カナアンを遠く離れて
天使という呼び名を彼女は好まない。
「だって旧約の神さまのところだって、ずいぶんあとから仕えて、けど合わなくて辞めちゃったんだもの。そんな呼び名、わたしに使ったらバチが当たっちゃう。」
背中の翼に筆毛が生えたのを、ほぐすのに難儀しながら彼女はそういった。僕がやろうか?というと、えーなんかスケベだなぁと笑ってからかわれた。身体の手入れだから、それを許すというのはかなり色っぽいことらしい。じゃあ僕の部屋で、それも目の前でやるなよ。と言ってやりたくて、でも実際は、ごめん、と勝手に口が謝ってしまう。
公に称するときは、有翼の天人。彼女は自身の父も母も知らないが、そう生まれついていた。そんな彼女に大衆のイメージするところはどうしても天使のそれで、彼女はそれに応えようとしたときもあったらしい。そうして、応えようとして、しかしやはり自分の肌に合わないとそれを辞めたのだという。失望した民衆から勝手に堕天使だのなんだのと悪口を言われ続けて、もうすぐ1000年近い時が経つのだと。
「そもそもわたしね、別に旧約の神さまと全然面識も何もないの」
「そうだったんだ?」
「そうだよ。ネットでもちょっと詳しい人は言ってるはずだよ。旧約の天使さんってね、生き物の姿をしてないんだ。だからね、そういう意味でもわたしはたまたま、カナアンに生まれただけの有翼人ってこと」
カナアンというところが彼女の故郷だという。Googleマップで見るとそれは中東のとある土地なのだけれど、彼女は今のその地をカナアンとは呼ばない。
「無くなっちゃったの。カナアンは」
彼女はそう言う。地名ではない。カナアンは彼女が生まれてからたったの十数年間、彼女が有翼人であることを何も隠さず、ただの町の住人として生きていられたその町を指すのだ。それから幾星霜、現代の地上にもやっぱりカナアンはどこにもない。彼女は生きているだけで何かの意味づけをされて、特別であることを望まれる。
「日本も、違う?」
僕は、口にしてから、そんな訳はないと自分で気がついた。日本で生きていたって、有翼人には何かしらのイメージはつく。平凡からは拒絶を食らって、だから、彼女はまたも特別になるしかなかった。
「日本も、そうだなあ、現代の中ではかなり、良いところなんだけどね」
彼女は普通にはなれなかったので、その特別さを武器に食い扶持を稼いでいる。背中に翼があるだけでYouTuberにもなれるし、コラムニストにもなれる。芸能界からの誘いもあったが、いやらしいアプローチが山程あったのでそれが嫌で突っぱねたと言っていた。
「わたしって贅沢だと思う?」
「うん、金じゃないほうの贅沢だよね」
「そう、それだ。お金じゃないほうの贅沢」
意地悪混じりで、彼女に贅沢だと即答してやった。けれどこういうとき、たまに彼女はびっくりするほど真摯にものを聞いたりして僕もたちまち後悔する。
「人間もやっぱり、この人はこういう人ってイメージから逃げられないのかな」
「人間だって生きてれば、こういう人になれ、こういう人であれって多少望まれるものだよ。無償の愛なんて言ったって、それは代償について、言ってる人が把握してないだけだろう」
「君ってけっこうネガティブだよね。人生つらそう」
あっ、さっきの意地悪の仕返しがとんできた。ここは甘んじて受けるのが根性というものだ。だいいち彼女は何も間違ったことは言っていないのだから。
「人生は……つらいかな。でもそれって、僕が親と相性よくないってだけだから……そうだな、僕もきっと、すごい贅沢者なんだ」
「もしかしたら案外と、みんな贅沢なんだ?」
「そうかも」
どう生きたい、こうしたい、なんてつどつどの希望を、叶えられないことなんか普通にある。満足しないその生を、不幸だと嘆くに事欠くことなんか、多分ないのだけれど。
「でもね、僕は」
心が臆する。けれど。臆するのを踏み越えて、喉から声を絞り出した。
「君のことが好きになって、それから、そこまで生きることは悪くないかもって、思ってるよ」
何度言ってもこれは慣れないだろう。顔が熱くて仕方ない。喉がぎゅうぎゅうに細くなって息をするのが難しい。
「今、お酒飲んでないよね?」
「飲んでない。ほんとにほんと」
いつかの最初の告白は拒否された。アルコールの力を借りたのが嫌だったらしい。逆の立場だったら?と彼女から問われて猛省した。ついでに付き合いたいだの何だの言うのは取っ払った。側にいてくれるとうれしいんだと、それだけ伝えようと思った。それが良かったのかどうかは、たぶん永遠に分からない。
「……すごくわがままなこと言っていい?」
「うん」
「わたし、たぶんね、君にいろんなこと期待して苦しい思いさせるときもあるよ」
「うん」
「そのくせに、わたしに期待されるのは嫌だって言うときもあるかも」
「あるかもね」
お互いに完璧なんかじゃないから。彼女が見てきたたくさんの人間の欠陥を、漏れなく僕も抱えていて、彼女も有翼人なりに、それなりに欠けた部分もあるのだ。
「それでも、側にいることは諦めないでいてくれる?」
「もちろん。いろいろあるかもしれない。でも側にいることはあきらめない。それで、もし叶うなら、側にいて良かったと思ってくれたらうれしいよ」
「……なんか、ああ。君って不思議」
彼女の目から涙があふれた。目頭を抑える彼女を、思い切って抱きしめる。有翼人だからなんだというのだろう。こうして言葉を交わせて、僕は一目見たときから彼女のことが好きで。だから、側にいたい。それだけだ。後のことは後で考えればいい。馬鹿なマネをしているかもしれないけれど、彼女なしで死ぬまで生きる人生が、どれだけ賢かったとしても、そんなものはいらない。
「一緒に生きよう」
彼女が僕の胸で頷く。明日はわからない、明後日のこともわからない。けれど、わからない明日を生きるなら君と一緒がいい。
恋人どうしなどと言うには少しばかり、力みすぎた関係かもしれないけれど。それでも一緒にいられる今を慈しむことに変わりはない。
カナアンはもう地上にはない。約束の地をなくした彼女の、つかの間の止まり木になりたい。窓の外は、いつから降り始めたのだろう、優しい雨が降っていた。
ここ半年くらい恋愛ものを書こうかと思って、中断を挟みつつ試作したもの。書くこと自体は楽しいが多分この分野は苦手だ。




