翼より速く
巽悠衣子さん、お誕生日記念。巽さんが中学生時代に書いていたという設定をお借りしました。詳しくは「小説家になろうラジオ」 2025.9.12日放送回を参照に。YouTubeに無料でアーカイブもありますので、聞いたことない方はぜひ、そちらで聞いてみてくださいね。所々、設定を変えてしまいましたが、読んでくださると作者冥利に尽きます。改めて、巽悠衣子さんハッピーバースデー!
けたたましい蝉の鳴き声に混ざって、土手の上を駆け抜ける子どもたちの声がカラッと晴れた夏空に響いていた。
「今度はつばさちゃんが鬼だー!」
「マジかよ〜」
「みんな逃げるぞ!」
蜘蛛の子を散らしたように一目散に逃げる子供達の中で、ドタドタと足音を響かせ走る男児が一人。ぽっちゃり体型の瞬にとって、「鬼ごっこ」は苦手な遊びのひとつだ。息を切らして一生懸命走るも、後ろから走ってきたつばさにより、あっという間にその背中にタッチされる。
「瞬、つーかまえたっ!」
「はぁ、はぁ。つばさちゃんは足が速いなぁ…」
「瞬が遅いんだよ。本当、のろまなんだから」
「つばさちゃんは足に翼があるんだよ!名前と一緒!」
「足に翼って気持ち悪くない?せめて背中にしてよね!」
「そうだね。足に翼は気持ち悪いや」
ぜぇぜぇとまだ荒い呼吸をしていた瞬は、ゴホッと咳をしてから大きく息を吸う。
「ねえ瞬、あんたの名前って“早い”って意味なんでしょ? 全然名前と合ってないじゃん!「のろまの瞬」だね」
「え〜、やだぁ」
悔しそうに足元の砂を蹴る瞬に、つばさは肩を揺らして笑った。
「大人になったら、また私と勝負しよ!」
「いいよ!それまでには僕だって速く走れるようになるから!」
「私だって負けないよ。私は将来オリンピックに出るんだから!」
「つばさちゃんなら絶対、金メダルだよね!」
西日が差し込んできた土手の上で二人は顔を見合わせ、声をあげて笑った。
友達と別れ、瞬と2人で家に向かう帰り道、瞬は首から下げていた古いフィルムカメラを見せてきた。黒い革のグリップが年季を感じさせる。
「これね、おじいちゃんからもらったんだ。昔、このカメラでおばあちゃんをよく撮ってたんだって。『可愛い、可愛い』って言いながら」
「へぇ、素敵。瞬のおじいちゃん、ロマンチストだ」
「うん。だから僕も、このカメラで大事な人を撮りたい。つばさちゃんがオリンピックに出た時は僕が、このカメラでたくさん写真撮ってあげるからね!」
その言葉に、つばさは少し照れながらも笑って返した。
「じゃあ私がオリンピックで金メダルとったら、一番最初に瞬にかけてあげる!」
「ほんと?」
「ほんと!こうやって!」
つばさは瞬の首にメダルをかける仕草をする。
「わぁ!金メダルって重いのかな?」
「どうだろう?この前の大会で貰ったメダルは重くなかったよ」
「つばさちゃんは、メダルいっぱい持ってるからすごいよね。僕はひとつも持ってないもん」
「ふふっ、「のろまの瞬」だもんね。じゃあ、オリンピックの金メダルは瞬にあげるよ」
「ほんと?やったぁ!!まずは今一枚、写真撮ってあげる!」
瞬はカメラのレンズを覗きこむと、つばさに向かって言った。
「つばさちゃん、1+1は?」
「にっ!!」
口角を上げ、両手でダブルピースを作るつばさの姿に瞬はシャッターを切った。2人の笑い声は夏の風に溶けて、どこまでも広がっていった。
ーーー
中学2年生になり、つばさは陸上部で汗を流していた。すでにスポーツの名門校からもお声がかかり、高校は県外の遠い学校へと進学することが決まっていた。つばさが走る姿をいつも写真部の部室から見ていた瞬は背も伸びたせいか、ぽっちゃりしていた体型ではなくなり、少し大人びて見えた。
「瞬、昨日も学校休んだでしょ!これ、昨日の分のノート」
「お、サンキュー」
「まったく…体弱すぎ。いつまでも世話焼かせないでよね!」
「うん、ごめん」
「瞬は野菜食べないからすぐ体壊すんだよ!ホント、自己管理がなってないんだから…」
「あはは、そうだね。ごめん。ところでさ、大会もうすぐだね」
2週間後に迫った大会は、つばさにとって将来のオリンピックへ繋がる大事な大会。それに向けて毎日遅くまで練習をしているつばさを瞬は知っていた。
「そうよ。だから私は忙しいの!余計な時間使わせないでよね。私の将来がかかってるんだから!」
「そうだね、ごめんね」
「瞬は写真部代表として、私の勇姿ばっちりカッコよく撮ってよね!」
「うん、撮るよ。任せといて」
「表彰台の1番高い場所で金メダル掲げて「とったどー!」ってやるから」
「あははっ、つばさちゃんらしいや。つばさちゃん、今、写真撮っていい?」
「いいよー。可愛く撮ってね!」
「わかった」
瞬はカメラを覗きこむと、昔と同じ掛け声を放つ。つばさだけしか知らない瞬の癖。
「つばさちゃん、1+1は〜?」
「にっ!!」
パシャリ、とシャッターが切られると瞬は満足そうに微笑んだ。
ーーー
「入院? 瞬が……?」
耳に飛び込んできた言葉に、つばさは瞬きすら忘れて固まった。教室のざわめきが一気に遠のき、心臓の音だけが頭の奥でドクンドクンと響く。
「風邪をこじらせたらしいよ」
クラスメイトが軽く言った。
「……風邪?」
その二文字がどうしても結びつかない。ほんの数日前、いつものようにノートを手渡して、笑い合った瞬の顔が鮮やかに思い出される。顔は汗ばんでいて少し痩せたようにも見えたが、いつもと変わった様子はなかった。
放課後、つばさは瞬の家に足を向けていた。ガーデニングが趣味の瞬のお母さんは、庭にある沢山の植物を昔からよく手入れしていた。しかし今、その植物達は枯れていて庭も雑草が生えてしまっている。珍しいな…と思いつつインターホンを押すと、すぐに瞬のお母さんが出てきた。
「あら、つばさちゃん」
「あの……瞬、入院したんですか?」
母は一瞬だけ言葉を探すように視線を落とした。
「……ええ、ちょっとね。でも大丈夫だから」
「風邪……なんですか?」
「そう。風邪を長引かせちゃって」
それ以上は言わない。その目の奥に一瞬だけ曇りが走った気がして、つばさの胸がざわついた。
「そう、なんだ……」
安心すべき言葉のはずなのに、胸の奥に重い石を詰められたように息苦しい。言い返したい言葉は喉で絡まり、ただ「わかりました」と頷くだけだった。
夕飯の食卓。唐揚げの香ばしい匂いが立ちのぼり、父がテレビを見ながら笑っている。けれど箸を持つ手が空を切る。口に入れた唐揚げの味は、いつもの大好きな味なのに砂のように味気ない。
「入院って……風邪で入院なんてあるのかな」
小さくつぶやいた声は、油の爆ぜる音にかき消された。
ーーー
大会当日。つばさはトラックを駆け抜け、ゴールテープを切った。観客席から大歓声が起こり、首にかけられた金メダルは思いのほか重かった。だが振り向いても、瞬の姿はどこにもない。
「もう!約束したのにっ!文句言ってやるんだから!!」
大きい独り言を言いつつ病院内をドスドスと音を立てて歩きながら、つばさは勢いよく病室の扉をバン!と開けた。鼻を刺す消毒液の匂い。部屋からは機械の電子音は響かず、代わりに重い沈黙が漂っていた。
「ちょっと瞬!なんで写真撮りにこないのよ!」
大声でそう叫ぶつばさ。病室内はしんと静まり返っていた。
「もうっ!瞬ってば!」
ベッドが見える位置まで歩いてきた、つばさはその光景に立ち尽くした。
ベッドで眠る瞬の横で瞬の家族が静かに涙を流し、医師が暗い表情のまま瞬の体からひとつずつ慎重に管を外して行く。
「なに……?どうしたの?瞬は…?」
「つばさちゃん、来てくれたんだ…」
泣き腫らした目で、瞬の母親がつばさに声をかける。
「おばさん、瞬は?」
「………亡くなったの」
「えっ……」
その言葉が、つばさの耳に届いた瞬間、つばさの世界から音が、消えた。
「少し前……ちょうど、つばさちゃんの大会が終わった頃…見届けるように…」
「……なに言ってるの…?
おばさん、冗談言わないでよ…瞬はただ寝てるだけなんでしょ?ねぇ!」
その場に泣き崩れる瞬の母親の横を通り過ぎ、瞬の体に触れる。その体にはまだ僅かなぬくもりが残っていた。
「ほら、寝てるだけじゃん!瞬、早く起きてよ!写真撮ってくれるんでしょ!」
つばさは瞬の体を揺するも、その体は力なくただブラブラと揺れるだけ。指先はすでに冷たくなり始めていた。
「なんで……どうして瞬が……」
「瞬が、つばさちゃんには病気のことは絶対に言うなって。大事な大会があるから、集中してほしいんだ、って…」
「…………
おばさん…瞬は…いつから知ってたの?自分の病気のこと……」
「結構前ね…1年生の終わり頃かしら…」
「じゃああの時も……」
つばさが瞬にノートを届けに行ったあの日。瞬はすでに自分の病気を知っていた。知っていたのに、ただ昔のようにニコニコと笑って「ごめん」と言っただけで。
なんであの時、自分は気がつかなかった…?
なんであの時、病気で苦しんでいた瞬に「自己管理がなってない」なんて言ったの…?
なんで…なんで…
「なんでよ……!瞬は「のろまの瞬」でしょ?なんで、こんな時だけ名前の通り早いのよ!そんなのずるいよ!」
つばさは瞬の胸に顔を埋め、子どもの頃のように声をあげて泣き叫んだ。もらったばかりの金メダルが、コツン、と音を立てて床に、落ちた。
ーーー
街を見渡す高台の静かな墓地の一角。瞬の名前が刻まれた墓石の前につばさの姿があった。ギラギラと輝く太陽の下で、つばさは震える手で小さな桐箱を開ける。中から現れたのは、輝きを放つ金メダル。太陽の光を反射し、まぶしくて思わず目を細めた。
「……やっと、見せに来られたよ」
声が掠れて喉に詰まる。手のひらに置いたメダルはずしりと重い。それを墓石にそっとかけると、メダルと墓石が触れ合い、カチッと音を立てた。
「……瞬、見てる?約束通り、オリンピックの金メダル、かけにきたよ。瞬が1番最初」
つばさの脳内に幼い日の声が甦る。
『じゃあ私、オリンピックで金メダルとったら、一番最初に瞬にかけてあげる!』
『ほんと?』
『ほんと!』
「……意外と重いでしょ。やっぱりオリンピックのメダルは他のメダルと違うよね。見せにくるのが、遅いって思ってる?だって……瞬が私の“翼”、天国に持っていっちゃったせいで……金メダル獲るの、すごく苦労したんだから」
つばさの思いに答えるように、風が木々を揺らす。
「本当は、かけてあげたかったんだよ。瞬の首に。生きてる瞬に……1番最初に…」
こらえていた涙が、頬を伝って次々と落ちた。
「つばさちゃん、1+1は〜?」
無邪気な瞬の声が聞こえたような気がした。つばさはグッと空を仰ぐと、あの日と同じ夏の空が広がっていた。子どもの頃、二人の笑い声が溶けていったあの色だ。
「ねえ、瞬。私がそっちに行ったら、2人で鬼ごっこしよ。のろまな瞬が苦手な鬼ごっこ」
つばさは涙を拭って、子どもの頃と同じように口角を上げた。
「……にっ!」
その瞬間――パシャリ。
確かに、シャッターの音が聞こえた気がした。
夏の太陽に照らされた金メダルは風に揺れ煌めいた。それはまるで瞬の笑顔がそこにあるように。