第1章------(14) 地の底の国へ
「そっちにいたか?」
「いや。いなかった――なら、あっちか。絶対、捕まえろ。まだ近くにいるはずだ」
男たちが声を荒げて話す声が聞こえてくる。はるかは暗い道端の、ゴミのようなものが積まれた場所に隠れながら、震えていた。
彼女は女の家の窓から身を乗り出して、壁面をつたって地面に降りようとしたのだが、途中で体重を支えきれなくなって、落下した。その時にあげた悲鳴で、女たちに気付かれてしまった。
「あの子が逃げた!」
女がヒステリックに叫び、女の夫が近所の男たちに声をかけて、はるかを探しはじめた。
はるかは落下の衝撃で体を強く打ったことと、先に落としたリュックサックを探すのに手間取ってしまったことで逃げ遅れ、実は家のすぐ前の路地にいた。
だが、それが幸いしたようだった。
男たちは逃げ出した獲物が、まさか、そんな目の鼻の先にいるとは思わなかったようで、はるかの潜んでいるあたりは探さず通り過ぎて行った。
男たちは付近を駆けまわり、何度か戻ってきて、状況を報告しあっていた。
「もっとよく探せ! 捕まえたら、子供を売った金で、たらふく飲み食いさせてやるぞ」
女の夫が怒鳴る。集まってきた男たちは騒ぎたてた。
「えらく気前がいいじゃねえか。そんなに高く売れるのかい」
「てめぇのかかあの話じゃ、まだほんのガキだったそうじゃないか」
「ただのガキじゃねえ。中間霊界のガキだ。そういう子供を捕まえて、慰み者にしたいって連中は多いんだぜ。しかも女のガキだ。
ガキでも女は女だ。楽しめるよ」
ねばついた声で言って、笑う。
「なーるほどなぁ」
「子供ばかりを犯す変態ってのも、多いからなあ」
男たちは陽気な声で言いあった。
「なら、気合をいれて捕まえないとな」
「ああ。全くだ」
彼らはひとしきり笑いあった後、走り去って行った。
あたりに静寂が訪れる。
はるかにとって、チャンスだった。今のうちにこの危険な場所から離れなければならない。だが、頭ではわかっていても、心がショックを受けていて、動けない。
(……どうして)
わけがわからなかった。
親切そうだった露店の女がはるかを騙した理由も、男たちがはるかを捕まえようとする理由も、理解できない。
(なんで、こんな――)
はるかは戦慄いた。
男たちははるかを憎んでいるわけではないのだ。
彼らは陽気で、残忍だった。中間霊界から降りてきた不運な子供を売り飛ばすことに何の罪悪感も感じていない。ただ、獲物がいるから狩りたてて、奪おうとしているだけだ。
はるかは瞼をぎゅっと閉じて、開いた。
ここは地獄なのだ。
しかも、ぞっとするのは、この岩々の町が地獄の表層部――つまり、地獄のなかで最も上の階層に存在することだった。
つまり、先日訪れた〈桜川の里町〉と同じように、この〈岩々の町〉の霊人たちも、比較的、中間霊界人に近い、良心的な人々であるはずなのだ。にもかかわらず、彼らは平気ではるかを売り飛ばそうとしている。
一番マシであるはずの霊界でこの状態なら、もっと下層の、はるかがこれから行こうとしているような町ではどうなってしまうのだろう。
「……に、逃げなきゃ――」
彼女は立ち上がり、足を引きずるように歩きはじめた。
壁面から転落したダメージは、もうさほど、彼女の霊人に残っていない。地面に叩きつけられた瞬間の恐怖や痛みは、肉体を持つ人間たちと同じように訪れるが、それによって肉体的な後遺症を残すことはない。
過ぎ去ってしまえば、それだけのことになる。けれども、彼女の心はすっかり動揺していた。
はるかは、あたりを注意深く見て、物陰から物陰を目指すように、よろよろ走った。
女の家から出来るだけ遠ざからなければならない。彼女は街灯のある通りを避けて、横道の路地をすすんでいった。
路地は真っ暗だった。
どこからか下水の流れるような水音がし、悪臭がただよってくる。また、真夜中だというのに路地のいたるところに、霊人たちが座り込んでいることに気づいて、ぎょっとなる。浮浪者のようだった。襤褸をまとい、目ばかりが爛々と光っている。
「誰だい。お前は」
「なあ。何か、食べ物をおくれよ」
やせ細った手で掴まれ、はるかは悲鳴をあげそうになった。
「ひっ……」
咄嗟に相手の手を払い落とし、その激しい拒絶の反応をしてしまった自分自身に愕然となる。彼女は喘ぐような声をあげると、後ずさりして、駆けだした。
その後、はるかは自分がどの道をどのように進んだか、覚えてなかった。
込み入った路地を滅茶苦茶に走り、行き止まりに突き当たっては戻って進むということを繰り返した。
追手の男たちに発見されなかったのは、全くの幸運だった。
最終的に、彼女は夜通し営業している居酒屋のようなところに転がりこみ、その店の片隅で朝になるのを待つことにした。
空腹を感じたので、軽食を注文したが、出てきた料理は食欲を失わさせるような出来栄えのものでしかなかった。やがて、彼女はうとうと微睡みはじめた。
時間が過ぎた。すっかり寝入ってしまったことに気づいて、はるかはハッとなる。そうして、身を固くした。彼女のリュックサックの中身が床一面にぶちまけられている。
「え……?」
咄嗟に状況が理解できなかった。
ここは岩々の町の居酒屋のはずだった。露店の女の家から逃げ出し、走り回って、ようやく辿り着いた安全な場所――のはずだった。
「どういうこと……」
呟いて、突っ伏していたテーブルから身を起こす。
深夜、飛び込んで来た時、店にはそれなりに客がいたが、今ははるか以外、誰もいない。灯りも消され、すっかり店じまいをしてしまっている雰囲気だった。
はるかは床に散乱する物を拾いながら、リュックサックに戻してゆく。そうしながら、彼女は気が付いた。金目のものが、ごっそり盗まれていることを。
真吾のへそくりの金貨や銀貨。美しく光る宝石など、地獄で金に困ったときに使おうとして持ってきたものが、なくなっている。
代わりに、地獄の住民たちには必要ない、中間霊界人を地獄の臭気から守るドロップだとか、天使の衣と同じ生地で出来ているという防寒具などは無事だった。いや、非常食も残っているところを見ると、盗人は金だけを選んで盗んで行ったらしい。
「起きたのかい、お嬢ちゃん」
いきなり声をかけられて、はるかは身を震わせた。振り向くと、カウンター越しに太った男が立っている。居酒屋の店主だった。
「お前さん、追われてたんだろう?」
「どうしてそれを」はるかは驚いて言う。店主は肩をすくめた。
「中間霊界人の子供が、ある家で盗みをして、逃げたって通報があったのさ」
はるかが「盗み?」と聞き返す。
「食い逃げだ。その家で大切にとってあった魚料理を家に上がり込んで、勝手に食べてしまったんだと」
「嘘! あれはくれるって言ったのよ」
はるかは叫ぶように言った。興奮のためか、両目が熱くなって、涙があふれてくる。
「宿を探してるって言ったら、うちに泊まればいいと言ってくれたのよ! それで出された食事を食べただけ――なのに、あの人たちはあたしを捕まえて、どこかに売ろうとして」
「まあ、そんなところだろうな」
店主は同情するように言った。だが、はるかの身に起きた出来事そのものについては、驚いたふうではない。この岩々の町では、そうした出来事が珍しくないのかもしれない。
「だけどま、連中に仕返しをしようなんて、考えないほうがいい。役人に訴えることはできるが、まともに取り合ってもらえないばかりか、連中から逆恨みされるのがオチだ」
はるかは不満そうに口を結ぶ。
「あんたがそんな真似が出来る霊人じゃないことは、顔を見れば、わかる。実はな、昨夜、この店にもあんたの追手がやって来たんだ」
はるかはビクッとなって店主を見る。店主は穏やかな表情で頷いた。
「安心しろ。あの時、この店に居合わせた客たちは、皆、あんたが騙されたんだろうってわかっていた。だから、俺たちはあんたを守ってやることにしたんだ。そんな子供はこの店には来ていないと追い返してやった」
「……それは――どうも」はるかはうわごとのように礼を言いかけたが、男の次の言葉を聞いて、絶句する。
「で、俺たちはその報酬として、お前さんの持ち物から金をいただいたというわけだ。ただその金を配分するとき、少し、喧嘩になってな。お前さんの荷物を荒らしちまった。悪く思うなよ」
「そんな」
はるかは声を震わせた。
はるかはひとりで歩いていた。
岩々の町を出て、地獄の下の階層の霊界に行くために。
そのための道順は、居酒屋で寝入ってしまった時に竜から教えられていた。
彼女は立ち止まり、手のひらを握り締めた。
(今ならまだ――引き返せる)
心のどこかで思う。昨日の出来事以来、彼女は馬笛を肌身離さず身に着けることにした。この表層部で馬笛を吹けば、タロウはすぐにはるかを迎えに来てくれるだろう。
「でも……あたしは約束したんだ」
自分自身に言い聞かせるように呟く。
空が黒く、空気が重い。ここでは空の上の美しいパラダイスの風景が垣間見えることなど万が一にもない。
「ここは中間霊界じゃない。地獄なんだ。馬鹿なはるか。わかっていたはずじゃない」
彼女は不安な気持ちを押しやって、歩きはじめた。




