表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

歴史もの

エンペドクレスの遺言

作者: しのぶ

葡萄酒色の海の上を、敵軍の船がへさきを並べて進んで来るのが見えた。

陸上でこれを待ち受ける軍隊も、陣形を組んで敵を迎え撃とうとしている。

戦争が始まろうとしていた。



老いた哲学者エンペドクレスは、弟子と共に山を登っていた。この山は火山で、その火口を目指して二人は進んでいるのだ。弟子は、山のふもとを見下ろして、言った。


「先生、もう戦争が始まりそうですよ。私達も参加するべきじゃないですか?」


エンペドクレスは言った。

「私はもう兵役に就くような年ではない。それに、私はもはやそのような汚れからは離れた身なのだ。どうして再び、血の汚れを身に受けるようなことをしようか」


そして、火口にたどり着くと、エンペドクレスは言った。


「そしてこれが最後の仕上げだ。私は今からこの火口に身を投げて全ての汚れを浄め、栄えある神々の位へと帰り行くのだ。かつて私がそうであったように」


「先生、あなたは狂っています。どうしてそんなことがあり得るでしょうか。どんな詩人が、そんなことを言っているのでしょうか。

むしろ、詩人が言うように

“死すべき人間と、不死なる神々とは、その生まれからして異なっている”

のではないでしょうか?」


「さて、そうだろうか。だが別の詩人は言っている。

“人々もまた神々も

元々は一つであった

その始まりは”

と。


それに、詩人の言葉には作り事が多い。しかし、(ことわり)の目をもって視れば、君にも分かるはずだ。元々は、全ては一つだったのだということが。


すなわち、かつて―いや、“かつて”という言い方が正しいのかどうか分からないが―かつて全てのものは一つだったのだが、そこから散り散りに分かれて個々別々のものが成り出で、今に至っているのだということが。


何となれば、地、火、風、水、の四大元素は、“愛”によって一つになり、“憎しみ”によって離ればなれになり、このように付いたり離れたりしながら、代々移り変わって行くものであるから。


かつて、全ては“愛”のもとで一つであった。しかし、“憎しみ”のため、太古に犯された罪のために、私達は散り散りになり、私もお前も、長く苦しい輪廻転生を続けてきたのだ。互いに憎み合い、傷つけ合い、苦しめ合い、殺したり殺されたりしながらな。


だが、今や私は、そのような罪から浄められた。

私は今こそ、原初の合一へと、純一な愛のもとへと帰り行くのだ。

そこでは愛の神であるキュプリスが―人々は、この神について誤った考えを持っているのだが―統べ治めたまい、全てが完全な平和と調和とを保っているのだ。そのことは、私が以前作った詩の中で述べておいた通りだ。すなわち


“過ぎ去りし(いにしえ)御世(みよ)

そのかみは、かのゼウスをも

クロノスも、またアレースも

未だなお神にはあらず

ひとりただ“(キュプリス)”のみが

統べ治む神ではあった

ひとりただこの神にのみ

諸人(もろびと)は仕え従い

清らかな(みつぎ)を供え

慎んであがめ敬い

安んじて一つとなって

平らかに過ごしておった

その後でそれに代わって

恐るべきかの“憎しみ”が

散り散りに全てを分かち

我々が今見るごとく

痛ましくまた悩ましく

諸人と(よろず)のことを

治めるまでは”

と。


だが、今や私は、そのような罪から浄められた!

罪なく汚れなく、今こそ私は、栄えある神々の位へと、原初の純一な愛へと帰り行くのだ。

そこでは全てが一つである―憎しみでさえもが一つなのだ。何となれば、愛と憎しみとは表裏一体のものであるから。

そのようにして、完全な平和と調和との内へと、今こそ私は帰り行くのだ!」


そう言うと、エンペドクレスは火口へと身を投げた。


火口からは火と熱気と硫黄が吹き上がり、弟子は思わず顔を覆って後ずさった。

そして一瞬の後、何かが火口から吹き上げられて、弟子の前に落ちてきた。


それは、エンペドクレスのサンダルの片方だった。焼け焦げてはいるが、燃えてもいないし、熱気を放ってもいない。

弟子は、恐る恐るそれを拾い上げて、ふもとを見下ろした。



ふもとでは、既に戦争が始まっていた。船を降りた軍隊は隊列を組み、陸上の軍隊も隊列を組んで、互いに閧の声を上げてぶつかり合っていた。

槍と盾とがぶつかり合う音、剣と兜がぶつかり合う音、閧の声と叫び声とが、断続的に響いてきた。


弟子は、サンダルを抱いて、天を仰いで言った。


「ああ、先生、やはりあなたは狂っていたのです。

だが結局のところ、一体誰が、この世の中で狂わずにいられるだろうか。神々が私達を狂わせ、けしかけて、互いに滅ぼし合わせ、また自らを滅ぼさせているのだから。


そうだ。詩人の言うように、人を迷わす“迷妄”の神は、地を踏むことさえなく、人々の頭の上を踏み越えて歩いて行くのだから。

誰が、この神のもたらす災いから逃れられようか。この世では、誰も逃れる者はいないのだ」


そう言うと弟子は、自らも戦争に参加するために、山を降りて行った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 地、火、風、水、の四大元素は、“愛”によって一つになり、“憎しみ”によって離ればなれになる。 今の時代でも、形をかえて生きているように思います。 たとえば、人の根幹である祖父母、父母、子供…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ