母の気持ち
~優美香編~
優美香の過去
「ただいま」
その明るい声が聞こえると、たとえ居眠りの中にいても目が覚めてしまう。
しかし、そこに不快はない。
「おかえり」
私は優美香の声を聞いて、負けないような明るい声で返答するが、とても勝てやしない。
「ママ、今日はいいことがあったの」
そう言って優美香は学校の友達の話を聞かせてくれる。
こんな日がくるなんて、思いもしなかった。
優美香の明るい声を聞くたび、毎日毎日それを感じた。
優美香は小さい頃から見えないものが見える子供だった。
二、三度医者にも連れていった。検査はいつも異状なし。
そして「子供の時によくあること」「子供なりの遊びでしょう」と言われ終わってしまう。
優美香の笑顔はいつも壁や宙に向かっていていた。
3歳くらいまでは同じ笑顔を私にもくれていたが、彼女が成長するにつれて、無表情にちかい、
しかしどこか怒りを表している顔を私に向けていた。
主人には優美香は笑顔を見せる。主人は出張が多いためたまにしか帰って来ない。
また、カウンセラーという仕事柄のせいか、優美香を受け入れていた。
娘、というより、クライアントと考えているのかもしれない。
病院に行き、優美香の言葉を信じなかったのが原因だろうか。
私は後悔し、でもどうしようもなくて、私自身もノイローゼになりかけた。
そんな時、優美香が話しかけてくれた。
「ママ、ユミカの友達が、ママと話ししたいって」
私は優美香を受け入れかけていた。
きっと見えている、この子に見えている非科学的なもの。
「ママも、話がしたいな。できるかな?」
優美香は目をパチクリさせて「うん」と満面の笑みを見せてくれた。
その時の出来事は不思議なものだった。
優美香の隣に、大人の女性が見えた。
「あなたは…?」
「先ほど紹介をいただきました、優美香さんの友達です」
普通の人間に見えた。20代の半ばだろうか。
身ぶりや雰囲気から年下には見えにくいが、容姿が美しい。
「あ、どうぞ。おかけください」
優美香にそんな友達がいたなんて、私は慌てながら席を勧め、「何かお茶を」と用意しかけていたが、
「おかまいなく」と女性は微笑み、席に座った。
「え…と」私は明らかに戸惑っていたが、女性が話を進めてくれた。
「はい、優美香さんには、人間には見えないモノが見えています」
いきなり核心に触れた。
それでいて、女性の、余裕のある態度。
怪しさや不安、そして一水の希望が一緒になって襲ってきた。
女性は話を続けた。
「そのため、普通の人間とはなかなかお付き合いが難しい状態にあります。私はそのような人のために何かお手伝いをと思い、今回優美香さんとお友達にならせていただきました」
丁寧な口調が続く。怪しい商売を思い浮かべる。
「あなたは…?」始めに聞くべき質問を今更ながらにしてしまった。
「あ、すみません」女性は目を見開き慌てて小さな鞄から名刺を取り出した。
「あの、仕事用のもので申し訳ないですが、これは仕事の名刺で、今回の話とは関係ありません。私も、優美香さんと同じように、見えないモノが見えるのです。そう言った人達のために個人で人助けをしています」
名刺には聞いたことのない会社名に営業担当と書かれていた。
安西由紀子と名前が書かれており、その隣に会社の電話番号と本人の電話番号が書かれていた。
まじまじと名刺を見ている私に、安西由紀子は照れくさそうに笑う。
「人助けというか、ただの自己満足なんです」
その仕草と包み込むような柔らかな声で、胡散臭い名刺より安西由紀子の人間性を信用した。
話を聞こうと思えた。
何より、今の優美香を受け入れた時点で、優美香の将来に不安が残る。
解決策を提案してくれたのは、目の前の女性が初めてだった。
「それで、いったいどうすればいいのでしょうか…」
安西由紀子は頷いた後に、方法はいくつかあります、と切り出した。
「まず一つ目、優美香さんの視界を通常の人間と同じものしか見えないようにする。成功確率は60%、失敗すると失明します」
私は息を飲んだ。そんな恐ろしい方法誰が指示するのだろうか。
「もう一つは、優美香さんの視界はそのままにして、周りにいる見えないモノを遠ざけます。これは徐霊とよばれるものであり、成功確率は99%です。彼女を狂わせてしまうリスクなどはありませんが、新たなモノが近寄り、彼女を誘惑する恐れはあります。また、これは優美香さんに限っての場合ですが、」
少し間を置く。
私は安西由紀子の言葉を取り逃がすまいと、必死だった。
「優美香さんの場合、見えないモノを友達だと思っています。そのため、これらを取りはずすと友達を失ったという喪失感が生まれる可能性は多いにあります」
私は頷いた。
優美香が宙に笑顔を向けている姿を思い出す。
それがなくなると、きっと里親を失くした子猫のように、彼女は不安で覆われるのではないだろうか。
それを私がうけとめられるだろうか。
優美香の見えない存在を受け入れかけていた時だったからこそ、躊躇した選択肢だった。
「他には、どのような…」私の言葉は最後まで続かない。
こんなに提案をくれたのは初めてだった。
精神科に連れていけば恐らく病名が与えられる。
しかし、それは優美香の人生に大きくのしかかる差別の壁でもあった。
これだけの提案でも大いにありがたかった。
それなのに、さらにというのは、欲張りな自分を感じさせた。
「後は、お母様の協力が必要となります」
安西由紀子は私の顔を真正面から見つめた。
威圧感のある、しかし信頼がおけるような、
ばらばらの、二つの感情が入り混じる、混ざらせる瞳。
「守護霊、と言えばわかりやすいでしょうか。それを彼女につけ、悪いものは近寄らないように仕向けます。その場合今の状況とあまり変わりませんので、お母様の理解が必要です。将来、彼女が人の道を外さないためにも、見えないものが見えていること。それは人から嫌われるということ。そのため、人前では言わないこと。そのようなことを彼女に伝えるべきでしょう」
私は昨晩のことを思い出した。
もうすぐ小学生になるというのに友達ができない不安。
「あの子達はいいの。つまらないから。友達ならこの家にいっぱいいるし」
ぞくぞくした。この家に優美香の言う友達がいっぱいいる。
「もし悪いものがいれば、徐霊をお願いします。その後に守護霊を付けて下さい」
安西由紀子は、それでいいですか?と訊ねるような、あるいは心配そうな瞳で私を見つめた。
「お母様」
安西由紀子は、まるで子供をあやすような全てを包み込む声をしている。
私はそれに包まれていた。安堵。その気持ちよさ。それに酔いしれる。
「見えないものと一緒に暮らす恐ろしさは、お母様が一番ご存知ではないでしょうか。もう、そんなもの忘れたいと、思いませんか?」
私は驚いた。
自分は見えないものと暮らす覚悟をしていた。
しかしそれを避ける光があるという提案。
まだ、方法があるのか。
見えないものがなくなる方法があるのか。
「少し強引で言いにくかったのですが、一度、優美香さんの記憶を消します。所謂、記憶喪失のようなものです。しかしお母様の存在だけは覚えている、そんな状態です。お母様とまた一から歩むという方法です。」
「記憶喪失」という言葉に若干の恐ろしさはあったが、ない方がいい記憶が圧倒的に多かった。これから積み上げればいい。優美香はまだ、5歳だ。
「記憶を消す作業を行うと一時的に優美香さんは眠りにつきます。その間にこの家全ての徐霊を行います。最後に守護霊を置きます。それはどんな霊も近づけないものです。優美香さんは体質上、霊が近寄りやすいため、守護霊は置いておいた方がいいと思うのですが、いかがですか?」
私は何の迷いもなかった。
これでまた、あの子と歩んでいける。
笑い合うことができる。全てを忘れて。
安堵を受けてから、瞳にたまっていた涙が頬を伝った。
「お願いします」涙はつぎつぎに流れていった。
お金はいくらでも払う。そんな気持ちに支配されていた。
「はい」安西は優しい微笑みで受け入れ、机に紙を置いた。
契約書と書かれていた。
「どうして私がそんなことをできるのか、これは普通の人間ではできません」
安西は優しい口調のまま続けた。
「私は悪魔と呼ばれる存在です。でもあなたから何かを奪ったりはしません。これは一種の自己満足ですから」
契約書はまだ白紙だった。
そこに安西は次のように書いていった。
1、悪魔について、今日の出来事について、優美香さんを含め一切他言しない。
2、この家にいるモノを追い払い、またあなたの子供である優美香さんに見えないモノを寄せ付けないよう処置する。
3、優美香さんの記憶はあなたの存在以外全て消える
そこまで書いた後に、「対価が、どうしても必要なんです」と安西は言った。
「優美香が幸せになるなら、なんでもします」こんな母親らしい言葉を、私は初めて口にしたかもしれない。
「では、こうしましょう」
4、二年に一度学校を変える。同じ学校には通わない。
「え?」私は突飛な考案に驚いた。「これは?…」
安西は言う。
「優美香さんは、色んな人に出会った方がいいでしょう。もともと彼女は目がいいのです。見えないものが見えるくらいなのですから。人間を見る目もあります。彼女がいいと思える人間にたくさん出会いましょう。大丈夫。人の縁は簡単には消えません」
私は契約書にサインをし、安西は「商談成立」と言い姿を消した。
安西が自分を悪魔と名乗っても、契約書を出しても、それにサインしても、安西は人間にしか見えなかった。
しかし目の前にいたはずの女性が消えた時、初めて恐ろしさを感じた。
優美香…
私は急いで優美香のところへ行った。
優美香はベッドで眠っていた。
「優美香!!!」
何度も叫んだ。
私はいつの間にか悪魔と契約してしまったのだ。
「優美香!!!」
「優美香!!!目を開けて!!!」
しばらくして優美香はゆっくり瞼を上げた。
「お母さん…?」
私は優美香を抱きしめた。涙がとまらない。
「お母さん…ユミカ…」
「うんうん、大丈夫。お母さんがいつも一緒にいるからね」
優美香はにっこり笑った。悪魔がくれた天使の笑顔だった。




