第1章------(17) 地の底の国へ
はるかは大森林の町に入った。
町に入ると、例によって、それまで全く見えなかった大森林がいきなり視界に現れた。なだらかな曲線を描く山々とその山裾から広がる森林――荒涼とした大地ばかり続く地獄の風景のなかで、はじめて目の当たりにした豊かな自然だった。
「これは凄い……」
はるかは思わず言った。
なぜ、地獄の下層にあるこの町に、これほど多くの木々が存在しているのかわからない。もっとも、よく見ると、木々はどれも枝の先が枯れていて、白茶けた葉を垂れさがらせていた。それでも、幹となる部分は生きている。
はるかは町に迫りくるような森林を眺めながら、町の目抜き通りを歩いて行った。
ヨーロッパの風情を感じさせる町並みだった。
どの建物もレンガ造りで、オレンジ色の屋根をしている。一階にはアーチ状の柱が多く、中庭を囲むような形をしている。そこにいる霊人たちも、横田四丁目にいる日本人たちとは違って、鼻の付け根が高い、青や緑の目を持った人々が多かった。
はるかは珍しそうに町を見て歩きながら、噴水の前でぼんやりしている男に声をかけた。
「あの、すみません。博物館ってどこにありますか?」
明るい茶色の目をもった男は、胡乱そうに見返してくる。男ははるかを値踏みするようにじろじろ眺め、はるかの質問とは違ったことを聞いた。
「中国人か」
「いえ。日本人です」
はるかが答えると、男は肩をすくめた。
「珍しいな。日本人は滅多に来ない。やつらは自分たちだけで固まって霊界を作るのが普通だ。日本人の霊界はここじゃなくて、他のところにある。この近くなら、そうだな、例えば、神楽坂十丁目、燃える木の町――」
燃える木の町と聞いて、はるかは耳を疑う。
その町は、彼女の母親が暮らす町である。アフターワールドに来てから、はるかは一年に一度、中間霊界から地獄にいる母親に手紙を出している。その宛先がその町だった。
アフターワールドには無数の霊界があって、なかには同じような名前の町も多かったが、百回以上、手紙を出しているはるかが聞き間違えるわけはない。
彼女はゆっくり聞いた。
「燃える木の町。近くにあるんですか?」
「あるよ。歩いて、一日ってところだ」
はるかは唇を噛んで、しばし黙り込んだ。
地獄に住まう母親を忘れたことはない。
先日、天使の僕の仕事で地獄に来た時は、真吾に「地獄に行っても、今はけして母親には会いにゆくな」と言われたし、はるか自身もそのつもりだった。けれども、歩いて一日の距離に母親がいるということを知ってしまったら、話は別だ。
あれほど会いたかった母親が近くにいる。
彼女は母親を恋い慕う気持ちをぐっと押さえた。とは言うものの、小さな竜から頼まれた用件を終えた後、もし時間があれば――中間霊界に帰る途中で、その町に寄ってみてもいい。そんなふうに考える。
(でも、そうしたら帰りが遅くなって、ベアトリーチェとの約束の四日目が過ぎてしまう。帰りはなるべく急いで、一度、通った道だから、出来るだけ瞬間移動の技を使って帰るつもりだけど、それでも間に合わない……)
このチャンスを逃したら、次に母親と会える機会が巡ってくるのは、数千年後になるかもしれない。本来なら、それほど地獄にいる肉親と会うことは難しい。
はるかがショックを受けたように黙り込んでしまったので、男は怪訝な顔をした。
「で、あんた、博物館に何の用だい」
はるかは「あ」と呟いて、現実に引き戻されたように答えた。
「用って――その、せっかく来たから、少し見物しようかと」
男はにやりと笑った。はるかは噴水に座っていたこの男が比較的、温厚そうに見えたので声をかけたのだが、そうして笑うと、やはり地獄の霊人らしく、たちの良くない波動があらわれる。
「見物か。悪趣味だね。だが、いいだろう。教えてやる。あっちだよ」
斜め後ろの方向を指さす。
「森の中の小道を抜けて行ったところにある、古い館がそうだ。今から行くのかい?」
「そのつもりですが」
「それはいい。だが、気をつけるんだな。森の小道は暗くなってから通るもんじゃない。夜になる前に町へ戻ることだ。そうしないと、森に食われてしまうかもしれない」
「食われる?」
「そういうことだ」
何が面白かったのか、相手は不気味な笑い声を発した。はるかは驚いて男を見た。
「あ、有難う……ございます。じゃ、あたしはこれで」
逃げるようにその場を後にしようとする。そうして、さらにビクッとなる。いつの間にか、今のやりとりを多くの霊人たちが、周囲を取り囲むようにして聞いていたのである。
その表情は男と同じように、ひどく残酷でどこか狂ったようなものがあった。彼らははるかが自分たちに気づいたことを知ると、うっそりと目をそらした。
「あのう?」
はるかが問う。だが、答える者はなかった。人々はそれぞれの場所に散って行った。
「――イヤな感じ」
彼女は呟いた。
だが、人々を追ってゆくつもりはなかった。彼女は一刻も早く博物館に行って、ベリアルを探したかった。そして用事を済ませ、出来る限り早くこの町から出たかった。
はるかは、足早に教えられた道を歩きはじめた。
町の西側のはずれに続く小道は鬱蒼としていた。昼間でもかなり暗く、不安をさそう雰囲気をかもしだしていたが、はるかはもう躊躇わなかった。
彼女は歩くペースをさらに上げた。そうしながら、彼女はポケットの中に大切にしまってある、竜から預かった宝石を服の上から握りしめる。
(小竜ちゃん。すぐだからね)
彼女は小暗い道の先を見つめながら、思った。
ほどなくして、古い洋館が現れた。
立札も表札もなかったが、そこが”博物館”であることは一目でわかった。
(ここが――)
はるかは唾を飲む。しばし立ち尽くし、思い切って踏み出そうとして、足を止める。
(何だかイヤな感じがする。とても陰湿な。なんていうんだろう、いやらしい感じがする)
彼女は洋館を見上げた。
崩れかけた外壁に枯れた蔦のようなものがたくさん貼りついていた。窓は何十年も閉ざされたままであるように見えたし、庭の花々も枯れきっていて、醜い姿をさらしたままだった。それなのに、どこからか、とても香しい花のかおりがただよってくる。
(なにここ……)
甘い匂い。
ふと、下半身の奥が崩れてしまいそうな感覚を覚えた。こんな感覚は、生まれてから一度も感じたことがない。彼女は戸惑いながら、錆びついたノッカーで扉を叩いた。
少し待ったが、返答はなかった。それで「ごめんください」と声をあげる。だが、それにも返答がなく、彼女は意を決したように扉を押してみる。すると、重々しそうな見かけに反して、扉は簡単に開いた。
「あのう……」
小さく声をあげながら、はるかは博物館の内部を眺めた。建物の中は暗かった。だが、とてもたくさんの霊人の気配がする。彼女は息をのんだ。
(そうか。剥製にされた霊人たち)
この建物はつまり、その霊人たちの住処でもあるのだ。たとえ展示物として飾られて、その台座やショーケースの中から身動きひとつできないとしても。はるかは、こほんと咳払いした。
「すみませんが、入ります。皆さんのお邪魔をするつもりはありませんが、あたしはどうしてもここで探さなければならない相手がいるんです」
がらんとしたホールに向かって声を張りあげる。
勿論、返事はない。不吉な甘い香りは館のなかに入って、増々、強くなっている。彼女は今にも逃げ出したい衝動にかられながら、奥へ向かって歩きだした。
赤い絨毯の敷かれた廊下が続いていて、左右にいくつもの扉がある。はるかはそのひとつひとつを開けていった。
はじめの扉を開けた時、彼女は凍りついた。
洗濯物を干そうとしている女と、女のスカートの裾にしがみつこうとしている幼児がいた。彼らは不安定な姿勢のまま、ぴくりとも動かない。まるでその一瞬の動きのまま、時を止められているようでもあった。
そして、彼らの立っている部分のまわりは太いロープで囲まれ、隅のほうに、四角いプレートが立てられていた。何かの芸術作品でも展示しているようなかたちだ。
だが、はるかにはわかった。
彼らは生きた霊人だ。視線を動かすことも出来ないようだったが、彼らははるかが部屋に入ってきたことを知っているし、感じてもいる。
「あ、あの……お邪魔しました」
彼女は扉を閉めた。それから、隣の部屋の扉を開く。すると今度はチェス盤を置いて向かい合う男たちの姿があった。
さらに次の扉を開く。
酒場のカウンターで酒を飲む何人かの男女がいたが、女が隣の男にしなだれかかり、男の手が女の胸元に入れられている。それをまわりの男たちが面白そうに眺めている。
淫靡な雰囲気に、はるかはショックを受けたように立ち尽くす。だが、その次の部屋はもっと衝撃的だった。
カーテンのそばで、女が男に犯されていた。扉を開けた瞬間、その光景を見てとって、彼女は勢いよく扉を閉めた。彼女は顔を真っ赤にして、その場に蹲った。
「やめてよ……勘弁してよ。サロンは――サロンってどこ?」
早く、目的の部屋へたどり着いて、堕天使ベリアルがいるかどうか確かめたい。そう心に強く思った時だった。
何者かが、彼女の思念に返事をした。
(なんだ、お前。私を探していたのか。なら、いいよ。こっちにおいで)
透き通るような――素晴らしく耳に心地よい、鈴の音のような声が脳に響いてきた。はるかは驚いて顔をあげる。
(こっちだよ。そこを真っすぐ進んで、二階にあがるんだ)
声は言った。
間違いなかった。おそらく、その声の主こそが、堕天使ベリアルその人だった。




