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回らない地球

回らない地球と回る私

作者: 水谷 蜜柑

私がインフルにかかった。

なんとも珍しいことだ。

クッ……聖なる魔女(セイント・ルナルクス)である私がこのような愚病にかかるなど……これも奴ら闇の精鋭(テネブラエ・エリテス)の影響か…………。

などと厨二病ごっこしている場合ではない。

人生二度目のインフルである。

「我が聖なる鎧セイント・アルマデュラのチカラをもってしても防ぎきーー」

ピーッ。ピーッ。ピーッ。

私は脇に挟んであった体温計が高らかに鳴り響く。

「空気読めよ体温計……」

体温計を抜き取りながらぼやく。

まったく。現実に引き戻されると悲しくなってくるではないか。

「うへっ」

私は体温計に表示された数字を見て目をしばたたかせた。

三九・四度……。

どうりでしんどいわけだ。

私は体温計を側に置き、起き上がったついでにポカリスウェットを飲む。

「ごほごほっ!」

むせた。

別に水が変なところに入ったわけじゃなくて、水を口に含んでいるときに咳が出たのだった。


インフルってこんなにしんどかったんだな。前にかかったのは小学校低学年のころだもん、そりゃ覚えてないよ。

そうだ、そのときはゆうちゃんが助けてくれたんだよね。

お母さんが止めるのも無視して、無理矢理学校行ったんだけど、結局学校にも辿り着けなくて。地面がぐわんぐわん回って、まともに歩けなかった。

のんきに、あ、地球って回ってるんだな、お父さんの言ってた通りだ、すごい、なんて思ってたっけ。

そのままアスファルトにぶっ倒れて、隣にいたゆうちゃんが家まで運んでくれたんだよね。ゆうちゃんも看病するって聞かなくて、その日は学校も休んで、ずっと側にいてくれた。

元気盛りの小学生にとっては一週間部屋にこもってなきゃいけないっていうのは苦痛でしかなくて、ようやく外に出られたときは嬉しくて、ゆうちゃんと二人で走り回ったのを覚えてる。

でも、そこで気付いたんだ。

地球って、回ってないなあって。

やっぱり回ってなんかいないんだって。

理科の授業で理屈は習ったけど、そういうのとは何か違う。

なんとなく、なんとなくだけど……。

地球は決して回っちゃいないのだ。




トイレ行くか……。

急にトイレに行きたくなってきた。

咳のせいであんまり寝付けなくて、暇だからポカリを飲みまくってたからかもしれない。

気だるい身体を動かし、のっそのっそと一階に下りる。

トイレが二階にもあればいいのにな、とよく思う。小さな頃は夜一人でトイレに行くのが怖くて、お母さんに頼りっぱなしだった。でもお母さんも半分寝てて、二人して階段から落ちたりもした。あれは危なかった。首から落ちてたら確実に逝ってた。あれ以来、トイレをしに一階に下りるのはちょっとだけ慎重になるようになった。

一階に下り、トイレに向かうと、トイレのドアの前にキキがいた。

別に配達員的な魔女がいたわけではない。猫だ。小学校のときに拾ってきた黒猫なのだが、私はその頃、キキとジジを逆に覚えていたのだ。だからこいつの名前はキキになっている。ちょっとした黒歴史だ。

いつもなら構ってやるのだが、今日はそんな余裕はない。ドアで乱暴に押しのけつつ入ろうとすると、キキもトイレに入ろうとしてきた。

「こら」

一応口では叱りながらも、覇気もなければ生気もない。キキがトイレに入っても邪魔をしないのは分かっているし、少し落ち着かないというだけだ。もうめんどくさいし入れてやろう。

猫ってよくトイレに入りたがるよね。変態さんかな?

「はー……」

便器ってなんでこんなに安心するんだろうね。漏らしてもいいからかな。下半身が圧迫されてないからっていう線もあるか。あれ、それなら裸族になればいつでも安心できるのでは?ワンチャンワンチャン。

なんて裸族に想いを馳せていると、キキが足元にすりすりしてきた。かわいい、かわいすぎる。


キキは四年くらい前に学校の帰り道拾ってきた子だった。近くの河川敷に、ダンボールに入れられているのをゆうちゃんが発見したのだ。警戒するキキを餌でつったり、温めてあげたりして心を砕いたのはゆうちゃんだった。最初のうちはゆうちゃんの家で飼っていたのだけど、数ヶ月してゆうちゃんのお父さんが猫アレルギーであることが判明し、私の家で引き取ったのだ。

頭をなでなでしてやると、キキは心地良さそうに目を細める。

「ゆうちゃん……」

そんなゆうちゃんとはただいま絶賛喧嘩中だ。

喧嘩なんてめったにしないのだけど、インフルにかかる前日にタイミング悪く喧嘩になった。

でも、ゆうちゃんが悪いのだ。

私を止めるから。


その日、私とゆうちゃんは生活委員の仕事で朝早く登校していた。ゴミ箱洗浄の日だった。適当にゴミ箱を洗って教室に戻り、いざ入ろうとしたときだった。

クラスメイトの坂本さんが、香川さんの机に落書きをしているのを目撃したのだ。香川さんが坂本さんの女の子グループにいじめられていることは知っていた。前からそういう雰囲気だったのだ。

やっと現場を押さえたぞーー。

私は勢いよく扉を開けようとしたその瞬間。

私の右腕ははゆうちゃんに強く握られ、引っ張られた。

「なんでゆうちゃん!」

私は憤りを感じながら叫んだ。

ゆうちゃんは無言で、力を強めるだけだった。

振り払おうとしても、男の子のゆうちゃんの力は思ったより強くて、振り払えない。

ゆうちゃんが何を考えているのか分からなかった。

「……痛いよ」

小さな声でそう言うと、ゆうちゃんはハッとして私の方に振り返って、パッと手を離した。

「ごめん!」

そう言うゆうちゃんを置いて、私は急いで教室に戻った。

坂本さんはもういなかった。

それからゆうちゃんとは一言も口を利かなかった。

だって、ゆうちゃんが悪いのだ。

私を止めるから。


「ゆうちゃん……」

私はトイレでもう一度呟いた。

インフルエンザにかかっても、ゆうちゃんはお見舞いにも来てくれていない。

「寂しいよ、ゆうちゃん……」

小さい頃から変わっちゃったのかな……。

キキがにゃあ、と鳴いた。




長いようで短い一週間が終わった。

早く来て欲しいようで、一生来ないで欲しいような。

ゆうちゃんと会ったらどうすればいいんだろ……。

私のなかで、とにかくゆうちゃんに会いたいよ勢力と、ゆうちゃんから話しかけられるまで話しかけないぜ勢力が拮抗していた。

ううん嘘。とにかくゆうちゃんに会いたかった。

それくらいに、この一週間寂しかったのだ。

ゆうちゃんにちょっと依存しすぎかなと思ってはいたけど、ここまでとは思わなんだ……。


ゆうちゃんは物心ついたときから隣にいる、いわゆる幼馴染みだ。ずっと一緒なのが当たり前で、それが普通だった。だからこうして離れたときの寂しさもなかなか味わうことはなく、悪い意味で新鮮だった。

とりあえず、ゆうちゃんの家に突撃だ。

そう思い、向かいの家のインターホンを押す。ネームプレートには見慣れた『奥村』の文字。奥村優佑こと、ゆうちゃんの家である。

いつもならドカドカと断りなしに押し入るのだけど、今日はさすがにそうはしなかった。


珍しくドキドキしながら扉を開くのを待っていると、出てきたのはゆうちゃんのお母さんだった。

「あら、あーちゃん?おはよう」

「おはようございます!ゆうちゃんいますか?」

食い気味に言い立てると、ゆうちゃんのお母さんは困った顔をした。

「優佑ならもう行っちゃったけど……あーちゃんは一緒じゃなかったのね」

「ええっ!ほんと!?」

「ここ数日早めに出て行ってるわ。ちょうどあーちゃんがインフルエンザにかかった日くらいからかしら」

「あ……ありがとうございます!いってきます!」

「ええ、いってらっしゃい」

なんということだ。

ゆうちゃんが早めに登校してる?しかも私がインフルになったくらいから。

どういうことなんだろう。

委員会の仕事だって、もう今学期はないはずだし。

もしかしたら誰かと会う約束をしてたりして……。

不安ばかりが募っていく。

気づけば私はほとんど走っていた。

ゆうちゃんーー。




病み上がりだということを失念していた。

結局、私のスピードは学校までは保たなかった。学校に到着した時間は予鈴の五分前。いつもと変わらない。息を切らしながら靴を履き替え、校舎に入っていく。

まったく、くたびれ損だ。ん?くたびれもうけ?まあどっちでもいいや。

ゆうちゃんの靴箱を確認したが、登校しているらしかった。

よし、教室に入ったらゆうちゃんに話しに行こう。ちょっと話すくらいの時間はあるはずだし、そのときひょっとしたらゆうちゃんから何か言ってくれるかもしれない。そしたらすぐに許してあげるのに。なんでお見舞い来なかったのとか、寂しかったんだよとか、少しだけ小言を言ったら、きっとゆうちゃんがごめんごめん、って優しい声で謝ってくれる。

そうだ、そうだ。がんばれ、竹田綾香。

頑張れ頑張れ出来る出来る!北京だって頑張ってるんだから!

私は修造よろしく意気込んで教室のドアを開けた。そして瞬時にゆうちゃんの席の方に目を向ける。


「えっ……?」

思わず声が出た。

私はさっと血の気が引くのがわかった。

目の前の光景が信じられなくて。

私の視線の先には、ゆうちゃんがいた。

ゆうちゃんは笑ってた。

その隣には、女の子がいた。

女の子も笑ってたーー。

思考がフリーズしそうになりながら、後ろから来るクラスメイトの波に押されて席に着く。私の席からゆうちゃんの席は見えない。

そのことをありがたいと思ったのは初めてだった。

また目に入ってしまったら、受け入れざるをえないから。

受け入れられなかった。

受け入れたく、なかった。




それからというもの、ゆうちゃんの方をまともに見れていなかった。

もう今日で三日目だ。

私はベッドに顔を埋める。

ほんと、臆病にも程がある。あれだけ会いたいと思っていながら、いざ会ってみればこれだ。隣の女の子と喋ってたからなんなのだ。ちょっといい雰囲気っぽかったからってなんなのだ。そんなの気にせずズカズカと割って入っていって、ゆうちゃんに一言ごめんと言えばいいじゃないか。それで事態が好転するなら万々歳じゃないか。

そんなこと分かってる。分かってるよ。分かってるのに。

……ゆうちゃんが見れない。

なんだか、ゆうちゃんじゃないみたいだ。

ゆうちゃんも話しかけてきてはくれなかった。

いや、そんなの詭弁だ。

休み時間の度にトイレにいく。お弁当を持ってわざわざ食堂で食べる。遅く登校して、早く下校する。

そんなことをして、何が話しかけてきてくれないだ。

ゆうちゃんだってたぶん気づいてる。私がゆうちゃんを避けていることに。

私がゆうちゃんを避けてるんだ。

なのに不安でたまらなかった。

このままゆうちゃんと仲直りできなかったらどうしよう。ずっと話せなかったらどうしよう。こんな私なんかどうでもよくなって、あの女の子と仲良くなったらどうしよう。

どうしようどうしようどうしようーー。

頭がエラーを起こしたように真っ黒になる。

ガタガタだった。


「にゃあ」

「……キキ」

知らないうちにキキがベッドの隣まで来ていた。

私は座り直して、キキを両腕で抱えてやる。むかしは片手でも余裕だったのに、大っきくなったなぁ。赤ん坊をあやすように、抱きしめてゆらゆらと揺らすと、キキは気持ちよさそうに目を細める。

「私たちも、大っきくなっちゃったのかな」

「にゃ?」

「私も、ゆうちゃんも……」

キキは一度顔を上げたが、また丸くなって顔を胸にうずめた。

「大っきくならないと、いけないのかな……」

私はキキを抱えたままごろんと横になる。キキはちょっとだけびっくりしたみたいだけど、すぐに眠る体勢に戻った。

「やだな……いやだよ、ゆうちゃん…………」

私も、眠たくなってきた。

ゆうちゃんが、起こしに来てくれたらいいのに。

こんな悪夢から。

そんなことを願いながら私は眠りについた。




翌日も状況は変わらなかった。そもそも私が変えようとしていないのだから当然だ。

今日もまた、ゆうちゃんと喋ることはなかった。溜め息をつく回数が十倍くらいになった気がする。老けたかもしれない。でもそれもどうでもいい気がしてきた。老けて老けて、おばあちゃんになってしまえばいい。そうすれば、こんな思いもしなくてよくなるだろう。

終礼が終わり、生徒がバラバラと帰り出す。きっとゆうちゃんはあの女の子と一緒だ。

無意識にそんなことを考えてしまう自分が嫌で、私は一目散に教室を出る。そして今日は昇降口とは別の方向に足を向ける。目的地は職員室だ。インフルで休んでいたときのプリント類が纏まったらしい。

プリントを貰いに職員室に行くという経験は初めてだから、ちょっとだけわくわくする。もともと病気にかかりにくいというのもあるけれど、プリント類はいつもゆうちゃんが毎日届けてきてくれたのだ。

こんなたわいないことでも、私の生活にはゆうちゃんの影がチラつく。そのことが今までは嬉しかった。今は虚しくなるだけだ。

「はぁ……」

また溜め息が出た。

どうしてこうなっちゃったんだろう。

先生に元気がないぞ、と励まされつつプリントを受け取り、昇降口へ向かう。ほっといてよ。さっさと帰ろう。ああ、曇ってる。傘は……めんどくさいしいいか。降ったら走ろう。今日の夜ご飯は何だろうか。久しぶりに肉だといいな。そんな気分だ。キキともいっぱい遊ぼう。最近はご無沙汰だったし、キキも喜ぶ。


変なことを考えないように思考を連続させる。自然と早足になる。一人で帰るようになってから、帰るのが早くなった。

ゆうちゃんと二人だと、歩きながらだからゆっくりになるし、できるだけ長いあいだ一緒に居たくて、公園とか河川敷とかに寄り道するから。キキと出会ったのもこの河川敷だった。

そんなことをぼんやりと考えながら、河川敷を眺めていた。

「あれ……」

見慣れた人影が見えて、少し様子を伺う。

……ゆうちゃんだ。

こちらに気づく気配はない。

しゃがみこんで、何かを覗いているようだった。

そこで私は直感的に察した。

たぶん、捨て猫だ。

この河川敷はそういうスポットなのだ。ゆうちゃんは、きっと運良く、いや、運悪く捨て猫を見つけてしまったのだ。猫好きなゆうちゃんのことだ。そのまま見捨てるなんてできやしないだろう。だからといって家で飼うこともできない。

以前もこういうことはあった。その度、ゆうちゃんは必死になって里親を探した。もちろん私も手伝った。

今回もそうなるのだろう、たぶん。

きっと、ゆうちゃん一人で。

「帰ろ……」

一人で里親を探すゆうちゃんを思うと心が締め付けられるようで、でも今の私にはどうにもできなくて。もしかしたらあの女の子と一緒に探すのかな、なんて考えちゃって。

やっぱりそんな自分が嫌で帰路を急いだ。




家に帰ってキキと遊んでいるうちに、外は暗くなってきた。この時期は暗くなるのが早い。夕飯時にはもう真っ暗だ。

風も強いし、雨もパラついてきてる。付けっ放しのテレビでは、今晩から明日の朝にかけて雨が強くなると予報している。やだな、朝までには止むといいけど。

チャンネルを回すと、イケメンの歌手が料理をしていた。普通においしそうだ。夜ご飯はまだだろうか。

お母さんはさっきから電話中だ。

キキはティッシュの空き箱の中に入れたビー玉を取り出そうと必死になっている。まるで空き箱と一人ボクシングをしてるみたいだった。

「綾香?」

「なに?」

キキが空き箱との闘いに勝利したころ、電話しながらお母さんが話しかけてきた。その表情は少し固い。

なんとなく嫌な予感がした。

「優佑くん、知らない?」

「……ゆうちゃんがどうかしたの?」

「まだ、帰ってないみたいなんだけど……大丈夫かしら」

「ゆうちゃん、まだ帰ってないの?」

「ええ」

お母さんの口振りからは、大層心配している様子が伺えた。きっと、ゆうちゃんのお母さんはもっと心配してる。

……まだあの河川敷にいるか、里親を探しているか。でも里親を探すなら、一旦家に帰るはず。じゃあまだ河川敷にいるのかな。

「探してくる」

「気をつけてね」

手のかかる幼馴染みだぜ。やれやれ。

心の中でおどけつつ、レインコートを着る。レインコートをもうひとつと傘、キキ用の毛布もついでに持っていく。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

ゆうちゃんとは今ちょっと会いたくないんだけど、仕方ないよね。お母さんたちが困ってるんだもん。助けにいかないと。仕方ない。

顔が自然とほころぶ。

ゆうちゃんと、話せる。

全力で走って、河川敷に向かった。雨も少しずつだけど、強くなってきた。予報は当たりそうだ。




案の定、ゆうちゃんはまだ河川敷にいた。

ゆうちゃんは走ってくる私に気づいたみたいで、ぽかんとする。まあ、そりゃそうなるよね。ゆうちゃんは私に見られてたことも、まだ帰ってないと心配されていたことも知らないわけだし。

まさに舞い降りた救世主。キリッ。

私は勢いよく河川敷に下り鉄橋下に入ると、ダンボールに入った猫と薄着になったゆうちゃんがいた。ゆうちゃんの上着は猫に添えるようにダンボールに入れられている。しかし、すかすかであまり意味がない。

「これ、着て。みんな心配してるよ」

「あ、う、うん。ありがと……」

ゆうちゃんは戸惑いながらもレインコートに身を包む。そのあいだに私はダンボールに入った捨て猫をしっかり毛布でくるんだ。まだ小さい。それに、だいぶ弱ってるみたいだ。早く家で温めてあげないと。

持ってきた傘をダンボールにかぶせ、猫に雨がかからないようにする。これでよし。

「ゆうちゃん、これ持って。走るよ!」

ダンボールごとゆうちゃんに託し、二人で走り出す。


私の家に着くまで、ゆうちゃんとのあいだに会話はなかった。二人とも全力で走っていた。

だから家に着いたらへとへとで、倒れそうになった。でも倒れるわけにはいかない。猫をしっかり世話してあげないと。

とりあえず体温の確保だ。体は汚れてるけど、洗ったら冷えてしまうかもしれない。それはまずい。うちにノミ取りブラシとかあったっけ。ミルクも一応用意しておかないと。体力もかなりやばいみたいだし、飲めるなら飲んでほしいし。あ、トイレは大丈夫かな。たぶんこれくらいの子猫ならトイレは自分で出来ないだろうし、綿棒も用意しておかないと。キキは私の部屋にいてもらおう。病気だったらうつっちゃうーー。


どたばたと慌ただしく動いて、ゆうちゃんやお母さんにも協力してもらってひとまず落ち着いた。

今はどろどろのゆうちゃんにはうちのお風呂に入ってもらっている。

明日にでも獣医さんに連れていってあげたほうがいいよね……。

「お母さん」

「なに?」

ゆうちゃんのお母さんに報告を終えたお母さんは、子猫の様子を見ていた。子猫は疲れ果てたのか、すうすうと寝ていた。

「この子、飼ってもいい……?」

里親を探すという手ももちろんある。でもこの子は自分で育てたかった。すでに情が湧いていたというのもあるが、キキと同じようにゆうちゃんと拾ってきた猫だということの方が大きかった。

もう私の家にはキキがいる。この子が病気だったらそのあいだキキが近づかないようにしなくてはならないし、餌代もかさむ。しかもキキは雌で、この子は雄だ。

大変なのは目に見えてる。

でもお母さんはゆったりと微笑んだ。

「ちゃんと世話するのよ?」

「ありがとう、お母さん」

大きな声を出すと子猫がびっくりしてしまうかもしれないから、小さな声で返事をする。

「優佑くんもうちで食べてもらうことになったから、ご飯の準備してくるわね」

お母さんはそう言い残してパタパタと台所に戻っていった。その後ろ姿を見えなくなるまで目で追ったあと、私は洗面台に向かう。子猫も、起こさないように一緒に移動させる。

ここならお風呂場にいるゆうちゃんと話せるからだ。


「ねえ、ゆうちゃん」

「なに?」

ちょっと遅れてお風呂場からゆうちゃんの声が聞こえた。

「この子、うちで飼うことにしたから」

「……ありがとう」

ゆうちゃんは別段驚きもしていないようだった。予想していたのかもしれない。

お風呂場からぽちゃんぽちゃんという音が聞こえてきて、ドキドキする。ゆうちゃんの動く音だ。そう意識すると、もっとドキドキする。変な気分だ。

「あーちゃん」

ドキッとした。

ゆうちゃんにあーちゃんと呼ばれるのは久しぶりだったからだ。中学に入ってからはずっと竹田さんだった。

それだけのことが嬉しくて、身体がぽかぽかとしてくる。

「あのとき止めて、ごめん」

一瞬何のことかと思ったが、すぐ思い当たった。インフルにかかるあの前日のことだ。私の中でその記憶はすっかり薄れてしまっていた。

「もう気にしてないよ。あれだって私のこと心配してくれてたんでしょ?」

あのときゆうちゃんが私を止めたのは、私がいじめの標的にならないようにするためだというのは、とっくに気付いていた。だからもう気にしていなかった。

それに今こうしてあーちゃんと呼んでくれて、喋っているのだから、そんなことは些細なことのように思えた。

「それより」

私にとって重要なことがある。

「あの女の子は誰?」

「女の子?」

「ほら、後ろの席の子よ。最近仲良くしてる」

「あ、ああ、香川さんのこと?」

ゆうちゃんは狼狽する様子から一転して安心した様子になる。

……む?

香川さん……って確か、あのいじめられてた子じゃなかったっけ?ん?

「香川さんはそういうのじゃないよ」

「じゃ、じゃあどういうのなのよ」

「あーちゃんの代わりに……ってわけじゃないけど、毎朝早めに登校して、何かされてないか確かめてたら話すようになっただけだよ」

「あ……」

そういうことだったのか。

朝早く家を出てたのも、それなら合点がいく。

そっか。

そっかそっか。

私はうんうんと頷いて、思わず顔がほころびる。

そしてすぐに恥ずかしさで赤くなる。

もしかして、ただの私のはやとちりだったんじゃーー

「もしかして、あーちゃんーー」

「うっ、うるさい」

「あははっ。でも、そんなことありえないよ」

「なんで?」

できるだけ平生を装って話す。

「だって……」

「……」

「僕があーちゃん以外を好きになるなんて、ありえないよ……」

ゆうちゃんも恥ずかしくなったのか、最後の方は声が小さくなっていった。

でも、私の耳にはしっかり届いていた。

「そっ!そろそろ出るから!」

「しっ、静かにして。とんぼが起きちゃうでしょ」

「ご、ごめん……とんぼ?」

「この子の名前。今つけたの」

とんぼ。うん、いい名前だ。

私がここにいてはゆうちゃんもお風呂から出られない。

とんぼの入ったダンボールを持って廊下に戻る。

心臓は高鳴ったままだ。

顔はさっきより赤くなっているかもしれない。

自分で自分を誤魔化すように俯いた。

私はすうすうと眠る子猫を眺めながら呟く。

「私も……大好きだよ…………」

その先にゆうちゃんを思い浮かべながら。



私はその夜、夢を見た。

地球がずっと静止していた。

その上を私がひたすら回っているという夢だった。

回る感覚はリアルで、だんだん疲れてきた。

もうだめかも、と思った。

でも。

ゆうちゃんが側に来て、私の手を取ってくれたんだ。

それで私も元気になって、また回った。

二人で手を繋いで、回り続けた。


回らない地球と。回る私。

いや……。

回る、私たちーー。







河川敷沿いの道を、二人の男女が歩いていた。突然男は立ち止まると、一目散に河川敷を下りていく。男が立ち止まった前には、ひとつのダンボールが置かれてあった。

「ねえ、あーちゃん、この子猫さーー」

「うん。いいよ」

女は男の言葉を遮った。だが男は満面の笑みを浮かべてダンボールを抱える。男が中を覗き込み、女も横から覗き込む。

「優香も喜ぶよ」

「うん」

「さ、帰ろ?猫たちも待ってるよ」

二人はまた道に戻り、帰路を辿る。

その足は少しだけ速くなっていた。

「これで……もう五匹か」

男は指を折って猫を数える。

「あはは、猫屋敷だね」

「そうだね」

「よし、決めた」

「なにを?」

「この子の名前。タエコにしない?」

「なんでまた。……いいんじゃないかな、タエコ」

「よしじゃあタエコ。我が家に向かって走るぞ!」

「あっ!……もう」

二人は晴天のもと走り出した。

ほどなくして住宅街に入り、二人は家の扉を開ける。

「ただいまー!」

家の奥からどたどたと二人の子どもが走ってきて、それぞれがそれぞれに抱きついた。

「おかえり、お母さんお父さん!」

ご覧いただきありがとうございました!

初めての恋愛短編でしたが、いかがだったでしょうか。

登場人物たち(猫たちも含めて!)の誰か一人でもかわいい!と思っていただけたなら嬉しいです。


少しだけ内容にも触れたいと思います。

もともとこの作品は先にタイトルが思いついて、そこにストーリーを付けていく感じで作りました。

回らない地球というのは、周りと同じようにしか動かない人間を意味し、それに逆らう高校生たちを描いてみました。

ちなみに一番苦労したのは冒頭の厨二セリフです(笑)


彼らのお話はこれでお終いですが、また別の主人公たちが同じ舞台で恋をする話も書いていきたいと思いますので、よければよろしくお願い致します。


それでは最後の最後までお付き合いいただきありがとうございました!

お疲れ様でした!

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