽に口に出してはいけなかったものらしい。はるかは、真吾の表情がこわばるのを見て、「しまった」と思ったが、出てしまった言葉を戻せるわけはなかった。
「地の底の国って、地獄のどこかにある霊界のことなのかなあ」
いかにもありそうな名前ではある。
口に出してしまった以上、ひっこめることもできず、彼女はなるべく無邪気さを装うように言った。
真吾は居住まいを正し、腕を組んだ。その表情は渋い。
「地獄で、聞いたのか」
「はい」
「誰に聞いた。相手の名前はわかるか」
静かに、問いかける。はるかは慌てた。
「わ、わからない。お茶屋に入って、たまたま席が近かった商人ふうの人たちが話してただけだから」
「本当に?」
「うん……」
はるかは目をそらした。だが、真吾が目を凝らすようにして、自分を見ているのが感じられる。はるかは焦った。真吾は英傑である。霊力もはるかよりずっと大きい。だから、真吾がその気になれば、はるかがついた嘘など、簡単に見破られてしまうだろう。
「なるほどなあ」
ややあって、真吾は平坦な声で言った。
嘘がばれたとわかって、はるかは首を縮める。けれども、真吾ははるかを叱らなかった。叱るかわりに、はるかが嘘をついた理由を考えているようだった。
「まあ、いいか」
しばらく黙った後、真吾はいつものようなのんきな声を出した。
「知りたいなら、教えてやる。地の底の国はあるよ」
かれは、はるかのぶんの丼も片付けてやりながら、言った。
「え――本当にあるの……?」
はるかは、びっくりして目を見開く。その反応を見て、真吾は苦笑する。
「なんだ。知ってるかと聞かれたから答えたのに、なんで驚いている」
「いや、その――ごめんなさい。それじゃ、あの、忘却の丘――は?」
「それは知らない。中間霊界かい」
逆に聞き返されて、はるかは目線をさまよわせた。
「違う、と思う。ねえ。これはちょっとした好奇心で聞くんだけど、地獄でも、中間霊界でも天国でもない霊界――どこの階層にも属さない霊界って――存在するの?」
「……」
真吾はまた難しい顔をした。
「霊界の初期ガイダンスでは存在しないと答えるだろうな」
「……」
「だが、お前も知っている通り、このアフターワールドは無限の世界だ。あらゆる不思議がある。そうだよな」
「うん」
「だからおいらは、最近、もしかしてこの世界には、この世界を創ったおてんとさまの法則にあてはまらないものも存在してるんじゃないかとは思っている。そういうどこにも属さない霊界があったとしても、驚かない」
それは長年、天使の僕として、地上界と霊界を行き来してきた、また、英傑となって、人々を導いてきた真吾だからこそ実感できる言葉だったのかもしれない。はるかは真吾の実直な言葉に耳を傾けていたが、不意に、顔をあげた。
「有難う。教えてくれて。でも、今の話は誰にも言わないほうがいいんだよね?」
「言わないでくれると、助かる」と真吾。
「わかった」
はるかは頷いた。
「でも、それじゃ、少なくとも、地の底の国はあるってことなのね。それは地獄にあるの?」
彼女は、水晶の青年が囚われていた部屋から見える、青黒い空を思い出しながら言った。
昨日行った、地獄の真っ黒だった空とも違うが、中間霊界とも異なった雰囲気があった。あの空の色は、どちらかと言えば、地獄に属しているように思われる。
「地獄じゃない」
真吾がはっきり言った。はるかは真吾を見た。
「え。じゃ、中間霊界?」
「中間霊界でもない。地の底の国は特殊な霊界で、おいらたち霊人は足を踏み入れることも出来ないところだ」
「な、なんで」はるかは驚いた。真吾は「うん」と頷いてから、言った。
「はるか。お前は天使たちの住まうパラダイスに行ったことはあるか」
「まさか。あるわけない」
「それはなぜ」
教師と生徒のような問答。はるかは一週間前に霊界に来たばかりの霊人でも知っているようなことを今更、なぜ真吾が聞くのか疑問に思ったが、素直に答えた。
「なぜって、あそこは霊人の行く場所じゃないもの。行ったら、天の光が強すぎて、普通の霊人じゃ耐えられない。せいぜい、ずうっと下から、雲の上の彼らを眺めることくらいしかできないよ」
「その通りだ」真吾は顎を引き、続けて言った。
「地の底の国もそれと同じだよ。そこは堕天使たちの住処なんだ。地獄のずっと下にある階層で、普通の霊人なら、そういう霊界が存在していることすら知らない。おいらだって、ラファエルの僕になった初めの頃は知らなかった。それがだんだん、アフターワールドには一般に知らされていない世界があることを知るようになって、でも、はっきり知ったのは英傑になってからだ」
はるかは肩を震わせた。
「堕天使たちの――霊界。パラダイスの逆……?」
「そうだ。地の底の国。魔界とも呼ばれてる」
「魔界」
彼女は噛みしめるように呟いた。目を閉じて、震える声で聞く。
「じゃ、じゃあ――そこには地獄よりもっと重い、禍々しい空気があって、その霊界では人は、霊人は、一瞬も生きてゆくことができない? ドロップを舐めてもダメ?」
「その通りだ」真吾は大きく頷いた。はるかは真吾を見た。
「最後にもうひとつ聞いていい?」
「なんだ」
「その地の底の国には王様がいるの?」
アフターワールドの個々の霊界、あるいは階層に王はいない。誰でも知っていることだった。例外として、英傑たちをとりまとめる〈世界の王〉という存在はあったが、それはアフターワールド全体の王という意味だった。そして世界の王は何千年も空位だった。
「いるよ」
真吾は低い声で答えた。その顔つきは普段とはまるで違う、厳しいものだった。はるかは突然、別人のようになってしまった真吾に恐怖を感じたように硬直する。
「魔界の王。それは堕天使の王ルキフェルのことだ」




