サッカートリック
4月から始まった長期インターン先への通勤は、翔太にとって日々のルーティンとなっていた。
朝、地下鉄に乗り込んだ翔太は、車両の一番端の席が空いているのを見つけると、迷わずそこに腰を下ろした。はめ込み式の窓の窪みがちょうど肘掛けになるのでこの席は気に入っていた。頬杖をつき、電車の揺れに身を任せる。
翔太が向かうのは、イベント企画とWeb制作を兼ねる、ハイブリッドな会社だ。
彼が通う通信制高校の進路サポート課からの紹介で高三の彼は、平日週三日で、その会社の長期インターンに参加している。
社員は八人ほどの中小企業で、アットホームな雰囲気ながらも、個々のスキルが求められる職場。この会社ではコーディングというパソコンスキルは必須中の必須だった。
今日も与えられたデスクに座り、ノートパソコンと大型ディスプレイをケーブルで同期させる。
カチカチとキーボードを叩く音がオフィスに響く中、翔太は内心、重いため息をついていた。
というのも、彼はコーディングが大の苦手だったのだ。インターンが始まって1ヶ月が経とうとしていたが、なかなか成果が出せず、毎日が苦戦の連続だった。
そして退勤時刻になる。この会社には、退勤時にその日学んだことや感想などを日報として書き記し、社内メールに提出するといったルールがあった。長期インターン生である翔太も例外ではなく、毎日その義務が課せられていたのだが、コーディング学習についてばかり書いてきたため、そろそろ日報のネタが切れかけていた。
とりあえず、彼は絞り出すように適当な感想を書き記した。
「宮内 翔太 5月7日 日報
・ケアレスミスを無くしていきたい。
・基本的なコーディング言語を暗記したい。
・重要なポイントはしっかりメモにまとめておきたい。」
送信完了ボタンを押し、会社を出て、満員電車に揺られて家に帰る。
翔太には、マジシャンというもう一つの顔があった。その証に「マジックやってよ」と頼まれた時のために、彼のリュックサックにはいつも使い慣れたトランプが忍ばせてある。
彼は日々、新たなマジックのアイデアを練り続けていた。その努力が実を結び、半年前にはマジックコンテストでクリエイティブ賞を受賞するほどだ。
それ以来、翔太は家族内での地位が、ほんの少しだけ上がったような気がしていた。その成果を家族に忘れさせないため、キッチンのカウンターテーブルに堂々と賞状を飾っている。
そんなマジックでの成功の反面、翔太のコーディングは、まるで泥沼にはまったかのようだった。一ヶ月間、パソコンに向かい、必死にコードと格闘してきた。しかし、書けども書けどもエラーばかり。彼の心はすっかり折れかけていた。
5月の中旬になり、翔太を見かねた会社の代表である半田耕助が、声をかけてきた。「翔太君、ちょっといいかな」。
半田は、翔太に提案する「植松君って有給のインターン生なんだけど、1日に2時間だけ彼からコーディングを教えてもらってみないかな。」
会社は将来的には翔太に働いてほしいと期待しているらしく、教育リソースを割いてくれる。
そして次の日から、さっそくマンツーマン授業が始まった。植松は、コーディングの基本から応用まで、一から丁寧に指導してくれた。彼の説明は分かりやすく、翔太は「これならいけるかもしれない」と希望を抱いた。
しかし、現実は甘くなかった。植松の説明を理解し、頭では分かっているはずなのに、いざ自分でコードを書き始めると、なぜかケアレスミスを繰り返してしまうのだ。些細なスペルミス、記号の打ち間違い、構文の漏れなどが積み重なる。
「やっぱり、自分には向いてないのかな……」
思わず翔太が弱音を吐くと、植松は優しく言った。「そんなことないよ、根気強く続ければ、必ずできるようになるって」。
しかし現実はそうではなかった。何日経っても、一向に上達する気配が見えない。
植松は優しく、何度も気遣うように「これくらいなら君にでもできるさ。だから諦めずに頑張って」と翔太を励ました。だがその励ましの言葉を心の内では鬱陶しく感じていた。翔太は、水と気遣いは似ていると思った。高級な水は無味無臭なように、本当に良い気遣いもまた、無味無臭なのだと。気付かない気遣いが本当の気遣いであり、植松の気遣いという水は、もはや水どころか、エナジードリンクのようなクドく甘い味しかしない。
社員八人という会社だからこそ、翔太の不出来さはすぐに知れ渡り出した。同僚たちの視線が、以前よりも重く感じられる。彼の心には、プレッシャーが渦巻いていた。
次第に翔太は、デスクに置かれた大型ディスプレイや、スマホの高さを自由に調節できるスタンドを使っていることすら、自分にはおこがましいのではないかと思うようになっていった。
長期インターンも三ヶ月目に突入した6月2日の午前、翔太は半田から実務を見学する日だった。見学内容は、Web制作におけるクライアントとの面談で、どのようなWebサイトにしたいか、その意向をすり合わせるものだった。
普段、コーディングばかりしている翔太は、新たな刺激になりそうだと少し楽しみに感じていた。
やがてクライアントが訪れ、面談が始まる。
翔太は人と目を合わせるのが苦手だったため、ひたすらメモを取った。まるで事情聴取のように、一言一句書き留めて、話を聞いている感を演出する。メモが丸々3ページを埋め尽くそうとした頃、クライアントとの面談が終わった。
半田は愛想よくお辞儀をし、クライアントを見送る。
その後、半田は今日の面談について話し始めた。
「クライアントの話を一言一句メモに取るのは良いことだけど、しっかり目を見て、相槌を打ったほうがいいかな」
翔太が「メモを取っていれば目を合わせる必要はない」と考えている魂胆が、半田には全てお見通しであるかのようだった。
さらに半田は続ける。「ラストまで気を抜かずに仕事に取り組むことが大事なんだ。だから、見送りの時まで気を抜かず、しっかり愛想よくお辞儀しよう」と翔太は教わる。
その他にも翔太は様々な事を指導された。
最後に翔太は半田に質問する。「さっき、お客さんの意見に対して反対意見をきっぱりと言っていたと思うのですが、それって大丈夫なんですか?」
半田は答える。 「会社にはそれぞれ、商売の方針、みたいなものがあってね。そういった『ブランディング』を守るためには、顧客の意見と違う提案をすることも必要なんだ」
「なるほど」と翔太は頷きながら答えた。
「まぁ、今日は君に色々とダメ出ししてしまったけど、これからも、だらける事なく気を引き締めて頑張ってくれよ」と言い、半田は、応援するように翔太の背中を叩いた。
さらに彼が突然思い出したかのように翔太に尋ねる「そういえば翔太君っていつマジック見せてくれるの」
翔太はいきなりの言葉に驚いたが「準備さえ出来ればいつでも出来ます」と咄嗟に答えた。
すると半田さんが「じゃあ今お願い」とリクエストを出す。
「今ですか」翔太は困惑し、少し大きくなった声で答える。
「冗談だよ、でも、なるべく早く観たい」そういって翔太に断る隙も与えずにデスクに戻った。
そして翔太は、なんとか期待に応えようと頭をひねった。コーディング学習中とは打って変わって頭の回転が上がる。その速度はまるで重力に逆らって空中で回転し続けるハイパーヨーヨーと同じぐらいに。そして一つのマジックのアイデアが完成した。
マジックの準備を終えた翔太は半田のデスクへ向かい、「マジックが完成しました。今、お時間よろしいでしょうか」と声をかけた。
半田がパソコンから目を離し、「おっ早いねぇ、もちろん」と答えて翔太に身体を向けると、それにつられて他の植松を含めた社員たちも手をとめて翔太に注目する。
少し緊張し、震えた声で「それでは、トランプの束からカードを一枚引いてもらってもよろしいでしょうか」と促すと、半田は自由にカードを一枚引いた。翔太はそれを見ないように後ろを振り返っている間に、半田は社員全員にそのカードを見せた。
「では、そちらのカードを束に戻していただけますでしょうか」
半田が引いたカードを束に戻してもらい、翔太はそれをシャッフルする。
「この状態でカードを当てていきたいと思います」
そう言って翔太は、右手に持ったカードの束から一枚のカードをテクニックで投げ飛ばす。右手から放たれたカードは、空中に弧を描く。それを素早く左手でキャッチする。周りから「おおっ!」というどよめきが上がる。
そして飛び出した1枚のカードを社員全員に見せつけた。「このカードが皆さんがお選びになったクラブの6ですね!」
しかし、社員全員が戸惑った顔をしている。
「もしかして、違いましたか?」と翔太が尋ねると、皆が静かに頷いた。
植松が「ちょっと翔太君、頑張ってよ」と、場の気まずい空気を変えようと気を使ったような発言をする。
「すみません。間違えました。もう一度やってもいいですか?」
そう言って、すぐさま翔太はもう一度トランプの束を混ぜ直し、さっきと同じテクニックで一枚のカードのみを束の中から投げ飛ばし、左手でキャッチする。
「覚えていただいたカードは、こちらのダイヤの2ですか?」
しかし、またしても社員全員が戸惑った顔をした。
オフィス全体から、「ははは」という生温かい愛想笑いが響いた、まるでそれは「まぁ所詮、翔太君だから失敗するよな」と言いたげな愛想笑いだった。
「すみません、引いたトランプを教えていただいても良いですか?」と尋ねると、「クラブの3だったよ」と苦笑いした半田から返答が返ってきた。
翔太はそこでにやりと笑い、「実はわざと失敗していたんですよ」と言った。
今度は気まずい空気感から、困惑した空気感へと変わる。
翔太は続けて言った「失敗したように見せかけて、実は成功しているというマジックの演出を『サッカートリック』と言うのですが、実はそれをしていました。今、自分はクラブの『6』とダイヤの『2』のカードを出しました。今日は何月何日ですか?」
社員の一人が少し驚いた声で「えっ、『6』月『2』日?」と答える。
「実はその2枚は、『クラブの3』を当てる鍵となるカードだったんです。『6』月『2』日の日報を見ていただいても良いですか?」そう翔太が言うと、デスクでマジックを見ていた社員たちが一斉にパソコンに目を移し、翔太の三十分分前にすでに提出されていた日報を見た。するとその内容はこう記されていた。
「宮内 翔太 6月2日 日報
・ クライアントの意向を聞く大変さを知った
・ ラストまで気を抜かずに頑張る大切さを知った
・ ブランディングを守る事も時に必要だと思った
・ のんびりとせずに何事にもテキパキ励む
・ 3ヶ月目に入り会社に馴染んできたと思う」
翔太は言葉を続けた。「自由にお選びになったカードは間違いなくクラブの3でしたよね? 文章の黒点の最初の文字だけを続けてお読みください。」
すると、トリックに気づいた社員から「おーぉぉぉぉ!」という、感心と共に「やられた!」と言ったような声が聞こえてくる。二度の失敗で底まで落ち込んでいた期待感が、最後の成功によって一気に弾け、社内は歓声につつまれる。
「なんと続け読むとクラブの3になってます。全ては予言されていました!」翔太は堂々とした声で言う。彼の心は高揚感でつつまれた。
「一応さっき日報には目は通してたけど、まさかそんな仕掛けがあったとは」と半田が感心する。
「流石マジシャン」と言い植松が席を立ち、翔太に惜しみない拍手を送ると、それに釣られるように他の社員たちも次々と立ち上がり、翔太に大喝采を送った。
翔太のマジックの種は、驚くほどシンプルだった。黒手の冒頭の文字を繋げて読むとトランプのマークと数字になるように日報の文章を考える。52枚のトランプの中でクラブの3が最も都合の良いカードだった。最後に半田に任意のカードを選ばせるテクニックで、クラブの3を引かせただけだ。
しかし、このシンプルなマジックがここまで観客を魅了したのは、三ヶ月間、「仕事覚えが悪い奴」だと思われていた翔太自身が、図らずも壮大なフリとなった「サッカートリック」の演出になっていたからなのかもしれない。