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第1章------(4) 地の底の国へ



「え……」


 はるかは息をのんだ。老婆がはるかの服の裾を掴むと、あたりがぐにゃりと一変した。


 闇。そして、落下。

「きゃあぁぁっ」


 はるかは悲鳴をあげた。だが、落下はすぐ終わった。気が付くと、彼女は洞窟のなかのようなところにいた。全体的に暗かったが、奥のほうがぼうっと明るくなって、老婆の背中が見える。


「こ、ここは」


「わしの結界だよ」


「結界?」


「個人霊界と言ったほうがわかりやすいかね」


 老婆は振り返らずに答える。はるかは驚きのあまり呼吸が止まっていることに気が付いて、慌てて、息をする。


「個人……霊界なら、わかるけど」


 いつか授業で習ったことだった。


 このアフターワールドには無数の霊界が存在する。それぞれの霊界は重なりあい、混ざり合いながら存在しているが、それらは何者かによって作り上げられたものというより、自然のままにもとから存在しているものだという。


 だが、たまに、一個人の霊人によって意図的に作り上げられた霊界がある。


 それを個人霊界という。


 個人霊界はそれを作った霊人の霊力によって質が変わるので、堅牢なものから脆弱なものまで千差万別である。大抵は霊界として存在を維持し続けることができない程度の弱いものだったが、強い力を持つ者が作れば、それは要塞のようにもなりえる。


 実際、真吾の先輩の菊音も一時期、個人霊界を作って、隠れ住んでいたことがあったという。菊音の個人霊界は文字通り、広大な要塞だった。


「全く、あそこは、ひでぇ霊界だったぜ。信じられるか? 山ひとつが丸々、個人霊界で、俺たちは危うく遭難しかけたんだ。道を歩けば罠ばかりだしよ。あれを作った霊人の根性がひん曲がっていたから、ああいう霊界になったんだろうさ」


 佐吉は今でもその時のことを根に持って、悪口を言う。


 また、今、はるかたちが暮らしている横田四丁目も、実は、菊音が作り上げた個人霊界だったという。菊音が基本的な部分を作り出し、その後は真吾やそこに移住していった霊人たちが力を出し合って、足りない部分を補っていったそうだ。


(もっとも、四丁目はもう個人霊界というより、もっと大きな霊界に育ってしまっているけど――)


 四丁目は今では中間霊界の霊界のひとつとして正式に登録されている。まだ作られて百数十年足らずの新しい霊界だが、管理局の役人が常駐し、人々はそこから労働の代価を得ることが出来るようになってる。


 ともあれ、そんなことがあったから、はるかも個人霊界について、多少は知っているつもりだった。


 彼女は改めて、見回した。


 老婆の個人霊界はさほど広くない。


 話に聞く菊音の広大な霊界とは違って、狭くて暗くて、壁も床もごつごつした岩だ。ここが老婆の隠れ家なのだとしても家具の類は一切なく、あるのは、ぼうっとあたりを明るくさせている水晶玉だけだった。


 老婆は、はるかの思念を読み取ったようにかさかさ笑った。


「どこの誰の霊界と比べられているかは知らんがね、わしの結界はそんな大層なもんじゃないよ。地獄の片隅の占い婆が自分のために作った、ささやかな我が家にすぎぬ。そうさね。この結界はわしの力をうんと凝縮した、小さな小さな霊界だ。だから、狭くてもなかなか固いよ」


「そうなんですか」


 はるかは素直に言った。老婆は振り返って、「こっちにおいで」と手招きする。はるかは迷ったが、好奇心に負けて、膝を曲げた。老婆の結界は、背の低い老婆のサイズで作られているので、はるかが普通に歩くと頭がぶつかる。


「ほれ、これがわしの水晶玉だ。綺麗だろう」


 老婆が自慢げに言う。はるかは老婆の後ろから、水晶玉を覗き込んだ。淡い光を発する、大きな透明な球体が浮いていた。老婆は水晶を両手でやさしく操るようにしながら言った。


「この水晶玉には意思がある。こやつが町を歩いていたお前に興味を持ってね、お前さんを連れて来いと言ったのさ。それで、わしは特別にお前さんを占ってやろうと思ったのさ」


「占う。あたしを?」はるかは警戒するように聞き返す。


 意思を持つ水晶玉など聞いたことがない。


 老婆の言葉もその存在も、ことごとく怪しかった。


 はるかは、地獄の霊人が全て悪い霊人だとは思っていなかったが、中間霊界に比べれば、この地に住まう霊人たちが悪質であることを知っていた。また、それは地獄へ来る前、散々、真吾たちに注意されていたことでもあった。


 彼女は身構えるように老婆を見た。


「あの、あたし、別にいいです。占いとか興味ないんで。帰らせてもらえませんか」


「なんと。この占い婆の占いに興味がないと?」


「ありません。元の霊界に戻してください」


 はるかは、僅かに後ずさりながら言った。


 それから意識を集中させて、老婆に気づかれないよう用心しながら、老婆の波動を探る。やはり、その波動はあまり善良なものではなかった。今すぐ危害をくわえるつもりはないようだったが、小さな悪意が見え隠れする。


 老婆はにたりと笑って、はるかを見た。老婆にははるかが自分を探ったことなど、お見通しだったのかもしれない。


「そりゃまあ、優等生じゃな。さすがは英傑の養い子」


「どうして、それを!」


 はるかは叫んだ。老婆は肩をすくめた。


「さあ。わしは占い婆だからね。お前さんを見ただけで、わかることもあるのだよ。お前さんが見た目通りの霊人じゃないことだってわかる。年齢を当ててみせようか」


 はるかは、ぞっとして泣きそうになった。


「本当に帰してください。お願いです。占いなんて、興味ありません。あたしは今日、はじめて地獄に来たばかりで、すぐ中間霊界に戻らなくちゃならないんです」


「それもわかってるさ。安心おし。ちゃんと帰してやるからさ。わしも英傑やら天使やらを敵に回すつもりはない。ただ、せっかく地獄に来たんだから、少しくらい楽しんでいったらどうだい。それにもう遅い。お前さんの意思とはかかわりなく、水晶玉のほうはお前を占ってしまった。ホホホ」


 と言って、老婆は水晶玉を高々とかかげる。途端に鋭い光が広がり、はるかは目をかばうようにする。


「お前さんはやっぱりあの竜の血族だった。それも今まで見つけた血族のなかでも、かなり血が近いようだ」


 老婆は満足そうに言った。はるかはビックリした。


「りゅ、竜……?」


「そうさ。憐れな竜だ。わしらは昔、その竜に助けられたことがあってね、その恩返しに竜の願いを叶えるための手助けをしてやってるんだよ。要するにこれは人助けなのだ」


「……」


「水晶玉を見てごらん。お前さんの運命の恋の相手が見えるはずだよ」


「う、運命の恋――」


 思わず引き込まれて、はるかが言う。「そう。運命の相手だ」老婆はにやりとした。


「感じるだろう? 強い強い思いが。お前がそれを感じるなら、その衝動に身を任せてごらん。彼を見つけ、解放し、あの小さな哀れな竜のもとへ連れて行っておやり」


「知らない。あたしは何も――イヤだ」


 はるかは本能的な恐怖を感じ、顔を背けようとした。ひたすら恐ろしかった。それを見てしまったら、後戻りできなくなると直感していた。けれども、その拒絶する心と同じくらいの強さで、惹きつけられている自分を感じていた。


(見たい。あたしの運命の恋人)


 僅か十歳で他界したはるかは地上界で恋をしたことがない。


 霊界に来てから、何度か好ましいと思える異性と出会ったが、それ以上、関係が発展することはなかった。


 見た目は十歳の子供でも、彼女とて、霊界ですでに百年以上、生き続けている女性である。真吾たちは彼女を子供扱いするが、精神のほうは成熟している。いつかはこの霊界で伴侶を見つけ、結婚し、家庭を作りたいという夢は抱いていた。


(でもそれは――こんな出会いじゃないはず)


 はるかは振り切るように思った。しかし、魅惑は圧倒的だった。彼女はとうとう、一瞬だけ、そちらを見てしまった。





「あっ――」


 はるかは電撃に打たれたように叫んだ。


 発光する水晶玉の奥にいたのは、ひとりの青年だった。


 美しい金髪と吸い込まれそうな碧眼が印象的だった。そして物憂げな美貌。


 かれは何かに気づいたように、ゆっくり顔をあげた。手足に黒い、頑丈そうな鎖がつけられているのが痛々しい。青年の目が時空を超えて、はるかをとらえた。


 その瞬間。


 はるかは恋に落ちた。





     ◇





「はるかさん、どうしたんですか、大丈夫ですか?」


 耳元で声がして、はるかは「ひゃっ」と声をあげた。目を開けると、顔のすぐ近くに柏葉の顔があった。


「きゃああああ」


 びっくりして、柏葉の顔を押しのけようとする。はるかを抱え起こそうとしていた柏葉は後ろに転んで、尻もちをついた。


「酷いなあ」


「え。あ。す、すすみませんっ」


 はるかはたちまち状況を理解して、立ち上がった。布屋の店先だった。色とりどりの布がかけられている。気の毒な柏葉は、はるかが手に取って見たいと言った濃紺の縞織物を抱えていた。彼女はおろおろした。


「本当にすみません。ぼうっとしちゃったみたいで。あたし、どうしちゃったんですか」


「どうもこうも。いきなり、倒れてしまったんじゃないですか。それで駆け寄って、起こそうとしたら――」


「申し訳ありません」はるかは頭を下げた。


 その日、はるかは中間霊界へ戻った。天使の僕の初仕事は終わった。



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