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第1章------(16) 地の底の国へ



 翌日。


 はるかは明け方のうちに出発した。


 その日、ゼタの町から伸びる道は三本あった。彼女はその分岐点でしばらく立ち止まり、ひとつの道を選び、さらに下方の霊界にくだるために歩きはじめた。


 はじめの数時間、道すがら、ひとつの町、いや、町どころかささやかな集落にも出合わなかった。いつもと同じように暗い道をひたすら歩くだけである。


 はるかが不安になりかけた頃、道沿いに小川が現れた。よく見ると、ゼタの町を出発した頃は何もなかった道端に、草花がまばらに生えている。


(良かった。あたしの選択は間違ってなかったんだわ)


 彼女はほっと思った。


 竜は最も平穏そうに感じる道を選らべ、と告げた。


 ゼタの町から下にのびる道のなかで、はるかが選んだ道が最も荒れているように見えた。だが、結果的には危険な町にぶつかることはなかったし、たちの悪い悪霊人たちに出くわすこともなかった。


 彼女はドロップをひとつ口に入れると、あたりの風景を眺めた。


 相変わらず、寂寥とした土地だ。


 全体的に暗く、道のずっと先は黒い闇で閉ざされているように見える。それでも道端に植物が生えているだけ、いくらかの健全さを感じる。お世辞にも美しいとは言い難い、ひょろりと痩せた草花だったが、草が根をはることが出来るだけの栄養分が、この土地にはあるということだ。


 はるかは自分で取り出した水を飲み、再び歩きはじめた。


 この道の先にある町に行き、またその分岐点の道から下を目指す。彼女が最終的に目指すのは、〈大森林の町〉と呼ばれる霊界だった。そこに堕天使ベリアルがいるだろう、と竜は言った。





 ともあれ、全体として、旅は順調だった。


 岩々の町で多少、危険な目に遭ったが、それ以降はたいしたトラブルに巻き込まれることもなく、地獄の下層へすすむことができた。


 そうすることが出来たのは、はるか自身が行動に慎重になったことと、事前に、地獄について丹念に下調べをしていたからというのがあっただろう。また、日頃から地獄に頻繁に来ている真吾の持ち物を借りて、荷造りが出来たことも彼女を助けていた。


 基本的に真吾の持ち物は使い古されたものばかりだったが、品そのものは極めて上質だ。


 天使の衣と同じ生地で出来ている防寒具は、はるかに悪霊人たちが近づくのを防いでくれたし、普通はまず手に入れることができない、地獄の臭気から身を守ってくれる貴重なドロップが沢山あったのも幸運だった。


 彼女は持ってきた金品をすっかり奪われてしまったが、最も恐ろしい地獄の怨念や臭気からは守られていた。


 霊力の消耗を防ぐことが出来ていたので、彼女はまだ余裕をもって、自分の霊力で、水や食料を取り出すことができた。さらにそのあたりの石ころをなんとか貨幣らしいものに変えることも出来たので、高級なところは無理でも、安宿には泊まることが出来た。


 とは言え、彼女の旅を最も助けていたのは、やはり、竜の助言だったろう。


 忘却の丘の竜は、はるかの夢に頻繁に現れて、旅をする上でのアドバイスをくれた。そのアドバイスは経験に基づくものであり、実践的で、たいへん役に立った。


 そんなわけだったから、初めて地獄を旅するはるかが、たいした問題に遭遇せず、平穏無事に旅をすすめてこられたのは、当然と言えば、当然だったのかもしれない。おそらく、彼女は地獄を旅する多くの霊人たちのなかで、最も恵まれた状態にいたのだろうから。





 その日の午後だった。


 はるかは目的の町の入り口にいた。


 ゼタの町を明け方に出発して、歩き詰めに歩いてきたのだが、あまりに呆気なく目的地へ到着してしまったらしいことに気が付き、彼女はちょっと呆然となった。


 唐突に道標が現れた。


『大森林の町』


 道標には、その名前がしっかり刻み込まれていた。


 はるかは何度も文字を見返した。それまで何もなかったはずの道に突然、現れた道標が誰かの悪戯でないとは限らないことを、彼女は既に学んでいた。


(本物……?)


 意識を集中して、波動を探る。


 本物らしい。


 納得すると、今度は彼女はあたりを見回しはじめた。付近に霊人の気配はない。彼女は道の端に座ると、リュックサックを抱え込むようにして、膝をかかえた。そうして目を閉じて、深呼吸する。竜の言葉を思い出す。


〈大森林の町の入り口に着いたら、町に入る前、一度、浅くてもいいので眠りについてもらいたい。そこでお前に渡そう〉


 昨夜、ゼタの町の宿屋で眠った時、はるかがそろそろベリアルに渡す”竜の念がこめられたもの”を預かりたいと言った時、竜はそのように返事をしたのだ。


 眠気はなかなか訪れなかった。けれども、ほどなくして、何かに引っ張られるように眠りについた。





 忘却の丘だった。


 はるかは自分が白い世界にいることを知ると同時に、声を張りあげた。


「小竜ちゃん! あたしだよ。どこにいるの」


 少しして、応えがあった。


〈我はここだ。娘よ〉


 はるかの目の前から声がする。目を凝らすと、白い空気がもやのように動きだし、うっすらと大樹と竜の形を作り出してゆく。


〈ようやく着いたようだな。礼を言う〉


 アメジストの瞳がきらめいた。竜はいつもと同じように落ち着きはらった様子だったけれども、その波動は少し、興奮しているようだった。竜もはるかがいよいよ目的の町へ到着したことを知っているのだ。


 はるかは小さな竜に駆け寄った。


「この後、どうすればいい? ベリアルはどこにいるの。本当にあの町に来てるの?」


 急き込むようにはるかが聞く。竜は苦笑したようだった。


〈あの堕天使が町にいるかどうかは、行ってみないことにはわからぬが――そうだな、町に入ったら、まず博物館に行くがいい〉


「博物館」


 はるかはきょとんとする。地獄の下層の町に博物館というのは何となくイメージ的にそぐわない気がしたのだ。しかし、竜は重々しく頷いた。


〈そうだ。大森林の町の西側にある。館には何十人もの悪霊人が閉じ込められている。町の霊人たちはそこを博物館と呼んでいる。なぜなら、館に閉じ込められた霊人たちは、剥製のようにされ、各部屋に展示物として飾られているからだ〉


「え――」


〈驚くことはなかろう。地獄では生前に犯した罪のため、身動きひとつできぬ霊人が大勢いる。町のなかどころか自分の家から一歩も出れない者もいるし、中には家の柱と同化してしまった霊人もいるという。そうした霊人の一種だと考えればいい〉


 竜は平然と言った。


〈とにかくその博物館がベリアルのお気に入りでな。魔界から地獄に来ては、この町の博物館のサロンでお茶を飲んでいる〉


「そ、そう……」


〈ベリアルは銀色の瞳をしておる。また、他の堕天使どもは一応、固定化された容姿を持っているが、ベリアルにはそれがない。常に変わる。美しい少女の時もあれば、妖艶な美女であることもある。あるいは若者、壮年の男、老人といったようにな。しかし、その妖しく光る銀色の瞳だけは変わらぬ〉


 はるかはごくっと息をのんだ。


 堕天使ベリアルのことは天使の宮殿の図書館で調べてはきたものの、本物のベリアルは彼女が考えていたより、相当、とんでもない存在のようだった。


〈ベリアルは昔、我が出会った時は若者の姿をしていた。戦場で戦う時も、だいたい男性形であることが多いようだ。また、ベリアルは淫らで、悪徳のために悪徳を愛するような堕天使だ。誘惑されたら、注意するがよい〉


「……」


 はるかは途方にくれたように竜を見た。だが、今さら引き返すこともできない。彼女は緊張した面持ちで、竜を見た。


「それじゃあ、あたしはその博物館に行けばいいのね?」


〈然り。もし博物館にいなければ、町の酒屋で飲んだくれているか、路地裏の占い師のひとりに成りすましていることもある〉


「…………」


 はるかは堕天使がどういう存在であるのか、今ひとつわからない部分があったが、どうやら、ベリアルという堕天使は色々な意味で規格外であるようだった。


〈我が血族の娘よ〉


 竜は居住まいをただし、頭をさげるようにした。


〈お前にはまことに感謝している。これから我の念をこめた宝石をお前に渡そう。これをベリアルに渡してくれ。それで全て通じるはずだ。だが、石を生み出した後の我はお前の夢に介入することができなくなる。だから、お前とはこれで別れとなる〉


「え――」


 はるかは吃驚した。


「ちょっと待って。別れって。小竜ちゃん、いなくなっちゃうの?」


 竜は自分の死期を悟っている。そのことを思い出し、彼女は顔色を変えた。まさか、これを最後に竜は寿命を終えてしまうのではないかという思いがよぎる。はるかの思考を読んだように、竜は微苦笑した。


〈……そうではない。我はまだ死なぬよ。お前にコンタクトすることが出来なくなっても、我は今までどおり忘却の丘で眠っている。ただ、その眠りがより深いものになるだけだ〉


 そう告げて、疲れたように首を振った。


〈もし、ルキフェルの居城よりセラが助け出されて、自由になれば――いつか必ず、セラは我のもとを訪れよう。その時まで長い眠りにつくのだ〉


「小竜ちゃん……」


 はるかの目に大粒の涙がもりあがる。


 竜は自分は死ぬわけではない、と言った。だが、竜は今後、今までのようにはるかの夢にあらわれることが出来なくなるという。竜は衰弱している。竜をこの地につないでいるのは、ただひたすら愛する相手への想いのみなのだ。だから、はるかの耳には竜の言葉はほとんど”死”と同義語に聞こえた。


「わかった。必ず、ベリアルに届けるから。その宝石を渡してちょうだい」


 彼女は涙をこぶしでぬぐった。



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