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第五話


 夢はいつも、十八年前のブラズダー・デイの光景から始まる。

 その日、当時まだ十二歳だったカリウス・クルネイラは、瓦礫の小山と何気ない雑草のように点々と上がる小さな炎の隙間を、ただ呆然と歩いていた。ここは本当に、自分のよく知るアティアカなのだろうか。

 ようやく戦争が終わったと街中で喜び、抱き合う人たちを見たのは、つい二年前のことである。それが一体、どうしてこうなってしまったのだろう。ようやく他国との殺し合いをやめたこの国は、二年経って今ふたたび、今度は自国の人間同士で殺し合いを始めてしまった。

 暴動に参加していた両親が命を落とす瞬間をこの目で見た。アティアカの交差点で衝突した軍の人間に力づくで押し返され、その勢いで路上に倒れ込んだところを、走ってきた装甲車に轢かれてしまったのだ。大勢の人間の前でそれは起きた。しかし、二人の大人が死ぬ瞬間を見ていたのは、息子のカリウスただ一人だけだった。

 わずか十二歳のカリウスが、目に怒りを激らせる両親に向かって「怖いから暴動に行くのははやめて」なんて言うのは不可能だった。いや、もし仮に今の彼が十八年前に戻れたとしても、両親を止めることはできないだろう。風に吹かれた枯れ葉のように、あの日、全国各地で起きた感情の爆発は誰にも止めようがなかった。世間の空気が、国民に暴動を促したのだ。

 それでものちになると、国民は口を揃えてこう言う。「あの日の暴動は、この国にとって必要な転換点だったのだ」と。あの暴動があったからこそ、政府と国民の信頼関係はより強固なものになった。つまり、カリウスの両親の死は、この国の平和と安定のための必要な犠牲だったというわけだ。

 果たして、本当にそうだったのだろうかと今でも思う。もちろん、それを口に出して誰かに打ち明けたことは一度もないが。

 あの日、独りになったカリウスが騒然とする街中を歩いていると、小さな十字路に差し掛かったところで、曲がり角の向こう側から「うっ……」と誰かの呻き声が聞こえた。建物の壁面に背中を這わせ、おそるおそる顔を覗かせてみると、瓦礫の向こうで膝をついてうずくまる女性の姿があった。その女性は体全体で保護するように小さな子供を腕に抱えていた。やがて女性はその場に崩れ落ち、その後ろで鉄製の棒を片手に握る何者かの影が見えた。倒壊した家屋の一部かなにかなのだろう、その棒で女性と子供は殺されたのだ。カリウスはジッと目を凝らした。しかし夢というのは曖昧なもので、そこに立っているのが男なのか女なのかも判然としない。若者のようにも老人のようにも見える。実際に十八年前にハッキリとその姿を見たのかどうかさえ、今となっては思い出せなかった。

 すると、その何者かの影が突然、ぐにゃりと歪みはじめた。次第にそれは渦を描いてうねり出し、周りの景色を巻き込みながら、中心に向かってみるみると圧縮されていく。まるで世界全体が、その渦に呑まれて崩壊していくかのような光景だった。気づけばカリウスはなにもない暗闇の中に閉じ込められていた。

「───」

 叫んだ言葉が、声になって出てこない。

「───」

 体の自由が効かずに、息が苦しい。

「───助けて!」

 ようやく吐き出した爆ぜるような自分の声で、カリウスはベッドの上から飛び起きた。窓から射し込む朝陽が眩しい。また、いつものように汗だくになっていた。嫌な夢だ。今さらどうにかなるわけでもないのに、どうして毎回、あの日の光景を夢に見るのだろう。

 息を整えながらベッドを降り、いつもの執事服に着替えて、部屋を出た。キッチンでお湯を沸かして、コーヒーを淹れる準備をする。

 この家の使用人になったのは今から十年前、カリウスが二十歳を迎えた時だった。十八年前にハミセルに拾われ、それまでは居候としてこの家に住まわせてもらっていたが、さすがにこのままではまずいと思い、自ら使用人になるのを願い出た。

 あの日、街角で何者かに襲われていた二人がハミセルの妻と子供だったというのは、その日の夜の病院で知った。何者かが去ったあと、せめて遺棄された死体をどこかに安置してあげようと二人に歩み寄ったところ、母親の方だけまだわずかに息があることに気がつき、慌てて近くの病院に連れ込んだのだ。その後、駆けつけたハミセルに事情は説明したものの、茫然自失の彼にはカリウスの声などなにも聞こえていないようだった。数日後にふたたび街中で再会した時も、彼はカリウスのことをハッキリとは覚えていなかった。ただ漠然と妻の命を救ってくれたという認識だけはあったらしく、その恩義もあって、帰る場所がないのならウチに来ないかと誘ってくれたのだった。

 ハミセルは今でも、妻子を襲撃したのは暴徒の誰かだと考えている。実際、状況から見てその可能性が一番高いのは言うまでもないが、カリウスの直感としては、あの時あそこにいた人物はただの暴徒ではないような気がしていた。

 しかしそれを日々憔悴していくハミセルに言うのは憚られたし、日が経つにつれ、次第に伝える必要もないのではないかと思うようになった。そもそもその人物がどんな顔をしていたのかもハッキリとは覚えていないのだから、自分の直感なんて当てにはならない。今でも覚えているのは、なにかがパチンと開く音と、ジュッ……となにかが燃えて焦げるような音。もちろん、それがなんの音だったかまでは記憶にない。

 リビングのドアが開いて、廊下から寝起きのハミセルが入ってきた。ダイニングテーブルの椅子にどかっと座り、長くて細い息を吐き出す。すでに髪も梳かしてスーツ姿ではあるが、まだ重たそうなまぶたからのぞく白眼は赤く充血している。

「おはよう。あんまり眠れなかったの?」

 淹れたてのコーヒーを注いだカップをテーブルに置き、カリウスも向かいの椅子に腰を下ろした。ハミセルはいつもコーヒーだけで朝食を済ますので、カリウスの朝の食事は彼が家を出たあとになるのが常である。

「ああ、まぁな」ハミセルは欠伸を噛み殺すように口を揉んでから、出されたコーヒーをひとくち啜った。

「今日くらいなにか食べてけば?」

「いや……、いい」ハミセルが小さくかぶりを振って、チラリと黒目を天井に向ける。「あの男は?」

「多分、まだ寝てるんじゃないかな」

「そうか……。早くオリーが引き取りに来てくれるといいが」

「うん……」

「……まぁ、なんだ、起きてきたら朝食くらいは食べさせてやれ。俺たちがしてやれるのは、それまでだ」

 ハミセルはそう言うと、まだ半分も飲んでいないコーヒーをテーブルに置いて立ち上がり、ラックに掛けていたポロコートを羽織って、早々と家を出ていってしまった。



 ハミセルは運転する社用車を国家保安省に向けて走らせた。悩んだ末に、ペトリス・ジラームの件について感情局に報告するのはまだやめておこうと決めた。本件について捜査中であろうグロークには申し訳ないが、このタイミングで矯正施設からの脱走者が家にいるとバレてしまえば、いろいろと面倒なことになりかねない。それよりも今はとにかく、自分の出世のためにも、感情データを盗んだ犯人を見つけ出さなければならないのだ。それにしても、昨夜のエリスのあの涙である。あの涙は果たして、なにに反応して頬を伝ったのだろうか。

 目の前の信号が赤になり、車を止める。トントントントン……と、ハンドルを握る指先に思わず気の焦りが出てしまう。なにかが変わろうとしているのかもしれない。昨日から続くこの焦り、苛立ち、胸のざわつきは、その変化に自分の心がまだ順応できていないことの現れなのかもしれない。しかし一体、なにが変わるというのか。

『この国は狂ってる。十八年前から、ずっとな』

 ダイナスの言葉が、昨晩から脳の奥のところにこべりついて離れない。誰よりもこの国を愛し、戦地にも自ら率先して赴いた男が、なにを馬鹿なことを。なにを馬鹿な……。

『───ダメだダメだ、全然ダメだ』

 目を閉じると、まぶたの裏で、今よりもまだ若いダイナスがベースの手を止め、周りのメンバーの顔を順々に見渡している。戦争が始まる前、ハミセルたちがまだ高校に通っていた頃の記憶である。

『なにがダメなのよ』

 ヴォーカルのルーナ・オウェルが不満げな目でダイナスを睨む。ラブラク家と同じイルダ地区に住んでいた彼女が、終戦直前に自棄を起こした敵国の空爆で家族もろとも命を落としたと聞かされたのは、ハミセルが戦地から戻ってまもなくのことだった。

『みんな、もっと魂を込めて演奏しろよ。ルーナも、もっとこう……なんていうか、聴く人の魂を揺さぶるような、そんな感じで歌うんだよ』

『別に聴く人なんていないじゃない。今度のスクール・フェスティバルでちょこっと演奏させてもらうだけ。聴いてくれる人なんて、せいぜい十人か二十人よ』

 そもそも彼らは、当時毎年秋に開催されていたスクール・フェスティバルの出演募集を見つけたダイナスが仲の良い同級生三人を無理やり誘って結成しただけの即席バンドだった。他の三人はもちろん、ダイナスさえ人前で楽器を演奏したことは一度もない。結局、戦況の激化に伴いルーナを除く男三人は兵役につき、フェスティバル自体も中止となってしまうのだが、大勢の前で恥をかかなくて済んだという意味では、それは不幸中の幸いだったのかもしれない。と、ハミセルは最近になって強く思うようになった。

『いいんだよそれでも。最初は十人でも二十人でもいい。だけど魂を込めて俺たちが演奏すれば、十人の感動が百人に、百人の感動が千人に、一万人に、そしてこの学校全体に波及していくんだ。分かるだろ、ゴッティ』

 急に水を向けられたゴッティがビクンと驚いて肩を跳ね上げる。その拍子に彼が手にしていたスティックがドラムを叩き、ドゥクドンッ……とちょうど曲の導入のような小気味の良い音を鳴らした。

『んー、分かるような、分からないような……』

 いかにも気の弱そうな受け答えをするゴッティは、本名をゴティアストロストフ・ヴィクティーマンという。しかし、あまりにも長すぎる上に言いにくいため、友人だけでなく教師や親でさえ、普段から彼のことはゴッティと呼んだ。ハミセルたちと共に徴兵された彼は約一年間の訓練ののち、いよいよ前線に送り出されたその日に死んだ。軍の記録としては敵兵に撃たれて戦死したとされているが、恐怖のあまり錯乱した彼が銃を乱射し、仲間数名を巻き込んだ挙句に自ら命を絶ったというのが、現地でのもっぱらの噂であった。ハミセルもダイナスもゴッティとは配属された部隊が違っていたため、彼の最期になにがあったのかは、その噂でしか推し量る術はなかった。

『ゴッティもさ、もっとパワフルに、魂だよ魂』

『う〜ん、ごめん、やってみる』

『今はほら、戦争で少し気持ちも沈んじまってるけど、平和だった頃のこの国を思い出してみろよ。最高だっただろ。な? その頃のことを頭に思い浮かべて演奏するんだ。なぁ、分かるだろ?』

『全然分かんない。ハミー、分かる?』ルーナがギターのハミセルに目を向ける。

『ううん、俺も全然』

『ハミーも全然ダメだ。もっと全身を使って、俺のギターを聴け! って感じで』

『なんだよそれ。てか、みんな素人なんだから無理だろ、そんなの』

『いいから。よし、じゃあもう一回、曲の頭からいくぞ』ダイナスがベースのボディをポンポンと叩く。『はい、3、2、1……───』

 記憶の中の音楽が鳴り出そうとした、その瞬間、後方から、パーッ! と車のクラクションが耳をつんざき、ハミセルを現実に立ち返らせた。双眸を開き、ハンドルに押し当てていた顔を上げる。いつのまにか信号が青に変わっていた。

 改めて考えてみると、あの頃からダイナスは変わっていないのだなと思った。彼はただ単純に、戦争が始まる前のこの国のことが今も忘れられずに好きなだけなのだ。だとしたら、本当に変わってしまったのは彼ではなく、やはり……。

 ハミセルは重たい溜息をひとつ吐き出し、アクセルに乗せた足に力を入れた。



 いつのものかも分からないクッキー一枚で朝食を済ませたダイナスは、自宅の前まで呼び寄せたウィジー・サービスに乗り込んだ。朝の九時を少し過ぎている。運転ができないわけではないが、自前の車を持っていないので、いつも通勤時にはこのサービスを使う。もちろん出費は馬鹿にならないが、煙草と酒以外に金を使うこともほとんどないので、肉体的にも精神的にも、これが一番ストレスのない通勤手段なのだった。

「そうだな……念のため、でかいやつを用意してくれ」

 後部座席の窓枠に片肘をついて、通話相手のザックに伝える。彼はいつもダイナスが家を出る頃には、すでにアティアカ署への出勤を済ませている。

『ダイナスさんはどうするんですか?』

「俺はしばらく休みを取る。こっちに専念したいんだ」

『ペトリス・ジラームは?』

「昨日、あいつに断られた以上、約束通りナディアに引き取りにいくしかないだろ」

『そうですか……』ザックがふと、声のトーンを低くする。

「なんだ、どうした?」

『いえ、ダイナスさんがいつになくやる気なんで』

「尊敬し直したか?」

『気持ち悪いな、と』

「切るぞ。頼んだからな」

 アティアカ署のすぐそばにある大きな交差点の前でウィジー・サービスを止め、ポリス・カードに内蔵されたクレジットで支払いを済ませて外に降りる。目の前に鬱蒼と広がる森の一部がアーチ状に開かれており、そこが自然公園の入口となっている。中に入るとしばらく直線の遊歩道が伸びていて、その先に建っているのが、現存する唯一のドリニアル教の聖地、ロノークス神殿である。とはいえ、今やここを訪ねてくる人間はほとんどいない。多くの国民にとって、この神殿は、もはや意味を持たない過去の遺物でしかないからだ。

 ダイナスは荒れ果てた遊歩道を渡りきり、神殿の前までやってくると、その古色蒼然とした建造物を正面から仰ぎ見た。足場となる石台は巨大な石塊を積み上げて造られており、その高さはダイナスの身長をゆうに超えている。いくつもの円柱がその外縁を縁取るように台上に立ち並び、三角の天板がその上から帽子のように被さっている。円柱にはその一つ一つにドリニアル教のレリーフが描かれているが、ダイナスのように聖典を読んだことのない者にとっては、子供が削って描いた、ただの落書きにしか見えない。

 ここにやってきたのは、昨晩、ハミセルの口からドリニアル教の聖典の話が出てきたからであった。あろうことか国家保安省内に保管していた国民の感情データがすべて盗まれ、空になったデータの代わりに、聖典の言葉をもじった古ドリン語がそこに書き残されていたというのだ。ドリニアル教にゆかりのある物といえば、今やこのロノークス神殿だけである。となると犯人の目線に立った時、事件現場に聖典の言葉を残したのは、犯人が誰かをここに呼び寄せたかったからなのではないか。もちろんこれはダイナスの刑事としての勘でしかなく、そもそも彼にはこの事件を調べる義務もなければ権限もない。今回の行動の動機はただ一つ、ここで事件の手がかりを見つけてハミセルに渡せば、彼もこちらの計画に協力してくれるかもしれないという純然とした下心だった。

「しかし、人は時にそれを神と見紛う、か……」

 ハミセルに聞かされた、この呪文のような言葉を口にしながら、ダイナスは神殿の裏手側に回った。幅三十メートルはある石台の壁面を指先でなぞるようにして歩いていくと、ちょうど中心の辺りに小さな石板が張り出ていた。そこにもやはり古ドリン語が刻まれている。コトゥス・バラトゥス・イトゥス。風、光、水という意味だ。子供の頃、ハミセルにここに連れてこられた時に、そう教わった。その傍らに上下に動くレバーがあり、それを下に引くと内側の鍵がガコンと外れる音が鳴る。石板の下の石塊が一部だけ他とは違う、縦に長い長方形のような形をしており、そこを内側に力強く押し込めば、中に入れる仕組みになっている。ハミセルが言うには、元々ここはドリニアル教の宗教的儀式を行なう場所だったのだが、数十年前までは戦争時に民間人が避難するための防空壕としても使われていたらしい。

 広げた両手で力いっぱいに石塊を押し込むと、ゴゴゴゴ……と鈍重な音を立てて、壁が少しずつ内側にめり込んでいく。石塊と石塊が擦れ合い、土色の粉塵が宙を舞う。石塊の隠し扉が完全に開き切ると、神殿内部の狭い通路が露わになった。大人が少し腰を屈めて歩けるくらいの幅と高さだ。入口の内側に取り付けられたスイッチを押す。すると、天井に点々とぶら下がる剥き出しの電灯が明点し、暗闇に包まれていた通路がたちまち明るくなった。この電灯も、おそらくは防空壕として使われていた時代の名残りなのだろう。

 一直線に伸びる通路の片側中程に地下へと向かう階段があった。そこを下りると、上よりもいくらか広々とした通路に出た。腰を屈めなくても自由に歩ける。いくつもの道がまるで蟻の巣のように枝分かれしていて、その所々に扉のない部屋のような空間が点在している。ダイナスが今いる直線の通路がいわゆる幹線になっていて、そこをまっすぐ奥まで進んだところに、数ある部屋の中でも特にひらけた一室があった。

『すべての神様が一年に一度、この部屋に集まるって言われてたらしいよ。だからその日は国中の人がこの神殿の方に体を向けて、お祈りを捧げてたんだって』

 あの日、ハミセルはたしか、そんなことを言っていた。まだドリニアル教が多神教として隆盛を極めていた時代の話らしい。時代が下り、一神教の概念が持ち込まれ、神族と人間族の間に生まれた子である仲裁の神キームシュが唯一神となって以降は、この部屋は『神の分娩室』と呼ばれるようになった。森羅万象の神々が集まる部屋から一転して、それらすべての神を吸収するような形で、唯一神キームシュが誕生した場所という解釈に変化したのだ。

 詰めれば十人くらいは座れるだろうか。特別に凝った装飾があるわけでもなく、入口の真向かいに小さな祭壇が置かれているだけの味気ない部屋である。森羅万象の神々が集まるにしても、キームシュが誕生するにしても、窮屈な上に、あまりに簡素だ。

 床の四辺にできている細い溝は、この部屋の照明の役割を成している。この溝にオイルを流して火をつければ全体を照らす明かりにもなり、冬場は暖房の代わりにもなる。もちろんこれが使われていたのは古代までであり、天井には通路と同様の電灯が付けられている。しかしその電灯もすでに切れてしまっているため、ダイナスの携帯端末のライトを使って初めて、室内の様子は確認することができた。内壁の塗装は劣化によってすべて剥がれ落ち、中の赤土が剥き出しになっている。この壁にもなにかレリーフが描かれていたようではあるが、すでに判読はできなくなっている。祭壇上方にライトを向けると、そこにまだ辛うじて文字の原型を留めた古ドリン語の文章があった。前回はダイナスが最初にこれを見つけて、ハミセルがその意味を教えてくれた。

『見ろよハミー、ここにもなんか書いてある。なんて書いてあるんだ?』

『ホントだ。えっとね、これは《GUKUS(グクス ) AUGERA(アウゲラ ) VAGALTE(バーガルテ ),  BOLUKA(ボルカ ) DORINUS(ドリヌス ) SET(セト)。意味はね……───』

 ライトの明かりで浮き彫りになった文章を見上げる。あの時、あいつはこれを見て、なんて言ったんだっけ。ただでさえ知識のない昔の言語で、しかも三十年以上前に一度耳にしただけの言葉である。ダイナスはそこに刻み込まれた文章の意味を、どうしても思い出すことができなかった。

 と、その時、手にしていた携帯端末が突然、ブルル……と震えた。ライトを切り、画面を確認してから、耳に当てる。

「もしもし」

『ダイナスか。今どこにいる?』



 国家保安省はその性質上、普段から外部の人間への警戒心が強く、どこか排他的な雰囲気が漂っているのだが、今日に限ってはその矛先が、どういうわけか自分に向けられているような気がしてならなかった。

 本部ビルに隣接している専用の駐車場に車を停め、一階ロビーのセキュリティゲートを抜けようとすると、入口の隅に立つ警備の男がこちらを睨めつけるようにしながら、胸元の無線を使って誰かと交信をするのが横目に見えた。気のせいかと思えば、ロビーですれ違う他の局員たちもまた、なにか腫れ物に触るような、あるいは汚い物を見るような目で、チラチラとこちらを見てきている。初めのうちは自分が今回の捜査に抜擢されたことに対する嫉妬や僻み、あるいは憧憬の裏返しかとも考えた。しかし、エレベーターに乗り込み、地下五階の感情局税務部フロアが近づくにつれ、どうやらそういうわけでもなさそうだと気がついた。同乗していた顔馴染みの男が、あからさまにこちらを無視してきたのだ。声をかけても聞こえないふりをし、手にしていた書類の束をわざとらしく数えている。

 この薄気味の悪い疎外感は、オフィスに入ってからさらに露骨なものに変わった。同僚たちはもれなく現れたハミセルに目を細め、近くの仲間と耳打ちし合う者もいれば、わざと聞こえるように舌打ちする者もいた。

 元々ここに長居する気はなかった。スペクトルームに残されていた古ドリン語の真意を探るため、本当は自宅から直行でロノークス神殿に向かうつもりでいた。ところが今朝早くロンドからメールで連絡が来ていて、オフィスに顔を出すよう指示を受けていたので、仕方なくここに立ち寄ったのだ。それなのに、なんだこの嫌な雰囲気は。

 沸々と苛立ちを覚えながら自分のデスクに近づき、ハミセルはそこで、目を疑った。あまりに想定外のことすぎて、最初は理解が追いつかなかった。

 なにもない。デスクの上の物が、なぜか綺麗さっぱり無くなっているのだ。今まで使っていたパソコンはもちろん、愛用していたペンも、担当地区の情報をまとめたファイルも、エリスとロノと三人で撮った写真も、なにもかもが消え失せている。

「な……なんだよ、これ……」

 訳が分からず呆然としていると、背後からロンドに名前を呼ばれた。

「ハミセル、こっちに来い」

「ロンドさん、これは一体どういうことですか」

 部長デスクに駆け寄り、椅子に腰かけるロンドと向き合った。いつもと変わらず広い額に脂を光らせているが、その表情はいつになく険しい。というより、どこか血色を失っているように見えた。

「その説明の前に……ハミセル、一つ確認させてくれないか」

「確認?」

「エリスのことだ。十八年前の彼女の事故のことで、俺に嘘をついてることはないか?」

 ハミセルにはロンドがなにを言わんとしているのか、すぐに分かった。

「……グロークから話を聞いたんですね?」

「どうなんだ? ハミセル」その問いには答えず、ロンドはジッとなにかを乞うような目でハミセルを見つめている。

「……はい、申し訳ありません」

「……そうか」

「でも……経緯はどうであれ、エリスの状況に嘘はありません」

「その経緯が重要なんだ」ロンドは深い溜息を吐き出すと、片手で操作していた携帯端末をデスクに置いた。「……すまんが、分かってくれ。俺にも立場があるんだ」

「……? どういうことですか?」

「お前から言質を取ったら報告しろと、上からはそう指示を受けた。そして今、俺はこの携帯端末で、その報告を上に済ませた」

「ロンドさん、さっきから、言ってる意味が……」

「ハミセル、いいかよく聞け。お前には今、昨日起きた感情データ盗難事件の犯人だという疑いがかけられている。まもなくここにお前を捕まえるための人間がやってきて、お前を矯正施設に連行するだろう」

「俺が……感情データ盗難事件の……なんですか……?」

 耳から脳へ繋がる神経のどこかが詰まってしまったみたいに、ロンドの言葉が頭の中に行き届かない。

「お前が感情データを盗んだ犯人なんだ」

「なにを馬鹿な……だって俺は、俺は昨日から……」

「ハミセル」狼狽するハミセルをロンドは諭すような声で制した。「もうなにを言っても無駄なんだよ。上はお前を処分すると決めた。それがすべてだ。そして、こうなった以上、俺にはもうどうすることもできない」

「待ってください、話についていけません……!」

「これからお前を施設に連行し、家にいるエリスも一緒に連行することになる。すでに担当がナディアに向かっている頃だろう」

「ロ、ロンドさん……!」

「すまない、ハミセル」

 すると、その時、背後でドンッと勢いよくドアが開く音がした。反射的にそちらに首を捻ると、黒服を着たいかにも屈強そうな男たちが数名、ぞろぞろと厳めしい表情を作ってオフィスの中に入ってきていた。警察か、あるいは国家保安省本体から送られてきた刺客だろうか。彼らの目的が誰であるのか、そしてそこに平和的な解決の余地があるのかどうかは、考えるまでもなく明らかだった。

 ハミセルは男たちを視認したあと、もう一度、正面のロンドに向き直った。ロンドは蒼白の顔でハミセルの方を仰ぎ見たまま、しかしその目はハミセルではない、他のなにかを見つめている。魂の抜けたような、生気を失ったような目だ。彼に対してなにか言うべき言葉があるはずなのに、なにも頭に浮かんでこない。言い淀む口に溜まった唾液を飲み込む。理解はできぬが、どうやらこのままではあの男たちに拘束されてしまうらしい。とにかく今はここから逃げなければならない。顔を左右に振って、オフィス全体を見渡した。このオフィスは税務部と矯正部でエリアを二等分にされている。前方矯正部寄りにドアが一つと、後方税務部寄りにドアが一つ。ここからの出口はその二つしかない。税務部側のドアからはすでに男たちが入ってきているため、少し離れてはいるが矯正部側のドアから逃げ出す以外に、この状況を切り抜ける方法はなさそうだ。

 幸いにも男たちはまだこちらの場所には気づいていない。もしかすると彼らは標的の顔すら把握していないのかもしれない。

 ハミセルは税務部内の人影に紛れて、前方ドアへと駆け出した。誰かのデスクに足がぶつかり、上に積まれていた書類がバサバサと落ちる。崩れた体勢を取り戻そうと伸ばした腕が近くにいた同僚の一人を押し倒し、押し倒された同僚の体が、今度はさらにその後ろにいた別の同僚の体を押し倒した。局所的に小さな悲鳴があがるが、フロアは全体として異様な静寂に包まれている。そこでようやく、男たちがこちらに方向転換するのが見えた。問題に関わりたくないのか、周りにいる局員たちは呆然とその場に立ち尽くすばかりで、こちらを取り押さえようとしてくる様子は見られない。

 矯正部側のドアを飛び出したところで、背後から悲鳴と怒声が連続した。その中にロンドの声も混ざっていたような気もするが、それが悲鳴と怒声のどちらだったかは判然としない。目の前にエレベーターが三基並んでいる。三基ともに降下ボタンを押してはみたが、上層階で止まっているのか、地下五階まで降りてくるのには時間がかかりそうだった。

 ハミセルは即座に足の向きを翻し、廊下の突き当たりにある非常階段の扉を押し開けた。地上に向かって鉄階段を駆け昇る。ハミセルのその足音に、下の方から男たちの慌ただしげな足音が輪唱を鳴らす。追いつかれてしまうかもしれない恐怖と、追いつかれた先にある恐怖が、ハミセルの両脚を急き立てる。

 なんとか地上一階に到達し、首から下げたIDカードをロビーのセキュリティゲートにかざした。ところが、いつもであればすぐに開く目の前のゲートが、何度カードをかざしてみても反応しない。この数分の間にIDカードを無効化されたのだ。

 仕方なくハミセルはゲートを無理やり突破し、一面ガラス張りになった入口のドアを飛び出した。近くにいた警備の男がこちらを捕まえようと腕を伸ばしてきたが、それも無理やり振りほどいた。

 外に出て、本部ビルに隣接している駐車場に向かった。尚も後ろからは黒服の男たちが追いかけてきている。昨日から移動に使っている社用車に駆け寄り、運転席のドアノブに手を伸ばす。前もって個人使用の申請を出しておいてよかった。この車さえあれば、後ろからの追手も撒くことができる。

 しかし、ハミセルは寸前になって背中に悪寒を感じ、伸ばした腕を引っ込めた。これは使えない。バーガルタンク所有の車にはすべて、有事の際に悪用されてしまわぬよう、遠隔で爆破できる機能が付けられているのを思い出したのだ。

 ふたたび自分の脚に力を込めて地面を蹴り上げた、その瞬間、悪い予感は的中し、今まさに乗り込もうとしていた車がドオォンッと大きな音を立てて爆発した。車体からはたちまち火柱が上がり、飛び散った破片がゴツゴツと地面に重たい音を鳴らした。

 ほんのわずかでも判断が遅れていたら、あの車の破片が自分の肉片になっていたのかと思うと、間近に迫り来る現実的な死への恐怖で足が竦んだ。しかし同時に、燃え上がる炎が追いかけてくる男たちの行く手を上手い具合に阻んでくれてもいた。今のうちに早くここから逃げなければ。竦む両脚に鞭を打ち、駐車場の出入口とは真逆の行き止まりに向かってひた走る。そこに張られた背の高い金網の柵を死に物狂いでよじ登った。

 駐車場の敷地を無事乗り越えると、ひと気のない裏路地に体を滑り込ませて、息を上げながら携帯端末を取り出した。先ほどのロンドの言葉を信じるならば、その理由こそ分かりかねるが、追手はエリスにまで手を伸ばしている。彼女の身が危ない。ハミセルは慌てる指先を懸命に動かし、自宅の番号に電話をかけた。カリウスは個人の携帯端末を持っていないので、自宅の状況を確認する方法はこの一つしかない。

「なんで出ない! カリウス!」

 ところが、いくら待てどもカリウスからの応答はなく、焦るハミセルの耳の鼓膜を、プルルル……プルルル……と無機質なコール音が無情にも震わせるばかりであった。



 ちょうどハミセルが税務部でロンドに名前を呼ばれていた頃、港町ナディアにあるハミセルの自宅では、カリウスが遅めの朝食の準備を始めていた。二階の空室で疲れ果てて寝ていたジラームがようやく目を覚まし、一階のリビングに下りてきたのだ。

「おはよう、よく眠れた?」新しく淹れたコーヒーと一緒に、トーストとベーコンを乗せた皿を二枚、テーブルに置く。

「まぁ、それなりに」

 ジラームは愛想のない口ぶりで頷き、カリウスの向かいの椅子に腰を下ろした。

「少ないけど食べな。腹減ってるだろ?」

「ああ……」

 ゴミを貪る野犬のようにベーコンを頬張るジラームの姿に、カリウスはつい、昔の自分を重ね合わせてしまう。十八年前、ここに越してくる前の家で初めて出された食事の味は、今でも忘れない。ハミセルの母親のセイルがわざわざジヴィレを作るためだけに会いにきてくれたのだ。両親を亡くし、その後数日間なにも食べずにただ街中を彷徨い歩いていたカリウスにとって、その時に食べたジヴィレはまさに命そのものの味がしたような気がした。

「……ん? どうした?」

 正面のジラームが皿に顔を近づけたまま、上目でこちらをまじまじと見つめてきているのに気がついた。

「昨日の夜、階段の下で、あんたと、この家の主人のあの男が話しているのが聞こえてきた」

「寝てたんじゃないのか」

「起きたんだよ。腹が減って。そこであんたら、夢の話をしてただろ。あんたの夢にも、黒い渦が出てくるって」

「まぁね」カリウスは唇にカップを近づけ、眉を浮かせた。

「俺もそうなんだ」

 こちらを見つめるジラームの目が、一段と鋭くなる。彼がなにに対して「俺も」と言っているのか、すぐには分からなかった。

「……どういうこと?」

「その夢は数値異常者の証だ。あんた、直近のパルメカ税の徴収で役人になにか言われたんじゃないか? 数値異常だと言われたんだろ?」

「…………」

 思わずカリウスは言葉を呑み込んだ。たしかにジラームの言う通り、前回と前々回の血液採取では数値異常という結果が出ていた。役人には、これが何度か続くと矯正施設に行くことになると、そう言われた。

「あんた……なんでそれを主人に黙ってるんだ?」

「わ、忘れてたんだよ」

 嘘をついた背徳感をごまかすように、焦げついたトーストをひとくち齧る。数値異常の結果が出た際、ハミセルにそのことを伝えなかったのは、忘れていたからではなく、怖かったからだ。感情局の、しかも税務部に籍を置くハミセルだ。自分の家の使用人が数値異常者だと分かれば、すぐにでもここから追い出そうとするかもしれない。そうなれば、自分はまた居場所を失ってしまう。カリウスにとって、この家以外に帰る場所などどこにもないのだ。いつか必ずバレると分かってはいても、自分から言い出すことは、どうしてもできなかった。

「あんた、親は?」

 ジラームがベーコンを刺したフォークをこちらに向ける。腹を満たして元気を取り戻したのか、起きてきた時よりも随分と饒舌になっている。

「いない。十八年前のブラズダー・デイで二人とも死んだ」

「なるほど……奇遇だな。俺もそうなんだ。俺の親も、俺がまだ二歳の時に、あの暴動で死んだ。国防軍に殺されたんだ。つまり、俺もあんたも親なしで、同じ夢を見るようになった数値異常者だ」

「それが……、それが、なんだって言うんだ」

「いいか? 昨日の刑事は俺をただの数値異常者だと言っていたが、実はそうじゃない。俺は反政府組織の人間と繋がりを持ってる」

 と、そう言って鼻の穴を広げるジラームは、まるで友人に親の自慢をする子供のように、純粋で、幼なげな目をしていた。

「……君、テロリストだったのか」

「まだ違う。だが、じきにそうなる。これからそこの指導者に会いにいく。そこでうまく認めてもらえれば、はれて俺も組織の仲間になれる」

「……それで?」

「それでって?」

「それを俺に言って、なんのつもりだ?」

「決まってるだろ。あんたも俺と一緒に、その反政府組織の一員にならないかって話さ。あんたも分かってるだろ? 十八年前の暴動は政府の責任だ。あんたの両親を殺したのは、この国だ。こんな体制派の男の家にいてどうする。あいつはお前の親を殺した側の人間なんだぞ。どうだ? 俺と一緒にこの国をひっくり返さないか?」

 ジラームが確信に満ちた顔でそう言い立てる。こちらがその誘いを断るなどとは露程も考えていない。そんな顔だ。

 そして実際、カリウスは返答に窮したのだった。冷静に考えれば、この国をひっくり返そうなんて発言は第一級国家反逆に該当する危険思想だし、それに加担する行為もまた違法行為に当たる。しかし、十八年前の暴動がこの国の平和と安定の礎を築いたのだとする今の風潮に前々から違和感を覚えていたのも、また事実なのであった。

「俺は……───」

 と、カリウスが言いかけた、その時だった。

 家の外で、車のエンジンが止まる音が聞こえた。ハミセルが帰ってくるには早すぎるが、なにか忘れ物でもしたのだろうか。リビングの窓から外を覗くと、門扉の前に一台の大きなバンが停まっていた。バーガルタンクの社用車ではない。現れたのは、どこか物々しげな黒塗りの車であった。




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