第1章------(3) 地の底の国へ
地獄。
はるかは荒涼とした大地を眺めていた。
この地では朝も夜もなく、ひたすら暗い。空気には魚の腐ったような悪臭が混ざっていて、それ自体に意思があるかのように、ねっとり体にまつわりついてくる。その不快さは話には聞いていたが、実際に体験してみると、実にイヤな感覚だった。
そしてどこからともなく聞こえてくる、怨嗟の声。
この地獄に住まう数多くの霊人たちの恨みの念が波動となって、黒い大地の底から響いてくる。彼女は小さく息をつくと、両手で耳をふさぐようにした。それでも波動は聞こえてくる。
(地獄……ここがお母さんのいる世界)
彼女は苦い思いをこめて思った。
昔――百四十八年前、交通事故で死んだはるかは、母親と同じタイミングで霊界にあがってきた。だが、まもなくして、彼女は母親に中間霊界で置き去りにされた。
幼い彼女は必死に母親を探した。そんな彼女を見かねたのだろう。親切な誰かが、「それなら地獄の門に行ってみればいいよ」と教えてくれた。
地獄には多くの霊人たちが行く。その数は、中間霊界にとどまる霊人たちよりはるかに多い。だからもし母親が地獄行きの霊人だったら、必ず、地獄の門を通らなければならないので、そこで待っていたほうがいいと教えてくれた。
けれども、その場所に母親はいなかった。既にそこを通り過ぎた後だったのだ。代わりに、はるかは地獄の門番をしていた真吾と出会うことになった。
「いいか。わかっていると思うけど、けして、お母さんのところへ行こうとするな」
はるかが天使の僕の初仕事で地獄へ行くことを知った真吾は言った。
「お前の母親のいる町は、いくつもの霊界がかさなりあったその下にある霊界だ。地獄のなかでも迷いやすくて、危険な場所だ。はじめて地獄に行くお前がたどり着けるような場所じゃない」
「うん。わかってるよ……」
母親を追いかけて地獄へ行こうと思い詰めた過去の自分を思い出しながら、はるかは言った。真吾は心配そうにはるかを見た。
「地獄はとても広いんだ。一度、道を迷うとどんどん迷って、戻ってこれなくなる。中間霊界で自由に行き来する感じじゃないんだ。そのうち、自分自身が地獄に取り込まれて、身動きできなくなってしまうことも多い。天使たちも地獄の下のほうの町には滅多に行かないし、天馬も行かない。善の存在である彼らには地獄の毒が耐えられないんだ」
「うん」
それは事前の講義で聞いたことだったが、はるかは素直に頷いた。
今、彼女は年に一度だけ、母親に手紙を出している。返事は来たり、来なかったりした。それでも彼女は百年以上、そのことを続けている。
「もう、地獄にいるお母さんに会いに行こうとは思ってないから、心配しないで。お母さんには後で手紙で知らせるよ。お母さんとはいつか一緒に暮らしたいけど、それは今じゃないってわかってるから」
「そうか。偉いぞ」
真吾はほっとしたように、はるかの頭に手を置いた。
「じゃ、気をつけて行ってこい。いいか、でも、地獄ではけして油断しては駄目だぞ。こっちとは全然違う。霊人たちの性質も、考え方も。もともとそれほど悪い霊人じゃなくても、あの場所にいると、憎しみとか、自己中心的な考え方が増幅されてしまうんだ」
「うん。それも講義で聞いた」
「そ、そうか。そうだよな。うん」
真吾はまだ何か言いたそうにしていたが、口を閉ざした。かれは仕事を抜け出して養い子のところへ来ていたのだが、それからまもなくして追いかけてきた部下に見つかって、連れ戻されて行った。
その時の様子を思い出し、はるかは小さく笑った。
(真吾さんにとってあたしはまだ十歳の子供なんだろうな)
彼女は遠い目をした。
(そう。あの頃は本当の十歳だった。だけど、今は違う。あれからたくさんの年月が過ぎた。母の気持ちもあの頃よりわかるようになった。母はけしてあたしを憎んでいたわけじゃない。ただ許せなかったんだと思う……あたしを愛せなかった自分自身を)
彼女は今、母親に会いに行こうとは思っていない。
母親と彼女の関係を修復するには、もっと時間と条件が必要なのだ。
(大丈夫。時間は永遠にある)
彼女は、自分でも驚くほど穏やかな気持ちで思っていた。
そして、そのように考えられるようになったのは、周囲の人々――真吾やベアトリーチェ、学校の友人たちや、横田四丁目で暮らす人々のおかげだということを知っていた。その一人一人に思いを寄せると、この真っ黒な地にいても、心がどこか温かくなってくる。
(真吾さん。皆……有難う)
彼女は深く息を吐きだした。
それから、目を閉じて、開けた。遠くから、かすかな気配を感じる。神経をとぎすましていると、地平線の向こうから、中間霊界では見慣れない獣に乗った霊人がやって来る。
「すみませーん。遅くなりまして。案内役の柏葉です」
待ち合わせの相手だった。
はるかは、ほっと息をついて、片手を振った。中間霊界にある地獄の門をくぐり、彼女は地獄への道を延々と歩いてきたのだが、本当に地獄側の役人との待ち合わせ場所がここで合っていたのか、今ひとつ自信がなかったのだ。
はるかは、あらかじめ渡されていたドロップを口に入れた。そのドロップは地獄の臭気や怨念から、彼女を守ってくれるためのものだった。
ちなみに真吾は地獄へ来るとき、ドロップは必要ない。かれが持っている”天使の羽”によって、強力なバリアーを張ることが出来るからだ。もっともそれは大天使から直々に渡される貴重なものだったから、駆け出しの天使の僕にすぎないはるかたちに与えられるものではない。
(まあ、今の真吾さんなら、自分の力で簡単なバリアーくらい張ってしまうかもしれないけど……)
英傑の力は強大だ。だが、その強大な力を持っていることを感じさせない真吾が、はるかは好きだった。
「はじめまして。井上はるかです。今日はよろしくお願いします」
彼女は立ち上がって、ぺこりと頭を下げた。
◇
「で、ここが町の集会場で、あっちが居酒屋。その隣が宿屋。そこののれんは小間物屋――女の子が好きそうな小物がたくさんありますよ。どうです、お土産に何か買われては?」
柏葉がはるかを覗き込むように見た。はるかは困ったように笑ってみせる。
「いえ、その、あたしは仕事で地獄に来ているので」
「そう仰らずに。少しは町を見物したって良いでしょう。これから天使の僕として働かれるのなら、なおさら、様々な霊界の事情をご覧いただくのは良いことだと思いますよ?」
柏葉が言う。はるかは「はあ」と曖昧に返事をする。
役人に書類を届けるという初仕事はあっさり終わった。案内されるまま目的地の町に着いて、その町の役場に行って、担当者にあずかってきた巻物を渡した。
担当者は、はるかの目の前で巻物を広げると、ポンと印鑑を押した。光る文字で何かを書き加えて、巻物を巻き直し、はるかに返した。それだけだった。
「ごくろうさん。もう、帰っていいよ」
担当者は肩をまわして、自分の仕事へ戻った。
そして、はるかは柏葉に勧められるまま、その町を見物することになったのである。
「地獄と言っても、中間霊界とあまり変わらないんですね」
はるかは目抜き通りを歩きながら言った。柏葉は若い顔に笑顔を作った。
「はい。ここは中間層からすぐ下の、ほとんど中間霊界最下層と同レベルの町ですからね。怨嗟の声もそれほどないし、暮らしやすいところですよ」
「……」
真吾たちが昔、暮らしていた横田四丁目も中間霊界最下層にあったと聞いている。いつも足元から地獄の怨嗟の声が聞こえてきて、空は曇って、晴れることは滅多になかったという。ちょうどこの町のようだったのだろうか、と考えて、はるかは首を横に振った。
(あの真吾さんが、ここと同じような町で暮らしていたなんて信じられない。空気が重すぎるし、気持ち悪い……やっぱりここは地獄。中間霊界とは違うんだわ)
そう思ったが、町の賑わいには少し興味がわいた。
地獄の町ではあったが、霊人たちが多く、活気に満ちていた。道の両端には多くの屋台や露店が並び、中には立派な店構えの商店もあった。商人たちがひっきりなしに客を呼び込もうとし、通りを歩く霊人たちも面白そうに店先を見物している。
実際、この町は真吾たちの昔の横田四丁目より、余程、賑わっていたのだった。だが、そんなことは知らないはるかは、(真吾さんの町のほうがずっと良かったはずだわ)と思いながら、それでも何となく足を止めて、ひとつの店を眺めた。
そこは、色とりどりの布が並べられた店だった。布屋なのだろう。明るい色から渋い色あいのもの、同じ色でも光沢や柄のあるものなどたくさんの布が棒にかけられ、上から下に流れるように垂らされている。
早速、柏葉がはるかの視線に気付いて言った。
「あ。お目が高いですね。その店はこの界隈では屈指の布屋でしてね、霊界中のほとんどの布が揃ってますよ。信じられないでしょうけど、上はそれこそ天使の衣に使われるような上質なやつから、下はまあ色々……どうです、この布で何か着物を仕立ててみては」
「あの上のほうにかかっている、濃紺の縞織物……」
はるかは指をさした。真吾がいつも着ている着物の柄とよく似ている。真吾は同じ着物を着続けているので、袖口がかなり擦り切れているのだ。新しいものを作って、プレゼントしたら喜んでもらえるのではないかと思いつく。
「すみませーん。あの布を見せてもらえませんか?」
柏葉が店の者に声をかける。はるかは、少し浮き立つ気持ちになりながら、店内を改めて見回した。本当に店の中には様々な布があった。はるかの好みの可愛らしい、パステルカラーの布もある。彼女は財布の中身を思い浮かべて、自分の服のための布も一緒に買えるだろうか、と頭のなかで計算する。
その時だった。
「ちょいとお前さん」
すぐ後ろに、背の低い老婆が立っていた。はるかは硬直する。真後ろに立たれるまで、彼女は全くそのことに気づいてなかった。すると老婆はにっと笑った。
「面白い相が出ているね。中間霊界の人だろう? 地獄は初めてかい? わしの水晶玉がお前さんに興味を持ったみたいでね、お代はタダにしてやるから、ちょっと占われてみてくれないか」
老婆の皺深い顔の奥にある目が不気味に光った。




