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第2章------(7) 美しい虜囚



 魔界の森の夜が来た。


 空気は冷たく、冴えていた。はるかは焚火の炎を見つめながら、緊張に息を押し殺していた。手のひらが汗ばみ、何度も服でぬぐう。


 暗闇の向こうに、いくつもの気配がある。


 おそらく、この森に棲む生き物たちだ。だが、それらの生き物は、昼間、見かけたような小鳥や小動物といった可愛らしいものではなく、もっと得体の知れない、獰猛な何かにすり替わっているようだった。


 セラは眠ったままである。はるかはセラを呼んだり、体を揺さぶってみたりしてみたのだが、セラはあらかじめ自分で言っていたように、ぴくりともしなかった。目を閉じて、かすかに胸を上下している。


 その美しい寝姿に見惚れるゆとりはなかった。はるかは近くの木に結んである牛の獣の様子に注意しながら、祈るように思った。


(真吾さん。あたしを守って)


 養い親のおひさまのような笑顔を思い出す。


 穏やかな人柄をあらわすように、真吾のまわりはほんわりと暖かい。そのやさしい黒い目には深い同情と共感がある。だから、人々は自然に真吾のまわりに集まり、真吾が好きになる。はるかもその一人だった。


 今がいつであるのか、はるかにはもう分からなくなっていたが、ベアトリーチェと約束した”四日目”は、とうに過ぎているはずだった。ベアトリーチェは真吾に全ての経緯を話し、真吾はさぞ心配していることだろう。


(ごめんなさい。帰れたら、どんな罰も受けるから)


 はるかは涙ぐむ。真吾が懐かしい。あの平和で美しい、横田四丁目が懐かしい。四丁目で暮らしていた日々がとても遠く感じられる。


 その時だった。不意に、声がした。


「お気の毒だけど、もう手遅れだね。英傑は心配どころか、たいそうご立腹だよ」


 耳に心地よい、鈴のような響きを持つ少年の声だ。


 はるかはビクッとなって、あたりを見回す。翼を持った牛は反応しない。と言うことは、森の奥から魔物たちが近寄ってきたわけではないらしい。相手は面白そうに言った。


「そんなとこにいないよ。ここだよ、ここ。あんたの服のなか」


「ベリアルッ」


 叫ぶと同時に、はるかはネックレスを掴みあげた。


 ネックレスを手にとって、彼女はぞっとなった。アメジストの宝石は光っていない。かわりに、銀色のチェーンの部分が不気味な光を発している。


「そんなことしたって、無駄だよ。お嬢さん」


 ベリアルは急いでネックレスを外そうとするはるかをあざ笑った。


「これに私の思念があることは、セラから聞いてただろう? それなのにそんなに驚くなんて、覚えが悪いね。覚えが悪いと言えば、英傑のことだってそうだ。お前、大森林の町で私が話してやったことも忘れてるだろう? 魔界に連れて来られたショックで一時的に記憶が曖昧になってるにしても、そろそろ思い出してもいいはずだよ」


 はるかは呆然とネックレスを――禍々しく煌めくチェーンの部分を見つめた。


 確かにセラはネックレスのその部分にベリアルの思念があると言っていた。だから、突然、喋りだすこともあるかもしれないと。


 だが、実際にそうなってみると、とてつもなく気持ちが悪い。


「でも、私は親切だから、もう一度、教えてあげるよ。英傑は天使軍を連れて地獄におりてきて、お前を探している。それで堕天使軍と衝突して、大きな戦さになっている」


「う……嘘」


 痺れた声がはるかの口から搾りだされた。すると、ベリアルは怒ったように言った。


「失礼だな! 堕天使は嘘なんてつかないさ。お前たち霊人と違ってね――魔王ルキフェルはその戦さのために魔界にいない。それで、お前たちは魔王の城から逃げ出すことができたのさ。勿論、親切で偉大な私の助力のおかげでもあるけどね」


 はるかは真っ青になった。


 その言葉が呼び水となって、記憶のもやがかかっていた部分が甦る。


 確かに、大森林の町の博物館で、ベリアルはそのように告げていた。


 ベリアルの言葉を信じるなら、とっくに真吾ははるかを救出するために地獄に来ていたのだ。そしてそれによって、天使軍は堕天使軍との戦いに突入した。


「どうしよう、あたし……」


 彼女は顔をおおった。ネックレスのチェーンが煌めいた。


「ねえ、戦況を聞きたい? 教えてあげようか。堕天使軍は何人かの勇将が率いていたけど、ミカエル軍の前に蹴散らされてしまってね、怒った魔王ルキフェルが一万年ぶりに戦場に出た。堕天使軍は勢いづいた。それで今は堕天使軍が優勢」


 ベリアルはいったん言葉を切って、はるかの反応を伺うようにする。


「状況が落ち着けば、魔王は魔界に戻ってくる。そうしたら、城からお気に入りの奴隷が逃げ出したことを知るだろう。そうすれば、魔王の怒りはお前たちに向けられる。この意味、わかるかな。お嬢さん?」


「……」


「魔王ルキフェルはね、嫉妬深いことでも有名なんだよ。それはもう昔っからそうだよ。そもそもルキフェルがあの人類始祖のバカな娘をたぶらかしたのだって、やつの嫉妬が原因だったからだしね。ルキフェルはセラを逃がさない。セラをあの竜のもとへ返すくらいなら、やつはセラを焼き尽くしてしまうだろう」


 はるかは助けを求めるように見回した。


 だが、あたりは暗い森で、闇の向こうには無数の光る目があるだけだった。今、この焚火は魔物たちに取り囲まれている。獲物を狙う魔物たちの唸り声が聞こえてくるようで、はるかは目をぎゅっと閉じた。


「だから、お前は私に助けを求めるべきだと思うんだよ。この堕天使ベリアルはルキフェルにも匹敵する力を持っている。魔王から守ってあげよう。そして、お前が望むなら、お前を中間霊界の望む場所へ戻してあげよう。なんて私は親切なんだろうね」


 沈黙が落ちた。


 はるかは呆然となっていた。


「そんな……助けるなんて――」


 何度も唾を飲み込んで、彼女はようやく言った。膝ががくがく震えている。恐ろしくて気を失いそうだったが、彼女はなんとか正気を保っていた。


 ベリアルの甘い言葉には罠がある。


 セラはどんなことがあっても、ベリアルに助けを求めるなと言った。


 はるかは堕天使たちがどういう存在であるのか、実感として、今ひとつわからないところがあったが、長年、堕天使たちとかかわりを持ってきたセラの言葉には重みがあった。


「あなたの言葉は……信じられない。あなたとはどんなことがあっても、契約しない――契約してはならない。それだけはわかる」


「契約なんて堅苦しいものじゃないよ、お嬢さん。これは私の好意だからね」


「嘘……」


「酷いなあ。英傑の養い子のくせに、他人の好意を信じないのかい。私は今はこんな存在だけど、もとは天使のひとりだったんだよ。本来、天使は霊人たちをサポートする存在だ。だから、私だって、霊人たちとはそれなりに仲良くやってゆきたいんだ。私があの地獄の町に時々、行くのだってそのためだよ」


「うそよ――嘘」


 はるかは耳を押さえて、蹲った。


 ベリアルの言葉は魅惑的だった。出来ることなら、この場から一刻でも早く、逃げ去りたい。安全な横田四丁目の家へ戻りたい。その望みを叶えてくれるなら、相手が堕天使であってもかまわないという気持ち。


 だが、その時だった。


 ネックレスのアメジストが淡い光を発した。すると、彼女は大きな力と勇気が自分に流れ込んでくるのを感じた。竜の波動。忘却の丘のあの小さな竜が、ずっと遠いところから、はるかを見つめている。彼女は目を見開いた。


「堕天使ベリアル。あなたに用はない。この場から今すぐ立ち去りなさい!」


 叫ぶように、彼女は言った。





    ◇





 朝になった。はるかは頬にあたる暖かい光を感じて、目を開けた。ずっと起きているつもりだったが、いつの間にか、眠ってしまったようだった。


 うん、と声をあげて、伸びをする。緊張に固まっていた体のあちこちが痛い。


「朝だ……魔界にも朝ってあるのね」


 感心したように呟く。


 それからまだ少しぼうっとしながら、付近を眺める。


 焚火の炎は消えていた。最後の炎がいつ消えたのか覚えてなかったが、森の魔物たちは襲って来なかったようだった。その幸運に胸を撫でおろしながら、胸元のネックレスに手を伸ばす。アメジストの石の固さを確かめるように指でなぞる。


(また、助けてもらったね。小竜ちゃん)


 誘惑をはねのけることができたのは、このアメジストのおかげだとわかっている。竜ははるかの夢の中に現れることは出来なくなったが、こうして時々、助けてくれる。


「ありがとう」


 今度は声に出して言った。


 昨夜、ベリアルが消えた後、はるかは一人で暗闇の恐怖に耐え続けた。周囲の魔物の気配に注意をはらいながら、焚火の炎を絶やさず、闇の向こうを睨みつけていた。鋭い牙で襲いかかられたら、彼女になすすべはなかったろう。


 だが、彼女が思っていた以上に、炎は魔物が嫌うものだったらしい。そこに小さな炎があるだけで、魔物たちは獲物に襲いかかることを躊躇した。


 また、魔物たちと対峙し続けるうちに、はるかが攻撃的な波動を向けることでも、魔物たちは萎縮することがわかった。だから、彼女はずっと気持ちを張り続け、意識を集中し、隙を見せないようにしていた。


「……疲れた。それに眠い」


 彼女は弱音を吐いた。


 一時はどうなるかと思ったが、とにかく、待ちに待った朝が来た。真っ先に魔物たちの餌食になるかと思った牛の獣も無事だったし、自分も、傍らで眠り続けるセラも無事だ。


「本当に、良かった」


 呟くように言うと、彼女はそのまま眠りに落ちた。


 次に気が付いた時、彼女は空腹を刺激される匂いを感じた。肉の焼ける香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。我慢しきれなくなって、彼女は重い瞼をあげた。


「おはよう」


 声をかけてきたのは、セラだった。セラの手には、今、まさに食べごろに焼けている大きな骨付き肉が握られている。美貌の青年が冷たい微笑を浮かべた。


「食べるか」


「食べる」


 彼女は即答した。



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