第2章------(6) 美しい虜囚
はるかは森の中で、途方に暮れていた。
「ここ、どこ……」
問いかけるように呟くが、答える者はいない。
森は昼間でも鬱蒼として、暗い。
無数に立ち並ぶ木々の向こうからは、生き物たちの気配が感じられる。そのほとんどは昆虫や小鳥、小動物たちのようだったが、はるかはそれらが自分を襲おうとするものでないことを祈るばかりだった。
彼女は翼のついた牛の手綱を握りしめ、空を仰いだ。
「どうしたらいいんだろう」
はるかとセラを追ってきた魔王の配下の獣人たちは、青白い炎に一掃された。視界一面を焼き尽くした炎が消えた後、獣人たちは一人も残っていなかった。
(あの炎)
彼女はぶるっと身を震わせた。
おそらく、セラが起こしたものなのだろう。
セラは魔法のような力を使う。その力は、普通の霊人とはあまりにも異質だった。
レベルの高い霊人たちは周囲の温度を僅かに上げたり、雨を降らせたり、空の色を変えることは出来るが、敵を攻撃するための電撃などは発射できない。
また、衝撃から身を守るためのバリアーを張ることだって、出来ないだろう。もともと自然界にないものを作り出すことは基本的に出来ないのだ。
もっとも、真吾のような英傑クラス、あるいは真吾の天使の僕の先輩である菊音あたりなら、それに近いことは出来るかもしれない。だが、セラは地獄に落とされた霊人だ。霊人ポイントは、中間霊界人のはるかよりずっと低いはずなのだ。
(あの人。何者なんだろう)
だいたい、地獄に住まう霊人が、あんなに自由に行動できることがおかしい。本来、地獄の霊人たちは、ごく狭い、定められた範囲内しか行き来できないはずなのだ。
(……正直、ちょっと気味が悪い。そのうえ、魔王ルキフェルの囚人って)
だが、少なくとも、そのおかげで、はるかは助かった。
セラはいつでも足手まといのはるかを見捨てることが出来たはずだったが、そうしなかった。セラが獣から飛び降りたのは、敵を自分に引きつけるためだったのだろう。そして、自分の魔法によって生み出されたあの凄まじい炎から、はるかを守るため。
(悪い人じゃないと思うんだよね。生前、小竜ちゃんが好きだった人なんだし)
竜の人柄――と言って良いのか、はるかにはよくわからなかったが、その人格は信頼している。だからこそ、彼女は大森林の町などという、地獄の果てまで来ようと決心したのだ。
(魔界に来ちゃったのは予定外だったけど)
唇を噛み、森の奥を見据える。
とはいえ、来てしまったものは仕方がない。彼女は少しの間、悩んだ末、結論づけるように頷いた。
「よし。じゃあ、とりあえずセラさんの言っていたことを信じよう。確か、野宿って言っていたよね。じゃ、この森で一晩明かせばいいのかな。それから、何て言ってたっけ。えーと。自分が起きるまで守ってくれって、言ってたような……と言うことは、この森のどこかにセラさんがいるってことなのかな。それを探すってことだよね」
あたりには深い森しかない。
だいたい、セラが飛び降りた場所がこの付近であるという自信は全くない。彼女はなるべくセラが消えた方向を目指して降りて来たが、上から見るのと、実際の地上では多少の誤差はあるはずだった。
「どっちに行ったらいいんだろう。なんてったっけ、生前――こういう森があったのを知ってるわ。有名な……そうだ。富士の樹海――あれだ。一度、樹海の近くのキャンプ場にお父さんたちに連れて行ってもらったっけ。懐かしいなあ」
立ち尽くしていても仕方がないので、彼女はあてもなく歩きだす。
下生えを踏みつけながら、木々の下を歩いてゆくと、どこかで鳥がはばたく音が聞こえてきた。と思えば、近くの木の枝がカサカサ揺れる。小動物の気配と、少し湿った土の匂いがする。
森に道らしい道はなく、なんとなく地面の茶色がのぞいている方向を選んでいるだけだったから、同じ場所を歩き続けている錯覚に陥る。
このまま夜になったらどうなるのだろう。この森に、危険な動物は潜んでいないのだろうか。
不安の種はつきなかったが、はるかはまだ楽観的だった。
富士山麓の青木ヶ原樹海は自殺の名所としても知られていて、一度、迷い込んだら、二度と出られないなどという俗説がある。だが、はるかが歩いている魔界の森は、同じように広くても、彼女はいつでもそこから抜けだすことができる。
なぜなら、獣人たちから奪った、空を飛ぶ獣がいる。
また、リュックサックも無事だったので、当面の間、旅をする上で困ることはない。そして霊人である以上、たとえ最悪の事態になったとしても、樹海の自殺者たちのように、歩き疲れて死んでゆくという結末にならないことも知っていた。
(大丈夫。まだ、大丈夫)
彼女は自分に言い聞かせるように思った。
恐ろしいのは、森で迷うことではない。それよりも、魔王から差し向けられた新手の追手に見つかることのほうだった。
魔王の兵士に捕まったら、彼女は魔王の前に引き出されることになるだろう。そんな事態だけは、何としても、避けたかった。
(だから今出来ることをやらなきゃ。落ち着いて、はるか)
彼女は目を閉じ、意識を集中させた。
セラの波動は覚えている。
森のざわめきのなかで、微かな波動を見分けてゆくことは簡単ではなかった。だが、探索の意識を伸ばしてゆくと、彼女はある方向に違和感をおぼえた。
(あっちに――何かいる……?)
それがセラなのか、そうでないのか、よくわからない。だが、彼女は歩きだした。
歩いているうちに、はるかは気が付いた。胸のあたりが温かい。
不思議に思って、手を入れてみると、竜の宝石だった。ネックレスのアメジストの宝石の部分がほのかに光って、温かくなっている。
(そうか――)
彼女はハッとなった。
この宝石は忘却の丘の竜が生み出したものだ。セラも言っていたはずだ。このアメジストは竜の一部であると。
「小竜ちゃん……」
はるかは宝石を握りしめた。
すっかり忘れていたが、先ほど、追手に追われていた時、この宝石ははるかとセラを助けてくれた気がする。宝石が光を生み出し、魔王の獣人たちを怯ませたのだ。
(だったら――なら……)
はるかはネックレスを首から外した。そしてチェーンを持って、宙にぶら下げる。
(小竜ちゃん。もしわかるなら――セラさんの場所を教えて。急いでるの。お願い)
すると、宝石がある方向に向かって動いた。確信をこめた動きだった。はるかは目を見張る。
「やっぱり小竜ちゃんなんだね」
彼女は迷わず、石の指し示した方向に足を踏み出した。
話をすることは出来なくても、あの人懐っこい、お喋りな竜が近くにいるような気分になって、彼女の心は慰められた。はるかは竜に話しかけるように言った。
「わかった。あっちに行ってみる。どうも有難う」
それから少し歩いた頃だった。
はるかは木々の根本に崩れるように倒れている一人の霊人を見つけた。顔は見えなかったが、着ている衣服に覚えがあった。セラだった。
◇
はるかは野宿をしたことがない。
当然だった。はるかがリアルで生きた時代には、日常生活のなかでそのようなことをする必要は全くなかった。便利で快適な住居、行き届いたインフラ、世界のどこかでは戦争が続いていたのかもしれなかったが、彼女の暮らした国は平和だった。
だから、野宿をすると言っても、何をどうすればいいのかわからなかった。彼女が唯一、経験した野外での寝泊まりとは、キャンプ場での宿泊でしかなかった。そして、ここにはテントもコテージも炊事場もない。
「どうしよう」
途方にくれるが、切り替えも早かった。
はるかは少し考えて、あたりに落ちている小枝を集めはじめた。野宿をするからには、焚火をすることになるだろう。小さな炎なら、はるかの霊力で起こせるはずだったから、必要なのは焚き木だ。
また、水場も近いほうがいい。そう思って、近くに小川などがないかと思って調べてみたが、それはなかった。
「まあ、いいわ。水も食料も、まだなんとかなる。それよりこんな広い場所より、どこかもう少し狭い……洞窟みたいなところに隠れたほうがいいのかしら」
言いながら、あたりを見回す。
けれども、身を隠せそうな場所はない。仮にそうした場所があったとしても、気を失ったセラをそこまで引っ張って行くことは、はるかには出来そうもなかった。
「仕方ない。じゃ、ここで」
彼女は不安そうに空を見上げ、呟いた。
先ほどまでより、空が一段と暗くなった気がする。森の獣たちの声がやたらと響いてくるようになったのは、夜が近いからだろうか。はるかは唇を噛むと、小枝を集める作業に戻った。
生木はなかなか火がつかなかった。
何度も空気を流し込んで、やっと小さな火が燃えうつった。少し時間がかかったが、火が焚き木全体にまわりはじめる。はるかは安堵の息をついた。
もう、あたりはとっぷり暗くなっている。
火の前に座り、リュックサックを抱きかかえるようにし、質素な食料を霊力で取り出す。水を飲み、一息ついた。隣には気を失ったままのセラが眠っている。魔王の兵士たちから奪った牛のような獣も近くの木に結んである。
彼女は無言で暗闇を見つめていた。先ほどからこちらを伺い見るような、光る目がいくつもあった。彼女は首にかけたネックレスの石を握りしめた。
森の夜がやって来ようとしていた。




