リトルマーメイド
寝返りをうった瞬間、冷たいものが手に触れた。
なんだろう。
おれは、暗闇の中、目をこらす。
「メイ? メイなのか?」
ばかな……。
ベットサイドの窓枠が風でカタカタと鳴った。
窓を閉めているはずなのに、カーテンがひゅううとめくれあがる。ふいに月光がスポットライトのように、さしこむ。その光が照らした先に白い女の顔が浮かび上がった。
今しがた海から帰ってきたようにびっしょりと濡れていた。眼はしっかりと閉じられている。
心臓が大きく波打った。
どくん。
「メイ、生きていたのか?」
いや、そんなはずはない。
だって、おれはあの時、城ヶ崎のつり橋の上から、おまえを突き落としたんだから。
落ちていく瞬間、なぜかおまえはにっと笑った。確かに笑った。
おれはそのまま、つり橋の上でへたり込んでいた。おかしなことに水面からは、なんの音もしなかった。
おまえがおれと別れるって言い出したのは、大室山へゆるやかに登るロープウェイの中だった。
「もう、疲れた。私、やっぱり結婚したいの。あなたがしてくれないなら、他の人とする」
「おれを困らせないでくれよ。愛しているんだ、メイ」
「もう、いいよ。あなたは奥さんとは別れられない」
それきりメイの手は、動きを止めた。メイはしゃべることができない。おれたちの会話はいつも手話を通して行われていた。
その夜おれたちは、城ヶ島へ向かった。
メイ、おまえと初めて出会った海岸。
東京からスキューバダイビングの体験ツアーに来ていたおまえ。最初から堂々として、あんまりうまく潜るものだから、インストラクターのおれはちょっとびっくりした。初心者は重い機材を背負っていても浮力のせいで、なかなか深くは潜れないものなのだ。
しかし、おまえは、苦もなく、自然にやってみせた。水を得た魚……なぜだかそんな言葉が浮かんだっけ。
「本当に初めて?」
陸に上がっておまえに聞いたっけ。無言でうなずくおまえに言い知れぬ懐かしさを感じたのはなぜだったのだろう。髪からしずくが落ちて、おまえの頬に落ちた。笑っているのに、泣いているように感じた。それからほどなくして二人は一緒に住むようになった。
けれどおれにはどうしても別れられない妻がいた。妻は病院のベットでもう3年も眠ったままなのだ。
どうしても別れるって言い張るから。こんなに愛しているのに。愛しているのに。愛の顔がくるりと悪魔に変わった瞬間、憎しみが両手にあふれてきて、おれはメイの首をしめていた。そうして無我夢中でおまえをつきおとしたんだった。
そこでおれの思考が止まった。
傍らの女の瞳がかっと見開き、その手を伸ばしておれの腕をつかんだからだ。
「うわっ」
その手には、びっしりと銀色の魚のうろこがあった。驚くほど冷たい。おれは逃れようと必死にもがいた。けれど身体が金縛りにあったように動かない。
「タ、タス、ケ、テ、ク…レ……」
声にならない声はのどの奥にひっかかり、錆付いた鉄くずのように、役立たずのまま、落ちていった。
◇ ◇ ◇
そして目覚めた。
「ああ、夢だったのか」
全身汗だくだった。メイを突き落としたことも夢であればよかったのに。後悔が激しくうずまく。
いや、あれは現実だ。けれど、あの、ひんやりとした腕の感触はとうてい夢とは思えないほど、はっきりとこの腕に残っている。
おれは自分の腕をこすった。そしてざらつくものを感じた。
まさか。
部屋の明かりをつけると自分の腕にびっしりと魚のうろこのようなものがはりついていた。ごしごしこすってみる。
取れない。
取れないどころか、それは貪欲な悪魔の細胞のように、少しつつ広がって、その陣地を延ばしている。
ぴちゃん。
傍らの水槽で飼っている金魚がはねた。
よく見ると、それはメイそっくりの顔をした金魚で、眼が合うと、にっと笑ってこう言った。
「バイバイ、王子様」
初めて聞いた君の声。
クリスタルの鐘を鳴らしたような響きだった。メイ、美しい声を持っていたんだね。
朝が来て、飼っていた金魚が、お腹を見せて水面に浮かび上がり、死んでいた。
おわり