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第1章------(5) 地の底の国へ



(今日は色々なことがあった)


 はるかは数日ぶりに横田四丁目の家に戻っていた。風呂からあがり、二階の自室の窓際に座って、外から流れてくる心地よい風で髪を乾かしながら、ぼうっとしている。窓の向こうに広がる、山々が連なり、畑が広がる四丁目の景色が美しい。


 普段ならこの景色を眺めていると心が穏やかになるのだったが、今日は違った。彼女は切なげに息をついた。


(あれは誰だったんだろう)


 地獄に行って帰ってくるという天使の僕の初仕事は終わった。明日は休みで、明後日から別の仕事をすることになっている。


 天使の僕と言っても、まだ初期研修中だから、たいしたことはしない。明後日からは先輩について、様々な中間霊界をまわってゆくらしい。それははるかをわくわくさせたが、そのことを楽しみに思う気持ちより、今の彼女には気になることがあった。


(あの人。青い目をしていた。と言うことは、日本人じゃない……どこの国の人だろう)


 地獄の町の、あやしい老婆の水晶玉に映し出された青年が忘れられない。


 かれを見たのは一瞬だけだった。


 その直後、意識が朦朧として、気が付いたら、もとの布屋の店先に倒れていた。


(すごくきれいな人だった)


 あの美しい大天使たちと見違うばかりの美貌だったが、はるかは一目見て、その相手が霊人であることを理解していた。目鼻立ちは完璧に整っていて、女性的な顔立ちでもあったが、その本質には凛とした男性的なところがある。


 プライドが高く、他人に厳しい。そんなことを感じたが、はるかはイヤな気持ちにはならなかった。青年のそうした性格の苛烈さは、彼女にとっては好ましいものに感じられた。


(そうね。結婚――するんだったら、真吾さんみたいな優しい人が最高だと思うけど、少し、お付き合いするなら、ああいう人も悪くないと思うわ。あの激しい魂に巻き込まれてみたいと思えるような……)


 青年は危険な相手だ。


 彼女の女としての本能は直感していた。


 また、青年は獄のようなところに入れられて、手足を鎖で縛められていた。獄の壁の窓からは、青黒い空と見慣れない形の尖塔が見えた。


(あれはどこだったんだろう)


 彼女はそのあたりにあった紙に記憶のなかの塔を描いてみた。


 ヨーロッパの古い町並みにありそうな尖塔だったが、赤と黒で外壁を塗りわけられていて、何となく、ダイヤのトランプのようなイメージだった。そして、印象的だったのは、鋭く尖った頂部に巨大なドラゴンをかたどった石像があったことだった。


(ドラゴン……? 竜の石像。あんな建物、見たことがない。そう言えば、あのお婆さんは変なことを言ってたな。あたしが竜の血族とか――どういう意味なんだろう)


「お前がそれを感じるなら、その衝動に身を任せてごらん。彼を見つけ、解放し、あの小さな哀れな竜のもとへ連れて行っておやり」


 老婆は確かにそう言った。


(わからない。あれだけじゃ……)


 彼女はため息をついた。


 そもそも、ヒントがなさすぎる。老婆はその青年がはるかの運命の恋の相手だと告げたが、はるかは青年が何者であるのか知らないし、どんな理由があって、どこに囚われているのかもわからない。それを助けろと言われて、出来るはずがなかった。


(……)


 だが、はるかは感じていた。


 胸の深いところで、ざわめくものがある。


 危険な相手だとわかっていても、あの美貌の青年のことを思い返すと、胸の奥が苦しくなる。理由はわからなかったが、何だかとても悲しくて、愛しくてたまらないような気分になってくる。


(恋……?)


 彼女は自分自身に問いかけるように思った。


 好ましいと思った異性に惹かれることはごく自然なことだ。だが、彼女はかれを知らない。地上界でも霊界でも会ったことがない相手がこれほどまでに懐かしく、その相手に対して泣きたくなるような愛情があふれてくるのはなぜなのだろう。


(あり得ない、こんなの)


 彼女は恋に奥手だ。ほとんど経験がないといっていい。


 だが、一方では、百五十八年を生きた女性でもある。自分自身では経験していなくとも、まわりから入ってくる情報はあった。それによると、恋は一夜の嵐のようだとも言う。


(こんな気持ち……あたしは知らない。どうして、涙が出てくるんだろう。これは、誰の涙なんだろう――甘くて、苦しい。誰かが、こんな恋をしたってことなの?)


 はるかは頭を抱え込むように蹲った。





    ◇





 その日の夜、彼女は夢を見た。


 白い、淡い光でできた空間だった。


 そこにうっすら大樹が見えた。


 大樹の根本には小さな竜が眠っていた。


 はるかが近づくと、竜が長い首をもたげて、はるかを見た。


〈我の姿が見えるのか……?〉


 アメジストの瞳が見つめてくる。はるかは不思議な懐かしさを感じながら、顎をひいた。


「見える。あなたは……誰?」


〈我か。我は――竜。もとは人間だったが、地の底の国の王の怒りに触れ、このような姿に変えられてしまった〉


 竜は思念を送ってきた。はるかはビックリして竜を見つめながら、意を決したように、前に踏み出した。竜に近づき、おそるおそる手を伸ばす。


「あなたは人間だったの? 名前は――?」


 はるかが頭を撫でてやると、竜は気持ちよさそうに目を細めた。


〈……忘れた〉


「でも人間だったことは覚えているんでしょう? いつからここに?」


〈長い間〉


 竜は答えた。それから、くんと鼻を鳴らすようにして、少し意外そうに、はるかを見た。


〈お前は我が血族だな。娘よ、なぜ、ここに来た〉


「別に来ようと思ったわけじゃない。ただ眠っていただけ。気が付いたら、ここにいた。ここはあたしの夢のなか……だよね?」


 不安になって、聞き返すように聞く。竜はうっすら笑ったようだった。


〈そうとも言えるし、そうでないとも言える。元の世界へ戻れ、娘よ。ここは通常の霊人が長くいるべき場所ではない〉


「でも、帰り方、わからないよ。ここはあたしの夢じゃないの? なら、どこの霊界? 中間霊界のどこかなの?」


〈否〉


 静かに告げると、竜はもうはるかに興味を失ったように、大樹の根本に首をおろした。


〈ここは忘却の丘。どの霊界にも属さぬ。地獄でも中間霊界でも天国でもない。お前の夢なのだろう?〉


 最後の言葉には、からかうような響きがあった。はるかは少しだけムッとして、衝動的に言い返す。


「帰り道くらい教えてくれたっていいんじゃないの? だいたい地の底の国とか忘却の丘とか、知らない言葉ばかり。一体、何者なのよ。本当にここはアフターワールドなの?」


〈アフターワールドではあるな。かろうじて〉


「どういう意味よ」


〈意味も何も〉竜は疲れたように思念を飛ばし、瞼を閉じる。竜の生命エネルギーが急激に減少してゆくのを感じて、はるかは咄嗟に竜の首にしがみついた。


「ちょっと待って。死なないでよ。どうしたの、あなた、病気なの?」


 ごつごつした竜の表皮から感じられる体温が冷たい。見る間に、竜の輪郭が薄くなり、大樹に同化しはじめる。かすかに、竜の思念が届いた。


〈気にするな。我はこうやってしか生きながらえることができない。それだけのことだ。我の力はあることのためにほとんど使ってしまったからな――〉


「あ、あること?」


〈愛した相手を助けようとして、失敗した。我の伴侶だった〉


「……」


 はるかは、ハッとしたように竜を見る。閉ざされた竜の瞼から、涙のようなものが流れていた。と同時に、彼女は覚えのある感情を感じた。


(愛しくて――悲しい……?)


 それは、あの地獄の町から帰って来てから以来、彼女がうちのめされたように感じ続けていた思念だった。


(え――)


 同時に、竜の思念のかすかなイメージがはるかに流れ込んでくる。見覚えのある美しい青年が微笑んでいる。水晶玉の青年と同一人物だった。



「お前がそれを感じるなら、その衝動に身を任せてごらん。彼を見つけ、解放し、あの小さな哀れな竜のもとへ連れて行っておやり」



 老婆の言葉。


(小さな哀れな竜)


 まさか――と思いかけた時だった。彼女はぱっちり目を開けた。





「あ――」


 彼女は布団を勢いよくはねあげた。


「夢?」声に出して、呟いてみる。


 それから、自分の体を両手で抱きしめるようにして、ぶるっと身震いした。


「違う。ただの夢じゃない……あれは――現実……」


 少なくとも、地獄の町へ行ったことは現実だったし、その町で怪しげな老婆の結界に招き入れられたことも現実だった。その場でかわされた会話も。


「待って。混乱してきた。今の夢の竜は――あの時のお婆さんが言ってた竜ってこと? それじゃ、水晶玉に映し出されたあの人はつまり、さっきの竜の恋人だったってこと? あの竜は昔は人間で、あの人と会いたがっている――つまり、人のものってこと? あたしの運命の相手じゃないの?」


 そうと気づいて、憮然とする。だが、それでもあの青年のことを思い返すと、愛しさが止まらない。彼女はわけがわからなくなった。


「ああ、もう」


 彼女は混乱した頭で、今まで起きたことを紙に整理して書きはじめた。



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