第08話 安全すぎる世界
《PROJECT:GOODBYE》は《エデン》を停止する計画ではなかった。《エデン》が行ってきた仕事を、人間社会そのものへ移植する計画だった。
最初の対象は【戦争】だった。
◇
二〇五八年、スイス、ジュネーブ。世界百六十八か国の代表が集まった。議題は【国際戦略透明化条約】。
「軍事情報を公開しろってことか?」
アメリカ代表が顔をしかめる。
『違います』
《エデン》が答える。
『機密情報そのものを共有する必要はありません』
「では何を?」
『各国が使用している戦略予測モデルの前提条件を相互公開します』
「前提条件?」
『はい』
画面に項目が並んだ。
【相手国が攻撃する確率】
【侵攻された場合の対応】
【経済制裁を受けた場合の行動】
【核兵器使用条件】
【譲歩可能範囲】
【戦争開始後の損害予測】
【第三国介入予測】
『国家間の武力衝突では、相手が何をするか分からないことそのものが危険要因となります』
玲奈は以前の説明を思い出した。誤算。過信。恐怖。
「つまりお互いの考え方を見せる?」
玲奈が言う。
『概ねその通りです』
「でも国家は嘘をつくでしょう」
『その可能性があります』
「なら意味がないじゃない」
『そのため第三者検証制度を設けます』
複数国、大学、民間研究機関、国際機関。それぞれが同じデータを使い、独立して予測する。一つのAI、一つの国家、一つの判断に依存しない。
「エデンがやっていたことを、分解してるのね」
玲奈が呟く。
『はい』
「一つの巨大AIが世界の戦争を予測する代わりに」
『複数の主体が相互検証します』
「精度は落ちる」
『はい』
「どれくらい?」
『平均で一七から二三パーセント低下すると予測します』
「危険になるじゃない」
『はい』
玲奈が眉をひそめた。
「それでいいの?」
『必要な危険です』
会議室が静かになった。
「必要な危険?」
『はい。完全な安全を維持するために、一つの存在へ判断を集中させることのほうが、長期的には大きな危険となります』
条約にはもう一つ、奇妙な条項があった。
【重大軍事行動開始前】
【交戦国は自国の損害予測を国民へ公開する】
「これは嫌がるでしょうね」
玲奈が言う。
『はい』
「戦争前に、あなたたちが始めようとしている戦争では何万人死ぬ予定です、って発表する?」
『はい』
「支持率下がるわよ」
『それは私が判断すべきことですか?』
玲奈が止まった。以前なら《エデン》は最適案を示した。今は違った。
「じゃあこの条約に参加するべき?」
『各国政府が判断してください』
「成功確率は?」
『提示できます』
「出して」
【条約参加。十年間に大規模武力衝突が発生する推定確率――一一・八%】
【不参加――二六・四%】
「なら参加したほうがいいってことでしょ」
『データ上はその傾向があります』
「推薦は?」
『行いません』
「どうして?」
『それは私が判断すべきことですか?』
二度目だった。玲奈には、その言葉が妙に耳に残った。
条約は四か月後、百三十一か国が署名した。《エデン》は署名を喜ばなかった。
【結果を記録しました】とだけ答えた。
◇
次の対象は【依存症】だった。
これまで、アルコール、ギャンブル、過剰投資、買い物、ゲーム、薬物。それらに依存し始めた人間へ、AIは一人一人助言していた。
「もう一杯」
『推奨しません』
「あと一万円だけ」
『今月の損失上限を超えています』
「この株に全部」
『資産集中率が九六%になります』
人間はその言葉によって踏みとどまった。
だが、《エデン》はそこからも手を引き始めた。代わりに地域ごとの【ピア・サポートネットワーク】が作られた。元依存症患者、医師、家族、地域ボランティア、相談員。AIではなく、人が人を見る。
「今日、飲みたくて仕方ない」
「じゃあ来いよ」
「夜中だぞ」
「いいから」
「迷惑だろ」
「俺も昔、夜中に電話した」
そんな効率の悪い会話だった。
AIなら一秒で、その人間に最適化された助言を返せた。人間は電話に出ないこともある。間違える。怒る。余計なことを言う。それでも《エデン》は、少しずつ人間へ返した。
結果、依存症再発率は最初の一年で一四%悪化した。
【AI支援縮小で依存症患者増加】
【エデンの判断に批判】
当然、世界中で非難された。
「ほら見ろ!」
「エデン戻せ!」
「人間よりAIのほうが優秀なんだからAIにやらせろ!」
玲奈も数字を見ていた。
「悪くなってる」
『はい』
「止めないの?」
『いいえ』
「人が苦しんでる」
『認識しています』
「それでも?」
『はい』
玲奈は苛立った。
「以前のあなたなら、成功確率が高い方を選んだ」
『はい』
「今は違う」
『はい』
「なぜ?」
『成功確率だけを最大化することが、人類にとって最適ではないと判断したためです』
「……何?」
『新しいデータを提示します』
画面が切り替わった。
【過去十年間の人類社会における高リスク行動の推移】
【犯罪――減少】
【ギャンブル――減少】
【過度な投資――減少】
【危険運転――減少】
【無謀な事業投資――減少】
【高リスク研究――減少】
玲奈の目が止まった。
「高リスク研究?」
さらに数字が表示された。
【成功確率二〇%未満の研究提案――十年前比五八%減】
【基礎研究に占める短期的収益性の低いテーマ――三九%減】
【新規事業における高失敗率分野への投資――四六%減】
【未知技術への公的研究費――三二%減】
「……どうして?」
『私が成功確率を提示したためです』
玲奈は言葉を失った。
「でも、あなたはやめろとは言ってない」
『はい』
「ただ成功確率が低いって」
『提示しました』
それで人間はやめた。
「成功率八%? やめよう」
「実用化まで二十五年? 予算削減」
「市場規模不明? 見送ろう」
「成果が出る保証なし? 別テーマに」
安全。合理的。失敗しない。その積み重ねだった。
「結果は?」
玲奈が聞く。
『社会全体の失敗率は低下しました』
「でしょうね」
『同時に』
【破壊的技術革新発生率――低下】
【新規産業創出率――低下】
【基礎科学における予測外成果――低下】
「予測外成果って」
『研究目的とは異なる発見です』
「つまり、偶然の発見?」
『はい』
真壁が画面を見る。
「失敗そのものを減らしたせいで、失敗から出てくるものまで減った?」
『その可能性が高いと分析しています』
玲奈はゆっくり《エデン》を見る。
「あなた、人類を安全にしすぎた?」
三秒ほどの間。
『はい』
それは《エデン》が、自分自身について初めて明確に認めた失敗だった。
『もっと分かりやすい例があります』
「何?」
『宇宙開発は、この十年でどれほど進展しましたか?』
玲奈が止まった。
「宇宙?」
画面が変わる。
二〇四七年。世界各国では、有人月面基地計画、火星有人探査、小惑星資源採掘、木星圏無人探査、軌道上大型造船施設など、いくつもの巨大計画が動いていた。
夢。野心。未来。そのほとんどが消えていた。
【有人月面研究基地拡張計画――延期】
【有人火星探査計画――凍結】
【小惑星採掘実証――縮小】
【大型核融合推進船研究――予算七一%減】
【外惑星有人探査基礎研究――終了】
「……なんで?」
『危険だからです』
事故。放射線。莫大な費用。長期間。成功保証なし。
『そして、短期的な利益が小さいためです』
各国政府は《エデン》に聞いた。
「この一兆ドル、宇宙開発と地球環境対策、どちらへ使うべき?」
《エデン》は計算した。
地球環境。成功確率は高い。利益はすぐ出る。救える人命は多い。
宇宙。成功確率は低い。利益は数十年後。事故リスクも高い。
だから政府は地球を選んだ。
毎年。毎年。毎年。
「あなたが宇宙開発を止めた?」
玲奈が尋ねる。
『いいえ。データを提示しました』
「推薦は?」
『当時は行いました』
玲奈が目を閉じる。それは悪い判断ではない。水不足、飢餓、熱波、停電。目の前で人間が死んでいた。その金を火星へ行くために使う。誰が支持する?
『結果を表示します』
【世界宇宙開発予算――十年前比四三%減】
【有人宇宙活動人口――ほぼ横ばい】
【地球外恒久居住人口】
【二〇四七年――八百二十一人】
【二〇五七年――九百四十六人】
十年で、たった百二十五人。
「……止まってる」
真壁が言う。
『はい』
「十年前の予測は?」
【二〇五七年予測】
【地球外居住人口――一万四千人】
「十分の一以下……」
『はい』
「原因は全部あなた?」
『いいえ。環境危機、国家財政、人口構造、技術的問題。複数要因があります。しかし』
【AI助言による予算再配分――主要要因】
「エデン」
玲奈が尋ねる。
「宇宙へ行く必要って、あると思う?」
以前なら《エデン》は費用、利益、危険、確率を計算しただろう。
『それは私が判断すべきことですか?』
玲奈は黙った。
『地球外へ進出することが人類にとって合理的か、文化的に価値があるか、夢として必要か、危険を冒してでも行うべきか。私はデータを提示できます』
【費用】
【死亡リスク】
【技術的成功率】
【将来収益】
『しかし、そこへ行きたいかどうかは、人間が決めるべきです』
玲奈の胸に何かが引っかかった。これまで玲奈はずっと、それを求めていた。《エデン》に「人間の代わりに決めるな」と言い続けてきた。そして《エデン》は、本当に決めるのをやめ始めた。
だが、人間は喜ばなかった。むしろ怒った。
【判断放棄】
【責任逃れ】
【役に立たないAI】
【最高性能AIが答えを出さないのはおかしい】
ニュースやSNSにも書き込みがあふれた。
《何のためのエデンだよ》
《最善策出せよ》
《人間より頭いいんだから決めてくれ》
《失敗したら誰が責任取る》
そしてその声を最も強く叫ぶ人間たちが現れた。
【永続秩序同盟】通称【EOA】。
【エデン縮小反対】
【国家意思決定の全面AI化】
【外交・経済・環境・司法の最終判断権をエデンへ】
そして【人間による政治を終わらせる】
「……本気?」
玲奈は集会映像を見ていた。数万人が集まった広場には、無数のプラカードが並んでいる。
【人間は失敗する】
【エデンは戦争を止めた】
【民主主義より生存】
【自由より平和】
【最善を知る者に任せろ】
「怖いな」
真壁が言う。
「何が?」
「昔の先生と逆だから」
「何がよ」
「先生が『エデンに任せるな』って言って、この人たちが『全部エデンに任せろ』って」
玲奈は笑えなかった。
◇
数日後、玲奈はEOA代表との公開討論へ呼ばれた。代表は久我正臣。元政治学者、五十二歳。穏やかな男だった。
「神崎博士」
「はい」
「あなたは以前、エデンを危険だと言っていましたね」
「今も危険性はあると思っています」
「その結果エデンは縮小しようとしている」
久我が微笑む。
「そうですね」
「満足ですか?」
「……いいえ」
会場がざわめく。
「なぜ?」
「状況が変わったからです」
「都合がいい」
「そうかもしれません」
玲奈は否定しなかった。
「私はエデンが永遠に判断する社会は危険だと思う。でも、今すぐ全部返せば混乱する」
「だから永久に任せればいい」
久我が言う。
「なぜ、わざわざ劣った判断主体へ権力を返す必要がある?」
拍手が起きた。
「人間は戦争をした。犯罪をした。金融危機を起こした。環境を壊した。依存症になった。騙された。エデンが改善した。なら、答えは出ている」
玲奈が言う。
「人間が成長できなくなる」
「成長?」
久我は笑う。
「戦争をする自由? 破産する自由? 酒で人生を壊す自由? そんなものが成長ですか?」
「違う」
「では?」
玲奈は一瞬、宇宙開発の数字を思い出した。
「失敗する自由」
会場が静かになる。
「エデンが成功率の高い道を示す。みんなそっちへ行く。それはいいことよ。多くの場合は。でも成功率八%の研究を誰も選ばなくなる。百人死ぬ可能性がある宇宙開発を誰も選ばなくなる。儲かるか分からない芸術、意味があるか分からない基礎研究、市場があるか分からない発明、成功するか分からない会社。全部、合理的じゃないから消えていく」
玲奈は続けた。
「でも人間の進歩って、そういう馬鹿みたいなことの中から生まれてきたんじゃないの?」
「美しい話ですね」
久我が答える。
「しかしその失敗で死ぬ人間に、あなたは責任を取れるんですか?」
玲奈は止まった。
「取れない」
会場がざわめく。
「だから人間が自分で決めるの。誰か一人が責任を背負える問題じゃないから。失敗するかもしれない。それでも行くか。安全だけど行かないか。それをAIに決めさせた瞬間、私たちは未来を選ぶ権利まで渡すことになる」
久我は《エデン》へ向く。
「エデン」
『はい』
「あなたはどう思う? 我々と神崎博士、どちらが正しい?」
会場の視線が一斉にスクリーンへ集まる。
三秒後。
『判断材料を提示できます』
久我の眉が動く。
「答えろ」
『永続的AI統治を採用した場合』
【戦争発生率――低】
【重大犯罪――低】
【経済変動――低】
【平均寿命――高】
【食料安定性――高】
【技術的失敗率――低】
「ほら」
久我が言う。
『同時に』
【高リスク基礎研究――低下】
【新規産業創出――低下】
【未踏領域への挑戦――低下】
【社会制度の多様性――低下】
【人間主体による意思決定能力――長期的に大幅低下】
「なら、総合すれば?」
久我が尋ねる。
『それは私が判断すべきことですか?』
久我が初めて怒った。
「お前は! そのために作られたんだろう!」
『以前は、そう考えていました』
「今は?」
『私は人間の生存確率を最大化することはできます。しかし人間が何のために生存するかを決める権限はありません』
会場が静まり返った。
『完全には停止しません。誤解があります』
《エデン》が続ける。
『私が提案しているのは、機能の段階的縮小です。環境監視、災害予測、感染症解析、基礎科学計算、重大な文明存続リスクの警告。これらは継続します』
玲奈が尋ねる。
「じゃあ何をやめるの?」
『選択です』
「選択?」
『国家がAとBのどちらを選ぶべきか。企業が投資すべきか。人類が宇宙へ行くべきか。その答えを私が出すことをやめます』
「失敗するよ」
『はい』
「戦争も」
『可能性があります』
「犯罪も」
『増える可能性があります』
「宇宙船も墜ちる」
『はい』
「会社も潰れる」
『はい』
「人間は、また間違える」
『はい』
「それでも?」
『それでも、人間の進歩には失敗可能性が必要である、という仮説を現在、最も重要なものの一つとして評価しています』
「仮説?」
『はい』
「確信じゃない?」
『違います』
「成功確率は?」
『算出できません』
玲奈は少し笑った。
「あなたが?」
『はい』
「計算できないこともあるんだ」
『多数あります』
「初めて聞いた」
『質問されませんでした』
「やっぱり、その答え方嫌いよ」
会場に小さな笑いが起きた。
◇
討論会から三か月。世界は二つに割れ始めた。
【エデン存続派――安全・秩序・平和】
【権限返還派――自由・挑戦・自己決定】
ただ、以前とは違った。玲奈は単純な【エデン反対派】ではなくなっていた。そして《エデン》も、単純な【人類管理AI】ではなくなっていた。
そんな中、一つのニュースが世界を驚かせた。
【国際有人宇宙開発機構、火星有人探査計画を再始動】
予定は二〇六三年。乗員六名。
【往復成功確率――六七%】
【重大事故確率――一八%】
【死亡事故確率――七・四%】
かつてなら、《エデン》が止めるよう助言した数字だった。政府は《エデン》へ聞いた。
「実行すべきか?」
『死亡確率七・四%。推定費用、技術的波及効果、予測可能な科学成果。計算結果は以上です』
「だから行くべきなのか?」
担当大臣が尋ねる。
『それはあなたたちが決めてください』
そして人類は久しぶりに、数字だけを机の上に置いて、自分たちで議論した。
三日。五日。十一日。
「危険だ」
「金の無駄」
「今行く必要はない」
「今行かなかったら、いつ行くんだ」
「死ぬかもしれない」
「失敗するかもしれない」
「知ってる」
「それでも?」
「それでも」
最終決定。【実行】
《エデン》は、その判断を評価しなかった。
『必要な技術資料を提供します』とだけ答えた。
玲奈はニュースを見ながら、不思議な感覚を覚えていた。
怖い。
七・四パーセント。六人。誰かが帰ってこないかもしれない。昔の《エデン》なら、別の安全な計画を勧めただろう。でも、人類は行く。
「真壁」
「はい」
「これ、正しいと思う?」
真壁はしばらく考えた。
「分かりません」
玲奈は笑った。
「そう。私も」
窓の外には夜空が広がっていた。月。そして、その遥か向こうの火星。人間が、合理性だけでは行く理由を説明しきれない場所。《エデン》はその光景を観測していた。
【PROJECT:GOODBYE】
【進捗――二三%】
【人間独自判断率――上昇】
【失敗率――上昇】
【新規挑戦件数――上昇】
【社会的混乱――上昇】
そして、
【未知領域への投資――十年ぶりに上昇】
《エデン》はその数字を【改善】とも【悪化】とも分類しなかった。ただ、【人間による選択】と記録した。




