第1章------(15) 地の底の国へ
その日の夕方、はるかはとある町の入り口に立っていた。
岩々の町からずっと交易路を下にくだって歩いてきた。途中でいくつかの町を通り過ぎたが、彼女はそれらの町には立ち寄らなかった。
また道中、何度か霊人たちと出会うことがあった。ほとんどが最近、死んで、霊界にやって来たばかりの霊人たちだった。彼らから声をかけられ、金を無心されたが、それにも応じなかった。
彼女はあたりに彼女の荷物を狙うような霊人がいないことを確認すると、おもむろにリュックサックを地面に置いた。それから地図を取り出して、標識の町名と見比べてみる。
間違いなかった。
この先にある町は確かに地図に書いてある町だった。
この町は、過去に天使と堕天使の大きな戦争があった場所であり、古い文献には、この町はさらに下層の霊界へ通じる通路として使われているとも記されていた。
彼女は静かに言った。
「ゼタの町」
心をとぎすまし、自分の告げた名によってもたらされたものの響きを探るようにする。
ゼタの町の名に不吉な感覚はなかった。ここは地獄の表層部分ではない。ゼタの町はすでに地獄の下層に位置しているのだが
、不思議とあまり悪い印象は受けない。彼女はほっと息をついた。
〈良いか。地獄では直感をとぎすますのだ〉
昨夜――というか、今朝方、夢のなかで竜が伝えてきた言葉がよみがえる。
〈言葉には力があり、名のひとつひとつにも意味がある。新たな町に着いたら、まず、その町の本質を探るのだ。よく地獄の下層に行くほど邪悪な霊界であると思う者がいるが、そうではない。まあ、怨念の濃度が下に行くほど沈殿しているというのは本当だがの、たとえ地獄の最下層にあるからといって、そこが地獄のなかで最も悪い土地というわけではないのだ〉
忘却の丘の大樹の根本で小さな竜がはるかを見つめる。
〈それゆえ、直感で邪悪と感じたら近寄らぬこと。そうでなければ通ってもよい。いいな〉
はるかは黙って頷いた。
〈まず、ゼタの町を目指せ。そこから下層への道が続いている。道は三本くらいある。常に同じ道があるとは限らない。その道のなかで、一番、平穏そうに感じる道を選べ。いいか。見た目に惑わされるな。本質を見極めるのだ〉
「本質」
〈そうだ。アフターワールドでは形は意味を持たぬ。常に変化する。しかし、本質は変わらぬ。不変だ〉
「うん。それはわかる」
〈それから、これは地獄を旅する上では基本的なことなのだが、お前はやや警戒心が足りぬようなので、教えておこう〉
竜はアメジストの瞳をくるりとまわした。
そして、地獄の町で売っているものをあまり食べないほうが良いと教えてくれた。地獄の食べ物を食べると、霊力が落ちるというのだ。霊力が落ちれば、直感が鈍くなり、地獄の空気に影響されやすくなる。
〈基本的に、地獄では常に霊人が消耗していると考えるのだ。お前は地獄の臭気から身を守る道具を持っているようだが、それでも、地獄にいる限り、空気を吸うだけで、お前の霊人は少しずつ、傷ついてゆく〉
はるかは真剣な表情で竜を見る。
〈食物についても同じだ。ほんの数回、食べる程度ならかまわぬが、毎日、地獄の食物ばかり口にしておれば、その霊人の感性は鈍り、霊力は半減し、地獄の悪しき気に飲み込まれ、やがて同化してしまうだろう〉
「同化……?」
はるかが聞き返すと、竜は長い首をもたげて、頷くような仕草をした。
〈知らぬ間にレベルが落ち、すっかり地獄の霊人となってしまうという意味だ。もといた霊界に戻れなくなる〉
中間霊界人にとって、それはとてつもなく恐ろしいことだった。はるかは身を震わせた。
「わかったわ。極力……地獄のものは食べない」
夢から覚めた後も、はるかは竜の忠告を覚えていた。
彼女はゼタの町に入る前に食事を済ませておこうと思った。竜もその町にしばらく留まるつもりなら、そうしたほうが良いと言っていた。
はるかは食物を出すよう念じた。
ひとかけらのパンが現れる。
パンは多少、ぱさついていたが、十分、食べることができる状態だった。それから喉の渇きを覚えて、水を出す。水も不純物もなく、普通に飲めた。
普段の、横田四丁目で食べている食事からすればきわめて簡素なものだったが、自分の力で出せる食べ物がちゃんと口に入れられるレベルだというのは、地獄の住人たちからすれば、あり得ないことなのだと竜は告げた。
〈中間霊界人なら当たり前のことも、地獄の霊人は出来ぬ。彼らの前で、自分の霊力を使って、食物を取り出すな。その食物を奪い合って、殺し合いが起こるだろうからな〉
確かに、地獄の食料事情はよくなさそうだった。
はるかは岩々の町で出された料理を思い出しながら、思う。
竜はまた、自分の力で食料を出せるうちはその食料を隠れて食べ、そのうち、地獄の滞在時間が長くなって、霊力が弱まり、自力で食料を出せなくなった時に持ってきた非常食を食べたほうがいいと教えてくれた。
(小竜ちゃんは昔、地獄を旅したことがあるんだわ)
はるかはパンを齧りながら思った。
(小竜ちゃんが霊人の姿だった頃――地獄に落ちたセラさんを探して、きっと長い間、地獄をさまよったんだわ。だから、このまま地獄に居続けたら、中間霊界人がどうなるかを知ってるんだ)
竜がもともと中間霊界の霊人であったことを、はるかはほぼ確信していた。
夢で竜と会う回数が増えるたびに強く感じることだったが、あの竜は純粋で、悪意がほとんどない。霊人であった頃、あの竜はかなり高いレベルの中間霊界人であったのではないかとさえ思う。だが、その力を全て消耗させながら、竜は地獄をさまよったのだ。
(それほどセラさんのことを)
はるかの心の奥がうずく。
彼女も百五十年ほど前、母親を追って、地獄へ下ろうと決意したことがあった。
だが、その決意はあっさり砕かれた。中間霊界最下層まではたどり着けたが、グランドリバーの激流を見た途端、足がすくんでしまった。母を慕う気持ちより、恐ろしさのほうが強かった。
(生前、夫婦や恋人同士だったとしても、霊界に来て、別れて暮らしている人はとても多い。――真吾さんだって、そうなんだもの。夫婦そろって同じ霊界で仲良く暮らしていられるなんて、本当に少ない。だけど、小竜ちゃんは諦めきれなかったんだ)
はるかは地獄の暗い大地を眺めた。
ここはもう表層地帯ではない。
(……こんな寂しいところをずっと――)
彼女は竜の想いに思いをはせるようにした。
ゼタの町に入った。
町に足を踏み入れた途端、はるかは「おや」と気が付いた。町の霊人たちの顔つきが明るい。また、他の地獄の町に比べて、空気が軽かった。地獄の表層部にあった、あの岩々の町より、よほど清々しい感じがする。
不思議に思っていると、広場の噴水の前で理由がわかった。記念碑が立っている。その記念碑に町の歴史が記されていた。
『その昔、ゼタの町は天使と堕天使軍の終わらぬ戦争の激戦区であった。戦いは長きにわたり、町は焦土と化した。だが、戦いは天使軍の勝利で終わり、そのことによって、特別に天より町に祝福が与えられた』
とある。はるかは納得した。祝福が与えられたため、地獄であるにもかかわらず、ゼタの町は他より霊界が明るいのだ。
だが、彼女は気をゆるめなかった。いくら祝福の恩恵があるとはいえ、ここもまた地獄の町である。どんな悪霊人がいるとも限らない。彼女はまわりに注意しながら、大通りを歩いて行った。
「すみません。下の霊界に行きたいんですが、道はどこにありますか」
果物屋で商品を並べていた青年に声をかける。青年ははるかの姿を見ると、その幼さに驚いた顔をしたが、すぐにはるかが見た目通りの年齢でないことに気づいたようだった。
「旅の人かい? お嬢さん。あんたなら下層の霊界に行く必要なんてないと思うけどな」
「事情があって。この町から下に続く道があると聞きました」
はるかが言うと、青年は頷いた。
「うん。そうだ。この道を真っすぐ行って、あのオレンジ色の大きな教会を左に曲がってごらん。教会の裏の路地に入ると、そこに道しるべがある。それが目印だ」
「道はいくつかあるって聞いたんですけど」
「そう。道筋の数は日によって変わる。四本の時もあれば、三本の時もある。まあ、道しるべに行き先は書いてあるから、自分の目的地に近い霊界があれば、行ってみればいい」
はるかは青年の言葉を頭に刻みつけるように聞いた。
「今からその道に行って、日が暮れるまでに、次の霊界に下れますか?」
「それは道との相性次第だな。道に嫌われたら、道端で野宿することになる。わかっているだろうけど、野宿はおすすめしないよ」
青年は肩をすくめた。はるかは礼を言って、その場を離れた。
それからその少し先にある店先で、同じことを尋ねた。先ほどの青年と同じように、店の女は愛想よく答えてくれた。話の内容が青年と同じであることを確認すると、はるかは安堵の息をついた。
(うん。大丈夫。嘘はつかれてない)
相手が嘘をついているかどうかは、波動を見れば、だいたいわかる。けれども、彼女は岩々の町の露店の女がはるかを騙そうとしたことを見抜けなかった。
見抜けなかったのは、多分、はるかが地獄に来たばかりで、緊張しすぎていたからだろう。あるいは、知らぬ間に地獄の空気にのまれていたためか。いずれにしても、霊力が曇って、本質が見えなくなっていた。
(あたしの直感は……?)
意識を集中して、心のなかで問いかける。はるかは顔をあげた。
(多分、この町は安全だ。今日はここに泊まろう。それで夜、また夢で小竜ちゃんに地獄のアドバイスを貰おう。そろそろ、小竜ちゃんの念をこめたものってやつも預からないといけないし。そして運が良ければ、明日には目的地の町へ到着できるはず。そうすればベアトリーチェとの約束までに何とか帰れるはずだから)
彼女は自分を励ますように思った。




