第2章------(5) 美しい虜囚
はるかは悪夢に放り込まれた気分だった。
無我夢中で、敵――なのかどうかも、彼女にはよくわからなかったが、黒い針金のような体毛の生えた獣人たちを枝で叩きつけていった。勿論、それでたいしたダメージを与えられるわけはない。だが、彼女は必死だった。
彼らはその場から逃げようと走るが、次から次へと攻撃を受ける。多勢に無勢で、どう考えても彼らのほうが不利であるはずなのだが、何とか持ちこたえているのは、セラの魔法の力のおかげだった。
「ウギャァァ」
耳障りな悲鳴が響く。セラの攻撃で体を焼かれたのだ。また、後ろから飛びかかろうとしていた獣人が目を押さえて、咆哮する。電撃のような火花が散って、眼球を焼かれたようだった。
セラは獣人たちが怯んだ隙を逃さなかった。獣人のひとりが落とした剣を拾いあげると、それを手に取って、今度は剣で敵を倒しはじめた。細身のセラにその大剣は似合わなかったが、剣を持つ手に迷いはない。
はるかは驚いてセラを見た。
(この人。戦い慣れてる……)
はるかは自分が誰かに攻撃されること、あるいは自分が攻撃することが恐ろしくて、やみくもに枝を振りまわすばかりだった。だが、少なくともセラは、刃物を使って、誰かの息の根を止めることに躊躇いがない。
セラの剣は確実に相手の急所を突いてゆく。勿論、獣人たちもアフターワールドの生き物だったから、体を真っ二つに切り裂かれたとしても、絶命するわけではなかった。だが、いくらかの時間稼ぎにはなる。
「来い。ハルカ」
血路を開き、セラが声をあげる。
「は、はい」
はるかは弾けるように叫び返した。
あたりは凄惨だった。獣人たちの流れ落ちた血や、切り裂かれた手足などが無造作に地面に転がっている。はるかは恐怖で足がすくみそうになるのを堪えて、駆けだした。
セラが頷いた。
「よし。逃げるぞ。あれを奪う」
目線の先に、翼を持った牛のような獣がいる。魔王の配下の獣人が騎乗してきたものだったが、騎乗していた獣人は倒れてしまったようだった。
セラは追いすがってくる獣人たちと切り結びながら、そちらへ走った。はるかも後に続こうとするが、こん棒のようなもので足をすくわれる。
「きゃっ」
したたかに打ちつけられ、彼女は転倒した。そこを獣人たちが取り囲む。はるかはセラと引き離された。
「イヤァァッ」
悲鳴をあげ、彼女は枝を振りまわした。
だが、獣人たちも戦士である。彼らははるかの抵抗をたやすくかわした。互いに目配せをし、口元にイヤな笑いを浮かべながら近づいてくる。その目には残酷な喜悦があった。
「こいつは誰だ。魔王の城の囚人ではないぞ」
「新しい霊人だ。上から落ちてきたんだろう」
「では、捕まえて、食ってもいいのか?」
「良いだろう。捕まえろと命令されたのは男のほうだけだ。あれは魔王に捧げなければならん。でもこの娘は違う。俺たちの餌になる」
「それはいい」
獣人たちは嗤いあった。
「あの男は強い。あれを捕える手柄は向こうの連中に譲ったほうがいいだろう。俺たちはこの子供を食べる。それでいい」
その会話を聞いて、はるかは頭の中が真っ白になった。
(食べる。あたしを……?)
意味がわからない。
(どういうこと。それにこの化け物たちは――そもそもいったい何? 地の底の国は堕天使たちの世界だから……これも堕天使なの……?)
大きな体躯の、黒い魔物。
体毛は針金のように尖っていて、光る眼を持ち、鋭い牙を持っている。だが、ただの獣と違って、二本足で歩いている。鎧も身に着けているし、会話の内容を聞いても、知能は一般の天使や霊人と変わりはないようだ。
(やっぱり堕天使なの……? でも、ベリアルとは違う)
はるかは痺れた頭で考えた。
ベリアルは瞳の色をのぞいて、完璧な霊人の姿をしていた。背中にあるはずの不吉な翼も見えなかった。
けれども、ぞっとするような凄みがあった。その凄みは、むしろ、天使の宮殿で大天使ラファエルに会った時に感じたものに似ていた。彼女は遠い目をした。
(そうだ。あの時、あたしは天使の宮殿に呼ばれて――真吾さんたちにサプライズパーティをしてもらって……あれからそんな経ってないはずなのに、なんで、こんなことに)
暖かい、真吾の手が懐かしい。真吾ははるかの不在を知って、どれだけ心配しているだろう。真吾への慕わしさがこみ上げてくる。
と、同時に厳しい現実に引き戻される。
(あたしはここでこいつらに食べられる?)
霊人だから、リアルの世界のような意味で死ぬことはないはずだった。だが、霊人だとしても、腕を食いちぎられれば気絶するほど痛いし、首を刎ねられれば、やはり耐え難い苦痛を感じる。
この獣人たちに食べられたら、自分はどうなってしまうのだろう。
(わからない。でも、イヤだ。それはとても怖いことだ。絶対にイヤだ)
思うなり、彼女は近くにいた獣人に体当たりした。
獣人の体が揺れた。既にセラの剣で裂かれていた腹部が前のめりに落ちて、体が奇妙なかたちにねじれる。あらぬ方を向いた顔が、にやりと笑った。はるかは絶叫した。
「キャアアァァァッ イヤっ――嫌ぁっ!」
「捕まえろ。足を狙え」
「俺は頭を貰うぞ」
「なら、おれは右腕だ」
「内臓と脳は平等に分け合うんだぞ。一番、うまいところだからな」
獣人たちは口々に言い、毛むくじゃらの手を伸ばしてくる。彼らはもう、セラのほうを見もしなかった。手ごわい魔王の囚人より、目先のご馳走を奪いあうほうに心を奪われている。
はるかは恐怖に凍りつきながら、セラの姿を探した。セラは牛のような獣のそばにいたが、そこで敵に囲まれ、剣をふるっている。その距離は遠い。セラにはるかを助ける余裕はないだろう。
はるかの胸に絶望がこみあげた時、胸元の、衣服のなかにしまってあったネックレスがふわりと浮いて、アメジストの宝石が淡い光を発した。光ははるかを包み込むように広がり、あたりを照らしてゆく。すると、獣人たちが怯みはじめた。
「え……なに」
はるかにはただの暖かい光にすぎなかったが、獣人たちにとってそれは凶器の光であるようだった。戦場が一瞬、静寂に包まれ、隙が生まれた。
「ハルカ!」
セラだった。勢いよく体を引き上げられる。声をあげる間もなく、彼女はすとんと獣の背中に落ちた。セラが彼女のすぐ後ろに乗っている。
「飛ぶぞ。首にしがみついていろ」
セラは獣の腹を蹴りあげ、空に浮かびあがった。
魔王の兵たちは執拗だった。
それも当然だっただろう。セラは霊人でありながら、堕天使ベリアルに地獄からひきあげられ、その後、魔界の王ルキフェルの虜囚として囚われていた。
普通なら、まずあり得ないことだった。
堕天使たちはリアルにいる、肉体を持った人間を惑わすことはあっても、リアルでの人生を終えてアフターワールドにあがってきた霊人を相手にすることは、ほとんどない。
だから、魔王の配下たちにはセラは特別だという認識がある。
理由はわからないが、魔王はセラに執着している。その異常ともいえる執着の対象を自分の留守中に失ったと知ったら、魔王はどれほど怒り狂うだろう。
その恐怖心からなのか、配下たちはセラとはるかをどこまでも追って来た。
「くそ。しつこいな」
セラは獣の手綱を握りながら、舌打ちした。眼下は、いつの間にか深い森になっていた。その光景はどことなく大森林の町をはるかに思い出させたが、この魔界の森はあの地獄の森より、緑がずっと豊かだった。はるかは獣の太い首にしがみつきながら、声を張った。
「ま、まだ追って来てるの」
「来てる。しかも数が増えた。応援が来たようだ」
セラが言う。はるかは真っ青になった。
「ど――どうするの……」
「このままじゃ逃げ切れない。お嬢さん、君は森で野宿する度胸はあるか」
「野宿?」
「夜の間中、火を焚いて、寄ってくる魔物たちから僕の体を守ることは?」
「どういう意味」
はるかは体をねじって、聞き返す。だが、セラは質問には答えず、微妙な表情で頷いただけだった。
「君に体を預けるのはとてつもなく不安だが、仕方ない。君が森で何かへまをして、魔王の城に連れ戻されても諦めよう。でも、これだけは忘れるな。何があってもベリアルは呼ぶな。僕が起きるまで、自分の力で切り抜けろ。じゃ、手綱をしっかり持って」
「えぇ?」
はるかが狼狽える。セラが大切なことを告げているらしいことは理解できるが、何がどうなって、そのようなことになるのかがわからない。彼女はわめいた。
「ちゃんと説明して。なんで野宿するの? 起きるまでって、どういうこと」
「無事に逃げきれたら、僕に感謝するんだな」
セラは冷たく叫んで、立ち上がった。
はるかは呆然となった。空を飛ぶ獣の背中の上なのだ。立ち上がって、バランスをとれるわけはない。と、セラは信じられないことをした。自分から飛び降りたのだ。
「セラさんっ!」
あっという間に、セラは森の中へ消えて行った。魔王の追手たちも、一斉にそちらへ飛んでゆく。
その時だった。
何かがチカッと光ったかと思うと、凄まじい勢いの青白い炎が現れた。炎は荒れ狂い、のたうちまわり、魔王の配下たちの体を勢いよく焼きはじめた。たちまち、獣人たちの怒号と悲鳴がまきおこった。




