第1章------(11) 地の底の国へ
「旅。今から?」
ベアトリーチェはまつ毛の長い、大きな目を瞬かせた。あたりはとっくに日が暮れている。アフターワールドには地上界のような厳密な時間の流れはないが、それでも大まかな朝晩のうつろいはある。霊人たちはそれに従って、生活している。
だから、夜になってから、旅立とうという霊人はあまりいない。いや、昼間でも、少ないだろう。なぜなら、永遠の地を定めてしまった霊人は、普通は滅多なことではその霊界から動かないものなのだ。
「よ、夜だよ?」
ベアトリーチェはびっくりしたように言う。
はるかは「うん」と頷いた。
彼女は親友に打ち明けるべきかどうか迷ったが、心を決めた。
「誰にも言わないって、約束できる?」
話を聞き終わると、ベアトリーチェはいつになく深刻そうな顔になった。
「あのね。はるかちゃん。それは、あなたが思っているより、危険な旅になるわよ」
低い声で言う。はるかは唇を噛みしめた。言われるまでもなく、そのことははるか自身もわかっている。だが、彼女はつとめて明るい声をだした。
「大丈夫だよ。あたしは本当に危険な場所には行かないつもりだから。ちょっと、地獄の町に行くだけ。魔界には行かない。だから、きっと大丈夫」
「魔界って――そんなとこに行けるわけないでしょ。堕天使たちの住む霊界なんて」
ベアトリーチェは吐き捨てるように言うと、はるかを見つめた。
「だいたいその地獄にだって、真吾じゃあるまいし、普通の中間霊人は簡単に行けないんだよ。どうやって行くつもりなの。地獄の門をくぐって? それとも、最果ての地のグランドリバーから?」
「それは。何とかなると思う」
「どういうこと」
ベアトリーチェが詰め寄る。はるかは目線をそらした。
「タロウを借りるんだよ」
タロウは真吾の所有する天馬だ。
天馬とは天使たちが騎乗する、翼の生えた白馬のことで、真吾はその天馬を大天使より譲り受けていた。この天馬を使えば、煩雑な手続きを無視して、地獄へ直接、飛ぶことができる。はるかはそのことを知っていた。
「ちょっと、タロウって……あなた、本気なの?」
ベアトリーチェは気色ばんだ。
「あれは空を飛んで、霊界の階層を超えてゆくんだよ? 馬にも乗ったことのないあなたが天馬に乗って、振り落とされない自信はあるの?」
自信はなかったが、他に方法がないから仕方がない。はるかは「大丈夫だよ」と不安そうに笑った。ベアトリーチェは我慢できなくなったように叫んだ。
「だいたいねえ、その夢のなかの竜の話って、本当なの? あなた、はるかちゃん、しっかりして。堕天使ベリアルって、そんな相手に本気で会えると思ってるの? 堕天使は地獄の版図を広げようとしている、恐ろしい敵なんだよ」
「う、うん。わかってる。でも戦争してるのは天使と堕天使なんだし……大天使ラファエル様に会えるんだから、堕天使に会うのも不可能じゃないと思う」
「普通の霊人は千年生きても、大天使様になんて会えない。いつも会ってる真吾たちのほうが異常なの!」
ベアトリーチェは勢いよく言って、途方にくれたように唸った。
「一応、聞くけど、このこと、真吾は知ってるの」
はるかは小声で答えた。
「……知らない」
「でしょうね」
ベアトリーチェはこめかみを押さえる。彼女は、思いつめたはるかの表情とリュックサックを交互に見て、このようなところへ居合わせてしまった自分の運の悪さを呪うようにため息をついた。
「運命の恋だか何だか知らないけど、ものすごく、胡散臭い話だと思う。正直、賛成できない。本来なら、力づくでもあなたを引き止めなくちゃならないんだと思う」
「う、うん」
はるかは警戒するように、後ずさる。ベアトリーチェは怖い顔をした。
「でも、あなたは本気で行くつもりなのね」
「そうだよ」
「天使の僕の仕事は?」
「少しの間、お休みを貰うことにした」
はるかは言った。本当は休暇の希望を申請しただけで、その返答は貰ってなかったが、それについては黙っている。しかし、ベアトリーチェは「そうなの」と渋々、納得したようだった。彼女は深いため息をついた。
「じゃあ、勝手にすればいいわ。あたしは何も見なかったし、聞かなかったことにする」
「え……」はるかはぽかんとなった。ベアトリーチェははるかを睨むように見た。
「何よ。その目は。引き止めると思ったの?」
「まあ……」
「そりゃあ反対よ。でも、あなたは言い出したら、聞かないでしょ? 昔から――出会った頃から、あんたは頑固だったからね。覚えてる? 真吾やあたしたちから逃げ出して、まだ霊界に全然、不慣れだっていうのに、ひとりで地獄のお母さんのところへ行こうとした時のこと」
ベアトリーチェは仕方なさそうに肩をすくめる。
当時、はるかは本当の十歳だった。
死んで、霊界に来たばかりで、何もわからない状態だったが、離れ離れになった母親を追いかけて、ひとりで地獄へ行こうとした。
その時のことを知っているベアトリーチェは、たとえ今、はるかを引き止めても、結局、はるかは同じことをするだろうと思っているのかもしれない。
「覚えてるよ。でも、あたしはもう十歳じゃない。あれから百年以上過ぎた。見かけはあまり変わってなくても、今は霊界のことだって、あの頃よりずっと知っている」
「そうね。だから、今回は見逃してあげる。あなたがそんなふうに言い出すなんて、よっぽどのことだろうから。でもね、四日間よ。四日のうちに戻ってこなかったら、あたしは真吾に全部話す。それでいい?」
ベアトリーチェがはるかの目を見つめる。はるかは「うん」と言って、「有難う」と続けて言った。
「しょうがないわね! だったら、さっさと行きなさい。あたしははるかのところに行ったけど、行き違って会えなかったことにするから」
「ごめん。有難う」
「もう、いいから」
ベアトリーチェはすっかり冷めきってしまったミートパイを包み直すと、背中を向けて歩きだした。はるかはその背中に心の中でもう一度、礼を言って、リュックサックを背負って、厩舎のほうへ向かった。
「タロウ。起きて。連れていって欲しいところがあるの」
彼女は天馬に声をかけた。
(四日)
それまでには、必ず、帰ってくると心に誓う。
そうしなければ、ベアトリーチェにまで迷惑をかけてしまう。
(真吾さん、ごめんなさい。帰ったら、必ず罰を受けるから)
英傑の天馬を無断で持ち出すことだけでも、罪になるだろう。その上、彼女は天使の僕の仕事を放り出し、地獄へ行くのだ。場合によっては、厳罰が下されるかもしれない。それに何より、実の娘のように可愛がってもらっている真吾に心配をかけることになる。
(ごめんなさい)
はるかは、心のなかで真吾に頭を下げた。
数日前、初めて地獄に行った時のお土産の反物を嬉しそうに受け取っていた真吾の姿が目に浮かぶ。
(でも、行かなくちゃ……小竜ちゃんにはあたししかいないんだから)
彼女は自分自身を励ますように思った。
(それに――こうすることは、あたし自身の望みでもあるんだわ)
◇
はるかは天馬を駆った。
日頃、タロウの世話はよくしていても、その背に乗ったことは、真吾と一緒の時に数えるほどしかない。勿論、自分ひとりで空を飛んだことはない。そのはるかが苦労して馬の背に鞍を乗せて、馬によじ登り、天空を駆る。
「きゃあああっ!」
彼女は悲鳴をあげた。
タロウははるかに懐いていた。だから、はるかを乗せることは嫌がらなかった。また、時ならぬ時に空に散歩に出かけられると知って、喜んでいるようでもあった。はるかはたまらず叫んだ。
「タロウ、タロウちゃんっ! もっとスピードを緩めてっ、怖いっ、止まってっ」
何度か必死に呼びかけた後、ようやく天馬が空の上で止まった。はるかは汗だくになりながら、馬の首に手を置いた。
「これから言うことを、よく聞いてね。あたしたちはこれから地獄に行くのよ? できるだけ静かに、目立たないようにゆっくりね……地獄。わかる? 今、イメージを送るから」
と言って、先日見た地獄のイメージをタロウに送る。天馬は賢い。タロウは「わかった」と言うように、ブルっと鼻を鳴らした。はるかは用心深くタロウに話しかけた。
「いい、ゆっくりよ? 突然、急降下なんてイヤだよ? じゃあ、行こうか」
そう言った途端だった。
再び、タロウが勢いよく空を駆けだした。そして地獄へ向かうのだというはるかのイメージを忠実に実行しようとするように、猛スピードで空を降りてゆく。はるかは手綱を握りしめて、悲鳴をあげた。
「ぶ、ぶつかる! 地面に――きゃあぁぁぁっ!」
だが、迫りくる地表と激突はしなかった。ぶつかったと思った瞬間、体が一瞬、ふわっと浮いて、その中に吸い込まれる。そうして気が付くと違う色の空にいた。霊界をひとつ抜けたのだと理解するより早く、再びタロウが急降下しはじめる。
はるかは、自分の悲鳴が長く尾を引いているのを聞いた。
数分後。彼女は地獄の黒い空の下にいた。
どうにかたどり着くことが出来た。それがまずはじめの感想だった。




