第1章------(10) 地の底の国へ
「すみません。しばらくお休みをください。お友達に頼まれて、どうしても行かなくてはいけないところが出来てしまいました」
はるかは神妙な面持ちで頭を下げた。彼女を担当する天使の僕の先輩は、一瞬、何を言われたのかわからない、といった顔つきで、はるかを見た。
「本当に申し訳ありません。大切な研修の途中にこんなことを言い出して。でも友達の件は一刻を争います。どうかお休みをください」
「えっと――それは……どういう」
天使の僕に抜擢されることは、霊人にとって、大変、栄誉なことだ。
選ばれれば、誰もが躍起になって、頑張ろうとする。だから、始まったばかりの研修を放り出して、休暇を要求する新人など、前例がないのだろう。天使の僕の先輩はしどろもどろになった。
「もしかして、ぼくの教え方がイヤだから、他の人に変えてほしいとかそういう話?」
「違います」
はるかは首を横に振った。先輩は困惑して言う。
「なら、どうして。きみは優秀だし、落ちこぼれることはないだろうし、何か不満なことがあるのかい」
「不満とかじゃなくて、時間が欲しいんです」
「そ、それは、天使の僕の仕事より大切なこと?」
先輩ははるかを覗き込むように見た。はるかはその視線を受け止めて、頷いた。
「……多分。――本当はそうじゃないかもしれないけど、あたしはその友達を助けると約束してしまいました。天使の僕の仕事の大切さはあたしもよくわかっています。でも、それと同じくらい、約束を守ることも大事だと思うんです」
幼い外見に似合わず、きっぱり言う。その声音にこめられた少女の意思の強さに気圧されたように、先輩は押し黙った。少しして、かれは小声で聞いた。
「それは――英傑もご存知のことなのか?」
「真吾さんは関係ありません!」
はるかはいくぶん苛立って、言った。
はるかは怒っていた。
(まったく、誰もかれも真吾さん、真吾さんって!)
彼女は横田四丁目の家で、手早く荷物をまとめながら思った。
(それは、確かにあたしは真吾さんに育てられた。真吾さんは偉大だと思うし、尊敬もしてる。一緒の家に暮らしてるし、本当の親のように思ってる。でも、どうしてあたしがやることなすこと全部、真吾さんの許可が必要なわけ?)
苛々する。
(だいたいあの先輩も頼りない。なんで、ひとりで決められないの? ダメとも良いとも言わないで、上司を呼ぶだけなんて。見損なった。天使の僕のくせに)
彼女は興奮した気持ちを静めようとするように、深呼吸した。
事実、その場はちょっとした騒ぎになった。
はるかの申し出を聞いた気の毒な天使の僕の先輩は、慌てて、グループのリーダーを連れてきた。話を聞くと、リーダーも度肝を抜かしたようだった。はるかは小さな部屋へ連れてゆかれ、リーダーに細々と事情を問い詰められることになった。
けれども、はるかは頑として、詳細を語らなかった。
友達との約束を果たすために休暇が欲しい、それだけだ。
リーダーはどうしてもそれ以上の事情を聞き出せないことを悟ると、どこかに消えた。やはり、リーダーもこの件について、英傑の意思が関わっているのかを気にしていた。その後、はるかは「もう今日は帰っていいから」と言われ、自宅へ戻ることになった。
そうして、そのまま彼女は仏頂面で家に戻り、怒りにまかせて、旅支度をはじめたのだった。
(言えるわけがない。夢に現れた竜の頼みを聞いて、地獄におりて、堕天使ベリアルに会いに行くなんて)
彼女の体にしては少し大きめのリュックサックに非常食や防寒具を詰め込んでゆく。地獄で何が必要なのかわからないので、金目の物を少し、多めに忍ばせる。
(ごめんなさい。真吾さん)
はるかは、真吾のへそくりを半分ほど抜き取って、その隠し場所に手紙を入れた。同じ場所に地獄用のドロップの袋もあったので、それも頂戴する。
支度を終えると、彼女はふうっと息をついた。
緊張で、手のひらに汗が滲んでくる。
竜との約束を果たすために旅に出るなら、今しかなかった。
この機会を逃したら、彼女はきっと外出すらさせてもらえなくなる。連絡を受けた真吾が家に帰って来たら、お終いだということはよくわかっていた。
彼女は奥歯を噛みしめた。
本当は、自分がとんでもないことをしようとしているのではないかという思い。
(無事に戻ってこれる保証はない。小竜ちゃんは道を教えてくれると言ったけど、実際にその地に行くのはあたしだもの――地獄で迷って、誰からも忘れられて、さまよい続けることになるかもしれない)
何より、堕天使は恐ろしい。
はるかはサタン軍を見たことはなかったが、その獰猛さは聞いている。
また、堕天使ベリアルはサタン軍の中でも有力な武将のひとりである。堕天使の王ルキフェルほどではないが、勇猛で知られ、多くの部下を傘下におさめ、おのれの城までかまえているという。彼女が図書館で調べた本には、そのように書いてあった。
そんな相手に、はるかが会いに行く。誰が聞いても、無謀だと思うだろう。
(だけど、行かなくちゃいけない。小竜ちゃんにはあたししか頼れる人がいないんだから。それに……)
小さな竜の恋人への想念は、いつしか、はるか自身の想いにもなっていた。
もともと、水晶のなかの青年を見た瞬間、彼女は恋に落ちた。小さな嵐のような恋は、時間の経過にともない、より深く、彼女の心にしみこんでいった。そして、夢で竜の切ない恋情を聞かされるたびに、生まれたばかりのはるか自身の恋も刺激されてゆく。
竜の想いは純粋だった。
竜の記憶のなかにある、青年から竜へ向けられる想いもまた――。
竜によると、美貌の青年にも短所はあった。気まぐれで酷薄、他人の痛みを自分のものとして感じない。だが、たったひとりだけ、青年が本気で愛した相手がいた。それが竜だった。
彼らの絆は強い。
死後、霊界に来て、地獄に落ちた青年のもとに竜は足しげく通った。だが、生前の業によるものなのか、青年が落とされたのはただの地獄ではなく、地獄のなかでも相当に暗くて深い場所であったようだ。
(なんだか……怖い人みたいだけど、あの小竜ちゃんがそこまで好きだった人だもの、いい人には違いない。あの人に会ってみたい。声を聞いてみたい)
どこまでが竜の想いで、どこからがはるか自身の想いであるのかわからなかったが、彼女は日に日に青年に惹かれている自分を感じていた。
(こんな気持ち、はじめてだ)
運命の恋の相手。地獄の町の老婆はそう告げた。
さすがに、百五十八年も生きていれば、その言葉を鵜呑みにするほど世間知らずではない。だが、その言葉に浮き立つ気持ちになるほどには、彼女の心は若かった。それに、僅かではあるが、打算もある。
(小竜ちゃんは……あたしとセラさんが恋人になってもかまわないと言ってた。だったら)
自分の恋をかなえるチャンスはある。
たとえ、直接、彼女自身が囚われてる青年を助けることはできなくても、それに協力することによって、青年との接点が生まれる。接点が出来れば、それがその後、熱烈な――それこそ、運命の恋に発展しないとも限らない。
(ごめんね。小竜ちゃん)
罪悪感を感じて、彼女は心のなかで謝った。
もっとも、竜はそうしたはるかの心の動きまで見透かして、許している気がする。だからこそ彼女はベリアルを探すという約束だけは、果たしたいと思うのだった。
「はるかちゃん。帰ってるの? 今晩はー。誰かいる?」
戸を叩く音がした。ベアトリーチェだった。はるかはビクッと顔をあげて、玄関に出ようかどうか迷った。
「はるかちゃん、はるかちゃん」
ベアトリーチェはしかし、はるかがそこにいることを確信しているように、大声で呼び続ける。はるかは諦めて、立ち上がった。戸を少しだけ開けて、顔をのぞかせる。
「どうしたの、こんな時間に」
「あ。良かった、やっぱり家にいたのね」
ベアトリーチェはほっとしたように言った。
「これね。夕飯のミートパイ。焼いたんだけど、一緒に食べない? うちの兄が出かけていて、一人で食べるには量が多いのよ」
「い、今?」
はるかは驚いて、親友と親友の手にしている包みを見比べた。確かにその包みからは、香ばしい匂いが漂ってくる。普段のはるかなら、一も二もなく、ベアトリーチェを家に招き入れ、皿の用意をしただろう。
「う……ぐ。わざわざ有難う。でも、ごめんね、今、立て込んでいて。それにもう、あたし、晩御飯食べちゃったからさ」
彼女は空腹を抱えていたが、嘘をついた。ベアトリーチェは「えー」と不満げだ。彼女は家のなかを覗き込むように見た。
「じゃあ、真吾は?」
「えっ? まだだよ。帰ってない」
「そうなの? あら。あの荷物は何? どこか行くの?」
ベアトリーチェが目ざとくリュックサックを見つける。はるかはぎくっとする。
「ま、まあね」
「どこに」
「……たいした用じゃないんだけど、少し、遠出を。その、天使の僕の仕事で」
「ふうん」ベアトリーチェは訝しむようにはるかを見る。
「じゃあ、このミートパイは真吾にあげて。それから、せっかく来たんだから、家にあがらせて。あたし、ここで食事をしちゃうから。いいでしょ、はるか」
「え。あ。その」
はるかは慌てた。ベアトリーチェははるかを押しのけ、勝手知ったる様子で家のなかに入ってゆく。実際、そのようにして一緒に夕飯を食べることは今までもしょっちゅうあるのだ。
「ベアトリーチェ。あたし……その」
「何よ。さっきからおかしいわよ、あなた」
「あのね。あたし、今から旅に出なくちゃならないの!」
はるかは思いきったように言った。




