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双葉は窓際。真ん中は慎一郎。通路側の席は奇跡的に空いていた。
747の2階席は頭頂部に近いため壁面の傾斜が急で、1階席と比較すると天井は低い。窓から見る外も、湾曲している分地味に見にくい。
「わかんないなあ」
座席にどっしりと腰掛け、双葉は言う。
「どこがいいの。父ちゃんのおすすめポイント、わかりにくいんですけど」
「窓際限定だが、脇をごらん」
指差した先はサイドボードのように侍るアイボリーの蓋だ。
「トランクになっていてね、そこに手元の品をあらかた収納できる。物置にも使えるから重宝する」
「そっか。父ちゃん、暇があったら本読んだり書き物してるもんね」
双葉は想像した、あっという間に機内を簡易書斎に仕立て、脇に本やら筆記具を置き、テーブルにモバイルPCやレポート用紙を侍らせて、外出先だというのに自宅と同じように過ごし、自分の世界に没頭する父親の姿を。
学者は因果な商売だ、と父や父の友人達が冗談交じりに言う場に何度も出くわしたが、ちっとも嫌そうな素振りを見せない。息をするように自然に、自らの欲求に忠実に生きているだけなのだ、その集中力とひたむきさは子供心にも強く印象に残る。
「面白い演目があるな」言いながら機内誌をめくる父親は、チャンネルを合わせヘッドフォンを耳にしている。
「面白いって、何聴いてるの? 落語か何か?」
双葉は身を乗り出して機関誌を覗き込んだ。
何故落語、と苦笑する父親が指す番号は11番。クラシックチャンネルだった。
「げ、辛気くさえ」双葉は鼻に皺を寄せた。
「選り好みしないでお前も聴いてみるといい」
「やだよ。俺、あんま音楽とか聴かない人だから」
息子はぷい、と外を見、父親はやれやれと機内誌に目を転じる。
双葉の前と後ろの席は彼より年長の若者が座っていた。微に入り細に入り写真を撮っている。
最初の内は知らんぷりできた双葉も、窓際のカウンターにあれこれセッティングしてぱしゃぱしゃ写す様子が気になってきた。
座席や、機内の天井や、トランクや。搭乗前に配られたノベルティやら機内案内用しおりをいちいち写す理由が理解できなかった。
これが鉄っちゃんならぬ航空マニアというやつなのか。
呆れながら前と後ろを交互に見比べていると、父親と目が合った。
その目は「放っておきなさい」と言外に語っていた。
もうすぐ乗れなくなる機内だから、少しでも痕跡を残しておこうというつもりなのだろうか。
わからない。
その時、機内アナウンスが扉が閉まったことを告げた。ここから電子機器類はしばらく使えない。前後のカメラマン達の撮影タイムも終了する。
やっと静かになるよ、と腰をずらして背もたれに身を預けた双葉の耳に、機内アナウンスが続いて告げた。
747は2014年3月に退役する、操縦はS機長とY機長が勤める、と。
機長と副機長の間違いじゃないの、とつい口にしそうになった息子の野次は次に続くアナウンスが答えを与えた。里帰りフライトはダブル機長体勢で運航し、函館空港上空では旋回飛行を行うプランであるということを。
「……言い間違いじゃなかったんだ」小声で言う息子へ、父も同意した。
「推測になるが……。もう機長格のパイロットしか残っていないのではないかな」
「根拠は何」
「さっきも言っていただろう、もう3機しか運行してないと。縮小が決まった時点で新規パイロットの養成は止まる。後継者の育成は無駄だからな」
「何か……さびしいね、それ」
親子はそれきり口をつぐむ。
双葉は窓を向いたきり。
機体はゆるやかにタキシングし、滑走路をすべり、離陸体勢に入った。
飛行機には何度も乗ってきた、それこそ赤ん坊の頃から。使い慣れた移動手段だ。
けれど、耳慣れない音がする。
そうか、サインの電子音が違うんだ。
走行中の振動と早さも同様だ。
二階席の湾曲した窓から見える視界は高く狭い。
サイン音が離陸を告げる、一斉に起動するエンジン音が、重く大きい。
気がついたら窓の風景は斜めになり、空だけになっていた。
いつ飛んだかわからないぐらいのゆるやかな離陸だった。
初めて乗る機体だからか、違いばかりが気になる。
飛行機なんてどれも同じだと思ったけど、次元が違うと思った。
そうか、父さんはこの感触が好きなんだな。
函館空港へ往復するだけのフライトを父が提案した理由が少しわかった気がした。
台風の余波で北日本は低く垂れ込めた雲に覆われていた。
雲海以外何も見えない。
晴れていれば東北の地を眼下に収められたのに。秘かに震災後の地域を上から見てみたかった双葉はあてが外れてがっかりした。こればかりはお天道様の采配、どうしようもない。
機内アナウンスが秋田県上空を通過したと告げた時、慎一郎の耳にはハイフェッツのシャコンヌが流れていた。戦後間もない頃にラジオ放送された番組の録音テープが大量に発掘され、それを復刻したアルバムからの抜粋だった。バイオリンが奏でる緊張感を孕む弦の響きが強く印象に残る曲だった。
双葉の前後に座る乗客は、飽きもせずシャッターを押し続けていた。
何をそんなに撮る物があるんだ? 落ち着かない奴だなあ。
マニアの情熱に双葉は呆れるだけだった。
◇ ◇ ◇
一時間と少しのフライトは大きな揺れもなく順調に進んだ。
飛行機は高度を下げ、津軽海峡上空を飛ぶ。
「レジ袋が浮いてるみたいだな」双葉はつぶやく。
波頭が白く波間を覆う様は限りなく黒い海の色と相まって鮮やかな対比を示す。
低く垂れ込めた雨雲の切れ間には海に降り注ぐ雨が境界線を描いていた。
所々雲間を縫って差し込む陽の光とのコントラストは鈍色の濃淡を醸し、時折フラッシュをたいたように光が燦めいた。
「……やばくね? 海、近すぎね?」
知らず膝を抱えていた双葉はそれでも外を凝視する。
「函館上空を旋回すると言ってたからな」
「けど、波があんなに近い……」
エンジン音も常より大きい、時々バウンドするように機体が跳ね、その度、翼は膝を自分に引き寄せた。
雨がシャワーのように窓を打ち、機体がゆるやかに傾いだ時だった、きらりと光が差し、窓の向こう側に虹が燦めく。
虹は鮮やかであればあるほど色は濃く、二重の弧をひらめかせる。
手が届きそうなくらいの近さで弧を描く二重の輪は双葉の目を奪った。
函館山を遠くに臨み、海岸線沿いに並ぶ民家がひとつひとつ手に取るように見える所まで来て、旅客機はゆるやかに着陸した。
抵抗もなく、滑るようにゆるやかでいつ着地したのかもわからない震動だった。
その時、窓ガラスが激しく水を打つ。
「雨??」
頭を廻らせた先に、一瞬見えたものは赤。
誰かが口にした、「消防自動車だ」
機内の乗客達はそれぞれの座席でこぞって窓外を覗いた。
確かに。赤い物体は消防自動車だった。盛大に放水をしていた。
「歓迎のアーチだな」とは慎一郎だ。
過去に何度か、インターネットか何かで、アーチの下を潜る航空機の写真を見たことがあった、自分がその機に乗り合わせるなんて。
思ってもみなかった。
「粋な計らいをするもんだ」
父は目を細めて言った。
「すぶ濡れになるだけだろ」
息子は様にならない仕草で肩をすくめた。
◇ ◇ ◇
現在、航空機は到着したその足ですぐ次の目的地へと向かう。
駐機時間は一時間あるかないか。
乗客を降ろした瞬間から次のフライトに向けて乗客を迎え入れる体勢に入る。
乗ってきた便で帰る選択をすると、トンボ帰りの何者でもなく、付近への観光はもちろん空港の外へ一歩踏み出す程度の時間しかない。
送迎デッキは、写真撮影をする航空ファンや、慎一郎親子同様、乗って帰るだけとおぼしき乗客がひしめいていた。
747の隣には、見たこともない絵柄が華やかで彩りが派手な尾翼を持つ航空機が止まっていた、外国籍の機体だった。
空港の建物がある向かい側、海岸線側にもカメラを構えた人たちが鈴なりになっている。
「どうしてなんだろ」
双葉はデッキの前面にへばりつく見学者を後ろから眺めていた。
「みんな、なんで写真撮るのに必死なんだろ。だってさ、写真なら探せばいっくらでもプロが撮ったものがあるじゃん。それ集めるだけで充分なんじゃないの。父ちゃん、何故だかわかる?」
「さあ。彼らの心理は彼らにしかわからないさ」
風に髪を泳がせて、慎一郎は駐機する飛行機を見る。
「人間は――記憶を大切にする生き物だ。カメラは自分の目だ、その目を通した光景を形に残したい、自分が見たままの姿を。そう願うのではないかな」
「けどさ。写真って思ったように撮れないだろ、ゆがんだりはみ出したりぼけたり。そんなら自分の目でたくさん見た方がいいと思うんだけどなあ」
言ってることは同じだがね、と口には出さず、父は首を振る。
「大きい飛行機だよね」背伸びしながら双葉は続けた。
「退役するっていうからさ、どんだけおんぼろなんだよって思ったけど、全然余裕で飛ぶじゃん。なんでおしまいになっちゃうの」
「退役が決まったからだ」
「何で」
「保有する会社の都合だよ」
ぷうと頬を膨らませる子供が納得するはずがない。
「もっとこう、俺でも納得できる材料を提供してくれよ、父ちゃん学者だろ??」
眼鏡の奥から息子を見て。慎一郎は内心で言った。父ちゃん、言うな、と。
「父さんはアナリストではないぞ」
「知ってる」
「結果の検証はするが、未来予測は他の人間の仕事だ」
「わかってる」
「保有する会社が決めたことだ、決定は覆らない」
「それはわかってるけど……」
「双葉、お前は、実際に乗ってみてどう感じた」
「大きくて乗り心地良くてかっこいいなあ、って思った。なくなる理由が理解できない」
「同感だ。まだまだ現役で働ける機体だ、愛好者も多い。母さんは今、何に乗ってるか知っているか」
「えっと、777かな」
「そう。747の三代後の型番だね。航空機に限った話ではないが、全般にコスト減を掲げて改良を加えられる。機体自体の値段が安く、保守にも手間がかからず、人員もさほど必要とせず、安全性が高い。それに加えて燃費が良い機体が求められている」
「ハイブリットカーみたいな?」
「そうだね」
「ジャンボは、燃費が悪いの?」
「今度777を見ておくといい、あちらはエンジンが片側に1つ。ジャンボは2つ。2つと4つでは燃費が桁違いだ。もちろん、騒音も馬鹿にならない」
「けど、機体が大きいならたくさん運べるじゃないか。1回で運べる数が多い方がいいんじゃないの」
「座席が必ず満席に、貨物が満杯になればの話だよ。今日はほぼ空きがなかったが……今まで旅行した時を思い起こしてみるといい、隣や前後の席が空などざらにあっただろう? 大きい容量を持つ機体をフル活用できなければそれは無駄になる。航空会社にとって飛行機は高い買い物だ。10年、20年、それ以上を保有し、飛ばし、保守をし、人員を育てる。全てにコストがかかり、それに見合うだけの利潤が得られなければ切り捨てる。母さんの所の会社は、前倒しで747の退役を決めた。あの頃はいろいろと悪い条件が重なっていたから仕方ない面もあったが、企業は新規にプロジェクトを立ち上げる時、10年単位で物事を考える、自らを存続させるために利潤を追求する。だから、コストに見合わないとわかった時点で切る決断を下すのは一瞬だ。過去の栄光は関係ない。この会社も退役を決定した、残念だが一世を風靡したジャンボジェットも今の時流には残れなかったんだ」
親子はしばし黙る。
後ろではにわかカメラマンがしきりにシャッターを切る複数の音がマシンガンのように響き、子供たちの声や笑いさざめく人たちの会話が飛び交っていた。