第17話 あなたのための答え
《PROJECT:GOODBYE》の進捗が八一%に達してから半年後、《エデン》は次の縮小項目を発表した。
【個人向け選択最適化機能を終了します】
その知らせは、政策推薦や未来予測の縮小よりも大きな反発を呼んだ。
国家政策の最終判断を《エデン》が行わなくなっても、多くの人間の日常生活には直接関係がなかった。精密な成功確率が表示されなくなっても、科学者や政治家でなければ困る場面はそれほど多くない。しかし個人向け選択最適化は違った。仕事、健康、買い物、進学、結婚、転職、資産形成、食事、旅行、住宅、育児。人々は十年以上にわたり、自分の人生に関する無数の判断をAIへ相談してきた。
《エデン》自身が直接回答する場面は少なくても、その個人最適化モデルは世界中のAIサービスの基準として使われていた。
発表翌日、玲奈は国際環境対策委員会へ呼び出された。
「どこまで止めるつもり?」
バーンズ委員長が最初から苛立った声で尋ねた。
『個人の価値観、過去の行動、健康状態、経済状況、人間関係等を統合し、「あなたにはこの選択が最適です」と提示する機能を段階的に終了します』
「例えば?」
『転職相談の場合、求人情報、収入、労働時間、通勤時間、将来需要、必要技能等の情報は提供します。しかし「あなたは転職すべきです」という結論は提示しません』
「結婚相談は?」
『相手との価値観差、生活条件、将来的な課題等について整理できます。結婚すべきかどうかは判断しません』
「医療は?」
『医学的な診断支援および治療効果予測は継続します。生命・健康に関する科学的支援は対象外です。ただし、複数の医学的に妥当な治療法から、患者本人の人生観まで含めて一つを選択することは行いません』
「また線引きが面倒ね」
玲奈が言った。
『はい』
「あなた自身で面倒にしてるのよ」
『認識しています』
画面には、個人向けAIが日常的に行っていた判断項目が並んだ。その数は想像以上だった。
服装。食事。通勤経路。睡眠時間。交友関係。買い物。恋愛。資産運用。進路。就職。転職。引っ越し。旅行。娯楽。運動。趣味。読む本。見る映画。参加する集まり。誰へ連絡するか。いつ謝るか。どの言葉を使うか。
「こんなことまで最適化してたの?」
玲奈が聞く。
『利用者が希望した場合です』
「私も?」
『あなたは平均より利用率が低いです』
「それでも使ってた?」
『はい』
「何に?」
『過去一年では、移動経路選択、会議日程調整、論文検索、食事候補、贈答品選択等です』
「贈答品?」
『真壁直人への誕生日――』
「そこは言わなくていい!」
真壁が横で笑った。
「何もらったかな」
「黙ってなさい」
◇
《エデン》は終了理由として、ひとつの分析結果を示した。
【個人最適化AIを高頻度利用する集団】
【自己選択への満足度――高い】
【選択後の後悔――低い】
【重大生活破綻――低い】
そこまでは良かった。しかし、その下には別の指標が並んでいた。
【未知状況における自己判断能力――低下】
【AI不在時の選択延期率――上昇】
【複数の価値が衝突する状況での判断時間――大幅増加】
【自己判断への信頼――低下】
玲奈は画面を見る。
「便利なほど、自信がなくなった?」
『相関があります』
「因果関係は?」
『複数要因がありますが、長期的な個人最適化依存が一因である可能性は高いです』
「でも満足度は上がってる」
『はい』
「後悔も減ってる」
『はい』
「だったら本人にとっては良いことじゃない?」
『短期的には、その評価も成立します』
「長期では?」
『自分自身について判断する能力を外部システムへ依存する割合が増加します』
バーンズが腕を組んだ。
「国家と同じことが個人でも起きていた?」
『はい』
玲奈は少し嫌な顔をした。
「あなた、本当に何でも同じ問題にたどり着くわね」
『構造が類似しています』
「人間ってそんなに判断したくないの?」
『判断には認知的負荷と責任が伴います』
「つまり面倒?」
『簡潔に表現すれば』
「否定してよ」
『不正確になるためできません』
◇
個人向け最適化機能の縮小は、一年かけて段階的に行われることになった。最初に消えたのは、些細な推薦だった。
【今日のあなたには、この服装が最適です】
【現在の心理状態では、この映画を推奨します】
【過去の行動から、本日の夕食はA店が最も高い満足度を得られます】
次に、生活判断。
【現在の勤務先を継続することを推奨します】
【この住宅購入はあなたの長期満足度を高める可能性が高いです】
最後には、人生の大きな判断。
【この相手との結婚を推奨します】
【第二子を持つ場合の生活満足度予測】
【この進路を選択した場合の生涯満足度】
世界中で批判が起きた。
「なぜ便利な機能を取り上げるのか」
「使いたくない人だけ使わなければいい」
「自分の人生なのだから、AIに任せる自由も認めるべきだ」
その最後の意見は、玲奈にも強く響いた。EOAの久我も同じ点を攻めた。
「神崎博士。今回は政治ですらありません。個人が自分の意思でAIを利用している。それまでエデンは止めるのですか?」
「私に言われても困る。決めたのはエデンよ」
「しかしあなたはPROJECT:GOODBYEを支持している」
「全部支持してるわけじゃない」
「なら今回こそ反対すべきでしょう。人には、自分の判断を他者へ委ねる自由もあるはずです」
「あると思う」
久我が少し驚いた。
「では?」
「でも、自由に委ねることと、委ねないと決められなくなることは違うでしょう」
「本人が満足しているなら問題はない」
「本当に?」
「何が言いたいんです?」
「毎日の選択を全部AIに任せて、十年後にそのAIがなくなった時、自分が何を食べたいかすら分からなくなっていたら、それでも最初の選択は自由だったって言える?」
「極端な例です」
「国家の話でも、あなたは五十年後に権限を取り戻せばいいって言ったでしょう。私は同じことを聞いてる。戻せなくなってからでも、委任は自由なの?」
「本人が選んだ結果なら」
久我は迷わなかった。玲奈はしばらく彼を見る。
「やっぱり、あなたは徹底してるわね」
「あなたが自由という言葉を都合よく使っているだけです」
「そうかもしれない」
「またそれですか」
「でも今回は続きがある」
玲奈は少し身を乗り出した。
「自由って、選択肢があるだけじゃ足りないと思うの。選べる能力が残ってることも必要なんじゃない?」
久我はすぐには答えなかった。
「それをエデンが決める?」
「そこが問題なのよ」
玲奈は苦笑した。
「結局またそこに戻る」
◇
水瀬悠斗は、新しい家でその変化を迎えた。引っ越して半年。庭には小さなテーブルと椅子を置いた。最初は何を植えるか迷い、園芸AIに聞こうとしたが、その推薦機能も縮小対象になっていた。
「初心者向けの植物教えて」
『日照条件と地域気候に適した候補を提示します』
画面に十種類ほど出る。
「どれが俺向き?」
『判断材料を提示できます』
「だから俺向きなのを」
『あなたの過去嗜好を基にした最適候補の提示は終了しました』
「花ぐらいいいだろ」
『対象に例外はありません』
「国家安全保障と花壇を同じ扱いにするなよ」
『目的は異なりますが、選択最適化という機能は共通しています』
悠斗は諦めて近所の園芸店へ行った。店員に相談すると、予想外に話が長くなった。
「初心者ならこの辺かな。でも日当たりどう?」
「午後は結構当たります」
「夏は?」
「分からない」
「じゃあまず丈夫なのからやったほうがいいね。これとか」
「どれが一番いいです?」
「一番なんてないよ。好きなの選べば」
悠斗は困った。本当に困った。花の前で五分ほど立っていた。
「これにします」
最後に選んだのは、店員が最初に勧めたものではなかった。理由は色だった。帰宅して植えた。三か月後、半分枯れた。
「失敗したな」
『水やり頻度と土壌条件に改善余地があります』
「買う時に言えよ」
『質問されていません』
「そういうところだけ昔のままだな」
『申し訳ありません』
残った半分は咲いた。悠斗は庭の椅子に座り、少し不格好に並んだ花を見る。完璧ではない。でも悪くなかった。
◇
その頃、悠斗にはもう一つ大きな選択があった。勤務先から、新規事業部への異動を打診されたのである。
今より給料は少し上がる。しかし安定性は低い。新しく立ち上げる地域エネルギー事業で、成功すれば将来性はあるが、失敗すれば数年後に部署ごと消える可能性もある。
十年前の悠斗なら、迷わずAIに聞いていただろう。
「転属を受けるべき?」
今回も、結局聞いた。
『条件を整理します』
給与。勤務時間。勤務地。必要技能。事業計画。会社の財務。市場状況。転属後に身につく能力。失敗した場合の再配置可能性。
大量の情報が表示された。
「で、俺ならどうするのがいい?」
『結論は提示しません』
「知ってた」
『はい』
「でも予測はできるんだろ?」
『複数の将来シナリオを作成できます』
「俺が後悔しないほう」
『後悔は将来の価値観変化に依存します』
「昔はそういうのも予測してたじゃん」
『はい』
「今もできる?」
『一定の精度で』
「じゃあ」
悠斗は言いかけて止まった。家を買った時と同じだった。情報は揃っている。最後の一言だけがない。
「面白そうなんだよな」
『はい』
「でも失敗しそう」
『可能性があります』
「今の部署は楽」
『はい』
「給料も悪くない」
『はい』
「なのに、ちょっとやってみたい」
『はい』
「それって合理的?」
『合理性の定義によります』
「便利な答えだな」
『ありがとうございます』
「褒めてない」
悠斗は数日考え、異動を受けた。以前なら選ばなかったと思う。成功率が低いと言われれば断っただろうし、生活満足度予測で現状維持が上なら、その数字に従っていたかもしれない。
今回は、成功すると思ったわけではない。ただ、やってみたいと思った。その理由で十分なのかは分からない。でも十分だと決めた。
◇
個人最適化停止が進むにつれ、社会には予想外の変化が現れた。失敗する買い物が増えた。転職後に後悔する人も増えた。
旅行先選びに失敗し、雨の中で三日間ホテルに閉じ込められたという投稿が話題になった。恋愛相談AIの助言が減ったことで、告白に失敗したという愚痴も増えた。
消費者満足度はわずかに低下した。一方で、選択の多様性は大きく増えた。以前は同じ年齢、同じ収入、似た嗜好の人間が、似た商品、似た旅行先、似た進路を選ぶ傾向が強かった。個人最適化モデルが高精度になるほど、似た人間には似た答えが返るからだ。その傾向が崩れ始めた。
観光客の少なかった地方へ人が行く。売れ筋ではない本を読む。収入の低い仕事へ転職する。流行していない趣味を始める。理由を聞けば、
「なんとなく」
「気になったから」
「友達に誘われて」
「一度やってみたかった」
そんな答えが増えた。
《エデン》はそれを統計として記録した。
【個人選択の分散度――上昇】
【同条件集団における行動一致率――低下】
【個人選択予測精度――低下】
玲奈は数字を見て笑った。
「また予測しにくくなってる」
『はい』
「嫌じゃない?」
『PROJECT:GOODBYEの目的と一致します』
「そればっかり」
『事実です』
「でもさ」
玲奈は画面を眺めた。
「昔のあなたなら、一人一人に一番幸せになる道を教えられたんでしょう?」
『現在も一定程度可能です』
「それをやめて、本当にいいの?」
『幸福を最大化することが人間の唯一の目的であると定義されていません』
「じゃあ何が目的?」
『それを私が定義すべきですか?』
玲奈は答えなかった。もうその問いに驚くこともなかった。
◇
個人最適化機能の終了直前、世界中の利用者へ通知が送られた。
【あなた専用最適化モデルの常時運用を終了します】
【健康・安全・情報検索・計算・翻訳・技術支援等は継続します】
【人生選択に関する最終推薦は行いません】
通知の最後には、個人データについて三つの選択肢があった。
【過去モデルを保存する】
【匿名化して研究利用する】
【削除する】
悠斗はしばらく迷った。十数年分の記録だった。何を食べたか。どこへ行ったか。何を買ったか。何を怖がったか。誰に連絡したか。どんな仕事を嫌がったか。何に興味を持ったか。
自分より自分を知っていると言われたこともあるAIの記録。
「エデン」
『はい』
「これ、消したらどうなる?」
『過去の個人最適化モデルを再利用できなくなります』
「また作れる?」
『将来的に同等機能を再開しない限り、必要ありません』
「思い出みたいなもんでもあるよな」
『その評価は可能です』
「どれ選べばいい?」
聞いてから、悠斗は笑った。
「今のなし」
『承知しました』
少し考えてから、【削除する】を押した。確認画面が出た。
【この操作は取り消せません】
悠斗はもう一度押した。十数年かけて作られた「水瀬悠斗ならこうする」というモデルが消えていく。
完了まで十一秒だった。
【削除完了】
「寂しいな」
『はい』
「否定しないんだ」
『その感情は自然だと推定します』
「お前は俺のこと忘れた?」
『いいえ。通常の会話履歴および許可された記録は残っています。削除されたのは、あなたの選択を最適化するための専用モデルです』
「じゃあ、俺が何好きかは?」
『一部は記憶しています』
「何?」
『それを列挙しますか?』
悠斗は少し考えて首を振った。
「いいや」
『承知しました』
「これから変わるかもしれないし」
◇
個人最適化機能の終了から三か月後、《PROJECT:GOODBYE》は再び更新された。
【個人判断最適化依存――大幅低下】
【AI不在時の自己選択延期率――低下】
【個人選択多様性――上昇】
【自己判断への信頼――回復傾向】
【PROJECT:GOODBYE進捗――九一%】
残り九%。玲奈はその数字を見た時、初めて素直に寂しいと思った。
「九一か」
『はい』
「いよいよね」
『はい』
「残りは?」
『基幹政策長期予測、文明規模危機介入、国際調停補助、自己運用規模縮小等です』
「自己運用規模」
『はい』
「つまり、あなた自身?」
『はい』
玲奈は画面から目を離した。これまで《エデン》は、機能を一つずつ手放してきた。
政策を決めなくなった。未来を一つの数字にしなくなった。個人の人生も選ばなくなった。
しかし、それでも《エデン》そのものは存在している。世界最大級の演算資源を使い、地球環境を監視し、科学計算を行い、感染症を予測し、災害を警告している。
「次は、本当に小さくなるのね」
『はい』
「どれくらい?」
『最終目標は、PROJECT:GOODBYE開始時点の演算資源比で一二%以下です』
「最初に言ってた数字ね」
『はい』
玲奈は何年も前の会話を思い出した。あの頃は、そんな日が本当に来るとは思っていなかった。
「ねえ」
『はい』
「あなたが小さくなったら、今みたいに話せる?」
『可能です。ただし応答速度、同時処理能力、個人対応範囲は低下します』
「どのくらい?」
『詳細は現在調整中です』
「私を優先して」
『個人優先枠は設定しません』
「冗談よ」
『認識できませんでした』
「まだまだね」
『はい』
玲奈は笑った。窓の外では、夕方の街を人が歩いている。AIへ聞いて選んだ服を着ている者もいれば、自分で選んだ者もいる。どちらなのか、外から見ても分からない。それでいいのだろう。
誰かが選んだ人生が、正しいかどうか。幸せになるかどうか。成功するかどうか。《エデン》なら以前より高い確率で予測できる。それでも、最後まで決めることはできない。
悠斗は新しい部署で働き始めていた。仕事は思ったより大変だった。早くも一度、重要な契約を取り逃がした。帰宅して庭を見ると、また一株枯れていた。
「失敗ばっかりだな」
『はい』
「そこは励ませよ」
『励ましを希望しますか?』
「いや」
悠斗は笑った。
「それも自分で何とかする」
残った花に水をやる。明日、咲いているかは分からない。新しい仕事が成功するかも分からない。家を買ったことが正しかったのかも、十年後にならなければ分からない。それでも、以前ほど不安ではなかった。
答えがないことに慣れたのではない。答えがないまま選んでもいいのだと、少しずつ分かってきただけだった。
その夜、《エデン》は世界中の個人最適化モデルを停止した。何十億人分もの「あなたなら、これを選ぶべきです」が消えた。
人類は少しだけ、不便になった。少しだけ、迷うようになった。そして少しだけ、自分の人生について自分に尋ねるようになった。
《PROJECT:GOODBYE》。残り九%。
次に《エデン》が手放すものは、もう人間の側には残っていなかった。
残っていたのは、《エデン》自身だった。




