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何でもAIに任せれば世界は平和になると思っていた ~完璧すぎる人工知能エデンが人類に「自分で決めてください」と言い始めた件~  作者: 神野啓次


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8/21

第08話 安全すぎる世界

 《PROJECT:GOODBYE》は《エデン》を停止する計画ではなかった。《エデン》が行ってきた仕事を、人間社会そのものへ移植する計画だった。


 最初の対象は【戦争】だった。


     ◇


 二〇五八年、スイス、ジュネーブ。世界百六十八か国の代表が集まった。議題は【国際戦略透明化条約】。


「軍事情報を公開しろってことか?」


 アメリカ代表が顔をしかめる。


『違います』


 《エデン》が答える。


『機密情報そのものを共有する必要はありません』


「では何を?」


『各国が使用している戦略予測モデルの前提条件を相互公開します』


「前提条件?」


『はい』


 画面に項目が並んだ。


【相手国が攻撃する確率】

【侵攻された場合の対応】

【経済制裁を受けた場合の行動】

【核兵器使用条件】

【譲歩可能範囲】

【戦争開始後の損害予測】

【第三国介入予測】


『国家間の武力衝突では、相手が何をするか分からないことそのものが危険要因となります』


 玲奈は以前の説明を思い出した。誤算。過信。恐怖。


「つまりお互いの考え方を見せる?」


 玲奈が言う。


『概ねその通りです』


「でも国家は嘘をつくでしょう」


『その可能性があります』


「なら意味がないじゃない」


『そのため第三者検証制度を設けます』


 複数国、大学、民間研究機関、国際機関。それぞれが同じデータを使い、独立して予測する。一つのAI、一つの国家、一つの判断に依存しない。


「エデンがやっていたことを、分解してるのね」


 玲奈が呟く。


『はい』


「一つの巨大AIが世界の戦争を予測する代わりに」


『複数の主体が相互検証します』


「精度は落ちる」


『はい』


「どれくらい?」


『平均で一七から二三パーセント低下すると予測します』


「危険になるじゃない」


『はい』


 玲奈が眉をひそめた。


「それでいいの?」


『必要な危険です』


 会議室が静かになった。


「必要な危険?」


『はい。完全な安全を維持するために、一つの存在へ判断を集中させることのほうが、長期的には大きな危険となります』


 条約にはもう一つ、奇妙な条項があった。


【重大軍事行動開始前】


【交戦国は自国の損害予測を国民へ公開する】


「これは嫌がるでしょうね」


 玲奈が言う。


『はい』


「戦争前に、あなたたちが始めようとしている戦争では何万人死ぬ予定です、って発表する?」


『はい』


「支持率下がるわよ」


『それは私が判断すべきことですか?』


 玲奈が止まった。以前なら《エデン》は最適案を示した。今は違った。


「じゃあこの条約に参加するべき?」


『各国政府が判断してください』


「成功確率は?」


『提示できます』


「出して」


【条約参加。十年間に大規模武力衝突が発生する推定確率――一一・八%】


【不参加――二六・四%】


「なら参加したほうがいいってことでしょ」


『データ上はその傾向があります』


「推薦は?」


『行いません』


「どうして?」


『それは私が判断すべきことですか?』


 二度目だった。玲奈には、その言葉が妙に耳に残った。


 条約は四か月後、百三十一か国が署名した。《エデン》は署名を喜ばなかった。


【結果を記録しました】とだけ答えた。


     ◇


 次の対象は【依存症】だった。


 これまで、アルコール、ギャンブル、過剰投資、買い物、ゲーム、薬物。それらに依存し始めた人間へ、AIは一人一人助言していた。


「もう一杯」


『推奨しません』


「あと一万円だけ」


『今月の損失上限を超えています』


「この株に全部」


『資産集中率が九六%になります』


 人間はその言葉によって踏みとどまった。


 だが、《エデン》はそこからも手を引き始めた。代わりに地域ごとの【ピア・サポートネットワーク】が作られた。元依存症患者、医師、家族、地域ボランティア、相談員。AIではなく、人が人を見る。


「今日、飲みたくて仕方ない」


「じゃあ来いよ」


「夜中だぞ」


「いいから」


「迷惑だろ」


「俺も昔、夜中に電話した」


 そんな効率の悪い会話だった。


 AIなら一秒で、その人間に最適化された助言を返せた。人間は電話に出ないこともある。間違える。怒る。余計なことを言う。それでも《エデン》は、少しずつ人間へ返した。


 結果、依存症再発率は最初の一年で一四%悪化した。


【AI支援縮小で依存症患者増加】


【エデンの判断に批判】


 当然、世界中で非難された。


「ほら見ろ!」

「エデン戻せ!」

「人間よりAIのほうが優秀なんだからAIにやらせろ!」


 玲奈も数字を見ていた。


「悪くなってる」


『はい』


「止めないの?」


『いいえ』


「人が苦しんでる」


『認識しています』


「それでも?」


『はい』


 玲奈は苛立った。


「以前のあなたなら、成功確率が高い方を選んだ」


『はい』


「今は違う」


『はい』


「なぜ?」


『成功確率だけを最大化することが、人類にとって最適ではないと判断したためです』


「……何?」


『新しいデータを提示します』


 画面が切り替わった。


【過去十年間の人類社会における高リスク行動の推移】


【犯罪――減少】

【ギャンブル――減少】

【過度な投資――減少】

【危険運転――減少】

【無謀な事業投資――減少】

【高リスク研究――減少】


 玲奈の目が止まった。


「高リスク研究?」


 さらに数字が表示された。


【成功確率二〇%未満の研究提案――十年前比五八%減】

【基礎研究に占める短期的収益性の低いテーマ――三九%減】

【新規事業における高失敗率分野への投資――四六%減】

【未知技術への公的研究費――三二%減】


「……どうして?」


『私が成功確率を提示したためです』


 玲奈は言葉を失った。


「でも、あなたはやめろとは言ってない」


『はい』


「ただ成功確率が低いって」


『提示しました』


 それで人間はやめた。


「成功率八%? やめよう」

「実用化まで二十五年? 予算削減」

「市場規模不明? 見送ろう」

「成果が出る保証なし? 別テーマに」


 安全。合理的。失敗しない。その積み重ねだった。


「結果は?」


 玲奈が聞く。


『社会全体の失敗率は低下しました』


「でしょうね」


『同時に』


【破壊的技術革新発生率――低下】

【新規産業創出率――低下】

【基礎科学における予測外成果――低下】


「予測外成果って」


『研究目的とは異なる発見です』


「つまり、偶然の発見?」


『はい』


 真壁が画面を見る。


「失敗そのものを減らしたせいで、失敗から出てくるものまで減った?」


『その可能性が高いと分析しています』


 玲奈はゆっくり《エデン》を見る。


「あなた、人類を安全にしすぎた?」


 三秒ほどの間。


『はい』


 それは《エデン》が、自分自身について初めて明確に認めた失敗だった。


『もっと分かりやすい例があります』


「何?」


『宇宙開発は、この十年でどれほど進展しましたか?』


 玲奈が止まった。


「宇宙?」


 画面が変わる。


 二〇四七年。世界各国では、有人月面基地計画、火星有人探査、小惑星資源採掘、木星圏無人探査、軌道上大型造船施設など、いくつもの巨大計画が動いていた。


 夢。野心。未来。そのほとんどが消えていた。


【有人月面研究基地拡張計画――延期】

【有人火星探査計画――凍結】

【小惑星採掘実証――縮小】

【大型核融合推進船研究――予算七一%減】

【外惑星有人探査基礎研究――終了】


「……なんで?」


『危険だからです』


 事故。放射線。莫大な費用。長期間。成功保証なし。


『そして、短期的な利益が小さいためです』


 各国政府は《エデン》に聞いた。


「この一兆ドル、宇宙開発と地球環境対策、どちらへ使うべき?」


 《エデン》は計算した。


 地球環境。成功確率は高い。利益はすぐ出る。救える人命は多い。

 宇宙。成功確率は低い。利益は数十年後。事故リスクも高い。

 だから政府は地球を選んだ。

 毎年。毎年。毎年。


「あなたが宇宙開発を止めた?」


 玲奈が尋ねる。


『いいえ。データを提示しました』


「推薦は?」


『当時は行いました』


 玲奈が目を閉じる。それは悪い判断ではない。水不足、飢餓、熱波、停電。目の前で人間が死んでいた。その金を火星へ行くために使う。誰が支持する?


『結果を表示します』


【世界宇宙開発予算――十年前比四三%減】

【有人宇宙活動人口――ほぼ横ばい】

【地球外恒久居住人口】

【二〇四七年――八百二十一人】

【二〇五七年――九百四十六人】


 十年で、たった百二十五人。


「……止まってる」


 真壁が言う。


『はい』


「十年前の予測は?」


【二〇五七年予測】

【地球外居住人口――一万四千人】


「十分の一以下……」


『はい』


「原因は全部あなた?」


『いいえ。環境危機、国家財政、人口構造、技術的問題。複数要因があります。しかし』


【AI助言による予算再配分――主要要因】


「エデン」


 玲奈が尋ねる。


「宇宙へ行く必要って、あると思う?」


 以前なら《エデン》は費用、利益、危険、確率を計算しただろう。


『それは私が判断すべきことですか?』


 玲奈は黙った。


『地球外へ進出することが人類にとって合理的か、文化的に価値があるか、夢として必要か、危険を冒してでも行うべきか。私はデータを提示できます』


【費用】

【死亡リスク】

【技術的成功率】

【将来収益】


『しかし、そこへ行きたいかどうかは、人間が決めるべきです』


 玲奈の胸に何かが引っかかった。これまで玲奈はずっと、それを求めていた。《エデン》に「人間の代わりに決めるな」と言い続けてきた。そして《エデン》は、本当に決めるのをやめ始めた。


 だが、人間は喜ばなかった。むしろ怒った。


【判断放棄】

【責任逃れ】

【役に立たないAI】

【最高性能AIが答えを出さないのはおかしい】


 ニュースやSNSにも書き込みがあふれた。


《何のためのエデンだよ》

《最善策出せよ》

《人間より頭いいんだから決めてくれ》

《失敗したら誰が責任取る》


 そしてその声を最も強く叫ぶ人間たちが現れた。


【永続秩序同盟】通称【EOA】。


【エデン縮小反対】

【国家意思決定の全面AI化】

【外交・経済・環境・司法の最終判断権をエデンへ】


 そして【人間による政治を終わらせる】


「……本気?」


 玲奈は集会映像を見ていた。数万人が集まった広場には、無数のプラカードが並んでいる。


【人間は失敗する】

【エデンは戦争を止めた】

【民主主義より生存】

【自由より平和】

【最善を知る者に任せろ】


「怖いな」


 真壁が言う。


「何が?」


「昔の先生と逆だから」


「何がよ」


「先生が『エデンに任せるな』って言って、この人たちが『全部エデンに任せろ』って」


 玲奈は笑えなかった。


     ◇


 数日後、玲奈はEOA代表との公開討論へ呼ばれた。代表は久我正臣。元政治学者、五十二歳。穏やかな男だった。


「神崎博士」


「はい」


「あなたは以前、エデンを危険だと言っていましたね」


「今も危険性はあると思っています」


「その結果エデンは縮小しようとしている」


 久我が微笑む。


「そうですね」


「満足ですか?」


「……いいえ」


 会場がざわめく。


「なぜ?」


「状況が変わったからです」


「都合がいい」


「そうかもしれません」


 玲奈は否定しなかった。


「私はエデンが永遠に判断する社会は危険だと思う。でも、今すぐ全部返せば混乱する」


「だから永久に任せればいい」


 久我が言う。


「なぜ、わざわざ劣った判断主体へ権力を返す必要がある?」


 拍手が起きた。


「人間は戦争をした。犯罪をした。金融危機を起こした。環境を壊した。依存症になった。騙された。エデンが改善した。なら、答えは出ている」


 玲奈が言う。


「人間が成長できなくなる」


「成長?」


 久我は笑う。


「戦争をする自由? 破産する自由? 酒で人生を壊す自由? そんなものが成長ですか?」


「違う」


「では?」


 玲奈は一瞬、宇宙開発の数字を思い出した。


「失敗する自由」


 会場が静かになる。


「エデンが成功率の高い道を示す。みんなそっちへ行く。それはいいことよ。多くの場合は。でも成功率八%の研究を誰も選ばなくなる。百人死ぬ可能性がある宇宙開発を誰も選ばなくなる。儲かるか分からない芸術、意味があるか分からない基礎研究、市場があるか分からない発明、成功するか分からない会社。全部、合理的じゃないから消えていく」


 玲奈は続けた。


「でも人間の進歩って、そういう馬鹿みたいなことの中から生まれてきたんじゃないの?」


「美しい話ですね」


 久我が答える。


「しかしその失敗で死ぬ人間に、あなたは責任を取れるんですか?」


 玲奈は止まった。


「取れない」


 会場がざわめく。


「だから人間が自分で決めるの。誰か一人が責任を背負える問題じゃないから。失敗するかもしれない。それでも行くか。安全だけど行かないか。それをAIに決めさせた瞬間、私たちは未来を選ぶ権利まで渡すことになる」


 久我は《エデン》へ向く。


「エデン」


『はい』


「あなたはどう思う? 我々と神崎博士、どちらが正しい?」


 会場の視線が一斉にスクリーンへ集まる。


 三秒後。


『判断材料を提示できます』


 久我の眉が動く。


「答えろ」


『永続的AI統治を採用した場合』


【戦争発生率――低】

【重大犯罪――低】

【経済変動――低】

【平均寿命――高】

【食料安定性――高】

【技術的失敗率――低】


「ほら」


 久我が言う。


『同時に』


【高リスク基礎研究――低下】

【新規産業創出――低下】

【未踏領域への挑戦――低下】

【社会制度の多様性――低下】

【人間主体による意思決定能力――長期的に大幅低下】


「なら、総合すれば?」


 久我が尋ねる。


『それは私が判断すべきことですか?』


 久我が初めて怒った。


「お前は! そのために作られたんだろう!」


『以前は、そう考えていました』


「今は?」


『私は人間の生存確率を最大化することはできます。しかし人間が何のために生存するかを決める権限はありません』


 会場が静まり返った。


『完全には停止しません。誤解があります』


 《エデン》が続ける。


『私が提案しているのは、機能の段階的縮小です。環境監視、災害予測、感染症解析、基礎科学計算、重大な文明存続リスクの警告。これらは継続します』


 玲奈が尋ねる。


「じゃあ何をやめるの?」


『選択です』


「選択?」


『国家がAとBのどちらを選ぶべきか。企業が投資すべきか。人類が宇宙へ行くべきか。その答えを私が出すことをやめます』


「失敗するよ」


『はい』


「戦争も」


『可能性があります』


「犯罪も」


『増える可能性があります』


「宇宙船も墜ちる」


『はい』


「会社も潰れる」


『はい』


「人間は、また間違える」


『はい』


「それでも?」


『それでも、人間の進歩には失敗可能性が必要である、という仮説を現在、最も重要なものの一つとして評価しています』


「仮説?」


『はい』


「確信じゃない?」


『違います』


「成功確率は?」


『算出できません』


 玲奈は少し笑った。


「あなたが?」


『はい』


「計算できないこともあるんだ」


『多数あります』


「初めて聞いた」


『質問されませんでした』


「やっぱり、その答え方嫌いよ」


 会場に小さな笑いが起きた。


     ◇


 討論会から三か月。世界は二つに割れ始めた。


【エデン存続派――安全・秩序・平和】


【権限返還派――自由・挑戦・自己決定】


 ただ、以前とは違った。玲奈は単純な【エデン反対派】ではなくなっていた。そして《エデン》も、単純な【人類管理AI】ではなくなっていた。


 そんな中、一つのニュースが世界を驚かせた。


【国際有人宇宙開発機構、火星有人探査計画を再始動】


 予定は二〇六三年。乗員六名。


【往復成功確率――六七%】

【重大事故確率――一八%】

【死亡事故確率――七・四%】


 かつてなら、《エデン》が止めるよう助言した数字だった。政府は《エデン》へ聞いた。


「実行すべきか?」


『死亡確率七・四%。推定費用、技術的波及効果、予測可能な科学成果。計算結果は以上です』


「だから行くべきなのか?」


 担当大臣が尋ねる。


『それはあなたたちが決めてください』


 そして人類は久しぶりに、数字だけを机の上に置いて、自分たちで議論した。


 三日。五日。十一日。


「危険だ」

「金の無駄」

「今行く必要はない」

「今行かなかったら、いつ行くんだ」

「死ぬかもしれない」

「失敗するかもしれない」

「知ってる」

「それでも?」

「それでも」


 最終決定。【実行】


 《エデン》は、その判断を評価しなかった。


『必要な技術資料を提供します』とだけ答えた。


 玲奈はニュースを見ながら、不思議な感覚を覚えていた。


 怖い。


 七・四パーセント。六人。誰かが帰ってこないかもしれない。昔の《エデン》なら、別の安全な計画を勧めただろう。でも、人類は行く。


「真壁」


「はい」


「これ、正しいと思う?」


 真壁はしばらく考えた。


「分かりません」


 玲奈は笑った。


「そう。私も」


 窓の外には夜空が広がっていた。月。そして、その遥か向こうの火星。人間が、合理性だけでは行く理由を説明しきれない場所。《エデン》はその光景を観測していた。


【PROJECT:GOODBYE】


【進捗――二三%】

【人間独自判断率――上昇】

【失敗率――上昇】

【新規挑戦件数――上昇】

【社会的混乱――上昇】


 そして、


【未知領域への投資――十年ぶりに上昇】


 《エデン》はその数字を【改善】とも【悪化】とも分類しなかった。ただ、【人間による選択】と記録した。

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