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第1章------(18) 地の底の国へ



 はるかは扉の前に立った。


 二階の隅にある、何の変哲もない木製の扉だった。しかし、頭に直接、響いてきた声の持ち主は確かにこの室にいる。


 堕天使ベリアル。


 勇猛で知られる堕天使軍の将のひとり。勿論、アフターワールドで暮らす普通の霊人が相まみえることができる相手ではない。天使がそうであるように、堕天使もまた、霊人たちにとって遠い存在だった。


 はるかは緊張した面持ちになって、扉をノックした。


「どうぞ」


 生の声で返答があった。途端に、はるかの全身の毛穴から汗が噴き出す。彼女はにわかにこみあげてきた恐ろしさに足がすくみそうになったが、意を決して、ドアノブに手をかけた。


「失礼します」


 はじめに視界に飛び込んできたのは、贅沢な内装だった。


 豪華絢爛といってもよかったかもしれない。正直、はるかは調度類や内装の良し悪しはよくわからなかったが、この一室には、素人目にも金がかけられていることがはっきり理解できた。


 金糸の装飾がほどこされた壁紙に、大きなシャンデリア。見事な絵画が描かれた天井と大理石の暖炉、重厚感のある天然木の机、さりげなく置かれた品の良いソファやテーブル。


 全てが素晴らしく豪華で、これまではるかが開けてきた”博物館”の各部屋とは全く違う。彼女はどこかの有名な宮殿にでも入り込んでしまったような眩暈にとらわれる。


 同時に気が付いた。


 ドアを開けた途端、あの甘い花の香りが漂ってきた。


(この匂い。そうか。ここから……?)


 思った瞬間だった。


「そうだよ。ここは臭いから、私が香りづけしてやったんだ」


 よく響く声がした。はるかがハッとして振り返ると、ひとりの少年が椅子に座っている。


 その綺麗な声の持ち主にふさわしい美少年だった。


「ア……」


 だが、はるかを面白そうに見つめる瞳には、底知れない悪意があった。そして、その瞳は銀色だった。


「堕天使……ベリアル?」


 彼女は喘ぐように言った。





「そうだ。私がベリアルだよ。はじめまして。お前は誰?」


 少年が歌うように聞く。はるかは少年から、視線をもぎ離すように逸らした。このまま少年を見つめていると、少年の内側にある悪意に引き込まれて、抜け出せなくなってしまうような気がしたからだった。


 ベリアルは、はるかの考えを見透かしたように嗤った。


「なるほど。そのほうがいい。お前は頭がいいね。それで、お前は何者なの? 名は?」


「――あたしの名前なんか、どうでもいいでしょ。あなたが……地獄のこの町にいると聞いて、会いに来たの。ある人から頼まれて」


「ある人?」


 ベリアルが興味深そうに聞き返す。細い首を傾ける仕草にも、どこか優美さがある。だが、その優美さには毒がある。はるかは床を見つめながら、ポケットに手を入れた。


「これを……あなたに渡して欲しいと言われたの」


 竜から預かった宝石を手のひらに乗せて、差し出す。ベリアルはしばらく考えるように黙った。それから、紅い唇を舐めた。


「竜の涙か」


 はるかはベリアルの顔を直視しないよう気をつけながら、少し前に出て、一番近くにあったテーブルの上に宝石を置いた。ベリアルが優雅に腰をあげ、近づいてくる。


「小竜ちゃんは、それをあなたに渡せばわかるはずだと言っていた。あたしがあなたに会いにきた来た理由も、小竜ちゃんの望みも全部」


「忘却の丘の竜のことか」


 ベリアルは呟いた。


「あなたは小竜ちゃんを知っているんでしょ?」


「ああ。よく知っているとも、お嬢さん。あの竜も、竜の恋人だったという霊人もね」


 ベリアルの美しい指先が竜の涙をつまんだ。深いアメジストの色をした宝石が、キラキラと光る。ベリアルは宝石の中心部を覗き込んだ。


「実際、あの時は酷い目にあった。せっかく私の僕にしようと育てた霊人を王に奪われ、その霊人を助け出したいという竜に協力してやったばかりに、私まで王に目をつけられてしまった。それでもまあ、私も少しは良い思いはしたのだけどね」


 思い出すように言って、たちの良くない笑みを浮かべる。


「二人とも、たいへん美味だったよ」


 唇の端から、蛇のような舌先がちらりと覗く。少年は銀色の瞳をはるかに向けた。その目に淫靡な光が宿る。


「竜の願いは昔も今も変わらない。堕天使の王のもとから伴侶を救い出したい。それだけだ。それはよくわかってるさ」


「だったら――」


 はるかが期待を込めて言おうとするのを、少年が身振りで止めた。


「まあ、待って。竜から聞いているかもしれないけど、私はルキフェルとは対立しているんだよ。しばらくあいつに目をつけられて、おとなしくしてやっていたけど、そろそろ王の足元をすくっても良い時期だと思う。だから、そうだね、もう一度、あの哀れな竜の願いを聞いてやってもいい」


 はるかは表情を明るくした。だが、次の言葉を聞いて、戦慄する。ベリアルはにやにやした。


「お前はこのベリアルとの契約の代償に何を払う?」


「え――あたし……?」


 思いもがけない言葉だった。彼女はきょとんとして、ベリアルを見た。それから、慌てて、視線をそらす。


「ど、どうして」


「お前は竜の願いを叶えるために、私の力を借りにきた。そうであるなら、お前が代償を払うのは、当然だろう」


「だって、この宝石。小竜ちゃんはこれをあなたに渡して欲しいって言ったんだよ。だったら、それで良いんじゃないの?」


「竜の涙ね。まあ、この石にも価値がないわけじゃないけど、私にとってはもうどうでもいいものだ。この宝石はお前にあげるよ。その代わり、お前が私と契約するんだ」


「契約!」


 はるかは叫んだ。心の奥底で、激しく警鐘が鳴っている。


 彼女に”契約をすること”の深い知識はなかった。けれども、それはいつの世でも悪魔が人間を支配し、惑わす時の常套手段だった。


 その悪魔とは、堕天使たちの別の呼び方であることをはるかは知っている。軽々しく契約などしたら、どうなるかわかったものではない。彼女は強く否定した。


「そんなこと、するわけないでしょ。あたしは明日には中間霊界に帰らなくちゃいけないんだから」


「哀れな竜を見捨ててか。酷いやつだね」


 ベリアルは肩をすくめ、油断のない目つきではるかを見る。


「だいたいこんな地獄の奥まで入り込んで、すんなり上に帰れると思っているの? そうだとしたら、お前は相当、おめでたいね」


「帰るわよ……帰らないと――皆が心配する」


 はるかは後ずさった。ベリアルの声音が頭のなかいっぱいに響いてくる。目線を合わせていないはずなのに、銀色のあやしい双眸が脳裏から離れない。彼女はさらに後ずだった。


(この相手は危険だ)


 そんなわかりきったことを、今さらながら実感する。


 だが、一方では、あの竜がはるかをそんな危険な目に遭わせるはずはないという思いもある。一途に恋人を想っていた竜は、いつもやさしい目をしていた。


 と、背中が壁についた。これ以上、後ずさることが出来ない。はるかは追い詰められた小動物のような気分になった。


 ベリアルは、はるかが感じている恐怖をゆっくり味わうようにして、口を開いた。


「井上はるか。日本人。中間霊界人で、横田四丁目の住人。最近、天使の僕にとりたてられ、修行中。そして、あの忌々しい英傑である桜田真吾の養い子――」


 はるかは耳を疑った。


「どうして、それを」


「バカだな。私だって堕天使のひとりだよ。お前が隠そうとしていることなんて、すぐわかる。ねえ、はるかちゃん」


 ねっとりと絡みつくような声でベリアルが言う。


「あの竜から何をどう聞いているのか知らないけど、私だって、人間たちの霊界に来て、遊んでいるばかりじゃない。一応、これでも堕天使軍の武将だからね。常に上の情勢には気を配ってるよ」


「……」


「それにねえ、今、魔界はとても慌ただしくなってるよ。お前のせいでね。井上はるか。だから、堕天使たちでお前のことを知らない者はいない」


「どういう意味よ……」


 はるかは恐怖で叫びだしたい衝動をおさえ、かろうじて聞いた。


「英傑が天使軍をともなって地獄におりてきて、お前を探しているらしいよ。それで地獄の上層階は大騒ぎだ。しかもそれがきっかけで、戦端が開かれた。久しぶりに大きな戦さになりそうだというので、魔界にいる堕天使の王ルキフェルが重い腰をあげた」


 はるかは目を大きく見開いた。


「そんな――真吾さんが……」


 自分のしたことが、そんなに大ごとになっているとは夢にも思っていなかった。真吾は置手紙を読まなかったのだろうか。いや、読んだからこそ、心配のあまり、地獄に来てしまったのだろうか。


「そんな……」


 もう一度、呟いた時だった。ベリアルの手がはるかの眼前に迫り、奇妙な動きをした。彼女はそのまますうっと意識を失った。





 ベリアルは倒れた少女を興味深そうに眺めていた。


「まさか、今、話題の戦さの火種の本人が私に会いにくるとはね。あの竜とも知らない仲じゃないし、じゃあ、少しだけ助けてやろうかな。私の望みは魔王ルキフェルの失脚。お前には何の恨みもないが、そのために利用させてもらうとするかな」


 堕天使は毒のしたたるような微笑みを浮かべた。


「井上はるか。お前を魔界に招待しよう。そして、あの竜の伴侶の独房の鍵を授けてやろう。中間霊界人のくせにこんなところまで来た報いだ。せいぜい魔界をさまようがいい」






〈第1章 地の底の国へ 脱稿〉



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