第2章------(8) 美しい虜囚
朝の明るい陽射しがさしこむ森は、まるで妖精たちが住まう森であるかのような美しい場所に変貌していた。
はるかがそのことに気が付いたのは、セラが用意した食事をあらかた食べつくした頃だった。彼女は唇の端についた肉の油を指でふきながら、あたりに目を向けた。
「ねえ。ここって昨日の森と同じ場所……だよね?」
セラは獣を狩って、その肉をさばいたナイフの手入れをしている手をとめた。
「どうしてそう思う」
「それは――昨日と全然、感じが違うから。夜はそりゃあ怖かったし、昼だって――もっと暗くて鬱蒼としていた」
生前、自殺の名所だった富士の青木ヶ原樹海を連想したくらいなのだ。けれども、今、目の前に広がっているのは、それとは似ても似つかない、幻想的な森だった。
陽をうけた緑がキラキラと輝き、木々の下の緑も柔らかい色合いをしていて、所々に可愛らしい花が咲いている。小さな葉先についた水滴までも綺麗に光っていて、空気も清々しい。
セラは肩をすくめて、作業に戻った。
「気のせいだろう。昨日も今日も同じ森だ」
「違うわよ。だって、こんな花、なかった。あたしは一晩、ここにいたんだよ。いくら慌ててたって、こんなに違ったらわかるよ」
「じゃあ、そうなのかもしれない。例えばこの森は朝と昼と夜で違った顔を見せる。そういうことなんだろう。それよりすぐ出発だからな。荷物をまとめておけ」
セラは立ち上がって、ナイフを鞘にしまった。そのまま翼のついた牛のほうに歩いて行ってしまう。はるかは声をあげた。
「ちょっと! 荷物って、全部、あたしのじゃないの。勝手に使って、お礼の一言もないの? 気を失ったあなたを見つけて、守ってあげたのは、あたしなんだよ」
「それを言うなら、昨日、魔王の追手から君を守ったのは僕だ」
セラが叫び返した。
「本当ならあんな無茶な力の使い方はしたくなかったんだ。半日上、無防備になってしまうからね。でも、ああでもしないと逃げ切れなかった」
昨日の、セラが森に飛び降りた時にあらわれた、青白い炎のことを言っているのだ。はるかは青年の失礼な態度に腹を立てていたことも忘れ、ハッとなる。
「ねえ、あれって魔法? どうやったの? やっぱり、あなたがやったの?」
好奇心まるだしで聞くと、セラは露骨にイヤそうな顔をする。
美貌なだけに、気の弱い者なら、その先を聞くことを躊躇ったかもしれない。美しい顔を不機嫌そうに歪める青年はいかにも迷惑そうだ。
だが、はるかは気にしなかった。彼女はもともと他人に気を遣う繊細な気質だったが、百五十年近く真吾のもとで生きてきたことで、あまり細かいことにこだわらなくなっていた。彼女は素直に感心して言った。
「あんな魔法を使う霊人なんて見たことも聞いたこともない。真吾さんだって、菊音さんだって――あんなこと出来ないと思う。セラさん、あなた、何者なの」
「……」
「ねえ、教えて。いいでしょう、あたしはあなたの恩人なんだよ。と言うか、あたしが来たから、あなたはあの牢獄から逃げられたんでしょう」
「押しつけがましいな」
セラは口をへの字に曲げた。かれは明らかに会ったばかりのはるかを信用しきってなかったし、警戒もしているようだった。
「僕は女性はもっと大人しいのが好みだ。生前は強い女性にばかり囲まれていた。だから、霊界ではせめてもう少し大人しい女性と知り合いたかった」
「なによ。昨日は女だから戦えないなんて言うなとか、言ったくせに。言ってること、違うじゃない。だいたい小竜ちゃんだって、大人しくなんてなかったはずだよ」
竜――と聞いて、セラはさらに不機嫌な顔になった。
「君にアオイの何がわかるんだ」
「わかるわよ。短い間だったけど、小竜ちゃんとはよく話をしたもの。それに竜にされる前――あの人はあなたを助け出すためにひとりで地獄を旅したんでしょう。ただの霊人なのに、魔王ルキフェルとか、ベリアルとかそんな化け物みたいな堕天使たちと会ったり、戦ったり。そんなこと、普通の女の子に出来るわけないじゃない」
女の子、と聞いて、セラの表情が微妙に変化する。
だが、はるかはそのことに気が付かなかった。彼女はこの一連の驚くべき出来事の鬱憤をはらそうとするように言った。
「それにうちはだいたい女が強い家系なのよ。おばあちゃんも、お母さんも、お父さんたちより強かった。小竜ちゃんがあたしの遠い親戚だっていうなら、小竜ちゃんだって、気が強いはずよ。断言できる」
しばらくセラは何も言わなかった。
かれはため息をついて、宙を仰いで、それからもう一度、ため息をついた。
「わかった。君の質問に答えよう。あれは魔法じゃない」
しぶしぶ、といった口調で言う。はるかは好奇心に目を輝かせた。
「じゃあ、何?」
セラはこの表情のくるくる変わる、中間霊界人の変わった少女を不思議な目で眺めて、呟くように言った。
「……わからないんだ。気が付いたら、あの力を持たされていた」
「持たされていた?」
はるかが続きを促すようにセラを見ると、セラは仕方なさそうに頷いた。
「僕は地獄にいた。その僕がベリアルに魔界に連れて来られたことは知っているだろう?」
「うん」
「その当時、僕は、まあ、生前あったことのためにあまり人が見て気持ちいいと思う外見ではなくなっていた。それをベリアルがもとの姿に戻した。ベリアルは僕を自分の僕にするつもりだったようだ。それで……まあ、色々あって、気が付いたら、僕はベリアルの力の一部を引き継ぐようなかんじで、色々なことが出来るようになっていた」
「よくわからない」
「だろうな。僕だって、わかっていないのだから」
セラはそっけなく言った。
「ただわかるのは――そうだな。僕のあの力は魔法というより、堕天使が本来、持っている天使の力に近いのだと思う。多分、下級天使くらいの……」
「さっき、ベリアルがあなたを僕にしようとしたって言ったけど」
「そうだ。堕天使の僕。おかしなことじゃないだろう? そうやって僕にされて、魔界で生きている霊人はたくさんいる」
「そ、そうなの?」
はるかは驚いた。初耳だった。セラははるかのぎょっとした顔を見て、いくぶん気分が良くなったようだった。
「そう。この魔界にいる、堕天使以外の生き物は全部、地獄の底でうごめいていた霊人だ。魔王の配下の獣人も、そこにいる翼のついた牛も、この森の中の魔物も動物も、全てね」
「え――」
はるかは耳を疑った。
「うそ……だって、そんなこと――あり得ない」
「ここは創造主の管理とは関係ない霊界だからね。何でもあるさ」とセラ。
沈黙が落ちた。
その衝撃的な言葉を、はるかはどのように受け止めたらいいのかわからなかった。
リアルでの死後、アフターワールドに来てから、はるかは様々な機会を通してこの世界について教育を受けてきた。だから、霊界のことは一通り知っているつもりだった。だが、今、セラが言ったような内容は聞いたことがなかった。
(でも……)
彼女は記憶を手繰った。
そういえば、以前、真吾が気になることを言っていたことを思いだす。
はるかの通っていた霊界の学校では、この世界の全ては創造主のことわりのもとで存在していると教えていたが、真吾はそうではない霊界もあるのではないかと言っていた。
それに、堕天使たちの住む地の底の国――魔界についても、中間霊界では知らされない。英傑である真吾はさすがに知っていたが、それでも、詳しくは知らないようだった。
なぜなら、真吾は魔界は霊人が足を踏み入れることもできない場所だと言っていた。けれども、今、はるかは魔界にいる。
はるかが魔界は地獄より空気が重くて、苦しいところなのかと聞くと真吾は「そうだ」と答えた。しかし、実際は違う。はるかは魔界に来てから一度もドロップを舐めていないが、体の不調は感じていない。
(そんな――)
何かが、おかしい。
自分が信じていた世界が、そうでなかったのかもしれないという予感。
いや、セラの話が事実であるかどうかはまだわからない。はるかは動揺しながらも、一応、その考えも頭の片隅に置いておいた。
「本当……に?」
セラが嘘をついている波動は感じなかったが、はるかは聞き返さずにはいられなかった。
「あの魔王の配下たちが、あたしたちと同じ霊人?」
「そうだよ。彼らは魔王と契約して、自ら僕になった」
「どうして、そんなことを」
「どうしてって、地獄で永遠の苦しみに喘いでいるより、堕天使と契約して、魔界で生きるほうがラクだからに決まっているだろう」
平然とセラが告げる。はるかは信じられないものを見る目で、セラを見た。
「……あなたも?」
「僕は違う。勝手に目をつけられて、無理矢理、連れて来られただけだ。魔王は僕をしもべにしようとしてるけど、”最後の契約”はかわしてない」
「小竜ちゃんは?」少し、躊躇って、はるかが聞く。セラは首を横に振った。
「アオイも違う。アオイは地獄に落ちた僕を探しに来て、結果的に堕天使たちの闘争に巻き込まれただけだ」
「魔物も動物も、昨日、襲ってきた獣人たちも、霊人だった……? あいつら、あたしを食べる相談してたんだよ? あれが?」
「そう」セラは認めた。
「ああなってしまうと霊人だった頃の記憶はほとんどない。ただ魔王の配下としての仕事をして、餌をもらい、生きてるだけだ。でも、彼らも霊人だった」
「信じられない」
「なら、信じなくていいさ」セラは言い、出発するための準備に戻った。
セラの言葉を鵜呑みにするわけにはいかなかった。
しかし、世界は確かにはるかの信じていた通りの形をしていたわけではないようだった。それはこの美しいともいえる魔界の森ひとつを見てもよくわかる。
(どうして地獄の下にある地の底の国が――こんなに豊かなの? 魔界なのに、息苦しくないの? 地獄の霊人がここで暮らしているって、どういうこと?)
彼女は混乱して思った。




