悪魔と崎野の契約
「どうでもいいけどさ」
悪魔はゆるやかに舞う髪を手ではらい、威勢のある声を崎野にぶつけた。
「ちょっとくらい詫びてよ。私の彼氏だったんだよ!」
元気な悪魔はきちんと玄関から入ってきた。
崎野もその礼儀にお応えし、戸を通しこたつのある部屋まで案内した。
終始無言だった。
悪魔はこたつに入ることはせず、代わりにその近くにあるソファに堂々と腰をかけ、やっと口を開いた。
崎野は少し間を置いた。
悪魔が堂々と扉から入ってくるのは珍しい。
こっそり覗かれることならよくあるけれど。
もちろん、彼女は崎野の被害者とも考えられるため、崎野にたいして言いたいこともあるだろう。
しかしここは絶対力主義。
この世界に置いて、崎野の威厳を知らないのは人間と、浮幽霊になりたてものくらいだ。
「そうね。悪かったわ」
崎野は素直に詫びた。これで気がすむのだろうか。
「軽いわよ!ちゃんと詫びて!私の心を踏みにじって、どういうつもり!あんたにそんな資格あるの!?」
崎野はまた間を置く。
誰にも存在を否定する権利はない。
あの少年は確かに、武力行使で殺し、早々に成仏させた。悪魔に会わせる前に。
しかし、
「彼が文句を言いに来るなら話は別だけど、あなたに対しては今謝った以上の被害を与えたつもりはないわ」崎野は騒然とした態度を悪魔に見せる。
悪魔は鋭い目つきで崎野を見る。
穏やかにしていれば可愛らしいであろう顔面すべてで、崎野を睨んでいた。
崎野は悪魔に背を向け、コーヒーを入れに行く。
悪魔の前にも置いた。「どうぞ」
「いらない」
悪魔は短く答えた。
ブルーマウンテンの香りが部屋中に漂う。
大地と木々の声が雫となって身体に入る。崎野はそれが好きだった。
壮大な木々は渋みを覆い、幻想でない現実は苦い。
この香りは誰の脳をも刺激する。悪魔もまたしかり。
全身を細かくふるわせ、大粒の涙を落した。
「私が、人間と、恋をしてはいけないの?」
崎野は黙っていた。
「私は、彼を、陥れるつもりで付き合ったんじゃないのよ。ただ…」
声はあらゆる水や空気に妨害され、うまく出ていなかった。
崎野を睨んでいた顔が、涙でおおわれていた。
「ただ、彼が好きだった」
声を出してないた。
例えこれが嘘でも、本当でも、いままで誰にも言えなかったのだろう。
誰かに言いたかった。その思いが崎野に届いた。
部屋はしばらく、悪魔の泣き声だけが響いていた。
それが止む頃、ようやく崎野は口を開いた。
「悪魔は、残念ながら人間を陥れることしか認められていないわ。そうでないと神様がお怒りになるもの」
まだ、のどのあたりで呼吸をしている悪魔はそれでも、崎野の目を見つめ、
「所詮、悪魔も、神様の下」と、恨みをこめて言った。
「当然。悪魔が何さまだと思ったの?」崎野は平然とする。
「神様がなに様なのよ。大嫌い…」
憤慨する悪魔をみて、崎野はすこし笑ってしまった。
正直に嫌いと言えるのが悪魔と人間の権限だ。
「あんたはどうして、天使のくせに。神様に従わない?」
悪魔はその問いの本質よりも、ただの、やりきれない思いを崎野にぶつけていた。
やつあたりのような、込み上げた思いを。
普通、悪魔は崎野を恐れている。天使でさえ恐れている。
崎野は、やろうと思えば誰だって吸収できるし、だれだって成仏させられる。
その気になればどんな契約も結ばせる。崎野なら、拒まれることはほとんどない。
神様は直接悪魔を攻撃したりしないが、天使は悪魔に攻撃する。
久しぶりの質問に崎野は懐かしみを感じながら言った。
「それはね」
もちろん過去と同じ解答を。
「あなたのココロと同じ理由」
にっこりと、崎野が笑う。
それは、本当に、怒りくるう悪魔の前でも、天使の笑顔だった。
「私を消して」
ぽつりと、悪魔が言う。
そういう悪魔は何人も見てきた。
多くの場合、崎野は悪魔の望み通り吸収する。
しかし、今回は、別の方法を提案した。
「契約をしてあげるわ。来世の彼と、付き合あえるかもしれない方法を」
契約の条件は、絶対服従。
「もう、消えてしまいたいのに」悪魔が、諦めの笑みと一緒に言葉をこぼす。
「もう少し、生きてみなさい」崎野が契約書を渡す。
悪魔はそこにサインをした。




