第2章------(1) 美しい虜囚
頬に冷たいものがあたる感覚がして、はるかは意識を取り戻した。
「あ……」
暗い。だが、完全な闇ではない。ごつごつした岩の壁の一部が、ぼうっと緑色に光っている。背中をつけてる地面も岩と石ばかりだ。どうやらここは洞窟のような場所なのだろう。はるかはそっと手のひらに力をこめた。
「ここは……」
身を起こし、探るようにあたりを眺める。
再び、ぽたりと水滴が頭に落ちる。彼女はビクッと首を縮めた。
そうしながら、自分の体を注意深く確かめる。幸い、怪我をしているところはないようだった。また、彼女の命と同じくらい大切なリュックサックも無事だった。それから、胸元に手をいれて、天馬のタロウを呼ぶための馬笛があることも確認する。
(良かった。全部、ちゃんとある)
彼女はほっと息をついた。わけがわからなかったが、最悪の事態ではない。まずはその幸運を喜ぼうと思う。そうして、気持ちをいくぶん落ち着かせてから、もう一度、周囲を見る。
(ここはどこだろう)
地獄のどこかであるのは間違いない。大森林の町の博物館で堕天使ベリアルと会ったところまでは覚えている。だが、その後の記憶が一切、ない。
(あれから――?)
彼女は首をひねる。
だが、どんなに思い出そうとしても、わからなかった。忘却の丘の竜の願いを聞き届けてもらうために、竜から預かった宝石をベリアルに渡そうとしたが、つき返された。その後、とても大事な会話をした気がするが、覚えていない。
覚えているのは、ベリアルへの恐怖心だけだった。
銀色の双眸をした少年は、黒い翼こそ隠していたが、確かに堕天使だった。ぞっとするような悪意に包まれた、悪の化身ともいうべき存在で、その美しささえ禍々しかった。
(あれが……堕天使ベリアル)
恐怖が、体を通り抜けてゆく。
けれども、はるかは膝が崩れそうになるのをこらえ、立ち上がった。
あの後、何が起こり、なぜ自分がこのような場所にいるのかわからなかったが、ひとつだけ確かなことがある。
この洞窟から出なければならない。
彼女は暗闇に慣れてきた目を凝らしながら、歩きはじめた。
長く、暗い道をどのくらい歩き続けた頃だろう。
洞窟は少しずつ、登り坂になっていた。勾配がきついところは、道も石段のようになっている。その、明らかに人工的に積み重ねられた石段に一歩ずつ足を乗せながら、彼女は自分に言い聞かせるように思った。
(大丈夫よ、はるか。この洞窟は誰も知らない洞窟じゃない。道が整備されてるってことは、誰かが通ってるってことよ。洞窟に隠れ住む霊人たちとか――どんな霊界につながってても、絶対にちゃんと戻れるから、けしてパニックにはならないで)
地獄の下層へ行くために、孤独な道を歩き続けてきたことを思い出す。あれらの交易路にしても、十分、寂しい道だった。この洞窟もその道のひとつだと思えば、不安も多少は少なくなる。
そして、彼女は坂を登りきった。
すると、突然、岩壁にはめ込まれた鉄の扉が現れた。
(やっぱり)
彼女は安堵する。
この場所はけして未踏の地ではない。アフターワールドの、地獄のどこかの霊界なのだ。
はるかは鉄の扉を見つめた。扉は重そうで、錆びついていた。押しても引いても、びくともしない。だが、取っ手の上に鍵穴らしい穴が開いている。
彼女はしばし考え込んだ。
鍵の代用になるような、何か、針金でも入っていないかとリュックサックを探ろうとした時だった。ポケットに違和感を感じた。手を入れると、硬いものに触れる。それをとりだして、彼女は愕然となった。
「なに、これ」
鍵だった。
しかも、全く覚えのない鍵だ。
彼女はぞっとなったが、鍵を握りしめると、思い切ったように、鍵穴に差し込む。果たして、鍵は扉の鍵穴にカチリとはまった。横にまわすと、手ごたえがある。小さな音がして、鍵が開いたことがわかった。
(…………)
はるかは奥歯を食いしばった。
にわかに、堕天使ベリアルと出会った時の恐怖を思い出す。この出来すぎた幸運が、何かの罠に誘い込まれているような感覚を呼び起こす。だが、たとえ罠だとしても、この洞窟をこれ以上、歩き続けることはイヤだった。彼女は扉を押した。
ギイ――と重い音がした。
「きゃっ」
扉を開けた瞬間、彼女は小さな悲鳴をあげた。ほとんど光のない暗闇に慣れきった目には、その場所の明かりが強すぎたのだ。
「ここは……?」
両手で目をかばうようにしながら、必死に目を凝らす。
どこかの城の抜け道のような洞窟に繋がっているのだから、扉の向こうは城の地下倉庫のような場所なのかと思ったら、さほど広くない一室のようだった。
いや、かなり手狭な部屋のようだ。
はじめに見えたのは、敷物だった。白い毛皮で、毛足が長く、ふわふわしていて温かそうだった。それからサイドテーブルの上に置かれたランプ。石を積みあげただけの壁、小さなテーブル。そうして、毛皮を敷きつめたベッドに腰かけている人物を視界にとらえた時――
「嘘っ!」
はるかは叫んだ。
美しい金髪と吸い込まれそうな碧眼。
美貌の青年が、訝しそうにはるかを見ている。
はるか真っ赤になった。
(嘘。どうして、なんで……え――どういうこと)
激しく混乱する。彼女は地獄にいるはずだった。だが、目の前の青年は間違いなく、〈桜川の里町〉の老婆の水晶玉に映っていた相手だった。
竜の話によると、この青年は竜が霊人だった頃の竜のパートナーで、今は魔界の魔王ルキフェルの城に軟禁されているという。
(ここは……それじゃあ――まさか、地の底の国?)
彼女はパニックに陥ったように震えはじめた。
信じられなかったが、目の前の現実が全てを告げている。
(本物? 本物……よね。幻影じゃない。それは……わかる。だとしたらこの人が――あたしの運命の恋人?)
老婆に言われた言葉を思い出し、さらに顔を赤くする。まるで実感がなかったが、
(ひゃあ……)
引き結んでいた口元が自然に緩む。
その時だった。青年が口を開いた。
「君は誰だ。僕と同じ魔王の囚人なのか、それとも新しいメイドか何かなのか」
冷ややかな声だった。
「あの、あたしは――」
はるかは青年をまじまじ見つめ、唾を飲み込んだ。
(この人――綺麗……)
相手が美貌の持ち主であることは、知っていた。だが、小さな水晶玉に映し出された映像と、本物ではわけが違う。
それにこの青年は容姿が整っているだけではなかった。霊人のくせに底知れない凄みがあり、そして全体的に華があり、艶やかだ。
はるかが知っている一番の美形と言えば、大天使ラファエルだったが、少しだけ青年はラファエルに似ていた。だが、醸し出す雰囲気が違う。ラファエルは堅物だったが、波動を探ると、青年はどうもそうではない。また、堕天使ベリアルも美少年だったが、悪意のかたまりのようなベリアルの美貌とも違う。
青年は肩をすくめた。あきらかに自分をはじめて見た相手のこうした反応に慣れているふうだった。
「で、君は誰なんだ。いい加減、僕に見惚れるのはやめろ」
冷ややかな声に、はるかは我に返る。
「あたしは井上はるか。日本人よ。魔王の囚人でも、メイドでもない。あなたとは一度、会ったことがある。と言うか、目が合ったはずだけど……覚えてる?」
「知らない」
「えーと……じゃあ、はじめまして。中間霊界人で、地獄のある町まで来ていたんだけど、あなたがここにいるということは、つまり、ここは堕天使たちの霊界の魔界ってこと?」
青年は眉をひそめた。
「そうだ。魔界の、堕天使の王ルキフェルの居城」
「あなたの名前は?」
「なぜ、名乗る必要がある。無害そうに見えるけど、君がルキフェルに雇われた新しい拷問人だという可能性だってある。そんな相手と楽しくお喋りしたい気分じゃないよ」
投げやりに言って、青年は手足につけられた鎖をかかげて見せる。はるかは頷いた。
「うん。知ってる。あなたはルキフェルに囚われているんですってね。あたしは――水晶玉であなたを見て、それから忘却の丘の小竜ちゃんに頼まれて、地獄まで来た。ベリアルの力であなたをここから助け出すために」
「なんだって」青年が低い声で言う。
「もう一度、言ってみろ。その竜とは――まさか……」
「小竜ちゃんの本当の名前は知らないの。日本人で――あたしの遠い親戚らしいんだけど。詳しいことはなにも。でもあなたの名前は知っている。小竜ちゃんに教えてもらった。あなたの名前はセラ……でしょう?」
青年は表情を変えた。かれはもう一度、はるかを見つめた。
「そうだ。僕はセラ・カルディナーレ。イタリア人だ」
かれは名乗った。




