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第1章------(13) 地の底の国へ



 はるかは海に浮いていた。


 頬にあたる日差しが温かい。冷たい水は気持ちよく、火照った体を冷やしてくれるようだった。青い空が高い。白い雲が浮いている。陸が近いのだろうか。遠くで、カモメの鳴き声がした。実に平和な眺めだった。


 だが、と彼女は思う。


 ここは彼女の夢のなかで、忘却の丘だった。


(小竜ちゃん……また)


 眠りについた途端、腕をひっつかまれるようにして、忘却の丘へ来たまでは良かったが、着いた途端、海に投げ込まれた。もう、はるかは驚かなかった。海の水に触れた瞬間にわかった。この水は竜の恋人への切ない想いで出来ている。


「小竜ちゃん、あなたの気持ちはわかってるから!」


 空に向かって声を張りあげる。


「とりあえず、海を戻して。早くっ」


 応えはすぐあった。


〈やや。すまない。またしても――か?〉


 竜は自分の思念が海になっていたことに、気づいていなかったようだった。


〈血族の娘よ。我はまことにお前に感謝している。今までは何の希望もなかったが、お前が我の願いを引き受けてくれたおかげで、我は一縷の望みを持つことが出来るようになった。それが嬉しくてのう。ずっと嬉し泣きをしておったのだ〉


 どうやら、この海は竜の涙だったようだ。


 はるかは顔をしかめた。


 彼女が苦労して地獄に来ようとしていた間、この竜は自分を憐れんで泣いていただけなのか、という思いがよぎる。忘却の丘に幽閉されてる竜にすれば仕方のないことなのだろうが、はるかとしては多少、面白くない。


「うん。わかった。だから、いつもの場所に戻して」


 彼女は突き放すように言った。竜ははるかの不機嫌な波動を感じて、一瞬、押し黙ったようだった。間があって、竜は咳払いするように言った。


〈待て。調整する。――それより、我はお前に至急、伝えたいことがあったのだ。お前、早く起きて、その家を逃げ出せ。身ぐるみはがされて、売られてしまうぞ〉


「ど、どういうこと?」


 はるかは耳を疑った。





「自分の家だと思って、くつろいでおくれね」


 岩々の町の露店の女は、上機嫌に言った。


 彼女ははるかが宿屋を探していることを知ると、それなら自分の家に来ないかと誘ってくれたのだ。


 勿論、はるかは申し出を断った。女の親切心を疑ったわけではなかったが、地獄の、見知らぬ霊人の家に泊まることは何となく憚られた。だが、女は人の好さそうな顔をにっこりさせて、「そう言わずに」と何度も誘ってくれた。


 その親切そうな笑顔にほだされて、結局、はるかは女の家に泊まることになってしまった。


「何もないところだけど、お腹すいてるだろ。今、ご飯を作ってあげるからねえ」


 女は家に帰るなり、せわしなく働きはじめる。


 岩をくり抜いた住まいである。壁はむき出しの岩で、床には何枚もの敷物が敷き詰められている。灯りはランプが三つ。奥の部屋には、岩のテーブルがあった。


 はるかは薄暗い住まいを珍しそうに眺めながら、恐縮して言った。


「いえ。おかまいなく。本当に泊めてもらえるだけでも、有難いので」


「小さい子がそんなこと言わないで」


 女は笑いながら答えた。それから台所のほうに消えて行って、しばらくすると、何皿かの料理をトレーに乗せて、戻ってきた。


「ちょうど良かった。頂き物の魚があったんだ。あたしらにはご馳走だからね、簡単に手をつけちゃまずいと思って、とっておいたんだ。さあ、たんと食べておくれ」


 その腐りかけたような魚の煮物が入っているスープを見て、はるかはぎょっとなった。


 と同時に、普段、横田四丁目で食べている食事がいかに贅沢なものであるかを思い知らされる。女に悪気はなく、いや、むしろ、自分たちの食事のうちで最も上等なものを差し出してくれているのだ。


「ありがとう……おばさん」


 彼女はスプーンを握りしめた。


 魚からは悪臭がただよっていたが、断ることはできなかった。彼女は意を決したように、食事をはじめた。女ははるかが食べるのを見て、とても喜んだ。そして自分はもっと質素な茶色っぽい塊を口にはこんだ。


「……」


 はるかは女の食べている物を見た。女はその視線に気づいたように言った。


「これかい? これはお役人から配給で貰えるパンだよ」


「パン」


 とてもそうは見えなかったが、そう言うなら、そうなのだろう。


 はるかは、自分のリュックサックのなかにしまってある非常食を女にあげようかと迷ったが、そうはしなかった。なぜなら、彼女の非常食のほうが、女の食べている”パン”より、ずっと柔らかく、味が良さそうだったからである。


 ついでに言うなら、はるかがご馳走になってる魚よりも、やはり非常食のほうが上質だった。はるかは息をついて、リュックサックから視線をはずした。


「おばさんは地獄はもう長いの?」


 彼女は聞いた。


「ねえ。このお魚は量が多いから、あたしひとりじゃ食べきれないかもしれない。おばさんも一緒に食べて欲しいんだけど」


 そうして、はるかは当たり障りのない程度に身の上話などをして、床についたのだった。





「あの親切なおばさんが、あたしを騙してたってこと?」


 はるかは吃驚して、聞き返した。思念の海はすでに消えている。そこにはいつもの白い空間が広がっていた。目を凝らすと、大樹とその根本に蹲る小さな竜の姿が浮きあがってきた。


「小竜ちゃん、どういうこと?」


 はるかは竜の姿を見つけるやいなや、駆け寄った。竜は長い首をあげて、はるかを見た。


〈あの女はとんだ食わせ物だということだ。驚くことではない。地獄の霊人なのだから〉


 竜のアメジストの瞳がくるりとまわる。


「でも、あの人はあたしを助けようとしてくれたんだよ」


 はるかは呆然となった。


 にわかに信じられることではなかった。女は親切だった。その親切が偽りだったとは思いたくない。竜ははるかを観察するように眺め、やさしい目を向けてきた。


〈お前は健やかだな、娘よ。お前が真実、そのように思っているのが伝わってくるぞ。人の心をそれほど素直に信じる気持ちは清々しい〉


「な、なに言って」


 はるかは顔を赤くする。竜の温かい気持ちが流れてくる。竜は目を細めて、うっとりとその気持ちを味わっていたようだったが、不意に、表情を変えた。


〈だが、今は危険が迫っている。起きて、逃げろ。そしてどこか隠れられる場所を見つけ、もう一度、眠りにつけ。その時、お前の行くべき道を授けてやろう〉


 その瞬間、はるかは眠りから覚めた。





「――だからさ、高く売れるよ。滅多に見ない上玉なんだ。きれいな霊人だ。ここらの霊人じゃないね。あれは上から間違って降りてきたのか、かどわかされてきたのか、わからないけど、とんだ掘り出し物だよ」


 低い声。


 その声を壁越しに聞いた途端、はるかは背筋が冷たくなる。


「金は持ってるのか」


 男の声が聞く。はるかの知らない霊人だ。おそらく、女の夫なのだろう。はるかの記憶によると、女は確か、夫婦ふたりで暮らしていると言っていたから。


「持ってそうだね。あの子は寝ているから、荷物を調べてみればいい」


「その前に猿轡と縄だな」


「あいよ。後で取りに行ってくるよ」


 そう言って、男女が低く笑いあう。


 はるかはそこまで聞いて、岩壁を離れた。


(どうしよう。逃げなきゃ)


 だが、彼女が通された部屋は奥にあり、戸口に出るには、女たちがいる部屋を通り抜けなければならない。


 もう、夜も遅い。女たちがこのまま床についてくれればいいが、朝を待たず、今、はるかを縛り上げようとして来たら、まずいことになる。


(どうしよう……)


 はるかはもう一度、思い、あたりを見回した。


 壁面に窓がある。子供がひとり通り抜けられるかどうかの穴だ。その向こうは岩々の町の路地につながっている。だが、この家は三階くらいの高い場所にあったはずだ。


 はるかは息をのんだ。


 そっと手を伸ばし、枕元に置いておいたリュックサックを抱きしめる。リュックサックを背負った状態で、その窓を通り抜けることは不可能だろう。だから、はじめに荷物を先に穴から落とし、それから、はるか自身も穴を通り抜けて、外に逃げる。


(出来るだろうか)


 彼女は暗闇のなかで、息を殺して、目を閉じる。


 まずは隣室の男女の気配が静まるのを待つ。だが、彼らが完全に寝入ってしまうまで待つのは危険すぎる気がした。


(今しか……ない? だから、小竜ちゃんは夢で教えてくれた?)


 男女は酒を飲んでいるようだった。しかも、男のほうはだいぶ酔っぱらっている。それなら、逃げるチャンスもあるかもしれない。


「……」


 彼女は唇を噛みしめた。心を決めた。


 立ち上がり、リュックサックを窓に押し込む。少しして、大きな音がした。はるかはビクッとなったが、隣室の男女は気づかなかったようだった。はるかは胸を撫でおろし、今度は自分がその窓をくぐるために、足場にするための家具を窓際に移動させはじめた。


(どうかあたしが降りるまで、荷物が盗まれませんように)


 彼女は必死に祈った。


 あのリュックサックのなかには彼女の旅を支えるあらゆる物が入っている。あれがなければ、彼女は一日も地獄にいることが出来ない。


 彼女は窓から身を乗り出し、下を見た。思った以上に高さがある。幸い、近くに手頃な出っ張りがあった。彼女はそこに手を伸ばし、力をこめた。



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