第2章------(3) 美しい虜囚
「姿を現せ。どうせ近くで僕たちの会話を聞いているんだろう?」
確信をこめて、セラが言う。はるかは吃驚して、部屋のなかを見回した。どんなに感覚をとぎすませても、彼女には自分たち以外の気配を感じ取ることはできなかった。だが――
「きゃっ」
いきなり、彼女は違和感を覚えた。上着のポケットに重みを感じる。手を入れてみると、硬いものに触れた。先ほど、この室に入った時に使った不思議な鍵だった。鍵は熱を帯びていて、指に触れた部分に張りついてきた。
「なにこれ!」
彼女は手を引き抜いて、大きく振った。鍵が石壁にあたって、落ちる。すると、鍵が銀色に光って、綺麗な声を発した。
「やあ、久しぶりだね」
果たして、その声は堕天使ベリアルのものだった。
「ああ――久しぶりだ」
セラは、驚いた様子もなく、古びた鍵を睨み据えた。鍵は、せせら笑うように点滅してみせた。
「こんな姿で失礼。流石に、私の体をこの魔王の城に持ちこむことは出来なくてさ、お嬢さんの持ち物に意識の一部だけ紛れ込ませてもらったんだ」
鈴の音を鳴らしたような、耳に心地よい少年の声。はるかは大森林の町の博物館で出会った美少年の姿を思い起こした。
「ど、どういう……」
はるかが怯えて言いかける。それをセラが目線で黙らせた。
「何のつもりだ。お前が僕と彼女を引き合わせたのには、どんな腹黒い目的がある、この悪魔め」
「ご挨拶だね。せっかく魔王の頸木から逃してやろうっていうのに、礼儀知らずだな」
「お前の親切には裏がある。いつかはさんざん、僕を嬲り者にしてくれたな」
「そうだったかな」
鍵はとぼけた。それから、ずるそうに付け加える。
「でも、たとえ罠かもしれないとわかっていても、この牢獄から出られるなら、あなたは私の申し出を断らない。そうでしょう、セラ?」
ねっとりと、ベリアルの声に絡みつくような色香が混ざる。はるかは博物館で嗅いだあの甘い花の匂いを思い出した。
(ベリアル本人だ。本当にここにいるんだ……)
手のひらが汗ばんでくる。彼女はベリアルに直接、何か危害を加えられたわけではなかったけれども、その悪意には恐怖を感じずにはいられない。ベリアルの声にはそういうものが含まれている。
だが、セラは床の隅に落ちている鍵を睨みつけただけだった。鍵が言った。
「まあ、まずは私を使って、その重そうな鎖を外してみたら? 簡単に外れるよ。あなたをずうーと、長い長い間、苦しめてきた、その魔王の鎖から私が解放してあげよう」
「……代償は?」
「イヤだな。好意だよ、これは。善意のサービスだ」
セラは唇を噛んだ。
「ハルカ」
「え」
まさか自分が呼ばれると思っていなかったはるかが驚く。
「すまないが、その鍵を拾ってきてくれないか。腹が立つが、魔王の鎖を外せるのは、確かにこいつくらいしかいないだろう。何を企んでいるか知らないが、とりあえず、外してくれるというなら、外してもらおう」
「わ、わかった」
はるかは返事をした。セラを縛めている鎖は多少の長さがあったが、部屋のなかを自由に動けるほどはない。彼女は歩いて行って、気味悪そうに鍵に手を伸ばした。
「はい」と言って、鍵をセラに渡す。
「有難う」
セラは礼を言って、縛めに鍵を差し込んだ。カチッと音がして、縛めが外れる。随分と長い間、拘束されていたのだろう。セラの手首や足首は赤黒く腫れていた。
「それで」
セラは傷ついた手首をさすりながら、鍵のほうを見た。
「何の用なんだ。お前が危険をおかして、この魔王の城まで入り込んできたのは、何か目的があるからなんだろう?」
「またそんな怖い目で見る。せっかくの美貌が台無しだよ」
鍵がふざけたように答える。
「だけど、そうだねえ、確かにリスクを冒してあなたを助けてあげようと思ったのは、理由があるかな。あなたの大切な竜に頼まれたから。あの子とも知らない仲じゃないし、前回、ああいうことになって、私も少しは心を痛めていたのよ」
唐突に、ベリアルの少年の声が女のものに変わった。甘い香りがいっそう強くなる。と、はるかの脳裏に豊かな裸体の女のイメージが浮かんだ。
銀色の目をした、美しい女だった。女は成熟した体を、淫らな仕草で隠すようにしながら、セラの頭に腕をまわす。
「ねえ。今からでも、私の僕になると誓ってくれたら、すぐにでも安全な私の城に連れて行ってあげてもいいのよ。もともとあなたは私が目をつけたんですもの。醜い姿だったあなたを本来の姿に戻してあげて、ただの霊人には勿体ないような力もあげて」
「おかげで僕はルキフェルに目をつけられた。堕天使が霊人を堕落させることは昔からよくあることだが、お前の中途半端な力のせいで、僕は既にただの霊人ですらなくなってしまったよ」
「そうね。怒ってる?」
女が毒をはらんだ微笑みを浮かべる。
「あなたたち二人は、もう、元には戻れないわね。可哀そうに。だから、二人そろって私の僕になりなさい。そうしたら、悪いようにはしない」
セラは答えない。ベリアルは口の端をつりあげて、にっと嗤った。
「それともあなたは男性のほうがお好みなのかしら。そうね、こんな姿はどうだろう。セラ、お前を支配する男のイメージは――そうだな。お前と同じくらい冷酷で、冷たい目の、ほら、こんな男じゃないのかね。お前の生前の記憶のなかにある――」
眼鏡をかけた、スタイリッシュな雰囲気の男がセラの前に現れる。男の目もまた銀色だった。その相手を見た瞬間、セラの顔が恐怖にひきつった。かれは叫んだ。
「消えろ! 堕天使ベリアル。お前と話すことは何もない」
そして、手近にあった水差しを銀色の鍵のほうに投げつける。
容器が割れる音がし、ベリアルの甲高い笑い声が響いてきた。
「助けが欲しくなったら、いつでも私を呼べばいいよ。今ならこの牢獄から逃げられる。魔王ルキフェルは地獄に行っていて、留守なんだ。さあ、逃げてごらん。無事に魔王から逃げ切れるかどうか、見ていてあげよう」
静寂が戻った。
はるかは呆然としたまま、セラに問いかける目を向けた。セラは肩をすくめた。
「行ってしまったようだ」
「……本当に?」
疑わしそうにはるかは言い、床に散乱した破片のなかから、投げ捨てられた鍵を探した。それから固い声で言う。
「セラさん。鍵がなくなってるよ」
「そうか」
「代わりに、さっきまでなかったものがある」
ちょうど鍵があったはずの場所にアメジストの石のついたネックレスが落ちている。
「これ……」
はるかはネックレスを拾いあげて、セラに見せる。セラも驚いた顔をする。そのアメジストの煌めきに心当たりがあるのだろう。
「貸してみろ」
「はい」と言って、はるかがセラにネックレスを渡す。セラは宝石を手のひらに乗せて、考え込むように黙った。
「これは――微弱だけど、アオイの波動がする」
「うん。小竜ちゃんの宝石だと思う。さっきも話したけど、小竜ちゃんはこれをベリアルに渡す代わりに、ベリアルにあなたを助けて欲しいと頼むつもりだったの」
「……」
セラは宝石を見つめた。
「この石――はじめからネックレスになっていたのか」
「いいえ。貰った時は、石だけだった」
「そうか」
セラはもう一度、アメジストの奥を透かし見るようにした。しばらくして、かれは苦い表情で言った。
「このアメジストは確かにアオイの一部だ。だが、このネックレスの石を支えている台座やチェーンからは――ベリアルの思念が感じられる」
「え……」
「すまないが、このネックレスは君が預かっていてくれないか」
セラははるかを見た。
「これはきっと、ベリアルが僕たちを見張るための道具なんだろう。多分、台座から宝石だけ外すことはできないはずだ。僕がこの竜の涙を捨てて行けないことを知っていて、ベリアルはこれをこういう形にしたのだろう」
「それ。あたしが持ってるの……?」
はるかが怯えたように口ごもる。セラは微笑んだ。
「大丈夫だ。君に害はない。君はベリアルと契約を結んでないだろう?」
「契約」
「何か頼み事をしたとか、約束事をしたとか」
「ないです」
はるかは強い口調で言った。ベリアルのほうから「契約をしないか」と持ちかけられはしたが、断った。セラは頷いた。
「ならいい。でも、あいにく僕は一度、契約をしてしまってね。やつと関係が出来てしまっている。その契約はもうほとんど無効になってるけど、一度できた関係は消せなくて、だから、さっきみたいに簡単に誘惑されそうになるんだ。僕がそれを身に着けたら、やつに支配されてしまう」
はるかは怪訝な顔をする。彼女は躊躇うように聞いた。
「よくわからないけど、じゃ、このネックレスを持っていても――あたしは安全なのね?」
「そのはずだ。その宝石はアオイだ。宝石自体は君を守ってくれるだろう。台座のほうは――時々、さっきの鍵みたいに喋りだすかもしれないけどね」
セラは答えた。




