エンペドクレスの遺言
葡萄酒色の海の上を、敵軍の船がへさきを並べて進んで来るのが見えた。
陸上でこれを待ち受ける軍隊も、陣形を組んで敵を迎え撃とうとしている。
戦争が始まろうとしていた。
老いた哲学者エンペドクレスは、弟子と共に山を登っていた。この山は火山で、その火口を目指して二人は進んでいるのだ。弟子は、山のふもとを見下ろして、言った。
「先生、もう戦争が始まりそうですよ。私達も参加するべきじゃないですか?」
エンペドクレスは言った。
「私はもう兵役に就くような年ではない。それに、私はもはやそのような汚れからは離れた身なのだ。どうして再び、血の汚れを身に受けるようなことをしようか」
そして、火口にたどり着くと、エンペドクレスは言った。
「そしてこれが最後の仕上げだ。私は今からこの火口に身を投げて全ての汚れを浄め、栄えある神々の位へと帰り行くのだ。かつて私がそうであったように」
「先生、あなたは狂っています。どうしてそんなことがあり得るでしょうか。どんな詩人が、そんなことを言っているのでしょうか。
むしろ、詩人が言うように
“死すべき人間と、不死なる神々とは、その生まれからして異なっている”
のではないでしょうか?」
「さて、そうだろうか。だが別の詩人は言っている。
“人々もまた神々も
元々は一つであった
その始まりは”
と。
それに、詩人の言葉には作り事が多い。しかし、理の目をもって視れば、君にも分かるはずだ。元々は、全ては一つだったのだということが。
すなわち、かつて―いや、“かつて”という言い方が正しいのかどうか分からないが―かつて全てのものは一つだったのだが、そこから散り散りに分かれて個々別々のものが成り出で、今に至っているのだということが。
何となれば、地、火、風、水、の四大元素は、“愛”によって一つになり、“憎しみ”によって離ればなれになり、このように付いたり離れたりしながら、代々移り変わって行くものであるから。
かつて、全ては“愛”のもとで一つであった。しかし、“憎しみ”のため、太古に犯された罪のために、私達は散り散りになり、私もお前も、長く苦しい輪廻転生を続けてきたのだ。互いに憎み合い、傷つけ合い、苦しめ合い、殺したり殺されたりしながらな。
だが、今や私は、そのような罪から浄められた。
私は今こそ、原初の合一へと、純一な愛のもとへと帰り行くのだ。
そこでは愛の神であるキュプリスが―人々は、この神について誤った考えを持っているのだが―統べ治めたまい、全てが完全な平和と調和とを保っているのだ。そのことは、私が以前作った詩の中で述べておいた通りだ。すなわち
“過ぎ去りし古の御世
そのかみは、かのゼウスをも
クロノスも、またアレースも
未だなお神にはあらず
ひとりただ“愛”のみが
統べ治む神ではあった
ひとりただこの神にのみ
諸人は仕え従い
清らかな貢を供え
慎んであがめ敬い
安んじて一つとなって
平らかに過ごしておった
その後でそれに代わって
恐るべきかの“憎しみ”が
散り散りに全てを分かち
我々が今見るごとく
痛ましくまた悩ましく
諸人と万のことを
治めるまでは”
と。
だが、今や私は、そのような罪から浄められた!
罪なく汚れなく、今こそ私は、栄えある神々の位へと、原初の純一な愛へと帰り行くのだ。
そこでは全てが一つである―憎しみでさえもが一つなのだ。何となれば、愛と憎しみとは表裏一体のものであるから。
そのようにして、完全な平和と調和との内へと、今こそ私は帰り行くのだ!」
そう言うと、エンペドクレスは火口へと身を投げた。
火口からは火と熱気と硫黄が吹き上がり、弟子は思わず顔を覆って後ずさった。
そして一瞬の後、何かが火口から吹き上げられて、弟子の前に落ちてきた。
それは、エンペドクレスのサンダルの片方だった。焼け焦げてはいるが、燃えてもいないし、熱気を放ってもいない。
弟子は、恐る恐るそれを拾い上げて、ふもとを見下ろした。
ふもとでは、既に戦争が始まっていた。船を降りた軍隊は隊列を組み、陸上の軍隊も隊列を組んで、互いに閧の声を上げてぶつかり合っていた。
槍と盾とがぶつかり合う音、剣と兜がぶつかり合う音、閧の声と叫び声とが、断続的に響いてきた。
弟子は、サンダルを抱いて、天を仰いで言った。
「ああ、先生、やはりあなたは狂っていたのです。
だが結局のところ、一体誰が、この世の中で狂わずにいられるだろうか。神々が私達を狂わせ、けしかけて、互いに滅ぼし合わせ、また自らを滅ぼさせているのだから。
そうだ。詩人の言うように、人を迷わす“迷妄”の神は、地を踏むことさえなく、人々の頭の上を踏み越えて歩いて行くのだから。
誰が、この神のもたらす災いから逃れられようか。この世では、誰も逃れる者はいないのだ」
そう言うと弟子は、自らも戦争に参加するために、山を降りて行った。