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前編

見かけは美少女、中身は勇敢な少年。

男の娘3人組、希望のぞみ辰子たつこさくらがオカルトな事件に巻き込まれ、あるいは自ら首を突っ込み、クトゥルー神話の怪異の謎を解き、怪異と戦う青春ホラー・シリーズ。


今回は、男の娘と年下の空手少年の恋。そして邪悪な錬金術師と戦う?

1.決闘

 そう、馬鹿なのである。

 辰彦、いや辰子が言うには、この決闘のそもそもの原因は、あの横暴な生徒会長が辰子が昼食にと狙っていたパンを横取りして食べてしまったからだという。

 聖ブリジット学園にはコンビニが一件、敷地内に出向してきている。品揃えはアルコールと煙草を置いていないことを除けば、街中のそれとほとんど変わらない。

 で、そのお惣菜と弁当とパンのコーナーは毎日お昼休みになると、お弁当を持参しない生徒でごったがえす。そして菓子パンと調理パンはほぼ完売になる。だから昼休みの鐘と共にパンの奪い合いで、そこは激戦区となる。

 辰子はコンビニの店員を顔見知りなことを利用して、時々「練乳クリーム・ブレッド」なる好物の菓子パンを、こっそり取り置きしてもらっている。ところが昨日、生徒会長がその地位と権限を利用して、その取り置きして貰ったパンを横取りして食べてしまったというのだ。

 店員はその代わりに、「クリーム・ブレッド」なる同じ種類の菓子パンを取っておいてくれて、申し訳なさそうに辰子に差し出したわけだが、辰子がそんなもので納得するはずがない。

「練乳クリームとただのミルククリームは、全然違うんだよ!」

 それにはお菓子作りを含めた料理好きの希望も同意だが、だからと言って決闘をしなければならないほどのものかいな? 確かに食い物の恨みは恐ろしいとは言うけど。

「それだけじゃねえ、あいつは日課のように、俺にセクハラをかましてくるじゃねえか。」

 まあ、確かに。

 聖ブリジット学園の第256代生徒会長の綾小路姫子あやのこうじ・ひめこ先輩。大仰な苗字が示す通り、旧華族のご令嬢、もといご子息だと、もっぱらの「噂」である。彼も「適応者」なわけだが、言葉使いも立ち振る舞いも気取らないセンスのある上品さで、名家のご令嬢そのもの。

 華道部と茶道部の部長を兼任しておられ、面倒見の良い性格で、下級生達からは尊敬され、同級生達からもカリスマに近い人気がある。

 しかし、希望達は知っている。

 あの人は女子生徒達の前ではあの通り猫をかぶってはいるが、希望や桜や辰子のような「男の娘」の前では、その本性を隠そうともしなくなる。敬語からガサツな男言葉に変化し、一人称からして「わたくし」から「俺様」に変化する。

 これがあの人の正体だ。


 で、セクハラである。

 生徒会長は、希望に対しては「綺麗な髪だな」と言って髪の毛を指ですいてくる。桜のツイン・テールもお気に入りらしく、「ふさふさしてかわいいな」と、その手触りを試すように撫でる。

 まあ、これもセクハラと言えばセクハラだ。

「そんなんじゃねえ! あいつは俺のケツをなでるわ、いきなり後ろから胸をもむわ、この間に至っては口に氷をふくんだ冷たい息で、耳の下のうなじに息を吹きかけやがった! 」

 希望は呆れるしかない。

「そんなことされてるの、辰子だけだよ……。」

 桜もたしなめるように言った。

「辰子も、会長を挑発するから、悪循環が起こって、エスカレートしてるんだと思うよ?」

 これには希望も同意だ。

 辰子は隙を見ては、生徒会長の後ろを取っては、膝カックンをやるわ、校庭の庭木から毛虫を取ってきてソッと襟首に置くわ、この間に至っては背中に「暴君エカテリナ3世参上!!」と張り紙をし、会長は1時間半にわたってそのことに気付かず、そのまま女子生徒たちに「ご機嫌よう」なんて上品に挨拶してたっけ。

 希望に言わせれば、どっちもどっちである。


 そんなしょうもない報復の悪循環が続いていたわけだけど。とうとう辰子の奴、例のパンの取り合いをきっかけに会長に「果たし状」を突き付けた。それでめでたく決闘と相成ったわけだが、希望と桜がその立会人に指名された次第。

 決闘の場所は人通りの少ない第三体育館の裏。とっくに7つを越えて、20くらいになってる「学園七不思議」の1つで、幽霊が出ると言う噂のある陰気というより辛気臭い雰囲気の空き地である。

 希望たち3人がそこに到着すると、会長側の立会人の伊藤萌いとう・もえ先輩が既に来ていた。

 伊藤先輩は黒髪長髪の清楚な和風美少女である。きりっとしたクールな目つきは、生物学的な男性である下手な「適応者」よりもずっと凛々しい雰囲気をかもしだしている。

 彼女は生徒会長の忠実な腹心だが、会長が暴走しそうになるとハリセンで抑制するのも彼女の任務だと聞いている。

「君たちも立会人に指名されたのか。お互い気苦労が絶えないな。」

 と、いつものごとくクールな口調で言う。

「はあ。」

 と希望も気の抜けた返事をする。

 そんな希望達の思いもどこ吹く風と言った様子で、辰子は手に持った竹刀でバシバシ地面を叩きながら、物騒なセリフを吐いている。

「あのクソ会長、今度と言う今度はギッタギタにして、俺の竹刀の錆にしてやる! 」

 いやいや、竹刀は錆びないだろと突っ込む間もなく、向こうからもう一人の当事者がやって来た。

 件のバ会長だ。

 見た目は、いかにもなお嬢様である。見た目は。

 手入れの行き届いた縦ロールの綺麗な髪型に、ぱっちりした大きな目。

 しかしそんな外見とは裏腹に、彼女もとい彼の口からはガサツなセリフが飛び出す。

「ふはははははは。俺様を呼び出すたあ、いい度胸だ。1年のシャバ僧めが! たかがパンごときで大騒ぎしよってからに。パンが無ければ、ケーキを食えばいいじゃねえか! 」

 しかし辰子も負けてはいない。

「うっせー! このマリーアントワネットもどき! 練乳クリームの恨み、思い知れ! だいたい貴様が何で俺のパンを横取りしたか、理由は分かってる! この間、貴様が生徒会好例のドブさらいをしていた時、俺に手伝わせようとしたよな? それを断った俺への私怨だろ!? 」

 あー、そういうことか。

 希望は納得した。

 ドブさらいは生徒会の役員の恒例行事だが、会長と副会長以外の役員は言を左右して逃げてやんの。それで二人きりでドブさらいをしていたらしいが、あそこは剣道部の道場近くの通りにあったっけ。

 生徒会長は、憮然として言った。

「ふっ! この俺様がそんなセコいことを根に持つチンケな器なわけがなかろう! 」

 辰子も負けないくらい憮然とした表情で、竹刀を構えた。

「おら、貴様も武器を持て! 」

 しかし生徒会長は、うすら笑いで返しただけだった。

「武器? お前ごときに、この俺様が? だいたい武器に頼るなぞ、しょせんその程度の男よ。男なら武器なぞに頼らず、己の力だけで戦え! 」

 いやいや、辰子はもう男じゃないし。つーか会長、辰子をそんなに挑発して大丈夫ですか? あんた、格闘技はおろかスポーツすらほとんどやったことないでしょう?

「ふふふ、武器なんぞに頼らずとも、お前なんぞ、この俺様は小指一本で勝てるわ。いや、小指すら必要ない。瞬き一つでお前を倒せる! 」

 辰子は顔がもう真っ赤だ。

「い、言わせておけばあ~~!! 」

「オラオラ、さっさとかかってこい。それとも俺様のこのみなぎる闘気にビビッったのか? 」

 闘気って、格闘漫画の読みすぎでしょ。

 と思う間もなく、辰子は竹刀を振り上げ、飛び掛っていた。

「とあーーーっ!! 」

 すぼっ……ぼちゃん!!


「うわあ……」と希望は、呆気に取られる。

 やっぱり落とし穴だ。

 で、さっき「ぼちゃん」と音がしたけど、水でも溜めて置いたのかな? いやいや、このひどい臭いは、下水のヘドロだ。

 生徒会長は勝ち誇って言った。

「ふははははは! 思い知ったか!! 下水のヘドロの味!! 言ったろう? お前を倒すのに小指一本も必要ないと。」

 けど、瞬き一つで辰子を倒したわけじゃないですよね?

 穴の中から、辰子が怒鳴っている。

「てめー! 卑怯だぞ! 」

 生徒会長は、そんな辰子を嘲笑う。

「ふははははは! お前の敗因は3つある! 1つは決闘の場所をあらかじめ指定して来たこと! これでは罠を用意して置けと言っているようなものではないか! 」

 そうですね、戦略的に理にかなった話です。

「2つ目! それはお前如きが、この偉大な生徒会長たる俺様に闘いを挑んだことだ! 」

 いや、生徒会の役員である事と決闘に勝利することとは関係ないかと。

「3つ目! それはこの間、ドブさらいの手伝いを断ったことだ!! 」

 やっぱり根に持ってたんじゃないですか!!

 萌先輩が、付け足すように言った。

「あれが、あの人の器だ。」


 穴の中から、辰子が怒鳴っている。

「てめー、ここから出しやがれ!! 」

「ふっふっふっふ! 出してやるには条件がある。今ここで、俺様のことを『お姉さま』と呼ぶのだ。そして『お姉さま、お慕い申し上げております』と誓い、これから俺様の言うことを何でも聞け。」

「てめー! ふざけんな! 何がお姉さまだ、誰が貴様の手下になるか! 出しやがれ! 」

 そんな辰子を、生徒会長は嘲笑うかのように見下ろし、勝ち誇っている。

「ぐふふふ、その強情、いつまで続くかな? それともそこに永遠に留まって、ヘドロを糧として一生を送る気かね? 」


 希望は、さすがに辰子が心配になってきた。

「伊藤先輩、まずいですよ、このままじゃ辰子が、会長の妹にされちゃいますよ。」

 しかし萌先輩は無表情のまま答えた。

「大丈夫だ。あの人は悪知恵は働くが、ツメが甘い。すぐに自滅する。」

「自滅、ですか? 」

「まあ、見ていたまえ。」


 要するに会長は、辰子の180センチの身長を考慮に入れていなかったのだ。

 辰子は穴の中から腕を伸ばし、がっちりと会長の足首を掴んだ。

「なっ、こらっ、はっ、離せ!! 」

「俺一人では死なん! 貴様も道連れだ!! 」

 ずるっ……ぼちゃん!!


 あーあ、二人仲良く狭いヘドロの溜まった穴にはまっちゃたよ。

 穴の中で、二人はお互いに罵り合いながら、バチャバチャとお互いにヘドロをかけ合っている。

 本当の泥試合である。

 希望は、肩の力が抜けてしまった。

「そろそろ、二人を助け出したほうがいいんじゃないですか? 」

 萌先輩も頷いた。

「賢明な判断だな。」

「わたし、脚立を持ってくるね」と桜が、走ってゆく。


 これがこの馬鹿馬鹿しい決闘の顛末だったわけだが、この時の落とし穴が、まさか彼ら3人の命を救うことになるとは、考えてもみなかったことである。


2.生徒会長

 あの馬鹿な決闘騒ぎの翌日、辰子は何事も無かったかのようにケロッとした顔で登校してきた。

 全身ヘドロまみれで帰ったわけだから、相当念入りに身体を洗わなければならなかったろう。しかしそんなことは忘れましたと言わんばかりである。

 どんなことがあってもこの通り、さっぱりと気持ちを切り替えることが出来るのが、辰子の単純なところであり、良いところでもあるのだ。


 それで授業もいつも通り普通に受けて、鐘が鳴るとそのまま下校だ。

 帰宅の途中、三人組はいつものように夏の日課になっているアイスクリーム屋で買い食いをした。希望はシンプルにシナモン・バニラ、辰子はチョコレート・ミント、桜はストロベリージャムだ。

 これも「基礎工事」の影響なのだろうか? 希望は中学生の頃までは、おやつは煎餅やスルメイカのようなおっさん臭いものが好きだったのだが、聖ブリジット学園の生徒になってからは甘い物が美味しいと感じるようになってきていた。

 じめじめとした湿気のある中途半端に蒸暑い天気なので、アイスが余計美味しく感じた。

 天気予報によると今日の夕方は雨になるという。実際雲行きはちょっと怪しい。

 悪いことに三人とも傘を持っていなかった。雨に降られたらかなわないと、自然足は速くなる。


「あのクソ生徒会長、この次は今度こそギッタギタにしてやる!! 」

 辰子が歩きながら語気を荒げて言う。

 それを聞いて、希望も桜も苦笑いをするしかなかった。

 練乳ハードロールパンの取り合いから始まった生徒会長との「決闘」。あれは悲惨な泥試合、もといヘドロ試合に終わったわけだが、辰子は全然懲りた様子が無い。

 今日の昼休み、早くも辰子は凝りもせず、プリントの裏に「暴君 則天武后3世参上」と黒の中太マジックで大書していた。

 3世ということは、たぶん2世も居たんだろうが、則天武后が孫娘の代まで続いたなんて話し、中国史にあったっけ? と言う突っ込みは置いておくにしても、辰子が言うには、

「これを、奴の背中にまた貼ってやる。」

 桜は呆れ顔で言う。

「もう、よしなよ。」

 希望も無駄とは知りつつ、一応忠告はした。

「同じイタズラが、あの生徒会長に通じるとは思えないなあ。」

 けどその生徒会長、背中にその貼り紙をされたことを昼休み中ずっと気付かず、いつもの取って付けたような笑顔で「ごきげんよう」と挨拶しながら学園中の廊下を練り歩いてたっけ。

 萌先輩の言う通り、あの人は悪知恵が働く割に、どこか抜けたところがあるのだ。

 会長も負けてはいない。またもや今日、辰子が予約していたチョコレート・デニッシュを、またもや横取りして食べてしまったらしい。

 この二人、しょうもなくも仁義もなき戦いをいつまで続ける気なのやら。


 そうこうしているうちに何か冷たい粒が、希望の頬に落ちてきた。

「やべ、雨だ。」

 瞬く間に、ザーッというアスファルトに雨粒が叩きつける音が当り一面に響き渡る。土埃の臭いが辺り一面にたち込める。

 三人はあわてて、近くの閉店してシャッターの降りている店の庇の下に退避する。

「参ったなあ、本降りじゃねえか。」

 辰子が空を見上げながら、苦々しく言った。

「この雨、当分あがりそうに無いと思うよ?」

 桜も眉をひそめている。

 希望は何気なく、視線を上げた。

 希望はすぐ先の安アパートに、黒塗りの立派な高級車が停まっているのを見た。

 第四次産業革命のため、自動車産業も半世紀以上にわたる「技術の凍結」状態にあるわけだが、ロールスロイスは今でも生産が続いている。お大尽様の需要があるからなのだろう。

 ともあれ、安アパートにロールスロイスとは、どうにもチグハグだと思っていたら、そのすぐそばにどこかで見たような顔立ちの少年が立っていた。

 長髪を後ろでぞんざいに束ねた精悍な顔つきの少年で、すらりとしたスタイル。物腰もどことなく上品だ。素肌にタンクトップを着ている。

 少年の前には、中学生ぐらいの男の子が居る。

 名門私立校の制服を着たその中学生は、歳上の少年を蔑むような目で見ている。

 一方、少年はと言うと、深々とその中学生に頭を下げている。

 やがて中学生はロールスロイスに乗り込んだ。ドアが閉まるとすぐに、その高級車は走り出した。

 三人の横を走り抜けた時、まずいことにちょうど彼らの目の前に深い水溜りがあった。自動車はスピードを緩めることも無く走り抜けたのだからたまらない。大量の泥水が跳ね上がり、三人の頭から土砂降りのように降り注いだ。

 洗ったばかりのセーラー服が泥だらけになり、希望は思わず「うわっ!」と悲鳴をあげた。

 桜は「うえーん!」と半べそだ。

 辰子は大声で怒鳴っていた。

「どこを見て走ってるんだ、馬鹿野郎!! 」

 すると、そのロールスロイスが急停車した。

 ドアが開き、さっきの中学生が顔を出した。

「誰が馬鹿野郎だって?」

 その中学生は車から降りると、こちらへとやって来る。

 雨が降っているのも意に介さずといった様子だ。

 整った顔立ちの少年だ。イケメンと言っても良い。しかし、その眼にはまるで人を射すくめるような何とも言えない凄みと言うか、迫力がある。そしてその表情にはどことなく高慢な雰囲気を漂わせている。

 辰子は、ムッとした表情で、その中学生を睨みつける。

「乱暴な運転で、俺たちに泥を浴びせたろうが。」

 少年は、「ふん」と鼻を鳴らした。

「沿道につっ立ってる方が悪いだろう。」

 辰子は不愉快そうな表情をしたまま、言い返さずに押し黙る。

 相手が歳下だからだろう。辰子は強い者には堂々と向かって行くが、歳下やあきらかに弱い者に対しては寛大なのだ。

 少年はジロリと三人を見ると、小馬鹿にしたように笑った。

「ふーん、君らも適応者のオカマか。なるほどね、女の子にしちゃ、物腰が随分と下品だと思ったよ。」

「な……」

 辰子の頬がピクリと微妙にひきつった。

「適応者の特権で、税金の無駄食いをしている寄生虫か。男のくせに、そんな格好で街を練り歩きやがって。恥ずかしくないのかねえ。俺だったら、とてもとても」

 希望は、嘆息した。

 ここまで見え見えな挑発だと、あんま腹は立たない。

 と言うか世間の全ての人間が、自分達に好意をもっているわけではないことぐらい充分承知している。

 ネットでは毎日のように適応者へのヘイトの書込みで溢れかえっているし、月に1度は学園の前に国旗を持った変な集団がやって来て、わけの分からないことをスピーカーでがなり立てる。

 早い話、こうしたことは愉快ではないが、ほとんど日常と言っても良いので、すっかり慣れてしまっている。

 それは桜も同じなようで、困ったような悲しそうな表情で押し黙っている。

 辰子もしらけてしまったようで、口を「へ」の字に曲げて腕を組み黙り込んでいる。

 けど、少年は挑発の追い打ちをかけてくる。

「薄汚いカマのお前らが、これ以上汚れるってことはないだろ? そもそもお前らは」


 ちょうどその時だったと思う。一人の少年が、そこに割って入って来た。

 それを見て中学生は、悪態を中断して口を閉じた。

 それはさっきこの中学生に頭を下げていた、あの髪を後ろで束ねた精悍な顔つきの少年だった。手に雨傘を持っている。

 その少年は中学生にペコリと頭を下げた。

「申し訳ありません、若。こいつらは俺の後輩です。ご無礼に関してはお詫びします。こいつらには、俺の方から良く言って聞かせますので、ここはどうか穏便に。」

 は!?

 希望と辰子と桜は、顔を見合わせた。

 するとその中学生は、「ふん」とまたもや鼻を鳴らすと、そのまま何も言わずにロールスロイスに乗り込んだ。

 ドアがバタン! と乱暴に閉まると同時に、その車はそのまま走り去って行った。


 希望はその少年の顔を改めて良く見た。どこかで見たような……そうだ!

「生徒会長!?」

 希望は驚きのあまり、思わず大きな声を出していた。

 辰子も桜も目を皿にしている。

 縦ロールの凝った髪型にセーラー服姿しか見たことが無いだけに、この少年が生徒会長とは、すぐには分からなかった。今の彼は髪をぞんさいに後ろで束ねただけで、衣服は素肌にタンクトップとハーフパンツだ。

 イケメンに目の無い桜は、「むふー」と嘆息している。

 辰子はというと、まるで何か恐ろしい物を見るような目つきになってしまっている。

 生徒会長は、そんな三人の驚きも意に介さぬと言った様子で、ジロリとこちらを見た。

「濡れてるな。」

 希望は自分達の制服を見た。跳ねかけられた泥水だけではなく、横殴りの雨水で制服はジメジメだ。

「来い。」

 そう言って、生徒会長はクルリと回れ右をして、スタスタと安アパートの方へと歩いてゆく。

 つれらるように三人は、その後に続いた。


 そこは2Kの安アパートだった。

 どう見ても築20年以上はたっているだろう。

 しかしそれ以上に凄いのは、室内の惨状だ。まるで竜巻でも発生したんじゃないかと思わせる凄まじい有様だった。

 家具調度品も乱雑の極みだ。床もベッドの上も、脱ぎ散ちらかされた衣類や雑誌や漫画本や空き缶、スナック菓子の空き袋やらが大量に散乱している。

 空き缶の中にはチューハイやビールもあったが、希望は見なかったことにした。

 ビニール・ラックのファスナーも半開きで、天井近くに張られた物干しロープからは、制服と一緒に下着もしわくちゃなままぶら下げられている。

 一応、三面の鏡台もあったが、化粧用品も乱雑に置かれている。

 そして部屋には、ほんのりと甘い香りが漂っているが、もちろんそれはコロンでも香水でもなく、生ゴミの袋の中からだ。

 辰子はと言うと、「汚ねえ部屋だな、女やめろよ」と口にこそ出さないものの、あきらかにそんな表情だ。

 桜は「うわー、うわー」と半分面白がっている。

 希望はと言うと、ズボラな弟と父が居るだけに、今さら驚かない。弟のカッ君の部屋と、ここは良い勝負である。


 生徒会長はエアコンを除湿の「ドライ」に設定し、三人の衣服をその前にぶら下げた。

「小一時間もすれば乾くだろう。」

 希望と桜は一枚の毛布を、辰子はトレーナーを借りて、それを羽織った。

 生徒会長はウーロン茶を出してくれた。

 希望はダンブラーに、桜はマグカップに、辰子は湯のみだ。

「悪いな、食器はみんな一人分づつしかねーんだ。」と生徒会長。

 希望は、部屋の中を改めて見回した。

「にしても、噂って本当に宛てになりませんね。生徒会長は資産家の旧華族のご子息だと聞いてましたけど。」

 すると、生徒会長は、クックックと笑った。

「いや、間違っちゃいないな。俺様は綾小路家の長男だ。」

 へ!?

 三人は、生徒会長を見た。

 生徒会長は肩をすくめる。

「ただし、妾の子だがな。」

 思わず、希望は手を口にやった。まずいことを言ってしまった……。

 しかし生徒会長は首を横に振った。

「気にすることはない。そんなことより……」

 生徒会長は両手を畳に付いた。

「すまなかった。彼は、俺様の弟なんだよ。」


「弟さん、ですか? 」

 希望は聞き返していた。

「ああ、彼が正妻の子で、綾小路家の嫡子だ。だから家臣である俺様は『若』と呼んでいる。あれでも幼稚園児ぐらいの時は、けっこう俺様になついていて、可愛かったんだけどな。」

 辰子は「納得が行かない」と言う顔をしている。

「にしても何だよ、あれ。まるで俺達に恨みでもあるみてーだったじゃねえか。」

 生徒会長は苦笑した。

「若は、俺様が大嫌いなんだ。したがって俺様と同じ聖ブリジット学園の生徒、そして適応者が大嫌いなのさ。君らには、とんだトバッチリだったな。」

 そんな理不尽な話を聞いて、三人はちょっと唖然とした。

「親父が若かった時、お袋と間違いを犯した。親父は本気でお袋を愛していたらしいが、そこはホレ、身分の違いってやつだ。結婚は家族どころか一族の全てが大反対してな。とても無理だったそうだ。一方、若は正妻との子で、正式な御曹司ってわけだ。お袋は遠慮して、親父の家の敷居はまたがなかったが、長男の俺様は親父に呼び出されることはたびたびだったな。」

 三人は返答に困り、押し黙って生徒会長の話を聞くしかなかった。

「俺様は、クソ親父の遺産なんか欲しくもない。俺様は自力で、親父以上の金と権力を手にする予定だ。ふっふっふ、聖ブリジットの生徒会長になったのは、まあそのシミュレーションの一環だ。」

 あ、ここでちょっといつもの生徒会長に戻った。

 三人は心なし、生徒会長の髪型が、いつもの縦ロールに戻ったように錯覚した。

「だから俺様は、常識的な額の養育費しか受け取らない。余分な金があったら、お袋に回してくれってな。」

 辰子は不満げに言った。

「けど、あんたの親父さんは大金持ちなんだろ? 」

「まあな。」

「だったら、住んでる部屋くらい、もうちょっとマシでもいいんじゃないか? ここ、うちの道場の下宿より、その、なんだ……」

 桜も「うんうん」と頷いている。

「俺様は婚外子なんだぜ? そんな贅沢できるかよ。と言うか、親父に金をせびったりなんかしたら、俺様だけじゃなく、お袋も針の筵になってしまう。俺達母子は、親父の温情で生活させて貰っている身にすぎないんだ。」

 それを聞いて、桜はちょっと頬をふくらました。

「それ、ひどいと思うよ? 」

 生徒会長は首を横に振った。

「いいや、俺様は親父の立場も理解している。なぜか、俺様は親父が憎めないんだな。どうしてなのかな? ふふふ。まあ、それはともかくも、綾小路家は歴史ある名家だ。妾と私生児なんて、『家』の名誉と秩序を乱すだけのものだからな。当主である親父は、伝統ある『家』を全力で守る義務がある。俺様たちを優遇することなんか出来るものか。」

 希望は思わず、不満げな声をだしていた。

「何だよ、それ。」

 そんな希望にちょっと驚いたのか、生徒会長はちょっと目をしばたいた。

「家族を不幸にしてまで守らなければならない家なんて、あるんですか? それ、どこか間違ってませんか!? 」

 生徒会長は、クックックと笑った。

「だから、俺様は家族じゃねーよ。」

 希望は反論しようとしたが、生徒会長が片手を挙げて、それを制した。

「で、話しを戻すが、俺様は綾小路家の遺産を受け取る資格なんか無いし、俺様も受け取るつもりはない。しかし若はそれを信じてくれないのさ。」

 希望は「ああ」と理解した。

 それであの中学生は生徒会長を敵視し、「坊主憎けりゃ」の例え通り、ぼく達に敵愾心を持っていたわけだ。でも理解はしたけど、納得したわけではない。

「でも、それって……」

 生徒会長は、さびしげに苦笑した。

「若は、俺様なんぞよりずっとハードな身の上なんだ。親父も正妻も、息子はほったらかしで、仕事にしか関心が無いと来る。親戚も家臣団も、おこぼれの利益に預かることしか考えていない連中ばっかりだ。あれじゃ、誰も信用できなくなる。けど俺様は子供の頃からお袋から愛情たっぷりに育てられたおかげで、この通りまっすぐな人格者になったがな。」

 最後の一言には大いに疑問があるが、突っ込みたくなるのは我慢した。

「だからせめて血を分けた兄である俺様は、若のやるせない気持ちぐらい、引き受けてやっても良いだろってことさ。」


 生徒会長の身の上話は、ここまでだった。

 辰子も、あの「若」への怒りは、とっく消えているようだ。

「あんな完璧な侘びの入れられを方したら、もう返しようがねーよ」と、小声で希望の耳にささやいた。

「謝罪する勇気のある男って、すてきー」と桜も小声ではしゃいでいる。

 生徒会長は、どこからかチョコレート・デニッシュを持ってきて、ウーロン茶のお代わりと共に、三人にそれを振舞った。

「ところで」

 と生徒会長は切り出した。

「ちょっと、君らに頼みたいことがあるんだが。なに、簡単な子供のお使いみたいなもんだ。」

 そう、これを引き受けたことが、三人が一連の騒動に巻き込まれるきっかけとなったのである。


3.横浜中華街

 生徒会長からお使いを頼まれてから、3日後のことである。

 どうしてこうなった?

 希望は戸惑うしか無かった。

 髪をオールバックにした給仕が言うには、ちょうど今、希望の目の前に置いた皿の料理は近代八珍の一つで、ラクダのこぶのホイコーローのような料理らしい。

 ツバメの巣、フカヒレ、アワビの燻製ぐらいなら、さすがに希望も知っている。でも、熊の前足? 鹿の尾? キジバトの肉?

「この店のオーナーは私デス。今夜の料理は全部、私からのおごりデス、遠慮なくやってクダサイ。」

 とミスターホアンは、自分も料理に箸を付けながら言う。

 さすがに度胸が据わっている辰子は、盛られた料理を遠慮なくムシャムシャ食べている。

 桜も野菜やエビをモソモソ食べているが、彼は物事は深くは考えない主義だし、今回もそうなのだろう。彼が気にしているのは、今食べている料理のカロリーだけだ。

「ねえ、このぷにぷにしたの、なーに? 」

「雪ガエルのココナッツミルク煮でございます。」と給仕。

「ふーん、確かこれ、美容にいいんだよねー。」

 そう言って、また箸を運ぶ。

 もとい、桜の度胸も相当なものだと思う。

 けど、希望はちょっと違った。

 問題は、この満漢全席を振舞ってくれているのは、香港マフィアの大幹部だと言うことだ。それを考えると、腹の中がくちくなって、食欲があまりわかない。

 普通の高校生にすぎない彼らもとい彼女ら三人が、何で横浜の高級ホテルの一室で、こんな物騒な経歴を持つ男から、こんな豪華な接待を受けることになったのか?

 話は2時間前に遡る。


「本当に、ここで良いんだよな? 」

 辰子が辺りを見回しながら、声をかけてくる。

「うん、間違いないと思うよ? 」

 桜はタブレットで地図を確認しながら答えた。

「そう、間違いなくここだ。にしても、ぼくらには場違いな所だよね。」

 希望はメモと眼前の建物を交互に見ながら言った。

 ここは横浜中華街のはずれ。海外からの旅行者向けの高級ホテルである。中国資本の経営らしく、ホテル名は「黒龍」とある。中国のビジネスマンが、日本企業との商談や接待に使っているのだろう。高そうな手入れの行き届いたスーツ姿のビジネスマンの集団が、英語や北京語で会話をしながら、盛んに出たり入ったりしている。

 「パンデミック」の時、横浜中華街もいったんは壊滅し、シャッター街と化すと言う惨憺たる状況だったそうだが、現在は中国の資本が復興に協力してくれたおかげで、かつての賑わいを取り戻していた。

 そしてこの「黒龍ホテル」のような、中国の外資系チェーンも進出を果たしていた。

 ともあれ、希望、辰子、桜の三人組は、恐る恐るホテルの中へと足を踏み入れた。

 ホテルボーイが深々と頭を下げている横を、さっさと通り過ぎ、フロントへと向う。

 生徒会長に指示されたとおり、希望は妙なマークの入った大きな封書を、にこやかに笑みを浮かべているフロントの女性係員に渡す。

 すると、その女性の顔色が変わった。

「シツレイイタシマス。」

 そう言って、慌てて奥に引っ込むと、それと入れ替わるようにして見るからに立派な身なりをした初老の男が、あたふたとやって来た。

「はじめまして、このホテルの支配人でございます。」

 支配人が深々と頭を下げると、希望達はちょっと困惑して顔を見合わせる。

「綾小路様からのご伝言ですね? 」

「あ、はい。」と希望は反射的に返事をする。

「どうぞ、こちらへ。」


 そう言って案内されたのが、これまた豪華な一室だった。

 クリスタルガラスのシャンデリアに、これまた高価そうなソファー、マホガニーのテーブル。壁にはカンディンスキーの版画が飾られていて、しかもそれは本物っぽい。

「あのクソ生徒会長、何を考えてるんだ? 」

 とうとう辰子が不安と不信感爆発と言った表情で、そんな感想をもらす。

 ともかくも三人が、ゆったりとしたソファーに座りながらも全然落ち着かない心境で待っていると、やがて二人の男が入って来た。

 三人は慌てて立ち上がる。

 一人は髪をオールバックにした紺のスーツを着た、小奇麗な身なりの40代ぐらいの男だった。

 もう一人は、初老ぐらいの大男だ。白髪の入った髪に老眼鏡をかけている。眼つきは鋭く、頬に傷跡らしきものがある。黒いスーツを着ており、雰囲気からしてどう見てもカタギの人間じゃない。

 希望は、「ぼく達は」と言いかけたが、初老の男がそれを制した。

「いや、お前さん達の名前は分かっている。二ノ宮希望のぞむくん、柏崎辰彦くん、野崎桜太くんだね? 」

「『のぞむ』ではありません、今は『のぞみ』です。」

「辰彦じゃないっす。今は辰子です。」

「桜太じゃないですよ、今は桜です。」

 すると、初老の男は軽く頭を掻いた。

「そうだったな、お前さん達は適応者だったな。これは失礼。」

 希望は警戒心でいっぱいになった。このおっさん、ぼく達の個人情報を知っている。

 生徒会長、一体何をさせようとしてるんだ?

 その怪訝な表情を読み取ったのだろう。初老の男は手を横に振った。

「いや、綾小路家の長男は、お前さん達の個人情報を一切漏らしてはいない。お前さん達のことを俺に教えてくれたのは、神道里しんどうり先生さ。」

 あの人を食った黒魔術師!

 希望と辰子と桜は、顔を見合わせた。

 初老の男は、ニヤニヤ笑っている。

「そういうことだ。綾小路家の長男坊は、このことを知らない。仮にも綾小路家は旧華族で綾小路財閥の総本家だ。そんなご立派な一族が、ヤクザと取り引きがあるってことが、世間に知られたらまずいよな? それで連絡係と言う汚れ役を、妾の子である長男坊が引き受けている。しかし、いくら妾の子と言っても、綾小路家のご子息には代わりねえ。直接俺達と会うと、どこかで漏れてしまうかもしれねえ。それで、お前さんらのようなお使いを使って、連絡を取り合っているのさ。」

 希望はこめかみを押さえた。

「それで、ぼく達が? 」

 初老の男は頷いた。

「無論、カタギのガキを巻き込むのは主義じゃねえから、いつもだったら何も言わずに黙って封書を受け取って、そのまま帰している。しかし今回は違う。綾小路家の長男とは無関係に、俺達が個人的に、お前さん達に用があるのさ。」

 希望は首を傾げた。

「ぼく達に、用があると? 」

 辰子と桜も、怪訝に顔を見合わせた。

「そうだ。お前さん達が、ここにやって来たのは偶然ではない。あの魔術師の先生が、奇門遁甲だかイレクション占星術だったかな? 妙なまじないを使って、偶然を呼んで、お前さん達がここにやってくるように誘導したのさ。」

 希望は、偏頭痛を覚えて頭を抱えた。

「あちゃー」と辰子も首を横に振っている。

「そういえば、あの人、『偶然』を操作できるんだよねえ。」と桜も迷惑そうに頬をふくらました。

 希望はとにかくも気を取り直すと、初老の男に尋ねた。

「で、あなた達は何者なんです? あの人騒がせな変態魔術師と何の関係があるんです? 何のためにぼく達を、ここに呼んだんです? 」

 初老の男は「ははは」と笑った。

 もう一人の男も、一緒に笑っている。

「変態魔術師、違いねえ。」

 そう言って二人は、希望達と向かい合うようにして、ソファーに座った。

「俺は犬山五郎。山田組総本家の若頭だ。」

 それを聞いて、三人は飛び上がるほど、びっくりした。や、山田組って、日本最大の暴力団じゃないか! それの若頭!? そういや、新聞か何かで見た顔だ!!

 犬山は笑っている。

「驚くのはまだ早い。こっちの若い中国人は、香港の黒社会のナンバー2こと、同門会のミスターホアンだ。」

 紹介されると、彼はちょっとぎこちない日本語で挨拶をした。

黄震山ホアン・シンセンです。どーぞ、よろしくお願いシマス。黒社会を代表して日本に来てマス。」

 辰子が首をかしげた。

「黒社会? 」

「香港マフィアのことだよ」と希望が、小声で説明した。

 ミスター黄は、にこやかに慇懃に頭を下げた。とても柔和な雰囲気の男で、とてもマフィアの大幹部には見えない。

「あの魔術師先生とは、たまたま利害が一致しただけだ。敵の敵は味方ってやつだよ。それで、ご助言をいただいただけだ。あの先生は今アメリカに渡っていて、日本には居ない。何をしに渡米しているのか、それは俺達も知らん。」

 そう言って、初老の男は高価そうな葉巻を取り出すと、ライターで火をつけた。

 ミスター黄は、にこやかに微笑んでいる。

「で、本題だが、お前さん達にやってもらいたいことがある。なに、簡単さ。ちょっとしたお使いだ。」


 ルームサービスで、ホテルボーイが、飲茶を持ってきた。

 高級品の烏龍茶の香りが、部屋中にたち込める。

 ミスター黄が言うには、夕食が近いから点心は省いたとのこと。

「ミスター黄、このお茶は? 」

「鉄羅漢の最高級品デス。岩茶の最高傑作。今年の品評会で金賞を取りマシタ。」

 そう言って、お茶の香りをうっとりとした表情で嗅いでいる。

 希望はお茶をぐっと飲み干すと、本題について訊ねた。

「で、ぼく達にやって欲しいことって何です? 」

「探し物だ。」

「探し物、ですか? 」

 犬山は頷いた。

「そうだ。これは聖ブリジット学園の生徒でなければならず、しかもお前さん達で無ければ出来ない仕事だ。」

「どうしてぼく達じゃないと駄目なんです? 話が全然見えないんですけど。」

「それは俺も知らん。あの魔術師先生の占いでは、そういうことなんだそうだ。あの先生の占いは、一度もはずれたことが無いからな。わけの分からん御託宣であっても、信じるしかねえ。」

「それで、その探し物って何です? 」

 ここでミスター黄が、口を開いた。

「それは私が説明シマス。」

 そしてテーブルの上に一枚の写真を置いた。

 三人は、それを上から覗き込むようにして見た。

 薄い青緑色の宝石のようだ。円盤状をしていて、表面には自分の尾を加えた蛇か竜のようなものが彫刻されていた。

「これは翡翠ひすいですね? 」

 希望が言うと、ミスター黄は頷いた。

「そうデス。この石が聖ブリジット学園のどこかにアッテ、それを貴方達に探していただきたいのデス。」

 辰子が怪訝ながらも興味深げな顔をする。

「この宝石、価値があるお宝なのかな? 」

「宝石としての価値はたいしたことはアリマセン。ですが、我々にとっては価値がアリマス。」

 三人は顔を見合わせた。

 すると犬山が、説明を引き継いだ。

「21世紀初頭のパンデミックのことは勿論知ってるな? あれのせいで人類は人口が2分の1以下にまで減ってしまった。経済も産業もズタズタになったわけだが、それはヤクザの世界とて同じことだった。縄張りを巡っての抗争なんてのが馬鹿馬鹿しくなるぐらいだったからな。とにかく助け合わずにはやって行けず、警察すら頼りになる親友に思えた程だった。そんな時代だったから、香港の黒社会と日本のヤクザとの間に業務提携が出来た。そうしなければ、食っていけなかった。とにかくひでえ時代だった。」

 桜が頷いている。桜はハッカーをやってるためか、こういうアングラの事情には、やたら詳しいのだ。

「それで俺達は、資産管理を一律にしたのさ。考えてもみろ、香港の黒社会と日本のヤクザの金が一つになったんだぜ? どれほどの額か想像つくまい。問題は、その金の隠し方だった。パンデミックによって、通貨が価値を無くし、土地価格が暴落し、銀行が面白いように倒産しまくってるご時勢に、預金だの紙幣だの不動産の権利書だので保管するのは馬鹿だろ? お前さん達だったら、どうする? 」

 希望は、ちょっと考えて言った。

「貴金属ですか? あるいは高価な美術品や骨董? 」

「まあ、そんな所だ。当時それは香港に保管されていたのだが、パンデミックの混乱で人民解放軍が介入をはじめ、色々とやばくなった。それで、その隠し資産を日本に移したのさ。それを日本で受け取ったのが、桜塚護さくらづかもりと言う男だった。」

「桜塚護? あまり聞いたことが無いヤクザ屋さんですね。」

 すると、犬山は不機嫌そうにテーブルを拳でドン! と叩いた。

「桜塚護はヤクザじゃねえ! 奴は異常者だった。目鼻立ちの整った少年少女を誘拐してはヤク漬けにして、東京のどこかのアジトで何かやっていた。いいか? ヤクザも香港マフィアも、世間様から見りゃ、ろくでなしかもしれんが、決して無法者じゃあねえ。ちゃんと『法』と『道徳』があるんだ。ただ、世間様一般のそれとは、ちょっと基準が違うだけだ。カタギに迷惑をかけるのは、本当に必要な時だけに限っている。しかし、桜塚護は違った。悪魔だか邪神だかを崇拝してやがった。さらった少年少女を使って何をしてたかは、知りたくもねえ! それでとうとう天罰が下って、あの畜生、自分が崇拝していた九頭竜だか黒仏だかに、生きたまま食われちまったのさ。嘘やホラじゃねえぞ? それを目撃した刑事、木場警部って言うんだが、それで頭がおかしくなって、今も小菅の療養所に引きこもっている。」

 話が怪談じみてきて、辰子は顔をしかめ、桜はちょっと怯えた顔になった。

 希望は眉をひそめた。

「21世紀の東京に、悪魔崇拝者なんて居るんですか? 」

 犬山は苦々しげな表情で頷いた。

「ああ、パンデミックの後、東京はおかしくなっちまった。悪魔崇拝者なんて、まだマシなほうだ。今の東京には、人類を進化させる酵素とやらで妙な研究をしているマッドサイエンティストも居れば、猫耳少年の式神を飛ばしている黒魔術師も居る。吸血鬼もいれば人狼もいる。銀髪の小僧に化けて人間社会に潜伏しているドラゴンも居れば、異次元や冥王星の外側からやって来て人間のふりをしているバケモノだって居るんだ。俺もこの目で見るまでは信じなかったがな。それは、お前さん達だってそうだろ? 」

 希望達も頷かざるを得なかった。

 チャグナール・ファーグンと悪魔博士。人騒がせなアホ魔術師の神道里健太郎。確かに、今の東京はどこかおかしい。

「けど、どうしてその桜塚護ですか? そんな異常者に大切な資産を預けたりしたんですか? 」

 ミスター黄が、肩をすくめた。

「簡単な話しデス。当時は誰も彼の正体を知らなかったのデス。普通のヤクザ下部組織の半グレ仲間だと思ってイマシタ。」

 ここでまた辰子が首を傾げた。

「半グレ? 」

「大人の不良みたいな人達だよ。」と希望が説明する。

 犬山は軽蔑を込めて言った。

「半グレに明確な定義はねえよ。奴ら、ヤクザではねえが、かと言ってカタギでもねえ。俺達のような美学は持たず、カタギ人に迷惑をかけることを恥とも考えねえ糞チンピラだ。いつの時代も中途半端な奴ってのは、尊敬はされねえもんだ。」

「桜塚護は、半グレのボスだったんですね? 」

「いや、桜塚護は半グレではなかった。拝み屋の家系で、金で人を呪い殺すとか言う胡散臭いこともやってたらしい。それがヤクの売買にも手を出して、地元のチンピラの顔役になっていた。」

 三人は顔を見合わせた。

 拝み屋に半グレ? 変な組み合わせだ。

「でだ、奴はお宝を隠したわけだが、そのまま悪魔だか邪神だかに食われてくたばっちまった。それでそのまま、お宝は行方不明さ。」

「彼には娘が居マシタ。彼女は、その遺産を受け継ぎ、そのキーを、自分が通っている学校のどこかに隠したのです。」

 希望は、ふーっと嘆息した。

「そのマフィアの隠し資産の場所を示すキーが、この宝石だと言うことですね? 」

 犬山とミスター黄は、頷いた。


「断ることは出来ないのですか? 」

 希望は一番気になっていることを訊ねた。

 辰子と桜も興味しんしんだ。

 犬山は肩をすくめた。

「もちろん、断るのはお前さん達の勝手だ。ヤクザが餓鬼をばらすなんて聞いたこともねえだろ。仮に断っても、俺達は何もしねえよ。」

 そう言いながら、犬山は三人の前にポンと札束を3つ置いた。

「現金三百万円だ。小遣いだ。豪遊するなり貯金するなり、好きに使え。他に石を探すために必要経費があったら、請求書は全部、俺に回せ。何千万、1億かかろうと構わん。あの資産が取り返せるものなら、安いものだ。」

 うわあ、つい昨日まで1ヶ月5千円の小遣いでやりくりしていたのに。

 辰子は、目を皿にしている。

 さすがに裕福な家で育った桜は落ち着いては居たが、さすがにこんな現金を触るのは初めてらしく、少々怯えても居た。

「金の他に、必要ならうちの若い連中も貸してやってもいい。だが、お前らの学校にヤクザ者が入るのはさすがに無理だろう。そこは臨機応変に、だ。」

 希望は仏頂面で答えた。

「じゃあ、代わりにマカオの傭兵会社の兵士を1個大隊と米軍払い下げのCH軍用ヘリを調達してください。ローラー作戦で、この石を探してあげますよ。」

 すると犬山は「はっはっは! 」と豪快に笑うと、希望の背を叩いた。

「ヤクザに向って冗談を言うとは、たいしたタマの持ち主だ! あの魔術師先生の言っていた通りだな。オカマ小僧にしておくにゃ、もったいねえ。」

 三人は憮然とした。

「オカマじゃありません! 」

「俺達は適応者だっつーの。」

「それに3年後には、本物の女の子になる予定だよ? 」

 犬山は笑いながら、軽く手を振った。

「そうだったな。悪かった、悪かった。」

 ここでミスター黄が、にっこり笑って提案した。

「では皆さん、お腹が空きマセンカ? 夕食にシマセンカ? 」

 そしてそのまま、ホテル黒龍の満漢全席へとなだれ込んだわけである。

 現金3百万円のお小遣いに、富豪が食べるような夕食。これを有無を言わさず半ば強引にプレゼントされてしまった。これでは断ることなんか出来やしない。

 と言うか、三人は不安ながらも、この話に引き込まれてしまったのだ。

 桜がストレートに、それを言う。

「お宝探し? ちょっと面白そうだと思うよ? 」


 夕食も終わりに近づき、ジャスミン茶が運ばれてきた。

 希望と辰子と桜は、顔を見合わせた。

 辰子は難しい顔をしている。

「けどよ、あのだだっ広い学園の中から、どうやってこんな小さな石コロを探すんだ? 気の遠くなるような話だぜ。」

「何か手がかりが無いと無理だと思うよ? 」

 ここで犬山が、三人に笑いかけた。

「さて、では仕事の件だが、いい知らせと悪い知らせがある。どっちから聞きたい? 」

 希望は正直に答えた。

「どっちも聞きたくないです。」

「まあ、そういわずに聞け。一つは、聖ブリジット学園に、お前さん達の協力者が居る。彼女が手がかりになる情報をくれるだろう。彼女には、しこたま現ナマを掴ませたからな。それなりに働いてくれるはずだ。」

「悪い知らせは? 」

「彼女は、吸血鬼だ。」


4.聖ブリジット学園の王子さま

 って、「王子」じゃん!!

 犬山さんから教わった待ち合わせ場所に現われた「協力者」を見て、希望はちょっと驚いた。

 辰子は、たちまち胡散臭げな顔になる。

 桜は「きゃー」と面白がっている。


 ここは聖ブリジット学園の閉鎖された礼拝堂。

 マンモス校である学園には、礼拝堂が複数設置されているが、この「聖クリスティナ堂」は建物の老朽化がひどく、数年ほど前から閉鎖され、いちおう立ち入り禁止となっている。

 お約束通り、幽霊が出るという噂も立ったわけだが、それを良いことにある種の少女達に、様々な目的で良く利用される。それで付いた通称が「百合の館」。

 そこを待ち合わせ場所に指摘してきたわけだが、趣味が疑われる。

 それ以前に、そもそも吸血鬼が礼拝堂になんか入れるのだろうか?


 とそれも杞憂だったようで、待ち合わせ時間ピッタリに、その「王子」は現われた。

 聖ブリジット学園の生徒で、彼女を知らない者は居ない。

 里中数緒さとなか・かずお。身長175センチのすらりとした体型。胸はあまり無いが、逆に本人はそれを気に入っているらしく、私服では常にボーイッシュなファッションを好む。髪型はショートヘア。

 首もとのタイをゆるめ、鎖骨をチラリと出している。

 3年生で特に部活はやっていない。ニックネームは、王子、オスカル、隊長、宝塚俳優、とにかく沢山ある。

 一部の下級生からは非常に人気があり、ファンも多い。しかし良くない噂も多い。

 年下の可愛い女の子をくどいては恋人にするのだが、飽きっぽく1ヶ月もするとポイ捨てで、またすぐに別の下級生に手を出すとか出さないとか。要するに下級生の女の子を誘惑して、とっかえひっかえをやっているというのだ。

「やあ、君たち、待っていたよ。ボクが里中数緒だ。数緒かずおと呼んでくれたまえ。」

 何か手に赤いバラでも持ってるんじゃないか? と思ったら、本当に持っていたよ。希望は、すぐそれが近くの中庭の花壇から取ってきたものだとすぐに分かった。半分しおれかけてるし。

 言い方も気取っているのなら、声もまるで女性の声優が演じてる少年声のようだ。

 数緒は雨傘をステッキのように振り回しながら、やってくる。あのー、先輩、危ないんですけど。

「君らの目的は、そう、ウロボロスの石だろうね。うん、桜塚護さくらづかもりだ。ボクは彼女のことをよく覚えているよ。今から35年も前のことだが、彼女は可憐なスイート・バイオレットのような娘だった。歩いているだけで、そう、芳香ただよう。花弁こそ小さいが、その印象はすばらしい。その彼女がボクに打ち明けたのさ。あの石の秘密を。」

 と、妙に芝居がかった口調で、表情はうっとりと自分のセリフに陶酔しているように見える。

 辰子は、そっと希望に耳打ちした。

「噂以上に変な奴だな。あんなのとまともに会話できるのかよ? 」

 桜だけは、「きゃー、うわー」と面白がっている。

 希望は思い切って聞いてみた。

「犬山さんから、聞いてきました。あなたは、桜塚護が学園に、宝の隠し場所を刻んだキーとなる石を隠したことを知っている、と。」

「無論さ、ウロボロスの石のことだ。35年ほど前のことだけどねえ。」

 辰子と希望は、顔を見合わせた。

「35年前だってよ? 見かけはどう見ても高校生だよな。」

 正直、希望も半信半疑だった。

「ものの本によると、吸血鬼は歳を取らないとあるけど。」

 辰子は不審げに言う。 

「吸血鬼なんて、本当に居るのかよ? 」

 桜は軽く首をかしげて見せた。

「うーん、でも宇宙から来た邪神とか、マッドサイエンティストとか、魔術師とか、猫耳少年の式神とかも居たんだから、吸血だっているかもよ? 」

「ほう、お疑いの様子だね。じゃあ、証拠を見せよう。」


 希望と桜はそれを見て、反射的に後ずさった。

 辰子だけは踏みとどまり、じっとその吸血鬼少女を睨み付けていた。

 数緒の目が赤く輝いたかと思うと、口もとから長い犬歯が飛び出した。

 同時に、彼女の手に持ったバラが急速に萎れ、ドライフラワーのようになって、枯れた花弁がパラパラと地面に落ちた。

 そして、もう一度彼女の顔を見た時には、赤い眼光も長い犬歯も消えていた。

「これでボクがバンパイアだと分かってもらえたかな? 」

 希望は、一息つくとそれに答えた。

「少なくとも、あなたがただ者ではないことは分かりました。」

 しかし辰彦と桜は、納得行かないという表情だ。

 桜はポケットから小さな十字架のペンダントを取り出して突きつけた。

 辰彦はと言うと、ニンニクだ。

 用意のいい話しである。

 しかし彼女は平気のへの字の何とやらで、「はっはっは! 」と大仰に抑揚のついた声で笑った。

「バンパイヤには誤解が多い。そんなもの怖いものか。十字形の物なんて、そこらじゅうにある。いちいちそんな物を怖がっていたら、外も歩けないじゃないか。だいたいボクは昼日中に外を歩き回っているじゃないか。日光に当たったぐらいで死んでしまったら、地球上で生きてゆくことなど不可能だ。」

 もっともな話しである。


 辰彦と桜は、それでも完全には納得してない表情で、十字架とニンニクをポケットに戻した。

 希望が三人を代表して言う。

「分かりました。あなたを信じます。」

 数緒は満足そうに頷くと、片手を差し出した。

「よろしい。では、まず即金で500万円もらおうか。」

 は?

「ご、500万円ですか? 」

 希望たちが驚くのも尻目に、数緒は微笑みながら頷いた。

「そう、前金で500万。つづいて情報料で500万。無事、ウロボロスの石が見つかったら、成功報酬ということで、もう500万。安いものだろ? 」

 希望らは開いた口がふさがらない。

 しかし数緒はと言うと、ぜんぜん悪びれた様子も無い。

「謝礼は当然だろう? 目指すはマフィアの隠し遺産だ。それを手に入れるための情報なのだから、それ相応の礼はいただかないとな。」

 希望は、大きく嘆息した。

「そんな大金、持っているわけないじゃないですか。」

「じゃあ、用立てるんだね。君らには大金持ちのスポンサーが居るはずだ。彼らに頼めば、それぐらいすぐに用立ててくれるんじゃないのかな? 」

 それはそうかもしれないけど……

 でも、あのヤクザのボスとまた連絡を取るのは、極力避けたいというのが、三人の正直な本音だ。

 辰子は、顔をしかめると胡散臭げに言った。

「吸血鬼のくせに金が必要なのかよ。」

「地獄の沙汰も、バンパイアの沙汰も金次第だ。」

 すると、ここで桜が凛とした声で言った。

「昨日、犬山さんは、数緒さんに『しこたま現ナマをにぎらせた』と言っていたと思うよ? 広域暴力団や香港マフィアの大幹部が『しこたま』と言ったら、それは百万や二百万のはした金じゃないと思うよ? 千万単位なはず。そのお金をどうしたの? 」

 数緒は人差し指を立てると、「ちっちっ」と横に振った。

「ボクがどこに住んでいると思うんだね? 君らのようなウサギ小屋とは違うぞ。六本木のタワーマンションに4LDKの部屋を取っているんだ。その部屋を飾るにふさわしいインテリア、そこに住むにふさわしいブランド物の服に鞄、フランスから取り寄せる高級食材にワインにコニャック、イギリスの骨董商からより寄せる宝石やアクセサリー、色々と入用なのさ。」

 辰子は呆れたように言った。

「要するに、金銭感覚が狂ってて、金使いが荒いだけじゃねーか。」

 桜は天然じみた笑顔のまま続ける。

「土山さんとミスター黄に、こう伝えても良いよ? 里中数緒は吸血鬼じゃなく、ただの虚言癖のある小娘にすぎませんでした。もちろん、石のありかなんか知りませんでしたって。彼ら、怒ると思うよ? 本気でマフィアの大幹部を怒らせたら、どうなると思う? 胸に杭を打ち込まれて、十字路の下に埋められるだけじゃ済まないと思うよ? 」

 出た、桜の意外な一面である。

 普段は天然で大人しげだが、腹黒な奴を相手に取り引きをさせると、こういうダークさを出すのだ。

「ふ、ふふふ、ボクは500年以上も生きているバンパイア・ロードだぞ? たかがマフィアの幹部ごとき相手に、び、びびるとでも? 」

 でかした、桜!

 希望は、すぐに桜の後を引きついた。

「ふーん。吸血鬼が本当に漫画やアニメのような恐ろしいモンスターだったら、とっくに人類を支配下に置いて、特権階級の帝国を作ってるんじゃないですか? でも実際は違う。吸血鬼は、自分達の存在を知られないようにして、人間社会に潜伏してコソコソと生きている。どうしてか? 要するに吸血鬼は、普通の人間を恐れているんだ。」

 数緒の顔から、あの気取った自信が消えている。

 図星を突かれたのだろう。

 希望は追い討ちをかけた。

「吸血鬼は少しばかり妙な能力があるだけで、実は普通の人間だからだ。杭や聖水を持ち出すまでもなく、刺したり首を絞めたりすれば、普通の人間と同じように死ぬ。」

 数緒は両手を振った。

「分かった、分かった。そうマジになるなよ。ちょっとした出来心で小金を稼ごうとしただけだ。」

 これが聖ブリジットの物欲王子こと里中数緒と、三人組との俗っぽい出会いと挨拶だった。


 とりあえず、気を取り直して希望は本題に入った。

「で、その石……」

「ウロボロスの石だよ。う、ろ、ぼ、ろ、す。」

 と数緒は大仰な気取った口調を変えずに答える。

「で、そのウロボロスの石はどこにあるんです? 」

 すると、数緒は、さっと自分の前髪を軽くはらって答えた。

「知らん。」

  辰子はこめかみをピクピクひきつらせながら、携帯電話のキーを押す。

「えーと、犬山さんへ。やっぱこの宝塚モドキのいんちきオスカルは、嘘つきのにせ吸血鬼でした、と。」

 数緒は、それを制するにように手を振った。

「まあまあ、確かにボクはウロボロスの石の在り処は知らない。しかし、その手掛かりは知っている。」

 希望は疑うような目で彼女を見た。

「だったら、その手掛かりとやらを教えてくれませんか? 」

 すると数緒は、ニッと白い歯を見せた。

「もちろん教える。ただし、ボクも同行すると言う条件付きでね。ボクが案内する。案内しながら教えよう。」

「今ここで教えて貰えないのですか? 」

「ボクもお宝に興味があるんでね。一緒に探そうじゃないか。」

 辰子は疑わしげに彼女を見る。

「あんたもお宝を狙ってるんじゃねーのか? 」

「否定しないよ、お宝の一部を頂戴してもバチは当たるまい。」

 希望は首を横に振った。

「マフィアの隠し財産をちょろまかすなんて、そんな命知らずなことをするつもりはありませんよ。」

「じゃあ、謝礼をボクも貰おう。億単位のお宝を見つければ、彼らもそれなりの見返りをくれるはずだ。」

「情報の代金の他に成功報酬まで、貰おうってわけですか。」

 辰子は不快そうに言った。

「銭ゲバ吸血鬼め。」

「何とでも言ってくれたまえ。この世に、これぞ価値があると声を大にして言えるものがあるとすれば、それはお金だ。お金こそがあらゆる幸福を育む青い鳥だ。なぜならお金は人を裏切らないし、お金があればどんなものでも買えるからだ。」

 桜が不満そうに反論する。

「で、でも、お金じゃ、人の命や愛は買えないと思うよ? 」

「いや、買える。例えば同じ病気に罹っても、お金のある者は高価な医薬を買い、腕の良い医者にかかり、最高の治療を受けることが出来る。しかし貧乏人はそうはいかない。治る病気でもお金が無ければ助からない。愛だってそうだ。例えば」

 そんな話し、これ以上聞きたくない。

 希望は大きな声で割って入った。

「分かりました、一緒に探しましょう。」

 数緒は満足そうに頷いた。

「それともう一つ。ボクが居ないと、多分君らは命の危険にさらされる。」

 え!?


「それはどういう意味です? 」

 希望だけではなく、辰子も桜も不審げに数緒を見た。

「用心棒と言うか、ボディーガードが必要になるということさ。」

 ちょうどその時だった。

 礼拝堂の中が異様な雰囲気に包まれた。

 空気が重くなったというか、暗がりが急に薄気味悪くなったというか、周囲がどことなく変化したのだ。

 遠くから、何やら呪文の詠唱のようなものが聞こえてきた。いや、お祭りのお囃子のようにも聞こえる。

 希望は耳を澄まして、それを聞き取ろうとしたが、

「やめろ! 呪文を聞くな! 」

 数緒が、出し抜けに語調を荒げて怒鳴った。

 その時、ぶーーーーん! と虫の羽音が響き渡った。

 スズメバチ!!

 三人は身をすくめたが、その虫を見て、背筋に鳥肌が立った。

 いや、違う。スズメバチなんかじゃない。

 空飛ぶムカデ?

 真っ赤なムカデで、蜂のような羽根が沢山ついて、それを激しく振動させるようにして、中をウネウネと蠢くように飛んでいた。

「うえっぷ! 」

 あまりの気色悪さに辰子は口を抑える。

 数緒は鋭い声で叫んだ。

「それに触るな、猛毒がある。ちょっと触れただけで普通の人間は、あの世行きだ。」

 数緒の目が赤く光っている。口からは伸びた犬歯が突き出ていた。

 彼女は赤い長い爪の生えた人差し指で宙に何やら図形を描いた。

「バニッシュせよ!! 」

 同時に、その空飛ぶムカデが、空中でボッと赤い炎をあげて燃え上がった。そして白い灰と化すと、ぱらぱらと落下した。

「フ! どうかね? ぼくの華麗なる技を、とくとご覧あったかな? 」

 そう言って、数緒は大袈裟な決めポーズを取ってみせる。


 希望はゴクリと唾を飲み込んだ。

「い、今のは? 」

 辰彦も冷や汗をぬぐいながら尋ねた。

「カレーもシチューもいいけどよ、何なんだよ、さっきの虫は? 」

 桜の顔色も蒼い。

「スカイフィッシュかな? 」

 数緒は、またもや人差し指を立て、「ちっちっち」と横に振る。

蠱毒こどくだよ。原始的な黒魔術だが非常に強力だ。それでもこれは、ほんの警告にすぎない。」

 希望は聞き返した。

「警告? 」

「そう、お宝に近づこうとする者へのね。これが桜塚護さくらづかもりの呪いだよ。」


5.桜塚護の謎

 三人組が王子と会った翌々日。

 学園図書館の閲覧室にて。

 希望と辰子は、テーブルを1つ丸々占領し、積み重ねられた資料を調べていた。

 ここで辰子は、ちょっと不満げに言った。

「桜は来ねーのかよ? 」

 希望は肩をすくめた。

「大事な用事があるって言ってたからね。」

「こういうのは、本来あいつが一番得意じゃねーか。」

「桜にだってプライベートがあるんだから、それは尊重しなきゃ。」

 いつも三人でつるんで行動しているだけに、二人だけだと、どうもしっくり行かない。辰子の顔には、そう書いてある。


 聖ブリジット学園の「学園図書館」。

 学園の西側の端にあり、隣接する聖ブリジット大学と共有する。

 初等部と中等部を除く、高等部、専門学部、短大部の生徒であれば、誰でも自由に蔵書の閲覧が可能である。

 そこは日本有数の蔵書数と所蔵本の質の高さを誇る。その質は、内閣文庫や天理大学図書館とも並ぶと言われている。

 パンデミックの時、日本でも半数以上の大学や図書を管理する学校法人が閉鎖に追い込まれた。このとき、行き場を失った貴重な図書の避難場所となったのが、この学園図書館である。そのため、皮肉なことに、学園図書館の蔵書は、これ以上に無い程に充実したのである。


 ともあれ今日、図書館に来た目的は「桜塚護さくらづかもり」とやらが何者なのか調べるためだ。

 ネット検索でも、使える情報はほとんどヒットしない。

 地道に紙の文献に当たるしかなさそうだ。

 本好きの希望は、学園図書館の常連だ。司書のお姉さん達からも顔と名前を憶えて貰っているおかげで、色々と便宜をはかってもらえる。例えば禁帯出や閲覧制限のついている貴重書なども、こっそりと見せて貰える。

 聖ブリジット大学が誇る論文索引検索を用いたところ、いくつか「参考文献」がヒットした。

「おんみょう師とあるね。」

「安陪晴明みたいなか? 」

「いや、違うっぽい。京都の朝廷のちゃんとした土御門家のそれではなく、民間の呪い師と言うか、拝み屋だね。それでも明治から昭和にかけて横浜の周辺では、ちょっとした勢力だったみたい。」

 二人の机の上には、横浜の郷土史の本や学会誌が並んでいる。

 しかしその資料のどれを見ても、「横浜周辺に勢力のあった拝み屋の一族」としか記述が無い。

 そこに司書のお姉さんがやってきた。職員のバッチには「佐藤」さんとある。

「はい、お探しの新聞記事のコピーよ。」

「ありがとうございます。」

 そう礼を言って、希望はコピー用紙を受け取った。

 それは小さな三面記事の写しだった。

 日付は2041年6月とあり、約35年も前の記事だった。表題は「祈祷師怪死」とある。

「昨日未明、犬の散歩をしていた通行人が、大量の血痕と人間の身体の一部が発見された事件で、横浜署はこれが兼ねてより行方不明中だった祈祷師の桜塚護史郎さくらづかもり・しろうさんの遺体と断定した。史郎さんの長女(17歳)とDNA検査の結果、親子と確認された。横浜署は引き続き祈祷所に居合わせた刑事に事情を聴き、事件の全容の解明を目指す。」

 2枚目は、犬の散歩をしていた老人が犬が騒ぐので沿道わきの林を見たところ、血だまりと人間の手首が転がっていたのを見つけた、とあるだけである。

 希望は不満げに司書の佐藤さんに尋ねた。

「新聞記事は、これだけですか? 」

 佐藤さんは肩をすくめた。

「これだけなのよねえ。」

「じゃあ、九頭竜くとうりゅう黒仏くろぼとけの資料は?」

「やっぱり、『くずりゅう』じゃないの? それなら本も論文も沢山あるんだけど。」

「いいえ、『くとうりゅう』です。」

 この間、犬山さんは間違いなく、「くとうりゅう」、「くろぼとけ」と言っていた。

「うーん、難しいわねえ。」

「じゃあ、黒仏はどうです? 」

「お寺にある、煤で黒く汚れたご本尊をそう俗称する例は沢山あるけどね。」

「九頭竜と黒仏のダブル検索の結果はどうです? 」

「うーん、『屍解書』(しかいしょ)と言う変な本がヒットするんだけどねえ。」

 希望は身を乗り出した。

「どういう本なんです? 」

「安土桃山か江戸初期の頃に、中国から入って来た本みたいね。著者も内容も良くわからないねえ。」

「その本、ここにありますか? 」

「元禄の頃に出た和訳があるよ。でも保存状態が悪すぎて、開くことが出来ないのよ。無理に開いたら最後、バラバラよ。」

「何とか閲覧できませんか? 」

「とても無理ねえ。私の首が飛んじゃう。でも、幕末の頃に出た漢籍の復刻本なら、閲覧だけならOKよ。ただし版木も違うし、書誌学的にはあまり信頼が置けるものじゃないけど。」

「構いません。」

「でも、この本、白文よ? 」


 希望は、頭を抱えてしまった。

 返り点も送り仮名も無い本当の白文だ。しかも仏教経典がらみの難解な文字が大量にある。希望は高校の教科書レベルなら漢文も不得手ではない。しかし白文が相手となると、さすがに歯が立たない。

 辰子が不安げに覗き込む。

「どうだ? 」

「まるで駄目……」

「漢文の先生なら、さすがに読めるだろ? こいつを持って行ったら」

 だが、二人のやり取りを横で聞いていた司書の佐藤さんがピシャリと言う。

「残念だけど、これは閲覧制限の本だから持ち出し禁止よ。あと、保存の問題があるからコピーも不可。」

 お手上げだった。


 たいした収穫も無いまま、希望と辰子は図書館を後にした。

 校門を出て、住宅街の通学路を歩く。特に話題も無いので、二人は無言のまま帰路を急ぎ足で歩いていた。

 希望は頭の中で、今日の夕食のメニューとレシピと冷蔵庫の中の買い溜め品リストの復唱をしていた。さて、今日は何を作ろうかな……

 その時、前を歩いていた辰子が、だしぬけに急に立ち止まったので、希望は彼女の背中に鼻をぶつけてしまった。

「うわ、どうしたんだよ? 」

 辰子は無言のまま、通り向こうの公園を指差した。

 そこには桜が居た。

 すぐそばには一人の逞しい身体つきの少年が居た。精悍な顔つきの、それでいて中学生らしいあどけなさも残した、なかなかのイケメン少年である。

 二人はベンチに並んで座り、なにやら話しをしている。

 希望と辰子は、思わずそのまま、街路樹の影に身を隠した。そして、そこから二人をそっと観察する。

 桜は楽しそうに、少年に色々と話しかけている。少年は、はにかみながらも、それに応じている。

 しかし残念ながら、ここからは会話の内容までは、聞き取れない。

 桜と並んでベンチに座っている少年は、カッ君と同じ中学の制服を着ていた。

 希望は小声で言った。

「大事な用事って、このことだったんだね。」

「あんにゃろー、いつの間に彼氏なんか作っていたんだ? しかも歳下のを。」

 辰子は、心なしちょっと悔しそうな顔をしていた。

「カッ君と同じ新谷田しんたにだ中学の生徒だね? 」

「くそー、リア充め。俺ですら彼氏はまだ居ないってのに。」

「あれ? 辰子も彼氏が欲しいんだ? 」

 辰子は、身体は完全に女性に改造済みだが、性自認は完全に男だし、本人もそのことを主張していたはずなんだけど?

「あ、いや、それはだな……」

 辰子は、顔を真っ赤にして狼狽する。

 そういや、辰子は他校の中学時代からのライバルの剣道少年のことを、やたら気にしている。もっとも本人がそれを自覚しているかは、微妙なところなのだが。

 希望は、それ以上は突っ込まないことにした。ぼくも人のことは言えた義理じゃないし、というわけだ。

「でもまあ、良いことじゃないか。ここは素直に桜を祝福すべきだよ。」

「ぐ……、そうだな。」

 辰子も同意した。


 翌日、桜は学校を休んだ。


6.中妻少年

 翌々日、桜は何事も無かったように登校した。

 本人曰く、「昨日は、ちょっと風邪気味だったと思うよ? 」

 朝からやたら陽気で、「きゃっきゃっ」とはしゃいでいる。箸が転げただけで、ケラケラを大笑いをする。

「何かあったな。」

 希望も辰子も、それはすぐに分かった。

 可能性としては、やはり彼氏と喧嘩でもしたんだろう。 

 こういう場合は、余計なお節介はせずに、そっとして置いて、いつも通りに接していたほうが良い。これが希望と辰子の共通見解だった。


 で、その日の午後、弟のカッ君が、件の桜の彼氏の少年を家に連れて来たのには驚いた。

 聞けば、カッ君が所属している空手部の1年先輩だと言う。

 清潔な身なりの生真面目な雰囲気の少年で、学生服のカラーのホックもきっちりと閉じている。

中妻勇一なかづま・ゆういちです。」

 と礼儀正しく、丁寧に頭を下げて挨拶する。


「こちらこそ、希望のぞみです。」

 と頭を下げ返す。

 ともあれ気を利かして、冷えた烏龍茶に磯辺焼き煎餅を付けて、ドアをノック後、カッ君の部屋に持ってゆく。

「あ、恐れ入ります。」

 と勇一君は頭を下げる。

 今時、びっくりするくらい、礼儀正しい中学生である。

 希望はこの少年に好感を持った。

 桜の奴、良い彼氏を見付けたじゃないか、と。


 希望が居なくなると、勇一はカッ君に思ったことを、そのまま話した。

「お前の姉さん、綺麗だなあ。」

「え? そーっすかあ? 」

「そうだって。ああいう人を美少女って言うんだよ。」

「そんなもんですかねえ。」

 カッ君は、ちょっと返答にしどろもどろだ。あれは姉じゃなく兄です、適応者です、と言い損ねた状態で、会話はずるずると進んでしまう。

「お前の姉さんも空手やってるだろ? 」

「あ、正確には空手じゃなくて、俺と同じ無手勝むてかつ古柔術をやってます。」

「相当な段だろ?」

「一応、免許皆伝です。」

「やっぱりなあ。」

 勇一は感心したように頷く。

「あの、分かるんですか? 」

「肩と腕を見れば一目瞭然だよ。あれは女性の格闘家のものだ。」

 そう言った勇一の頬は赤らいでいるし、眼はどこか美しいものに見惚れた余韻のようなものが残っている。

 いよいよもってカッ君は、この先輩に本当のことが言えなくなってしまった。


 その翌日、朝の教室。

 辰子はだいぶ不服そうに言った。

「お宝探しは、いつになったら再開できるんだ? 」

 希望は肩をすくめた。

「しょうがないじゃないか。数緒さんが、留守なんだから。」

「あの銭ゲバ王子、どこほっつき歩いてるんだ? 」

 3年生の教室まで出かけて行って尋ねたのだが、里中数緒はここしばらく学校を休んでいるらしい。正式な休日届けも出ていて、どうも計画的なものらしい。担任の教師も、彼女の長期休暇は「たびたびだ」と言っている。去年も一昨年も、出席日数は、留年ぎりぎりの紙一重だったとか。

 聞いた話を総合すると、どうも休暇を取って旅行に行ってるっぽい。

 ここまで来ると、聖ブリジットの自由すぎる校風も考え物だ。

 辰子は呆れたように言った。

「いい気なもんだな、あの絶対運命黙示録。」

 そこに、桜がやって来た。

「おっはよー!! 」

 やたらテンションが高い。

 希望と辰子は、顔を見合わせた。

 やはりまだ、精神状態は元に戻っていない。

 彼氏とは、まだ仲直りしていないのだろう。

 とこの時は、希望はそれぐらいに考えていた。


 事実は意外な人物から知らされた。

 カッ君だった。

 その日の下校時、三人はいつもの通り一緒に帰ったわけだが、桜は不自然なまでにはしゃぎまわっていた。

 偶然それを、同じく帰宅途中のカッ君が見たらしい。

 夕食の準備中、希望がニンジンをコンコンと包丁で切っている時、カッ君はいつもの如く仏頂面で台所に入って来る。そして、冷蔵庫の中から麦茶を出して飲みながら、カッ君がポツリとつぶやくように言ったのだ。

「野崎さん、立ち直ったみたいで良かったな。」 

 は?

 思わず希望は、包丁を止めた。

「何で、カッ君が桜のことを知ってるの? 」

「それは、中妻さんから相談されたからだよ。」

 希望は、くるりとカッ君に向き直った。

「桜に何があったか知ってるの? 」

「ああ。」

 希望は、塗れた手をエプロンで拭いた。

「一体、桜に何があったの? 」

 するとカッ君は意外そうな顔になった。

「何だ、兄貴はとっくの昔に知ってると思ってたんだけどな。」

「いや、知らない。何があったの? 」

「野崎さんは、中妻さんに告白したんだ。そして失恋したんだ。」


 はあ!?

 希望は驚愕した。彼氏との喧嘩じゃなくて、失恋?

 カッ君は、希望の反応にちょっと戸惑いながらも説明した。

「中妻さんと野崎さんは、同じマンションに住んでいて、共有敷地の清掃やボランティアで知り合ったそうだ。中妻さんは、野崎さんのことを『気のいいお姉さん』と思って慕ってたそうだけど、野崎さんのほうは恋愛感情だったようだ。」

「そ、それで? 」

「中妻さんは、迷ってたよ。中妻さんには、生憎と恋愛感情は無かった。それに空手に専念したいってわけで、女の子との付き合いに時間を割く余裕も無かった。けど、野崎さんを傷つけたくも無いと。」

「それで? 」

「俺は言ってやったよ。だったら、正直に言うべきだって。生半可な気持ちで付き合ったり、変に期待を持たせるような誤魔化しをしたって、かえって事態を悪くするだけだ、と。ここは男らしく、きっぱりと断るべきだと。」

「そんな、それじゃ、桜の気持ちはどうなるんだよ? 」

 カッ君は、ムスッとして答えた。

「だったら、中妻さんの気持ちは、どうなるんだよ? 中妻さんにだって、中妻さんの事情があるんだぜ? 」

「そ、それは……」

「兄貴、俺は何か間違っていることを言ったか? 」

 希望はうつむいた。

「……言ってない。」


7.希望、砂にされる

 翌日、希望はこのことを辰子にも伝えた。

 それを聞いて、辰子は顔を赤くした。

「あのクソ餓鬼、泣かしてやる! 」

 辰子は今にも竹刀を持って、そのままあの少年の所に乗り込んで行きそうな剣幕である。

 希望は慌ててそれを止めた。

「よしなって。」

「なあ、希望。俺達は誓い合ったじゃねえか。桜を泣かす奴がいたら、俺達がそいつを泣かしてやるって。」

 希望は嘆息した。

「それ、小学生の頃の話しじゃん。」

 辰子は憤懣やるかたないと言った表情だ。

 希望は少し考えこんでから、言った。

「ここはぼくに任せてくれないかな? 考えがあるんだ。」

 新谷田しんたにだ中学は、希望の母校でもある。


 聖ブリジット学園は、篤志家として知られた丸銀財閥の資金援助を得た新谷田学園都市計画の一翼であり、もともと関係が深い。

 それで地理的にも近い所にあるのである。

 希望は放課後になると大急ぎで学園から出て、その足で新谷田中学に向った。

 あの桜をふりやがった、中妻勇一なかづま・ゆういち少年を待ち伏せるためである。

 カッ君と同じ空手部に所属している彼は、放課後になっても最低でも2時間は校内に居ることは分かっている。そしてカッ君は、今日は道場の日なので、部活は休んでいることも分かっている。鉢合わせは無い。

 それに母校だけあって、周囲の地理は勝手知っている。

 希望が到着して間もなく、部活動時間も終わったようで、ゾロゾロと中学生達が帰宅を始めていた。中妻少年が出てくるのも、間もなくだろう。 

 希望は校門が遠くから見渡せる生垣に腰を下ろすと、文庫本を読んでいるふりをしながら、向こうを注視した。

 部活を終えた中学生達がゾロゾロ出てくるが、肝心の中妻少年は出てこない。

 やがて、下校する生徒達もまばらになって行き、やがてほとんど出てこなくなった。

 希望は、ちょっとソワソワしてきた。

 何をやっているんだろう? まさか彼が出てくるのを、見落としたわけじゃないよね?

 それから10分ほどたった頃だと思う。

 数人の私服を着た高校生ぐらいの少年の集団が通りかかった。

 見るからに不良だと分かる連中なのだが、そのうちの一人がいきなり歩をとめた。

「あ、このアマ! 」

 そう大声で指差され、希望は思わず顔をあげた。

 あ!?

 そうだ、この間、辰子と桜と一緒に居た時、ぼくらをナンパするふりをして乱暴しようとしたチンピラの一人じゃん。辰子と共に難なく撃退したわけだが。

 不良達は、ぐるりと希望を取り囲んだ。

 じゅ、10人?

 反射的に、希望は古柔術の臨戦態勢に入っていたが、この人数ではさすがに勝ち目は無い。

 見ると、背の高い筋肉質の青年が、ジロリと希望を睨み付けると、この間の不良Bに訪ねた。

「お前の言っていた、やたら強えアマとは、こいつか? 」

「は、はい。俺達が何もしてないのに、いきなり殴りかかって来たんでさ。」

 ウソつけ! ぼくらは自衛しただけだし、そもそもぼくは寸止めで殴ってなんか居ないだろうが。まあ、辰子はかなり荒っぽいことやってたけど。

 こう言うときはどうすべきか?

 希望が免許皆伝した「里見流無手勝さとみりゅう・むてかつ古柔術」には、「兵法」もカリキュラムに入っている。足立区のオーガこと、里見師匠の命令で『孫子』も全文暗記させられ、師匠の綿密な講義も受けた。

 希望は出し抜けに足払いをかけて、眼前の一人を転倒させた。

 さらに不意を突いて、二人目を突き飛ばし、三人目に激突させる。

「うわっ! 」

「こ、このアマ! 」

 同時に希望は、猛ダッシュで駆け出した。

 そう、こう言うときの最良の戦術は、「逃げる」である。


 しかし、逃げた先に、いきなり4人の不良が立ちはだかった。

 しまった! 伏兵が居たのか!!

 いや、離れた所に仲間がいたのだ。それを希望は見落としていた。

 今度は希望が不意を突かれた格好で、不良に突き飛ばされた。

 折りたたみ式の警棒を持ってる奴がいて、そいつが希望の左足の踝を、嫌というほど殴りつけた。

 しまった、良いのを貰っちゃった。

 激痛に耐えかねて、希望はしゃがみこんでしまった。

 そして、グルリと不良達に取り囲まれた。

「このアマ、どうします? 」

 ボスは面白くなさそうな表情で小声で言った。

「……砂にしろ。」

 希望は覚悟を決めた。こう言うときは下手に抵抗しないこと。そうすれば、被害も最小で済む。

 ちょうどその時だったと思う。


「兄さん達、何をやってるんだ!? 」

 凛とした声変わりも終えた少年の声が響き渡った。

 希望は声の主を見て、思わず頭を抱えそうになった。

 あちゃー、よりにもよって、こんな時に。

 中妻勇一だった。


 学生服に、たたんだ空手道着を肩がけに背負っている。

 カラーのホックもきちんと閉じている生真面目な雰囲気も、この間と変わらない。

 勇一は、倒れている希望を見て、何が起こっているかすぐに了承したようだ。

「女の子によってたかって、あんたら何をやってるんだ? 」

 不良の一人が、勇一を睨み付ける。

「何だあ? この中坊? 」

 勇一は道着を地面に落とすと、そのまま空手の構えを取った。

 学生服の白馬の王子様と言ったところか。

 希望は怒鳴った。

「よせ! その子は関係ない!! 」

 不良のボスは顔をしかめた。そして、さらに面白くなさそうに言った。

「こいつも一緒に砂にしろ。」


8.公園にて

 数分後。

 ボコボコにされて、地面に横たわっている二人の前に、不良のボスはしゃがみこんで言った。

「俺達も、女子供相手に本当はこんなことしたくねえんだよ。けど、俺達はなめられちゃ終わりなんだ。それで仕方なくさ。これで懲りろよ、な? 」

 そう言って、不良達はゾロゾロと立ち去って言った。

 あの少年Bは仕返しが出来てご満悦と言った表情で、無様に地面にのびている希望を見て、ケケケと嘲笑った。あの野郎、今度合ったら、ただじゃおかねえ。


 希望のセーラー服はもみくちゃだ。

 勇一の学生服も蹴られた靴跡だらけで、ボタンもいくつかはじけ飛んでしまっている。

 希望は立ち上がると、勇一に肩を貸して、とりあえず近くの公園に向かう。

 勇一をベンチに座らせ、ハンカチを水のみ場で湿らせると、切れた唇の傷から泥を拭いてやる。

 勇一は下唇を噛んでいる。そしてグスンと鼻を鳴らした。

「情けないです。」

 希望は苦笑した。

「あの人数相手に勝てるわけないじゃん。しかも連中、喧嘩慣れしてることも一目瞭然だろ? それに空手というのはスポーツであって、喧嘩の技術じゃない。」

「……。」

「それよりも、勇気と無謀を混同しちゃいけない。ああいう時は黙って警察を呼ぶか、学校に戻って先生達に助けを呼ぶかすべきなんだよ。」

「……次は、そうします。」

「オーケー、じゃあ、ちょっと診せてみて? 」

 そう言って希望は、勇一の学生服を脱がす。

 勇一は顔を真っ赤にして、あたふたとする。

 希望は苦笑した。

「大丈夫、襲ったりなんかしないよ。」

 思った通り、中学生にしては、凄い良い体格をしている。

 それはともかく希望は、勇一のTシャツの上から身体を軽く貌診する。これも「里見流無手勝さとみりゅう・むてかつ古柔術」のカリキュラムに入っている。師匠いわく、「実践武術に外科医術の知識は不可欠である」。

「うんうん、骨も大丈夫。ところどころに打撲があるけど、いずれも軽い。頭部も問題なし。」

 そう言って、ワイシャツと学生服を返した。

 勇一は顔を真っ赤にしたまま、そそくさと衣服を着た。

「あの、希望さんは大丈夫ですか? 」

 希望は笑った。

「ふーん、ぼくの名前、覚えていてくれたんだ。」

「はい、この間お邪魔した時に。」

 希望は腕をまくって見せた。

硬身功こうしんこうと言ってね。古柔術の一部流派や中国拳法にある技術なんだよ。殴られた時に全身の筋肉を緊張させて、ダメージを最小限に抑える。君より、全然無事。」

 勇一は希望の肌理の細かい柔肌を見て、さらに顔を赤くした。

「そ、そうですか、ちょっと安心しました。」

「それにあいつら、さすがに喧嘩慣れしてるだけあるね。何やかんやで手加減してくれたんだよ。ほら、ぼくは顔は無傷だ。あいつら、けっこう紳士じゃん。」

 そう言って希望は立ち上がった。

「でも、君はもっともっと紳士だね。ありがとう。」

 勇一は、さらにさらに顔を赤くして、もう茹でダコ状態だ。

「いえ、その……」

 希望は自分の鞄を拾い上げる。

「じゃあ、ぼくは帰るけど、君も帰られるよね? でも、このことはカッ君には絶対に内緒だよ? つーか、カッ君に言ったら、マジ怒る。」

 そう言って、希望は軽く笑いかけた。

 そしてそのまま駅に向おうとした。

 勇一がスッと立ち上がり、いきなり希望の腕を掴んだ。

「待ってください! 」

 希望はちょっと驚いて、勇一を見た。

「あ、失礼しました。」

 そう言って、勇一は手を離した。

 彼は、何かを決心したような、どことなく毅然とした表情をしている。

「希望さん、その、あなたには付き合っている人は居ますか? 」

 はあ?

「居ないけど、どうして? 」

 答える代わりに、勇一は鞄から携帯を取り出した。

「番号とメアドを交換してくれませんか? 」


9.その翌日

 聖ブリジット学園には、大きなヘアサロンおよびエステサロンがある。

 専門学校部美容師訓練学科に属する施設で、学園長の許可を得た生徒は無料で利用できる。と言うか、対象者はほとんどが「適応者」の少年達だった。

 ここで少年達は、女の子として生きるための教養として、美容のノウハウを学ぶ。

 また美容師訓練学科の実習、あるいは資格を取ったばかりのお姉さん達の訓練のためにも、ここは重要な施設であった。

 そのヘアサロンの一室で、希望は髪のケアを受けていた。 


 仲原夏美なかはら・なつみ。美容師訓練学科3年のお姉さん。

 あだ名は、アスカ・ラングレー、あるいはアスカさん。本人は、このあだ名を嫌がっていて、いわく「私はあんなに性格悪くない」。しかしその割には髪型を変えようとしないし、意味も無く眼帯を付けてキャンパスを歩き回るので、それを信じて居る者は少ない。

 彼女は希望の髪の先端を切りそろえながら言った。

「あー、そりゃ、告白の前段階だわ。」

「で、でも、単純にぼくのことを知りたかっただけでは? 」

「だったら、趣味とか、食べ物の好みとか、そーいうのを聞くでしょ? 彼氏が居ますかって、そりゃあんたが売約済みかどうかを確認する以外の何だって言うのよ。」

「で、でも、そういうのは友達のカッ君から聞きだせるじゃないですか。ぼくのことを、もっと知りたかっただけとか。」

 アスカさんは暖めた塗れタオルで、希望の髪を包みながら言った。

「二ノ宮君、そーいうのを現実逃避って言うのよ? 知ってた? 」

 希望は、赤面して戸惑った。

「で、でも、ぼくは男ですし。」

「でもさあ、二ノ宮君。あなた3年後には、本物の女の子になるわけでしょ? そうなったら、旦那さんを探して、結婚して子供を産まなければならないのよ? 」

「そ、それはそうですけど。」

 アスカさんは、からかうように笑って言った。

「その練習みたいなもんよ、この際、彼と付き合っちゃえば? 」

 さすがにここで、横で仕事をしていた彼女の同級生のお姉さんが口を挟んだ。

「ちょっと、アスカ。よしなさいよ。子供をからかうようなこと言って。」

 しかしアスカさんは、すましたような顔で言った。

「あーら、私は大真面目よ? これも女の子になるための重要な準備なんじゃない? 」

 希望は、難しい顔になった。

「でも一番の問題は、相手は親友の失恋の相手なんです。なんだか」

 アスカさんは、ポンポンと希望の頭を軽く叩いた。

「あなたは別に、その男の子を横取りしたわけじゃないでしょ。その男の子が、野崎君ではなく、あなたを選んだ、そういうことでしょ? 」

「そ、それはそうですけど……」

「まあ、決めるのは二ノ宮君、あなたよ。悩んで悩んで、よーく考えることね。」

「……はい。」

 希望は、本当に悩んでいる。

 ここは思い切って、辰子と桜に打ち明けよう。

 そう決心した。


これは前編です。

後編、乞うご期待!!

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