後編
後編です。
9、桜のハッカー・ルームにて
「にしても、いつ来ても薄気味悪ぃ部屋だな。」
辰子は室内を見渡すと、呆れたように言った。
希望も苦笑しながら言った。
「まるで秋葉原の雑居ビルにある怪しいジャンク屋さんだよね。」
桜は「てへ」とはにかむと、言い訳をした。
「第四次産業革命のせいで、高スペックのマシンは高くて手が届かないんだよねえ。だから欲しかったら自分で作るしかないと思うよ? それで材料を集めていたら、こんなになっちゃった。」
希望はちょっと感心したように頷いた。
「それで廃品のパソコンから部品を取って、使いまわしているわけだ。」
桜は約100世帯が入るマンションの1室に一人で住んでいる。
5LDKに一人で住んでいるわけだから、贅沢な話しである。
パパは仕事のため、ロスに海外出張中。ママもそれに同行している。
当初、彼らは桜もロスに連れて行こうとしたのだが、桜はそれに頑強に抵抗した。「もう高校生だから、子供じゃないんだから」と頑張って渋る両親を何とか説得し、日本に居残った。
そして両親からの仕送りで、気ままな一人暮らしを楽しんでいると言うわけである。
野崎家は大富豪というわけではないが、そこそこ金持ちで裕福な家のため家具調度品の趣味も良く、ちょっとしたアンティークのインテリアが部屋を飾っている。
桜の個室に行くには、リビングを横断しなければならない。
ソファーとテーブル、液晶テレビ。テラスを隔てたサッシの前には観葉植物が飾ってある。
壁には絵の類は無いが、代わりにビクトリア朝風の大きな食器棚があり、そこには使われた形跡のないマイセンやオールド・ノリタケの食器が並び、これまた開栓した形跡の無いレミーマルタンの「ルイ13世」やマッカランの30年物と言った高級酒などが飾られている。
そのリビングを隔てた六畳半ほどの角部屋が桜の個室である。
そこは、まさに異空間である。
扉を抜けると、そこはさっきのリビングとはおよそ別世界の異様な光景が広がっている。
部屋の中央にある大きなデスクの上には、液晶ディスプレイが4つも並び、ノートパソコンも2台ほどある。
足もとには馬鹿でかいワークステーションの本体があり、部屋のあちこちにタワー本体が置かれている。床にはLANケーブルをはじめ様々なコードが縦横無尽に走っている。
そしてそれらの先端には、メイドイン香港とある用途すら不明の怪しげな周辺機器につながっており、チカチカと無数の小さなランプが不気味に点滅していた。
段ボール箱がいくつも並び、中には基盤やらパーツやらがぞんざいに詰め込まれている。
2つある本棚には、専門ソフトのマニュアルやら、プログラム言語の教書やら、セキュリティの専門書やらが、ぎっしり詰まっている。
何より凄いのは本棚がある側と反対側の壁だ。そこはまるでスクラップの集積場と言った有様で、パソコン本体の残骸が山と積み上げられている。蓋が開いてパーツがはみ出たパソコン本体は、解剖されかけている何かの死骸を思わせた。
そんな惨状の部屋の中を、桜はご機嫌に鼻歌でも詠いそうな明るい表情で歩く。
そして桜はデスクに向って腰を降ろした。
「お役所のデータバンクに侵入するには、それなりの機材が必要になるからね。」
それで桜の自室、ハッキングの要塞にやって来たという次第だ。
そしてここであの謎の人物、「桜塚護」の戸籍データを探り、情報を引き出そうというわけだ。
ちょうどその時、希望の携帯が鳴った。「メール受信」だ。
うわあ……。
見ると、勇一からだった。
毎度のことながら、間の悪い少年である。何もこの忙しい時に、よりにもよって。
メールを開いてみると、やっぱりデートの誘いだ。
「今週末、お時間をいただけませんか? 」とある。
希望は嘆息した。
さて、何と返事をしたものか。
希望は桜に視線を向けた。ぼく達三人はお互い変な隠し立てはしないと誓い合った仲だよな。
「桜、ちょっと聞いて欲しいことがあるんだ。」
桜はいつもの屈託のない表情で「なあに? 」と答える。
希望は覚悟を決めた。
「中妻勇一、もちろん桜は、この子のことを知ってるよな? 」
桜はちょっと目を大きく見開いた。
そして「あ、私の失恋、ばれちゃった? 」と笑い、舌をペロリと出した。
希望はそれに頷くと、この間のことをかいつまんで説明した。
「彼がどんな子か、調べて見ようとしたんだよ。そうしたら……」
もちろん、不良達に袋叩きにされたことはオミットした。そんなことがあったと辰子に知られたら、大変なことになる。
それで勇一が希望に好意を寄せているらしいこと。彼とメアドと携帯番号を交換し、自分がデートに誘われていることも全て説明した。
桜は黙って、希望の話しを聞いていた。
そして、
「良いよ? 」
桜の返事は、拍子抜けするほど、あっさりしたものだった。
「私のほうこそ、ごめんなさい。隠し立てするつもりは無かったんだよ。二人に余計な心配をかけたくなかっただけで……」
辰子は「ふーっ」と息をついて言った。
「それで、あの明るく振る舞う、わざとらしい演技か。お前が落ち込んでいたことぐらい、俺たちには丸わかりだっつーに。」
桜は軽く頭をペコリと下げた。
「二人とも、ごめんね? 」
辰子は頭をポリポリと掻いた。
「で、その桜をふった空手小僧が、今度は希望に一目惚れか。妙な展開になってきたな。で、希望はそいつのことをどう思ってるんだ? 」
「どうって、いい子だと思うな。好きか嫌いかと問われると、そりゃ好きかな? 」
辰子は、呆れたように言った。
「こいつの朴念仁ぶりは、ガキの頃からまったく変わらねえな。そうじゃなくてよ、その空手小僧に恋愛感情はあるのか? って聞いてるんだよ。」
希望は「うーん」と唸った。
「正直その恋愛感情というのがどういうものなのか、ぼくには分からないや。ただ、勇一君のことは、かなり気に入っているよ。いきなり恋人ってのも難しいかもしれないけど、プラトニックなお付き合いならしてもいいかな、とは思ってる。」
桜は回転椅子をクルとこちらに向けた。
「相手はまだ中学生だもん。それで良いと思うよ? ただ」
「ただ? 」
「その子と付き合うなら、その子は特別扱いしてあげなきゃ駄目だと思うよ? 他の男の子とは違う、君は特別なんだってことにしてあげないとね。」
希望はちょっと考え込んだ。
「……つまり、浮気はするなってことかな。」
桜はにっこりとほほ笑んで頷いた。
「そうだよ? 」
希望はまたちょっと考え込む。そして言った。
「……できると思う。」
桜は満足そうに頷いた。
「良いよ? 」
希望は、改めて尋ねた。
「でも、桜はそれで本当にいいのか? 」
「もちろん、良いよ。私はこう見えても、恋愛についても、失恋についても、希望たちより、ずっとずっと先輩だと思うよ? ふられるのも、別に今回が初めてじゃないし。」
希望は申し訳ない気持ちで言った。
「そうか……ごめん。」
桜は回転椅子をクルリと回して元の向きに戻ると、右腕を勢いよく振り上げて言った。
「熨斗つけて、くれてやらー! あーんな、子ザル! てやんでー! 」
辰子は苦笑いを浮かべた。
「やはり、精神力と打たれ強さは、俺たちの中では、桜が一番だな。」
そして辰子は視線を希望に向けた。
「でも、もう一つ大きな問題があるぜ? 」
そう、避けては通れないことだ。
希望達が恋愛をするにあたっての最大のハードルがある。
「その空手小僧は、希望が『適応者』だって知ってるのか? いくら見てくれが女であっても、お前の股間には、まだ大事なものが付いてるんだぜ? 」
希望は、ちょっとうつむいた。
「……そうだね。なるべく早く、打ち明けようと思う。」
話が済むと、気を取り直して、お宝さがしの続きである。
今日は桜塚護の調査だ。
犬山さんには、ちょっと聞けない。里中数緒が、どこかに逐電中だと知られたら、いろいろとややこしいことになりそうだからだ。
ともあれ桜は、凄い勢いでキーボードを叩く。
横浜市役所の戸籍データバンクに侵入するためだ。
パンデミックのピーク時期だからこそ、当時のお役所は戸籍管理は厳密だったはずである。
桜が書いたクラッキング・ツールのウインドウに、文字列が呪文のように出現し、物凄い勢いで流れて行く。
やがて、桜は嬉しそうに言う。
「見つけたよ? 」
そう言って、桜がキーを叩くと、戸籍の記録がモニターに映し出された。
「これが桜塚護史郎の記録だよ? 2004年横浜生まれ。2024年に結婚しているね? 」
希望はモニターを覗き込んだ。
「既にMV600ウイルスが世界中で猖獗を極めていた頃だね。この頃には1年間を通じて生まれる新生児が1万人未満に落ち込んでいた時期だよ。」
桜は頷いた。
「うん、桜塚護はとても運の良い人だったみたいだね。そんな時期に双子を授かっているよ? 」
桜はモニターを指さした。
辰子が感心したように言う。
「男女の双子かあ。んーと、兄のサトルに妹のユメ? 」
希望は頷いた。
「里中さんは言っていたね。桜塚森の娘と出会ったことがあると。多分このユメさんが、それだろう。」
「で、あの宝塚モドキ、このユメさんが、そのお宝の隠し場所示すキー、胡乱なボロだっけ? 」
希望は代わりに言い直した。
「ウロボロスの石、だよ。里中さんは、彼女がそれを聖ブリジット学園のどこかに隠すのを見た、と。」
ここで桜が首を傾げた。
「あれ? 変だよ? そのユメさんは、5歳の時に亡くなってる。」
辰子は、「はあ!?」と大きな声を出す。
希望は、モニターを覗き込んだ。
「本当だ……。正式な死亡届が受理されてている。」
桜はキーボードを叩き続けている。
辰子は怪訝そうに尋ねた。
「亡くなったのは、兄のほうの間違いじゃねえのか? 」
「ううん、妹さんのユメさんに間違いないと思うよ? 」
希望は首をひねる。
「うーん、じゃあ、この双子の他に、姉か妹はいなかったのかな? 」
「この双子以外に、桜塚護には子供が居ないみたいだよ? 」
「じゃあ、そのサトル君は本当に兄なのかな? 実は双子は姉妹だったってことは? 」
「それも無いと思うよ? サトルという子は、間違いなく男の子と記録されているみたいだよ? 」
「その男の子は、その後どうなったのかな? 」
桜も困惑顔になった。
「それ以降の記録は無いみたいだよ? 」
希望は改めてモニターに映っているデータをねめつけた。
「つまり、彼はまだ存命中なのかな? それは別に不思議じゃないよな。35年前のことなわけだし。」
桜は頷いた。
「うん、そうかも。死亡届は出ていないね。存命中なら、彼は52歳になってるはずだと思うよ? 」
再びキーボードを叩いた桜だったが、ここで「あっ! 」と小さく叫んだ。
もちろん希望と辰子は、びっくりして桜を見る。
「どうした、桜? 」
桜は何かファイルをダウンロードしている。
「予想外の収穫だと思うよ? 桜塚護史郎の顔写真を見付けた。」
三人は、ビューアに映し出された、その写真の男を見た。
それは洒落たスーツを着た痩身の若い男だった。細い切れ長の目に、眼鏡をかけている。結構なイケメンである。背後には、黒塗りの自動車があるが、車種までは分からない。
どことなく、人を小馬鹿にしたような皮肉っぽい微笑を浮かべている。
辰子は言った。
「拝み屋には見えねーな。むしろ、ヤクザのチンピラ下級幹部ってツラだな。」
ここで希望の脳裏に、あのヤクザの大幹部の犬山さんの怒鳴り声がよみがえった。
「桜塚護はヤクザじゃねえ! 奴は異常者だ! 」
希望は写真を見ただけで、この男が嫌いになった。
この皮肉めいた微笑を浮かべている男の写真からは、何とも言えない、酷薄で残忍な雰囲気のオーラが、発せられているのだ。その目つきは、写真越しにまるで何かの悪意をこちらに向けているようにも感じる。
希望はその不吉な思いを振り払うかのように、首を横に振った。
それは辰子と桜達も同じらしい。
辰子は写真を睨み返しながら、「ちっ! 」と舌打ちをする。
桜はまるで心霊写真でも見たかのように、怯えた顔をしている。
と、その時、希望の携帯がけたたましく鳴った。
はずみで三人は飛び上がるほど、びっくりした。
「誰だよ、こんな時に? 」
辰子は不機嫌だ。驚かされたからと言うより、自分の臆病さに腹を立てているのだろう。
ともあれ、希望は電話に出た。
「やあ、ボクのかわいいコマドリ達。いい子にしてたかい? 」
この聞いているほうが恥ずかしくなるセリフをポンポン吐き出すハスキーボイス。誰であるかは、一目瞭然だ。
「里見さんですね? 」
そう、里見数緒だった
10、納骨堂にて
「まさか、うちの学園の中に、こんなところがあったとはなあ。」
辰子は周囲を見回すと半分は感心したように言った。
桜が頷く。
「うちのガッコ、創立200年以上の歴史があるもんね。こんな所もあると思うよ? 」
希望は、懐中電灯で周囲を良く観察する。
「納骨堂のようだね。築50年以上たってると思う。」
「納骨堂だあ? 」
「でも、ガイコツが無いと思うよ? 」
「埋葬に関する法改正の時、別の所に改葬したんだと思う。」
どこぞに逐電中だった里中数緒から、希望の携帯に唐突に連絡が入ったのが、つい昨日のことだ。
もちろん、希望は尋ねたいことだらけだった。しかし彼女は希望には質問する間も与えず、一方的に情報をまくしたてた。
いわく、聖ブリジット学園の北東の隅に、今では忘れ去られたお堂がひっそりと建っている。そこの一番奥に「ウロボロスの石があるはずだ」と。
途中に隠し扉があるが、開けるのは簡単だ。スイッチの場所は、これこれ云々。
希望は数緒の話しが一段落すると、即座に質問をした。
「数緒さんは、こっちには来ないのですか? 」
「ちょっと気になることがあってね。調査をしてるんだ。近いうちに帰るよ。ボクのかわいい小鳥たち。」
「このお堂に、危険は無いんですか? 」
「ない。今のところは。」
「今のところは? 」
「では近いうちにまた会おう、アデユー! 」
ぷつん。
「もしもし? もしもーし!? 」
多分無駄だろうと思いながらもリダイヤルするが、やはり帰って来たのは予想通り、留守電の録音だけだった。
「やあ、ボクのかわいいコマドリくん。数緒は思うとこあって旅に出ていて、お留守ちゃんです。ボクが恋しい君、ピーと鳴ったら」
希望は「やれやれ」と言った面持ちで、携帯を切った。留守録まで、聞いているほうが恥ずかしくなるような代物だ。辰子だったら、携帯を地面に叩きつけてるかもしれない。
希望は笑うしかなかった。
それで三人は、数緒に言われるまま、学園の隅の小さなお堂の扉へと向かい、錆びて軋んだ重い扉を開けた。
入り口からすぐに下り階段になっていて、そこを降りると地下堂につながっていた。
入ってみるとそこは、外からはちょっと想像がつかないほど広かった。
納骨堂の内の暗がりに目が慣れてくると、三人は周囲をじっくりと観察した。
いかにもなカソリック風の建物で、聖書や「黄金伝説」に題を取った宗教画やレリーフでいっぱいだ。今でこそ不気味だが、建設当時はさぞや美しかったに違いない。
辰子は壁のレリーフの一つを、じっと見ている。
そこには修道女の服を着た老女の像がある。彼女の背後には、後光が彫刻されていた。
「あれは、マリア様かな? 」
希望も、そのレリーフを観察した。
「いや、聖ブリジットだと思う。ぼくらの学園の守護聖女。」
「ふーん、そういや俺、その聖ブリジットさんってどういう人だったのか、知らねえんだよな。」
桜も相槌をうった。
「私も知らないよ? 」
希望は簡単に説明した。
「中世初期のアイルランドの人だよ。物凄く学識のあった女性で、男性の弟子達に神学を教え、また司祭として儀式も行っていたらしい。けど、これは現在のカソリックの教義と大きく矛盾する。当時、女性が男性に学問を教えるなんて、本来だったら考えられないことだったからね。それ以上に問題なのは、カソリックは女性の司祭を認めないんだ。それは21世紀の現在でも変わらないんだよ。本来だったら、彼女はあきらかに『異端者』なんだよ。でも彼女は、聖コロンナと並ぶ、アイルランドのカソリック布教の大功労者だし、何よりアイルランドの守護聖女で現地の信徒達からは大人気なんだ。だからバチカンも彼女を排除できず、正式な聖女として仕方なく認めている。」
それを聞いて、桜は「うーん」と唸った。
「私達に似てるよね? 異端者だけど、社会に仕方なく受け入れられている。」
辰子も頷いた。
「そう言われると、なんか親しみがわくな。」
希望は、歩を進めた。
「とにかく、先に進もう。」
希望は納骨堂中央部の祭壇を調べた。
「数緒さんが言うには、聖ブリジットの像の足元に、隠し扉のスイッチがあるそうだ。」
それはすぐに見つかった。
遠目では分からないが、草木を象ったレリーフの中に、四角いボタンのような突起が隠されていた。
「えい! 」
と希望は、それを押す。
しかし、何事も起こらない。
「……。」
「……。」
「……。」
辰子は嘆息した。
「開かねえじゃねーか。」
希望は首をかしげた。
「変だな。」
桜も首を捻った。
「30年以上たってるから、壊れてるかもよ? 」
希望は祭壇を良く観察する。
「本当だったら、この辺に隠し扉があるっぽい。」
そう言って、希望はレリーフの一部の突起を掴んで引いてみるも、びくともしない。
「引いてもダメなら、押してみな。」
そう言って、辰子が乱暴に壁を蹴ると、それはあっさりとギーッと重い音をたてて開いた。
辰子いわく、
「最初っから、こうすりゃ良かったんだよ。」
三人は隠し扉を潜って、先へと進んだ。
辰子は懐中電灯で通路の壁を見まわしながら言う。
「にしても誰だ? こんな手の混んだ仕掛けを作ったのは? 」
桜は答えた。
「桜塚護だと思うよ? 税務署の記録をハッキングして分かったんだけど、彼は聖ブリジット学園に多額の寄付をしていたっぽいよ? 当時は学園側も彼の正体を知らなかったから、普通の篤志家だと思っていたみたい。この施設も、お墓の他、貴重な学術資料の保管庫だと説明していたらしいよ? 」
辰子は面白くなさそうに言う。
「ふーん。だとしたら、お役所だけじゃなく、学園側の記録にも同じような内容のもんが、あってもいいよな? 」
希望は頷いた。
「うん、あったよ。学園史の資料をあたっていたら、『篤志家のS氏が、納骨堂と資料庫を寄贈』とあった。このS氏ってのは、桜塚護のことだと思う。」
やがて三人は、大広間に出た。
そこは体育館ぐらいの広さがあった。
「何じゃ、こりゃ? 」
そこには薬品棚がズラリと並んでいた。
しかもその棚の数たるや半端ではない。図書館の書棚よろしく、あきらかに百以上がズラリと並んでいる。
そしてそこには、薬瓶がぎっしりと並べられている。
桜は好奇心にかられて、その小瓶の一つを取った。
「粉が入ってると思うよ? 」
何の薬品だろう?
三人は薬棚を観察する。
辰子は薬品棚の上部にあるプレートを見る。
「何じゃ、こりゃ? 『音楽家』だって? 」
辰子のすぐ目の前の薬棚には、確かに「音楽家」と書かれたプレートがかけられている。
希望は、その薬棚の小瓶を手に取る。
それにはラベルがしてあり、「シューベルト」とある。
他の小瓶を見ると、シューマン、バッハ、モーツァルト、ベートーベン、ブラームス、メンテルスゾーンと有名な音楽家の名前の書かれたラベルが貼られていた。
他の薬棚を見ると、「医学者」とか「物理学者」とか、「哲学者」、「画家」、「詩人」といろんなプレートがかけられている。
そしてそれらの棚には、歴史上有名な人物の名が書かれたラベルが貼られている。
希望は「シューベルト」の小瓶を棚に戻した。
辰子は気味悪がって、小瓶には手を触れようとすらしない。
「なあ、あの宝塚モドキ、これらの粉薬について、何か言って無かったか? 」
「いや、特に何も言ってなかった。」
希望は、ちょっと奥の薬棚を見る。
そこには「商品」のプレートがあった。その棚の小瓶だけが、ちょっと他の棚の物とは違う。茶ガラスのしっかりした栓が蝋で封印されている。
好奇心に駆られて、希望はそのうちの1本を手に取った。
ラベルには、単に「36号」とある。
なんだよ、これ?
その部屋の一番奥に進むと、目的の物はすぐに見つかった。
大きなデスクがあって、その上に目的の物が鎮座ましましていた。
辰子は拍子抜けしたような表情だ。
「あっけなく見つかったな。こんなあけっぴろげにポンと置いて、隠したつもりだったのかよ? 」
桜はそれに軽く反論した。
「いや、この部屋に置くだけで、充分隠したことになると思うよ? 」
希望は、それを手に取った。
「でも、こんな形で保管されていたとは、ちょっと意外だな。」
それは「本」だった。
革表装の立派な作りで、金と思われる金具で留め金があり、しかも鍵付きで、開くことは出来ない。
そして表紙の中央部分に、翡翠の宝石が埋め込まれていた。
その翡翠には、自分の尾を加えた蛇が彫刻されていた。
写真で見た「ウロボロスの石」に違いなかった。
辰子はブルッと身を震わせた。
「さあ、用も済んだし、さっさとこんな薄気味悪いところからは出ようぜ。」
希望も桜も異論はなかった。
3人は小走りで、この納骨堂を後にした。
11.桜塚森事件
あれから3日後。
聖ブリジット学園のカフェテリア。
三人は屋外の丸テーブルを囲むようにして、腰かけていた。
辰子は携帯をいじりまわしていたが、やがて諦めたように顔をあげた。怪訝な表情をしている。
「俺も駄目だ。昨日から何度もメールしてるんだが、返事はねえ。」
希望も溜息をついた。
「ぼくも何度も電話しているんだけど、相変わらず留守電なんだよな。」
せっかく「ウロボロスの石」を見付けたというのに、犬山さんと連絡が付かなくなってしまったのだ。
これでは探し物発見の朗報も伝えようが無い。直接届けるのは、相手が相手だけにやめたほうが良いだろう。
件の本は丸テーブルの中央部に置かれている。
明るい所でみると、その装丁の豪華さが余計よく分かる。
辰子は一番気になることを言った。
「この本、開けないのかよ? 」
希望はその本を手に取って観察する。
「中世の写本は、鎖につないだり、鍵をかけてページが簡単に開けないようにすることは、よくあったとは聞いてるけどね。でも、この本はそこまで古くは無いと思う。羊皮紙ではなく、工業紙だからね。」
ちょうどその時だったと思う。希望は奇妙な視線を感じた。
それで顔をあげて、カフェテリアの外の通りに目を向けた。
黒いスーツを着た痩身の男が、じっとこちらを見ていた。
女子高なわけだから、男性が居ればそれは非常によく目立つ。
彼は出入りの業者にも見えないし、教師にもあんな人は見たことがない。
しかし希望は、その男にどこか見覚えがあった。
えーと……、どこだっけ?
希望の脳裏に、パッと記憶が戻った。
そうだ! あの写真で見た顔だ! 桜塚護史郎?
希望は反射的に立ち上がった。
辰子が怪訝な顔をした。
「どうした? 」
希望は件の男を指差そうとしたが、それは通りの大勢の生徒や教師の雑踏の中に消えていた。
三人は、その足で学園図書館に移動した。
明日からは週末ということで、人影もまばら。広い閲覧室には、希望たちの他には利用者はほとんど居なかった。
桜はノートパソコンを取り出し、昨夜のハッキングで手に入れた情報を整理している。
机の上には、件の鍵のかかった奇妙な本。
辰子はその本を、ひっくり返したり、金具をいじったりしている。
「鍵がかかっていて、開けそうにねえな。」
そこに司書の佐藤さんが、数枚のコピー用紙を持ってきた。
「はい、頼まれていた新聞記事、探しておいてあげたわよ。」
希望は頭を下げた。
「毎回、お手数をおかけして申し訳ありません。」
「いいのよ、これが私の仕事なんだから。」
希望は、その新聞のコピーを机に広げた。
【横浜でまた少女が失踪】
【少年少女の失踪、これで43人目】
【行方不明中の少年、いまだ手がかりなし】
【涙の両親、心中を語る】
【またもや少年が失踪 警察への非難高まる】
辰子は眉をひそめた。
「何じゃ、こりゃ? 」
希望は説明した。
「桜塚護の変死事件の前後の頃。当時の横浜の三面記事で目立ったものを集めてもらったんだ。どうやら、少年少女の失踪が相次いでいたみたいだね。」
「43人って、それは尋常じゃねーだろ? 」
「だろ? これが桜塚護と関係があるかどうかまでは分からないけど。この数は異常すぎる。」
ここで佐藤さんが、軽く説明してくれた。
「当時は、パンデミックだったからねえ。子供が生まれなくて、誰もが困ってたのよ。それでね、子供や若者を誘拐して海外に売る人身売買が横行していたのよねえ。可愛い子、美人やイケメンの子が狙われたらしいわよお。」
それを聞くと、辰子はゴクリと唾を飲み込んだ。
「ふえー、今の時代に生まれて良かったぜ。」
佐藤さんは苦笑した。
「じゃあ、私は司書室に戻るから、何かあったら呼んでね? 」
三人は頭を下げた。
ここで桜がノートパソコンのモニターを見せた。
「昨夜、ちょっと変な収穫があったよ? 」
希望と辰子はモニターを覗き込んだ。それは何かの取り引きの伝票記録のようなものだ。
「桜塚護は、製薬会社から、随分と沢山これを購入していたよ? 」
希望は、いぶかしげに問うた。
「製薬会社? 何の医薬品を買っていたんだ? 」
桜はモニターを指差す。
「輸血用の血液。それも血液型を問わずだったみたいだよ? 」
辰子は薄気味悪そうに言った。
「血を買っていたって言うのか? 」
桜は頷いた。
「うん、それも大量にだよ? 」
希望は無意識のうちに眉間に手をやった。考え込む時の彼の癖である。
少年少女の大量失踪事件に、血液を大量に購入?
これらは関係があるのか? 桜塚護は何をやっていたんだ?
ここで桜が、鞄から小さな工具のようなものを取り出した。
思わず希望は、「うわ」と声を漏らす。
「それ、ピッキングの道具じゃないのか? 普通の人には売ってくれないと聞いていたけど。」
桜はペロリと舌を出した。
「まあ、色々と裏技があるんだよねー」
そして件の本の鍵穴に、その道具を入れて、カチャカチャやりだした。
辰子は興味深げに見ている。
「それで、鍵を破れるのか? 」
「お役所のデータバンクへのハッキングに比べれば、全然簡単だと思うよ? 」
カチャリ。
本当に簡単にはずれた。
開いてみると、それは本ではなく、ノートだった。
拍子抜けしたことに、白紙部分がほとんどだった。
辰子は紙面を見ながら言った。
「にしても汚ねえ字だな。で、お宝の隠し場所が書いてあるとか? 」
希望は首を横に振った。
「これは化学実験の記録みたいだ。」
「化学実験だあ? どういう研究してたんだ? 」
「うーん、専門的すぎて分からない。塩? 水銀と硫黄の結婚における仲人。エレクシル、生命のエキス……」
ここで希望は、「ハツ! 」となった。
「化学実験じゃない、これは錬金術だ! 」
辰子は「はあ? 」と呆れ顔だ。
「錬金術だあ? 桜塚護のアホ、金でも作ろうとしていたのか? 」
桜も呆れている。
「非科学的だと思うよ? 」
希望は困惑しながらも言った。
「錬金術の目的は金属の変性だけではないんだよ。医学に用いられることもあるんだ。パラケルススみたいに。これは、どうもそれっぽい。」
希望はページをめくった。
わけの分からない記述が続く。しかし間違いなく錬金術だ。錬金術用のレトルトの図や寓意画のスケッチらしいものも散見された。
「おや? 」
希望はとあるページに目を止めた。
辰子が怪訝そうに訊ねる。
「どうした? 」
「呪文みたいなのがある。」
希望は何気なく、それを読みあげた。
い、あい、んぐ、んがー、
よぐ、そとーす、
へええ、る、げぶ、
ふ、あい、とろどおぐ、
うあああー
その瞬間、突然希望のポケットから、何かが飛び出した。
それは「36号」とラベルの貼ってあったあの小瓶だ。
あの地下室で、希望は無意識のうちに、この小瓶をポケットに入れて持ってきていたのだ。
その小瓶は床に落下すると同時に、栓が抜けた。そして、中からモクモクと蒼白色の粉煙を噴き上げた。
辰子は思わず立ち上がる。はずみで椅子がパタン! と音をたてて床に倒れた。
桜は驚愕のあまり、口を手で押さえ、あたふたと希望と辰子を交互に見ている。
その粉煙はゆっくりと凝集し、何かの形を取り始めた。
希望は小さく叫んでいた。
「に、人間!? 」
やがて、そこに一人の少年が現われた。
裸で何も着ていない。そして床に四つん這いになって、「はあはあ……」と苦しそうに肩で息をしている。
「ぼ、ぼくは36号なんかじゃない、に、人間なんだ……」
その少年は、希望たちに視線を向けると、懇願するように言った。
「た、助けてください……」
それを見て、希望、辰子、桜は、三人そろってのけぞった。それはまさに信じがたい光景だった。
あの地下室にあった小瓶の中から、いきなり人間が出現したのだ。
目鼻立ちの整った美形の少年で、痩身だが少年らしい筋肉も付いている。
その少年は、苦しそうに息を切らしながら、懇願した。
「助けてください……、ぼくだけじゃないんです。大勢の少年少女が、奴らに捕まっていて。奴ら、ぼくらに変な薬を無理やり注射して、薬漬けにして……」
やがてその少年の身体に奇妙な変化が起こった。少年の全身が、蒼白色に染まって行く。やがて、「崩壊」とでも言うべき現象が起こり始めた。ポロポロと少年の身体が崩れ始めたのだ。
「そして奴ら、ぼくらをロープで吊るして、絞め殺して、焼いて骨にして、骨から粉を抽出して」
ぱさ……
突然、少年は消滅した。
代わりに、少年の居たところには、一つまみの灰のような粉末があるだけだった。
すぐそばに、あの「36号」のラベルの付いた小瓶が転がっている。
物音を聞きつけたのか、司書の佐藤さんがやって来た。
「どうしたの? 何かあったの? 」
希望は、慌てて首を横に振った。
「あ、いや、何でもないです、ちょっと飲み薬の粉を床にこぼしてしまっただけです。」
佐藤さんは、どこか納得行かないと言った怪訝な表情で書庫に戻る。
希望達は困惑しながらも、床にこぼれた粉を、大急ぎで瓶に戻した。
灰のようにも見える細かな粉末で、湿気を帯びることもなく、さらさらしている。そのため回収は比較的容易であった。
回収を終えると希望達は、瓶に向っておっかなびっくりさっきの呪文を、もう一度唱えてみた。
「い、あい、んぐ、んがー……」
しかし、もう何も起こらなかった。
12.拉致
翌日。
週末の朝である。
気持ちの良い、空気の澄んだ晴れた日だった。
昨日のあの奇怪な経験は、夢だったんじゃないか? 希望はそう思いかけていた。でも、自分だけじゃなく、辰子と桜も同じものを見ている。やはり、あれはどう考えても夢ではない。
そんなことを考えながらも、昨日の異常な体験を振り払うようにして、希望は日常に戻ることにした。
朝食を作り父さんとカッ君に食べさせると、髪を念入りにとかし、一番お気に入りのヘアバンドで止める。よそ行きの服に着替え、とっておきのアクセサリーをつける。
そう、今日は勇一にデートに誘われている。場合によっては彼から告白を受けるかもしれない。
その時にどう答えるか? 希望は既に心に決めていた。
待ち合わせの場所は、近くの公園の入り口である。時間のピッタリ10分前に、希望は到着した。
公園の砂場ではしゃぐ小学生達を遠めに眺めながら、希望は勇一が来るのを待った。
待ち合わせの時間ジャストになったが、勇一は来ない。5分がすぎ、さらに10分がすぎたが、やはり来ない。
彼、結構時間にはルーズなほうなのかな? と思いながら希望は待ったが、30分すぎても来ないとなると、さすがに心配になってきた。
もしかして、時間を間違えたかな?
希望はそう思って、携帯で彼からのメールを再確認しようとした時だった。
黒塗りのセダンが、すーっと徐行運転で走って来た。
それは希望のすぐ眼前に横付けで停車した。
サイドミラーが、するすると開き、中から眼鏡をかけた若い男が顔を出した。
「やあ、二ノ宮希望くん。はじめまして、というのも滑稽だよねえ? 君は私のことを、色々とうるさく嗅ぎまわっているのだから。」
「な……!? 」
希望は驚愕した。
間違いない、あの写真で見た顔だ!
「さ、桜塚護!! 」
細い切れ長の目つき、酷薄そうな唇、そして人を見下したような微笑。
桜塚護はニヤニヤしながら言った。
「私のことより、後のシートを見てごらん? 」
そう言われて、希望は車の後部座席に目をやった。
「な! 勇一くん!! 」
そこには、新調した服でめかしこんだ勇一が寝かされていた。縛られるようなことはされていないが、すーすーと熟睡しているかのように、寝息をたてている。
「いやあ、良い子だね? うん、君は男を見る目があるよ。君が事故に遭って病院に担ぎ込まれたと言ってやったら、無我夢中になってね。あっさりと私のウソにひっかかってくれた。」
希望は反射的に、桜塚護に掴みかかろうとした。
「おっと。」
車のサイドグラスが、すーっと閉じる。指先が入るか入らないかぐらいの隙間しかない。
「くっ……! 」
希望は、サイドグラス越しに怒鳴った。
「その子は関係ない! そうだ、ぼくが代わろう! その子を解放しろ! ぼくが代わりに、あんたに捕まってやる、煮るなり焼くなり好きにしてくれ! でも、その子は巻き込むな! 」
桜塚護は、そんな希望を見て、楽しそうにニヤニヤしている。
「うーん、いいねえ。ますます意地悪したくなってきた。」
希望は拳を握り締めながら、深々と頭を下げた。
「か、彼を解放してください! ぼくが代わりになります! だから、お願いします!! 」
桜塚護は酷薄そうな笑みを浮かべながら答えた。
「うん、私も本当はそうしたいところなんだよ。しかし、君ら三人には、強力な守護がかかっている。魔術的なシールドのようなものがあってね、残念ながら私は手が出せないのだよ。」
「え? 」
「誰が君を守護しているかは、だいたい分かる。マスター・カプトドラゴニスと白竜王だろう。彼らが君ら三人を守っている。」
「ぼくらが守られている? 」
桜塚護は答える代わりに、サイドグラスの隙間越しに、パラリと名刺のような紙片を落として寄越した。
「ここに来たまえ。もちろん、柏崎辰子くんと野崎桜くんもつれてくるように。そして納骨堂から君らが盗んだ私の本も忘れずにね? 」
そう言うと、桜塚護は黒塗りのセダンを急発進させた。そしてそのまま走り去って行った。
それから3時間後。
希望に選択の余地は無かった。辰子と桜を呼び出し、桜塚護の指定した場所に向かった。
桜塚護が投げ寄越した紙片を、辰子は厳しい目つきで睨み付ける。
「また、妙な場所を待ち合わせ場所に指定して来やがったな。」
桜は不安そうに、それを見つめた。
「聖ブリジット学園の中だよね、ここ。」
聖ブリジット学園は、200年の歴史を誇るマンモス校である。しかしパンデミックによる人口激減のため、生徒数はかつての面影はない。アジア諸国の留学生を多く受け入れ、「文部省指定女子訓練校」として適応者を多く受け入れるも、最盛期の5分の1程度の生徒数しかいない(それでも、このご時世にしては、相当な生徒数を誇っているのではあるが)。
それで使われていない校舎というのも、各所にある。
この区画もその一つで、4つの校舎が閉鎖中である。最盛期には、ここだけで800人の生徒が勉強をしていたらしいが、今は生徒達から「ゴースト区画」と呼ばれる閑散とした所である。
しかも今日は週末なので、人っ子一人いない。
ここはその廃校舎の一室だった。
かつては理科実験室だったらしい。
蛇口と流し付きの実験台テーブルが、ずらりとならんでいる。
壁の棚にはフラスコやビーカー、試験管などが長年放置され、大量の埃をかぶって茶色くなっている。また、中身の残っている薬品瓶もあるが、それらも中で固まり、変色しているようなものもある。
別の壁に貼られた元素の周期表や人体解剖図も変色し、剥がれかかっていた。
ここで不意に、引き戸式の扉がガラリと開いた。
もちろん三人は、視線を向ける。
「やあ、諸君、待たせたね! 」
そこに現われたのは、里中数緒だった。
希望と辰子と桜は、驚きのあまり同時に大声を出していた。
「か、数緒さん!? 」
「た、宝塚モドキ!? 」
「え!? どうして!? 」
数緒は「まあまあ」と言いながら、両手を振った。
「落ち着いて、ボクは君らの味方だよ。」
希望は訊きたいことだらけ、言いたいことだらけだった。
「今まで、一体どこに行っていたんですか? 」
「それは、追々説明する。」
そう言って、数緒は三人の前へと歩いてゆく。
「その前に、君らに強く忠告しておく必要がある。これからボク達が対峙する相手は、まともな男じゃない。いや、奴をまともな人間だと思わないことだ。論より証拠を見せよう。」
そう言って数緒は、シャツの腕をまくって見せた。
それを見て、三人は息を呑んだ。
「こ、これは!? 」
「ひでえ! 」
桜は口を手で抑えた。声も出ないようだった。
数緒の両腕は、惨憺たる有様だった。
切り傷の後が何本も走っている。それ以上に凄いのが、火傷の跡だ。煙草の火を押し付けられた跡だと、はっきり分かる。片方の腕だけで20箇所以上はあるだろう。いずれも古い傷跡ではあるが、痛々しさは変わらない。
数緒は、すぐに袖を戻した。
「これはあんま見せたくはなかったんだが、論より証拠だと思ってね。奴は物心ついたばかりの血を分けた実の息子に、こういうことをする男だ。」
希望は驚愕した。
児童虐待!?
そして、数緒さんは……
「桜塚護サトル!? 」
数緒は、つまらなそうな顔をして、手を横に振った。
「その名前はとっくに捨てた。今は、母さんの性を名乗っている、里中とね。奴の付けた名はヘドが出る! 今は数緒だ。」
辰子は、ちょっと感心したように言った。
「なるほど、あんたも適応者だったのかい。」
数緒は頷いた。
「イエース。性転換は終わっているよ。生物学的にも、ボクは女の子だ。」
希望は眉をひそめた。
「年齢のほうは、どう説明するんです? あなたは50歳近いはずだ。まあ、あの桜塚護も歳を取っていなかったから、たいして驚きませんがね。あなた達は、そもそも何者なんです? やはり吸血鬼なんですか? 」
数緒は頷いた。
「イエース。ボクらバンパイヤは、人間の生気を分けてもらうことで、若さを永遠に保てる。不老不死も理屈上は可能だ。だがそれ以外は、君らが看過したように普通の人間とは変わらない。例えば普通の食事も同時に取らなければ、身体機能を維持できない。不摂生な生活をしていれば、体調も崩す。」
希望はまだ疑わしげに問うた。
「生気? 血ではないのですか? 」
「血液は生気を含有した溶媒みたいなものだ。確かに血を飲むこともあるが、胃腸に良くないからね。そもそも飲んで美味しいものじゃないし。バンパイヤに成り立ての者はともかく、ボクのようなベテランはそんな野蛮で下品な食事はしない。生気を分けてもらうだけだよ。」
辰子と桜は、警戒したような目で彼女を見た。
それを察したのか、数緒は首を横に振った。
「ボクは人を殺したり、衰弱するほど生気を吸ったことは一度も無いよ。それはボクのような紳士バンパイヤのすることじゃない。きちんと相手から合意を得て、ほんのちょっと分けて貰うだけだ。」
希望はゴクリと唾を飲み込んだ。
「ということは、あいつも吸血鬼なんですね? 」
「イエース。そういうことになるね。」
「勇一くんは……」
「計算高いあの男のことだ。大事な取り引き材料を無下にすることはないさ。とりあえずは安心していい。」
数緒は教室の中へと歩を進めた。そして三人に向かい合うようにして、実験台に腰を降ろした。
ここで桜は、ちょっと考え込んで、そして訊ねた。
「数緒さんも、生まれた時から吸血鬼だったわけじゃないよね? かつては普通の人間だったのかな? 」
数緒は頷いた。
「ウイ! 」
辰子が警戒するように言う。
「他の吸血鬼から血、いや生気か。それを吸われて感染したのかよ? 」
数緒は大きく首を横に振った。
「いや、それは伝説、迷信の類だよ。吸血鬼は感染なんかしない。『作られる』のさ。……とても、……残忍な方法で。」
そう答えた数緒の表情には、いつもの軽薄な雰囲気が見られない。どこか、暗く沈んだ雰囲気である。
希望はポケットから、あの「36号」のラベルの貼られた小瓶を取り出した。
「それは、これと関係があるのですか? 」
数緒はその小瓶を見ると、ちょっと目を剥いた。そして軽くうな垂れながら答えた。
「そうだ。」
「これは一体何なんです? 」
「……塩だよ。」
塩?
その奇妙な答えを聞いて、桜と辰子は怪訝に顔を見合わせる。
だが希望は、軽く頷いて、さらに訊ねた。
「塩と言っても、それは塩化ナトリウムのことではない。錬金術用語の『塩』ですね? 」
数緒は苦笑しながら頷いた。
「さすがだね。その通りだよ。」
辰子はわけが分からない、と言った顔をしている。
「どういうことだよ? 」
希望は説明した。
「錬金術では、万物は「硫黄」と「水銀」と「塩」の三大元素で成り立っていると考えられていたんだ。」
桜が首を傾げた。
「火、水、風、土の四大元素じゃなくて? 」
「四大は、この三大元素の活動の結果にすぎないんだよ。能動性(男性的原理)は「硫黄」で現され、受動性(女性的原理)は「水銀」で現されたんだ。その調停者が「塩」だ。「硫黄」は万物の能動因であり可燃性である。「水銀」は万物の受動因であり流動性である。しかし、両者とも一貫性というものがない。だから、そのままでは溶けてしまう。そこで不燃性の固体であり、一貫性をもたらす調停者として「塩」が存在するわけだ。いわば「塩」は万物の一貫因であり不燃性の要素なんだよ。全てを固定させる根本と考えてもいい。これが錬金術の象徴体系で言う「塩」だ。」
辰子と桜は、「ワケワカラン」と言う顔だ。
「あのな、希望。日本語で説明してくれないか? 」
希望は、ちょっと考え込んだ。
「そうだな。生命の本質、命のもと、生命のエキスみたいなものかな。」
数緒は頷いた。
「その通り。その粉は人間の生命のエキス部分さ。人間を人間たらしめている根本の物質さ。それを抽出した物だ。」
希望は眉をひそめた。
「そんな物を、抽出することが出来るんですか? 」
数緒は座っている実験台から降りた。
「うん、出来る。それは人間の骨や火葬にした灰から、抽出して搾り取ることが出来るのさ。それがその粉だ。」
希望ら三人は、気味悪そうに小瓶の中の灰のような粉を見た。
これが人間のエキス?
数緒は実験室の中をゆっくりと歩く。
「その粉は、呪文を唱えることによって、もとの人間を再構成し、組み立てることも出来る。」
あ!
三人は顔を見合わせた。昨日、図書館で呪文を唱えたら、瓶の中身の粉が人間の少年になったのは、それか!
「死体から、生命のエキスであるその粉を抽出する。呪文でもってその粉を、元の人間に再構成する。それがボクら、バンパイヤさ。」
希望は大きく目を見開いた。
「じゃ、じゃあ、数緒さんも、その、粉から蘇ったんですか!? 」
数緒は頷いた。
「そうだ。ボクはあの男にいったん殺された。その後、あの腐れ外道は、ぼくの骨から「塩」を抽出し、呪文でボクを再構築した。しかし「塩」から再構成された人間は、殺された時の年齢で身体の時間が止まる。そして生気の不足に悩まされるのさ。生気が切れて無くなってしまうと、もとの粉に戻ってしまう。」
希望ら三人は、息を呑んだ。
そうか、それであの図書館で再構築された少年は、すぐに粉に戻ってしまったのか。生気が足りなかったために。
「それでボクらは、生気を生きている人間から分けて貰わないと、粉に戻ってしまう身体になってしまったのさ。それがバンパイヤだ。」
希望は、恐る恐るたずねた。
「じゃ、じゃあ、あの納骨堂にあった、何百と言う小瓶は? 」
数緒は目をつぶった。
「かわいそうに。あの男に誘拐されて殺されて、「塩」にされてしまった少年少女たちだろう。」
「どうして、そんなことを? 」
「人身売買さ。当時パンデミックのせいで、出生率が極度に低下していたからね。少年少女は高く売れたんだ。あの男は地元の半グレのチンピラどもと手を組んで、人身売買で荒稼ぎをしていたのさ。」
桜は口を抑えた。
「そんな、ひどい。じゃあ? 」
「そうさ。あの小瓶は、奴の「商品」なのさ。誘拐した少年少女を粉にしてしまえば、警察に踏み込まれても証拠は無いし、税関も簡単に通れる。うまいもんさ。」
辰子は憤懣やるかたないと言った顔で聞いている。
「ひでえ……」
希望も矢も盾もたまらなくなった。
「数緒さん、あなたの父親は人間なんですか? 」
数緒は即答した。
「もちろん違う。あれは人間の形をしたケダモノさ。」
その時だった。
「お話しは済んだかな? 」
教室の窓から、突然そんな声がした。
希望たちはびっくりして、視線を窓に向ける。
そこに居たのは、あの酷薄そうな笑みを浮かべた桜塚護だった。
希望達は身構えた。
数緒からは、いつものヘラヘラした笑みが消え、厳しい顔で桜塚護を睨み付けた。
希望はゆっくりと口を開いた。
「勇一君を返せ。」
桜塚護は酷薄そうな微笑を浮かべた。
「もちろん、彼は無事だよ。さて、交換条件だ。君らが納骨堂から盗んできた本を、私に返したまえ。」
希望は言い返す。
「勇一くんが先だ。」
桜塚護は、ゆっくりと窓から離れた。
「良かろう、ついてきたまえ。」
13.決戦
そこは、廃校舎のはずれの人通りの少ない空き地だった。
花壇の横のベンチに少年が寝かされていた。勇一に間違いない。
「大丈夫、彼は薬で眠っているだけだ。」
希望はまだ本を離さない。
桜塚護は笑った。
「正直、私は君に感謝しているのだよ。あの納骨堂には、強力な結界が張られている。結界を張ったのは、おそらく私の正体に気付いた先々代の学園長の仕業だろう。それで私たち桜塚護家の吸血鬼は、あそこに入ることはおろか、近づくことすら出来ないのだよ。それを君らが代わりに取ってきてくれたわけだからね。」
辰子は怒鳴った。
「ゴタクはいい! 勇一くんを、さっさと返せよ! 」
桜塚護は肩をすくめた。
「分かっている。本を渡せば、私はそのままここから立ち去るよ。」
希望はゆっくりと歩を進めた。
おや? おかしい。どうして、あの男は同じ場所に立っていて、動こうとしないんだ?
そう思いながらも、希望は本を差し出した。
同時に桜塚護は、本をひったくった。
そして、おそろしい力で、希望を突き飛ばした。
希望は10メートル近く、ふっとばされた。
運の良いことに、飛ばされた先に辰子がいて、希望を受け止めた。
その瞬間、数緒が、パッと飛び出した。
目が真っ赤に染まり、口から犬歯が飛び出ている。
「この外道! 母さんとユメの仇だっ!! 」
桜塚護は嘲笑っていた。
数緒が見えない壁のようなものにぶつかり、はじき返された。
同時に数緒の全身が炎に包まれる。数緒は悲鳴をあげて、地面を転げまわった。
「バカめ。本を受け取ると同時に、私の周囲には結界が張られた。バンパイヤは、もう私には近づくことはできん。お前も含めてな。当然、お前の仲間のそこの三人もな。」
数緒は、ボロボロになっていた。
服は焼け焦げ、露出した腕や肩や足には、痛々しい無数の虐待の傷跡が見える。
「どうだね? 無理に近づくと、ご覧の通りだ。私は本来の魔力を取り戻した。君らを守っている守護の魔力も打ち破れる。」
希望は怒鳴った。
「何をするんだ! 」
桜塚護は、そんな希望を見て笑った。
「人質の勇一くんだけどね。もちろん、返す気は無いよ。この子はだいぶ気に入った。ハンサムだし、良い身体をしている。「塩」にすれば、高く売れるだろう。こういう少年は需要があるのだよ。ペットとして。金持ちの変態が高く買ってくれる。」
希望たちは怒鳴った。
「バカいえ! 勇一くんを返せ! 」
「約束が違うじゃねーか! 」
「嘘つきは泥棒の始まりだと思うよ! 」
桜塚護は煙草を取り出すと、それに火を付けた。
「私にそんな口のきき方をするとはねえ。目上の人への言葉使いの仕方、学校で習わなかったのかね? 」
ここで数緒が、仰向けに倒れたまま叫んだ。いつもの気取った王子口調は完全に消えていて、それは必死の形相の少年のものだった。
「やめろ! その三人は関係ないだろう! 」
「何を英雄ぶってるんだ? サトル? お前は妹の犠牲のおかげで生きているくせに。」
「何とでも言え! 俺がユメを守れなかったのは事実だからな! けど、その三人は関係ない! だから」
「まあ、いい。お前はまだまだ利用価値がある。昔のように後から時間をかけて、たっぷりお仕置きをして教育してやろう。さて、ではそろそろ、こいつらを始末」
桜塚護の口は、ここで停止した。
彼の顔面に、竹刀が猛烈な勢いで叩き込まれたのだ。
文字通り、その竹刀は桜塚護の顔面にめり込んでいた。
彼の眼鏡は粉々になり、フレームは折れて、ポトリと地面に落ちた。
くわえ煙草も同様で、これも地面に落ちる。
桜塚護の前には、辰子が鬼のような形相で立っている。
辰子はと言うと、背後には炎でも燃えて、ゴゴゴという音が今にしそうな凄い剣幕である。
「さっきから、黙って聞いてりゃ、ゴチャゴチャと好き勝手抜かしやがって。」
桜塚護は驚愕の表情だ。
「き、貴様、この結界の中にどうやって入って来た? 」
「ああ? 二本の足で歩いて来たに決まってるだろうが。」
「き、貴様、サトルの手下ではないのか? 」
それを見て、数緒が笑った。
「生憎だったな! ボクは無辜の少年をバンパイヤに化えるようなことはしない! お前じゃあるまいし! 柏崎くんは普通の少年だ。」
ここで希望が、修正を加える。
「いや、辰彦は普通じゃないな。お前の前に立っているのは、剣を持たせれば神童と呼ばれ、剣道の全国大会で十連覇を成し遂げただけでは飽き足らず、たった一人で横須賀の暴走族10人を叩きのめし、交霊術で呼び出された戦国時代の本物の剣豪の頭を鉄パイプでデコボコにしたモンスターだ! 口より先に手が動く、聖ブリジット凶暴伝説なんだよ! 」
親友のセリフに、辰子は「希望の奴、無茶苦茶言いやがって」と呆れながらも、竹刀を振り上げた。
「で、その粗暴で凶暴な俗物は、怒ってるってわけだ。さっきのは、お近づきの挨拶だよ。」
2発目が桜塚護の顔面にめり込んだ。大量の鼻血が噴出す。
「これは、希望と勇一くんのぶん! 」
3発目。右横殴りに、桜塚護の頬にめり込んだ。歯が砕けて、飛び散った。
「これは、あの宝塚モドキと妹さんのぶん! 」
4発目。今度は左横殴りだ。
「これは、お前に粉にされて、売り飛ばされた少年少女たちのぶん! 」
5発目。脳天を激しく強打。
「これは、俺と桜からのお礼だよ! 」
そして、辰子はさらに竹刀を振り上げた。
「最後に、全人類を代表して、悪に天誅を」
ここで希望が怒鳴った。
「まずい! 辰子、調子に乗るな! そいつは多分、魔術的な結界の中央に居る。反撃される前に、そいつをこっちに引きずり出すんだ!! 」
辰子は「へ? 」と首を傾げる。
しかし、遅かった。
桜塚護の顔は、憎悪と怒りに燃えていた。
「小娘が、お前は調子に乗りすぎた。」
桜塚護に起こった変化を見て、辰子は「ヒイッ! 」と小さな悲鳴をあげた。
口から鼻から耳から、ザワザワと虫の大群が出てきたのだ。
しかもそれらは、ムカデ、ハチ、クモ、サソリと言った毒虫ばかりだった。
それら全ての虫が、クモやムカデまでもが、蜂のような羽を無数に備えており、それをブーンと震わせている。礼拝堂で見た空飛ぶムカデと同じものもいた。しかも1ダース以上。
「誰が貴様らを守護していようとも、もはや本を取り戻した私の前では、それも無意味だ。」
希望は下唇を噛んだ。
そうか、あの本は一種の魔術武器でもあるのだ。桜塚護が黒魔術を使うための。
「死ね、小娘。」
桜塚護が叫ぶと同時に、それらは、わーんと羽音をたてて辰子に襲いかかった。
数緒が悲鳴に近い声で怒鳴った。
「逃げろ! そいつらはただの虫じゃない。蠱毒だ! 一度でも刺されれば助からない、確実に死ぬ! 」
それを聞いて、辰子は慌てて竹刀を振り回し、虫を払いのけようとした。
ここで希望が鞄から缶のような物を取り出すと、桜塚護に向かって駆け出した。
逃げてくる辰子とすれ違うようにして前に出ると、手に持ったスプレーの中身を虫の群れに噴きかけた。
桜塚護は呆気に取られた。
「殺虫剤!? 」
霧状の殺虫剤を浴びると、虫の群れが面白いようにポロポロ落ちて行く。虫達が全滅するのも、あっという間だった。
それを見て、数緒は感心したように言った。
「なるほど、殺虫剤で蠱毒を撃退かあ。これは盲点だったなあ。」
希望は親指を立ててウインクをして見せる。
「平安時代の文献を見ると、蠱毒は鍼灸用の針や太刀であっさり退治されているんだ。つまり、こいつらは呪術で毒を強化され、操られてはいるが、普通の虫と同じ物理的な方法で退治できるということだろう。」
そして希望は軽く小走りをする。そして桜塚護の懐へと飛び込んだ。すかさず彼の黒スーツを掴んだ。
「今度は、ぼくからだ。」
その瞬間、ぶーんと桜塚護の体が宙を飛んだ。
背負い投げに似た技で、希望が彼をぶんなげたのだ。しかし、これは古柔術の技で、柔道のそれとは似て非なるものだ。
ぐしゃ! と言う嫌な音。
辰子が「うわー」と声をあげる。
「顔面を地面に叩きつけてやんの。きっつー。」
希望は「ふん」と息をつく。
「本当はこの技は、人間に使うことは原則禁止されているんだけどね。こいつは人間じゃないから、いいだろう。」
桜塚護は、ヨロヨロと立ち上がった。
鼻は潰れ、前歯も折れてしまっている。
だが、その目はどす黒い憎悪で燃えていた。
「こ、このオカマ小僧ども、遊びはここまでだ。今度は本気で殺す。」
桜塚護の目が、赤くらんらんと輝きだした。犬歯が異常な速度で伸びてゆく。両手の爪がカギのようになり、「エルム街の悪夢」のフレディのようになって行く。
数緒は小さく叫んだ。
「ま、まずい、奴め、バンパイヤの魔力を一気に解放するつもりだ! 」
辰子は竹刀を構え、希望も古柔術の臨戦態勢を取る。
武術を学んでいる二人は、直感的にやばいことになっていることに気付いた。
桜塚護から発せられている、殺気と闘気は尋常なものではない。
人獣と化した桜塚護は、地を蹴ると、人間とは思えない速度で飛び上がった。
すぼ、ぼちゃん!
唐突に、桜塚護の姿が消えた。
「え……!? 」
希望は慌てて辺りを見回す。
奴の姿は完全に消えていた。
「あいつ、どこに行ったんだ? 」
辰子は手で口を押さえた。
「あ……」
桜も絶句した。
「うわあ……」
ここでやっと、希望も何が起こったか理解した。
「お!? 」
そう、間違いない。
「落とし穴あ? 」
希望はすっかり忘れていた。
そうだった。この間の辰子と生徒会長の馬鹿馬鹿しい決闘の場がここだった。
生徒会長が掘った落とし穴に、今度は桜塚護がはまってしまった。
希望は呆れたように辰子に言った。
「あの落とし穴、そのままにしておいたの? 危ないなあ。」
辰子は頭を掻いた。
「いや、埋めようとしたんだ。生徒会長と一緒にな。」
「埋まってないじゃないか。」
「いや、それがな、まず穴の中のヘドロを掻き出そうとしてたら、どっちが沢山の泥を掻きだせるかと生徒会長と競争になってよ、それでヘドロと一緒に穴の底の土も掘り出してしまったんだ。」
辰子と生徒会長、この二人は相変わらずである。
「……つまり、かえって穴を深くしてしまったんだね? 」
「まあ、そういうことになるな。」
「どれくらいの深さになったの? 」
辰子は「うーん」と唸って思い出そうとする。
「そうだ、副会長の萌先輩が、長梯子を持ってきてくれたんだよな。4メートルの。それでも膝小僧の高さぐらい、まだ足りなかったな。」
横で聞いていた桜が、呆れたように口を挟んだ。
「それ、家の3階から落ちたのと同じだと思うよ? 」
その時、穴の中から、野太い声がした。
「こ、このオカマ餓鬼ども、こ、今度こそゆるさん!! 手足を引きちぎり、本当にミンチ肉にしてやる!! 」
桜塚護は右手を使って、穴から這い上がろうとしていた。なんか左腕は変な方向に折れ曲がっているので、使えないようだ。
それを見ると桜は、スタスタと穴の方へと歩いてゆく。
希望は慌てて呼び止めた。
「よせ、桜! 危ないぞ! 」
ばちーーーーん!!
何かが弾けるような音がした。
見ると、桜塚護が白目を剥いていた。口からは泡を吹いている。
髪の毛が文字通り怒髪が天を突いたの如く、逆立っている。
しかしそれは彼が怒ったためでは無さそうだ。
桜は右手の妙な器具を、希望と辰子に見せた。
希望は目を凝らして、それが何なのかを見た。
「スタンガン? 」
桜は頷いた。
「そう。しかも改造して、出力を何倍にもしたの。普通の人間だったら、多分死んでる。でも、彼は人間じゃないから、多分大丈夫だと思うよ? 」
桜も相当に過激である。
桜塚護は口から煙を吹いた。
「こ、こんなオカマ餓鬼どもってあるかよ? え、えげつねー!! 」
ずるっ、どしん!!
あ、また穴に落ちた。
希望、辰子、桜は、恐る恐る穴の中を覗き込んだ。
ちょっと遅れて、数緒も三人と共に穴の中を見る。
そこには桜塚護の姿は無かった。
代わりに蒼白色の灰のような粉末が積もっていた。
数緒は「ほっ」と息をついた。
「さすがに生気を使い果たしてしまったようだね。奴は「塩」に戻ってしまったようだ。」
その時、突然、希望の携帯の着信音がけたたましく鳴り響いた。
希望は携帯のスイッチを入れた。
ドスの効いた聞き覚えのある中年男の声だ。
「どうだ、坊主。石は見つかったんだろう? 」
犬山さんからだった。
14.山分け
それから10日後。
希望達は横浜中華街の黒龍ホテルのスイートルームに居た。
高価な岩茶を振舞われている。
ミスター黄は発見された財宝の換金のため、忙しくて香港を離れられないとのこと。
それで、希望たちを迎えたのは、犬山さんだけだった。
「で、結局どういうことだったんだ? 」
希望はできるだけ、かいつまんで説明した。
「桜塚護は、子供を誘拐しては「塩」なる粉に変え、それを売りさばく人身売買組織を立ち上げてたんです。」
「インスタントみてえな黒魔術だな。人間を粉にしたり、粉を人間に戻したり、か。俺もこの目で見なかったら、とてもじゃねえが、信じられねえ話しだ。」
「彼は、当時の聖ブリジット学園に狙いを定めました。稀少な少女が、全国から集まる絶好の狩場でしたから。それで、虐待で絶対の支配下に置いていた適応者の息子を、そこに送り込んだんです。」
「それが里中数緒だな? 」
「はい。最初、数緒さんは、いやいやながら桜塚護の手下として働いてしましたが、ついに反旗を翻したんです。先々代の学園長と少年少女の失踪事件の捜査責任者だった木場刑事に、全てを打ち明けた。先々代の学園長は、民俗学者で黒魔術に造詣の深い人だったそうですから、吸血鬼退治には適任だったようです。」
「それで、桜塚護は退治された。……はずだった。」
桜は頷いた。
「はい。しかし用心深い奴は、自分の「塩」の一部を別の所に保管して置いたんです。本体が死亡した時の保険にと。彼の手下が、その「塩」を呪文で再構成させて、彼は復活した。」
「35年以上も奴は何をしていたんだ? 」
「チャンスを伺っていたんですよ。別に保管して置いた「塩」が少なすぎたためにパワーが足りず、彼はすぐには活動を再開出来なかった。しかも、彼の邪悪な知識を記したノートは、先々代の学園が作った吸血鬼の入れない結界の中ですからね。これでは手も足も出ない。」
「それでお前さん達が、その結界から大事なノートと財宝の鍵の石を持ち出したもんだから、矢も盾もたまらず奪い返しに来たってわけかい。」
「はい。」
犬山さんは、ここで葉巻に火を付けた。
「なるほど、な。」
ここで今度は、希望が訊ねた。
「当時の香港マフィアと山田組は、どうして奴に大切な石を預けたんです? 」
「蛇の道は蛇よ。」
「あなた達も、人身売買組織とつながりがあったんですね? 」
「……当時のことは知らん。俺はまだグレ始めたばかりのケツの青い不良にすぎなかったからな。」
そう言って犬山さんは黙り込んだ。
希望は、これ以上は突っ込まないことにした。
辰子はちょっと不満げに言った。
「にしても、どうして居留守なんか使ったんだよ? 」
「魔術師先生の占いが、そうだったからだ。お前さん達と連絡を絶てば全て片がつく、とな。まさにその通りになったじゃねえか。俺は神も仏も信じねえ人間だが、あの先生の占いは信じるんでな。何しろ、一度もはずれたことがねえと来る。」
希望と辰子と桜は顔を見合わせた。
あの変態魔術師、今度合ったら、ただじゃおかねえ。
だがここで犬山さんがフォローをするように言った。
「だが、あの魔術師先生は言ってたぜ。お前さん達に守護の呪術をかけておいたと。」
あー、桜塚護が言ってた「守られてる」ってのは、このことだったのか。
気を取り直して、希望は訊ねた。
「それでお宝は見つかったんですね? 」
「見つかったというより、どこにあるのかは既に分かっていた。隠し財産は、貴金属や宝石に古銭、美術骨董に換えて、スイス銀行の貸金庫の中に隠しておいたのさ。その金庫を開けるためのパスワードが、あの石の裏側に掘り込まれていた。お前さん達が石を見つけてくれたおかげでパスワードが分かり、無事そいつを開けることが出来たよ。」
そして犬山さんは4通の預金通帳をテーブルの上に並べた。
「1通につき、1億づつ入っている。見つかったお宝の額を考えれば、これでも少ねえくらいだと思っている。不満なら、組長に掛け合ってもうちょっと色を付けてやってもいいぜ? 」
15.デート
希望が改めて勇一と合ったのは、その次の週末だった。
あんなことがあって、初デートの予定は完全にオジャンだ。それで、仕切り直しというわけである。
待ち合わせ場所の公園に、勇一は約束の時間の5分前にやって来た。
二人は、落ち葉の臭いのただよう公園の散歩道を並んで歩く。
天気は晴れわたり、遠くから子供たちのはしゃぐ声が響き渡り、時おり犬を散歩させている老人とすれ違う。
「あ、あの……」
勇一は、ちょっと緊張しながら、何かを言いかけた。
ここで希望は歩を止めて、クルリと勇一に向き直る。
はずみで勇一は言いかけたことを飲み込んでしまった。
希望は微笑みかけながら言った。
「どうして、ぼくなのかな? 」
「え……? 」
「その、どうして、ぼくなのかな? 君みたいな子なら、ぼくなんかよりずっと可愛い女の子のほうから、声をかけてくると思うんだけど。どうして、ぼくなんかを選んだのかな? 」
そう尋ねると、希望は再び回れ右をして、歩き出した。
「そ、その、希望さんは俺の理想の人だったんです。」
希望は勇一の三歩先を歩きながら訊ねる。
「理想? 」
「ええ。俺はガキの頃、あ、いや、小学生の頃から空手一筋でやってきました。空手に専念したいって言うのも本当です。けど、空手の修業はしんどいです。思うようにならないことのほうが多い。それで時々、心が折れてしまいそうになることもあるんです。」
希望は頷いた。
「そうだね。ぼくも武術をやっているから分かる。試合に負けた時なんかは、特にね。」
「そんな時、俺を叱ってくれるような、そういう女性が憧れなんです。その、希望さんは、武術をやっておられる。俺たち、共通のものがありますよね、だから」
希望は、「うーん」と軽くうなって訊ねた。
「それ、桜じゃ駄目だったのかな? 桜は確かに武術はやっていないけど、芯は強し、あの子もいい子だよ? 」
勇一はちょっと口ごもったが、すぐに答えた。
「駄目だった……と思います。」
「そっか……」
希望は空を見上げて思った。
人を好きになるのって、そういうもんだよなあ。
希望はここで歩を止め、またもやクルリと回れ右をして、勇一と向き合った。
「ごめんね、勇一君。」
そう言って、希望は勇一の右手首を強く掴んだ。
「な、何を? 」
希望は、勇一の腕をグイと強く引くと、そのまま自分の股間を触らせた。
勇一は顔を真っ赤にしながらも、驚愕の表情を浮かべた。
そして大慌てて手を引っ込める。
希望は苦笑いをしながら言った。
「そういうこと。ぼくは男の子なんだよね。」
勇一は、口ごもりながら言った。
「そ、その、適応者、だったんですか? 」
希望は頷いた。
「そう、3年後には本物の女の子になるけどね。今はその練習中なんだよ。」
希望はみたび勇一に背を向けると、再び歩き出した。
「でも、心は依然、男の子のままなんだよね。それはずっと変わらないと思う。おそらく性転換を終えた後もずっともね。心は女の子ってんじゃなく、『女の子として生きる努力をする男の子』であり続けると思う。」
ここで勇一はやっと口を開いた。
「でも、その、恋愛は? 」
希望は即答した。
「出来ると思う。基礎工事で、身体も色々と改造されているからね。その影響で性的嗜好が変化しているんだ。好きな男の子から、キスをされたり、抱きしめられたりしたら、女の子と同じように嬉しいと感じると思う。でも、同時に心は男のままだから、そうしたことへの抵抗感も消えずに残ると思う。」
勇一は困惑した顔のまま言った。
「そ、その、複雑なんですね。」
「だから」
希望はまたもや振り返って、勇一と対峙し、彼の顔を覗き込んだ。
「ぼくに告白する前に、このことを良く考えて欲しいんだ。」
「よく考えてから、ですか。」
「そう。良く考えて、それでも考えが変わらないなら、ぼくも君と付き合いたいと思う。」
希望は人差し指を立てて、チョイと勇一の額を突いた。
そして、そのまま勇一とすれ違うようにして、小走りに走り去って行った。
公園の散歩道には、勇一が一人、ポツンと残された。
遠くから、カーカーと言うカラスの鳴き声が響いていた。
16、失恋
聖ブリジット学園のヘアサロンの待合室。
希望はテーブルに突っ伏して、両腕をダラリと下げていた。
辰子は眉をひそめて言う。
「で、あれから10日が過ぎたわけだが、勇一君からの返事は? 」
希望の脱力したような生気のない声で、ボソリと答える。
「……ない。」
「メールでもか? 」
「……ない。」
すぐ横でタオルを畳んでいた美容師の卵のアスカさんが、にやにやしながら言う。
「あーそりゃ、ふられたわ。」
辰子が反論する。
「まだ、そうと決まったわけじゃないっスよ。勇一くんは、筆不精なだけかもしれないじゃないっスか。」
アスカは容赦ない。
「柏崎くん、そういうのを現実逃避って言うのよ、知ってた? 」
桜もちょっと嬉しそうだ。
「わーい、私達、ふられ仲間だねー!」
希望は答える気力も無い。
「……。」
アスカさんは、ちょっと真顔になって言った。
「でも、これが人生ってもんよ。山あり谷あり。失恋することもあるって。自慢じゃないけど、私もふられ歴3回よ。」
辰子がボソリと言う。
「その性格じゃ、男に逃げられるのも無理ねーか。」
アスカさんは、こめかみをひくつかせながら、辰子の両頬をつまんで引っ張った。
「何か言ったあ? 柏崎くうーん? 生意気なのは、この口かなあー? 」
「いでででででで! 」
辰子は引っ張られた頬をさすりながら、不満げに言った。
「にしても意外だな。勇一君は俺たちに偏見や差別を持つような奴じゃないと思ってたんだが。」
アスカさんは、ちょっと難しい顔になった。
「それはちょっと違うと思うなあ。私だって、親友や尊敬している人が百合だったとしたら、告白されてもOKとは言えないわよ。恋愛が友情や親子愛の類と違うところは、突き詰めればセックス抜きじゃ語れないってことなのよ。」
件の外来語を聞いて、辰子は顔を真っ赤にした。
アスカさんはと言うと、そんな辰子を気にすることもなく、話しを続けた。
「例えばあなたが、二ノ宮君に「好き、愛してる、キスして抱いて! 」って言われて、その通りにできる? 」
辰子は「ヒィィィ! 」と怖気をふるった。
「やめてくださいよ、想像しただけで鳥肌っスよ。」
「あら、じゃあ、あなたは二ノ宮君に偏見を持っていて、差別をしているのかしら? 」
「そ、それは、違うっスよ。」
「それと同じよ。人間としては大好きだったり、あるいは心から尊敬してはいるけど、恋愛が出来るかとなると、話は別よ。そういう人は、君たちにだって、いくらでも居るわけでしょ? 」
辰子は、ちょっとふくれっ面になった。
「そりゃ、そーっスけどね。」
希望が半ば覚悟していたとは言え失恋をしてしまい、聖ブリジットの学園ヘアサロンで全力で落ち込んでいた頃。
新谷田中学校の空手部の道場で、勇一は素振りを終え、後輩のカッくん(勝利)と共にポカリスエットを飲み、壁に寄りかかりながら一服してた。
勇一はタオルで汗を拭きながら言った。
「先々週、俺、お前の兄さんに告白しようとしたんだよ。」
カッくんは、飲みかけのポカリを、ぶーっ!と吹きかけた。
「マ、マジですか? 」
「ああ、マジだ。てっきり「お姉さん」だと思っていたんでな。」
カッくんは、わたわたと両手を振り回した。
「いや、ひどいですよね、あの変態オカマ。男の癖に、あんな格好して外を出歩いて、キモいったらありゃしない。あんなクソ兄貴」
勇一は思わず大きな声を出していた。
「血を分けた実の兄さんに向かって、そんなことを言うのか!? 」
カッくんは、びっくりして口を閉じる。そして目をパチクリさせている。
勇一も、すぐに冷静になって頭を掻いた。
「あ、いや、すまん。俺も人のことを言えた義理じゃないな。」
カッくんは「やれやれ」と言った面持ちで言った。
「中妻さん、本当に兄貴のことを女だと思ってたんですね。まあ、確かに兄貴は、あの通り、見てくれは綺麗ですから。」
「先週、告白しようとしたよ。そうしたら、希望さん、自分から男だと打ち明けてくれたんだ。」
「それで、百年の恋も一気に醒めた、と。」
勇一は首を横に振った。
「いや、実はそう単純でも無いんだ。お前の兄さんへの憧れの気持ちは、まだ残っている。」
「って、中妻さん。それって、ぶっちゃけホモでですよ? 」
勇一は難しい顔をした。
「俺は、その人の人格を見ることなしに、同性愛者だとか何々人だとか適応者だとか属性だけで、人を区別したり、嫌ったり、憎んだり、見下したり、そう言うくだらない人間にだけは成りたくないと思っている。けど、男の子が男の子に恋をしたり、その、愛し合ったりとか、そういうのは理解できないのも確かだ。そして多分、俺には同性と恋をすることはできない。これは理屈じゃない。持って生まれた心の構造の問題だと思う。」
「普通はそうですよ。俺だって、男同士でキスなんて、ゲロゲロ~ですから。」
「俺はそこまでは言わないよ。ただ」
「ただ? 」
「お前の兄さんに出会う前までは、そういうことを真面目に考えたことは無かった。男の子が男の子に恋をしたり、女の子に成ろうと努力している男の子も居ると聞いても、「ああ、そういう人達も居るんだな、別にいいんじゃないの? 」って感じで、本当に他人事だった。ひたすら他人事だった。人から聞いた話しでしかなかった。」
「普通の人はそうですよ。」
勇一は、頭を掻きむしった。
「あー、うまく言えないや。ただ、これだけは言える。お前の兄さんに出会ってから、すげー価値観が変わった。」
カッくんは、苦笑した。
「まあ、うちのクソ兄貴は、超ド変人だから、たいていの人は兄貴と付き合うと、「新鮮だ」とは言いますね。」
勇一は「ふう」と軽く嘆息して笑った。
「お前が兄さんに複雑な気持ちを持っているのは分かる。もし俺が希望さんの弟の立場だったら、どう彼に接したら良いのか、分からないもんな。でも、なんやかんやで、お前らは兄弟仲がいいじゃないか。」
「そうですかあ? 」
「そうだよ。見ていれば分かる。」
「あのクソ兄貴、お節介で、馴れ馴れしいだけですよ。」
勇一は苦笑した。
「適応者って言うのは、色々と大変だろ。国や社会の都合で人生を翻弄され、そのうえ差別や偏見に晒される。だから」
カッくんは首を傾げた。
「だから? 」
「他人様の家庭のことにあれこれ口出すつもりはないが、弟のお前ぐらいは味方になってやっても言いんじゃないのかなってね。」
結局、希望は失恋の痛手から立ち直るためには2週間ほどかかった。
16.後始末
わずか5日ほどで立ち直ってのけた桜の精神力は、今さらながら凄いと思う。
希望は、最初は軽い気持ちで、歳下の少年とプラトニックに付き合おうと考えたにすぎなかった。
しかし相手からそれを断られると、これほど傷つくとは、実際に経験してみるまでは、分からなかった。こうなることは予想し、半分覚悟していたにも関わらずである。
ともあれ、希望は自分を叱咤した。
いつまでもクヨクヨしているような暇は、ぼくには無いはずだ!
希望の精神状態が通常に戻ると、すぐに三人は、聖ブリジット学園の王子こと里中数緒と「百合の館」で待ち合わせをした。
数緒は4通の預金通帳を開いて、中の数字を満足そうに眺めた。
「いやあ、悪いね。ボクの勇敢な子リス達。謝礼を独り占めにしてしまって。」
どうも数緒の中では希望達の評価はちょっと昇格したらしい。「ボクのかわいいコマドリ達」から「ボクの勇敢な子リス達」に変わっている。子リスのどこがどう勇敢なのかは分からないが、そこは突っ込まないのが吉だろう。
希望は苦笑いを浮かべた。
「数緒さんが、どうしてお金を必要としているのか。その理由が分かってしまった以上、こうするしかないですからね。」
数緒は真顔で頷いた。
「うん、あの男に暴力と恐怖で洗脳されていたとは言え、奴の片棒を担いでしまったことは事実だ。何百年かけても、償いはするつもりだ。」
数緒は「塩」にされて売られてしまった少年少女達の行方を調べている。
そのほとんどが生気を使い果たし、「塩」に戻ってしまっていた。
数緒はそんな彼らを集めては、再構成を行い、自分と同じように、社会に迷惑をかけない吸血鬼として生きる術を教えている。復活を望まない者は「塩」に戻して、彼らの墓に埋葬をしているのだと言う。
彼女が学校を休んでまで頻繁に旅行をするのは、そのためであった。
こうした事業には、どうしても多額のお金がかかるというわけだ。
だが辰子はまだちょっと胡散臭げな顔をしている。
「だったら、どうして六本木のタワーマンションで、あんな豪勢な生活をしてるんだ? 」
数緒は少しも悪びれずに答えた。
「ボクは、これだけ世のため、人のために身を粉にして働いてるんだよ? それ相応の自分へのご褒美があって然るべきだろう? 」
辰子はまだ不満気だ。
「それと、俺たちをほっておいて、長らく逐電していたのは、どうしてだ? 」
「あの納骨堂には、先々代の学園長が張った結界のせいで、桜塚護の血を引く者、ボクも奴も入れなかった。ボクが居ても意味がないだろう? 」
希望もちょっと膨れっ面になった。
「で、どこに行っていたんです? 」
「香港に行っていた。ミスター黄と一緒に仕事をしていたのさ。これから色々と忙しくなるからねえ。」
ここで希望もちょっと胡散臭げな顔をする。
「これから忙しくなる? 」
「ウイ。ボクはお宝の存在はだいぶ前から知っていたんでね。それを合法的に換金するには、マフィアの力だけじゃ無理だ。だから、ぼくは35年かけて、そのための合法的な換金ルートの構築もしていたのさ。世界中の美術骨董商との間に人脈を築いておいた。ぼくのマンションルームにある美術骨董は、趣味だけじゃなく実益も兼ねていたのさ。業界との人脈を作るためには、ある程度の買い物が必要だったからね。」
そう言って、数緒は前髪を軽くはらった。
希望は呆れてしまった。
「計画的で抜け目が無いですね。4億の謝礼を貰ったって言うのに、まださらにお金を儲けようってわけですか? 」
それは辰子も「うへえ」と呆れてしまった。
「女子高の王子なんぞより、インチキ美術ブローカーのほうが向いてるんじゃねえか? 店の名前は『ギャラリー・フェイク』ってのはどうだ? 」
数緒は大仰に両手を横に振った。
「そんなことで褒められてもちっとも嬉しく無い。目的は手段を正当化するというだけの話しさ。あくまでボクは、華麗に過去の過ちを清算しようとする永遠の美少女にすぎない。」
辰子はムッとした表情で言い返す。
「褒めてねーよ、呆れてるんだよ! 」
桜だけが「すごーい! 」と面白がっている。
桜の美意識と言うか、趣味は時々分からなくなる。勇一のような生真面目な質実剛健タイプに惚れるかと思えば、こういうおかしなド変人も面白がるのだ。
希望は、ここで表情をひきしめた。
「ぼくからも、聞きたいことがあります。」
「何だい? ボクの勇敢な子猫ちゃん? 」
「あの地下堂には、歴史に名を残している著名人の「塩」が沢山ありましたよね? 奴は少年少女の人身売買で儲けたお金で、あれらをコレクションしていたんでしょう? 著名人の墓を盗掘して、骨を盗んで「塩」を抽出した。何のために? 」
「奴は歴史オタクだったんじゃないのかな? 」
「あそこにあったのは、いずれも学者、思想家、芸術家と言ったものばかりで、政治家や軍人の類は一つも無かった。歴史オタクなら、文化人よりも権力者に関心を持つんじゃないのですか? 」
辰子と桜は「なるほど」と頷いている。
希望は凛とした声で続けた。
「これが何を意味するのか? 奴はただの歴史オタクじゃない。奴は「知識」を集めようとしていた。違いますか? 」
数緒は胸に飾っていた造花の薔薇をつまみあげると、それを右手に持ち、大仰に両腕を広げて見せた。
「君の言っていることは、さっぱり分からないな。」
希望は携帯を取り出すと、メーラーを開き、それを数緒に見せた。
「さっき、学園図書館の佐藤さんから連絡が入りました。『屍解書』の明治時代に出た口語訳本を見付けた、と。その本の題名は『回教琴』。つまり『イスラムのカノーン』です。うかつでしたよ。これはアルハザードの本の漢訳だった。『アル・アジフ』のラテン語訳は、かのラヴクラフトの小説で有名になった『ネクロノミコン』です。この時点で、『屍解書』の正体に気付くべきだった。」
数緒は肩をすくめた。
「ボクは古い本には興味は無いんでね。」
「じゃあ、単刀直入に言います。桜塚護家が崇拝してたという「黒仏」とはナイアルラトホテップのことではないのですか? 「九頭竜」もヤマタノオロチじゃない、クトゥルーのことなんじゃないですか? 」
数緒は肩をすくめた。
「ボクは桜塚護家の悪趣味な信仰については、本当に何も知らないんだ。35年前の闘いで、桜塚護家が先祖代々で崇拝してきた祭壇や古文書は、全部灰燼に帰してしまった。地所にあった黒仏を祭った古塚もダイナマイトで木端微塵さ。幸いなことにね。」
だが希望は追求をゆるめない。
「ぼく達は偶然、奇怪な事件の傍観者に連続してなった。これで3つ目です。それらには全部『イスラムのカノーン』が絡んでいるんです。これらの背後に何か共通の大きな陰謀があるように思うんです。本当に何も知らないんですか? 」
「陰謀論は、関係妄想の一歩手前だよ。世の中は偶然に満ちている。けど人は、偶然に意味を与えたがるよね。それによって生じる飛躍や矛盾は都合よく無視して。」
「そう言う抽象論の話しをしているんじゃないです! 」
「あの男が、ボクにくれたものと言ったら、虐待と恐怖と支配、そして辛い思い出だけさ。母さんは、ぼく達を連れて逃げようとして、奴に殺された。それだけでは飽き足らず。奴は妹のユメを実験台にしてデータを取った。そのデータを基にして、奴はボクをバンパイヤに変えた。奴が恐ろしい古文書を読んでいたのは知っている。奴のおぞましい実験もそこからヒントを得たのだろう。だが、それ以上のことは本当に知らないんだ。」
希望は、これ以上は聞かないことにした。
数緒が本当に知らないのか、まだ何かを隠しているのかは、正直分からない。
けど、数緒の目頭に涙がにじんでいるのを見たのだ。妹さんの思い出に、彼が未だに苦しんでいるのは確実だ。これ以上、追求するのは希望の主義では無い。
そんな希望達の躊躇を見て取ったのか、数緒は話しを打ち切った。
「奴が何を企んでいたにせよ、もうこれで全ては終った。違うかい? 」
希望たちは、しぶしぶ頷いた。
数緒は、すぐにいつもの軽薄なノリに戻った。
「ではボクのかわいい子犬たち。機会があったらまた合おう。アデユー! 」
数緒は人差し指と中指を立てて、かるくそれを額に当てて敬礼の真似をすると、踵を返して立ち去って行った。
なお、あの悪魔のようなサイコパスの「塩」は、本来あるべき場所に戻ってもらったという。つまり、桜塚護家の先祖代々の墓の下である。
地下堂にあった「塩」のうち、「商品」の棚の瓶は全て回収され、数緒に引き取られた。
あの本は、ウロボロスの石を取り外した後、希望達が焼き捨てた。
その日の夕方。
三人は行きつけの喫茶店の隅の席で、3つの封筒をテーブルに置いて、困惑した顔でそれを眺めていた。
犬山さんが、「こづかい」と称してプレゼントしてくれた、前金の三百万円である。
希望は嘆息した。
「どうしよう、これ? 」
辰子も頬杖をつきながら、それを眺めて言った。
「1億の通帳も全然実感無かったけどよ。これもあんま実感ねーな。」
希望は頷いた。
「勿論ぼくもお金は物凄く欲しいけどさ。桁が違いすぎると、使い道が思い浮かばないんだよ。」
希望達は、ドンキホーテや百円ショップや路上販売の安物アクセサリーをいかに経済的に安く購入するかで一喜一憂するのが日常だった。世の中には本物の宝石やブランド品を身に着ける人も居るらしいが、自分らには無縁だった。
「ぼくの一か月のおこづかいは五千円なんだよね。」
「俺のこづかいも月五千円ぼっちだぜ。」
桜は無邪気に笑った。
「私は一万円だよ? 」
希望と辰子は、「くそー、このセレブめ。」と言う目で、桜を見る。
これが、この三人の金銭感覚なのである。
せっかく貰ったわけだから、これを自分らの物にしたいと思う程度には、三人とも俗物だった。しかし、こんな大金を高校生の分際で持つのには、罪悪感がある。
結局、このお金は三等分の一人百万円として、高校を卒業するまでの定期預金とした。
翌日の金曜日の放課後。
三人はいつものごとく連れだって下校した。
辰子は両腕を上げて、「うーん! 」と大きく伸びをした。
「あー、やれやれ。お宝探しも終わったわけだし、今週末は羽根を伸ばすぞー」
無防備になった辰子のCカップの胸が軽く揺れる。それを桜が指をくわえて見ている。
「いいなー。」
「毎度のことだが、桜は俺の胸ばかり見てやがる。」
「だって羨ましいんだもん。」
いつものやり取りだ。
桜が早速。週末の遊びの提案をする。
「駅前に新しいカフェが出来たでしょ? そこでケーキ・バイキングをやってるんだよねー。」
辰子は嬉しそうに、その話しに乗る。
「お、いいねえ。俺も女に成ってからというもの、甘い物に目が無くなっちまったからな。」
希望も頷いた。
「ぼくも付き合うよ。」
基礎工事で、身体を改造された結果、食べ物の嗜好にも変化が生じている。希望は、かつては煎餅や海産物の珍味の類が好物でカッ君から「爺臭い」と言われる程の辛党だったのだが、今やベーカリー大好きの甘党である。
だからこの誘いは渡りに船だった。
その時だった。
希望は校門前に、見覚えのある少年の姿を認めた。
「あれ? 幻覚かな? 」
希望は自分の目をこすった。
辰子がすかさず突っ込む。
「幻覚じゃねーよ。」
カラーのホックをきちんと閉じた学生服の少年である。
間違いない、勇一である。
彼は毅然とした表情で、こちらを見ている。
勇一は、ゆっくりとこちらに向かって歩いて来る。
そして、希望と向かい合うようにして立つと、ペコリと頭を下げた。
「返事が遅くなって、申し訳ありません。」
え!?
「あれから、よく考えたんです。やはり俺は同性と恋をすることは、無理だと思います。」
……だよなあ。
「でも、俺はそれでもやっぱり希望さんが、その、あの、す、好きなんです! 」
へ!?
辰子と桜も目を皿にしている。
勇一は、じっと希望の目を見つめた。
「希望さんのおっしゃる通り、俺、考え抜きました。それで、出した結論がこうです。」
希望は困惑しながらも、勇一の目をじっと見つめ返した。
そこには、強い決意の色が、はっきりと見て取れた。
「3年後、希望さんが本物の女の子に成った時、告白します! その時まで、俺は自分を磨きます。その時は、俺も希望さんを守れる本物の男に成っています! 」
桜は小声で「きゃー」とはしゃいでいる。
辰子は白い歯を見せて笑った。
「おいおい、そんな悠長なことでいいのか、少年? その3年の間に、お前さんよりいい男が現れて、希望を取られちまうかもよ? 」
だが、勇一は少しも動じない。
「問題ありません。俺が、そいつよりずっといい男に成って、希望さんを奪い返しますから。」
そう言うと勇一は、また希望にペコリと頭を下げた。
そして、身をひるがえすと、悠々と立ち去って行った。
桜は、はにかむように笑っている。
「うーん、やっぱ私の男を見る目は間違ってなかったと思うよ? 私もあんなことを言われてみたいなあ。かなり悔しいけど。」
辰子は「うんうん」と頷いていた。
「未熟ではある。しかーし、あいつは漢だ。」
希望は言葉を発さない。
辰子はそんな希望に目をやる。
「おい、どうした? って、オイオイ、大丈夫か? 」
桜も小さく叫んだ。
「わあ、希望が大変!! 」
希望は、ゆでだこのように顔を真っ赤にして、卒倒寸前になっていた。
完
次回は「男の娘と地獄図書館」