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第四話


 スペクト博士の研究所を出たあと、ハミセルは本部には戻らず、そのまま社用車に乗ってパージスト州イルダ地区へと向かった。本来、時間外の社用車の利用は服務規程に違反するのだが、前もって担当部署に申請を出せばある程度の融通は利かせてもらえる。今回もすでに申請を通して、この先一週間の個人使用を認めてもらっていた。

 首都アティアカの南に隣接しているパージスト州イルダ地区は、税務部としてハミセルが担当している地域であり、また彼の生まれ育った故郷でもあった。二十年前に終結した戦争の被害が特に大きかった場所で、沿道に立ち並ぶ建物も、そのほとんどが戦後に建て直されたものになる。ハミセルの実家も戦弾に焼かれ、その後に新しく建てた平屋に、今は両親が二人で暮らしている。

「ふぅ……」と、ハミセルは思わず声に出して溜息をついた。ハンドルから片手を離し、指先で眉間の辺りを揉みほぐす。時刻はすでに夕方の五時を過ぎていた。運転席の窓から射し込む西陽が、左頬を焦がすように温めている。

 こうして両親のもとに帰るのは、思えば昨年の晩夏に母親の誕生日を祝いに戻って以来、半年ぶりのことだった。この先の人生を大きく左右するであろう仕事の前に、一度、両親の顔を拝んでおきたかったのだ。

『───思考停止と視野狭窄は身の破滅を招きかねないよ、ラブラクくん』

 先ほどのスペクト博士の言葉が耳の奥にこだまする。一体なにが思考停止で、なにが視野狭窄だというのか。これまでいくつも為されてきた政府の決定に国民から反対の声が上がらなかったのは、それが民意だという、なによりの証左ではないか。たしかに、反政府思想を掲げる組織がこの国にもまだ点在しているのは事実だが、とはいえ、過剰な暴力を伴う悪質なデモやストライキはこの十八年間、あのブラズダー・デイの悲劇以来、一度も起きていない。それがすべてではないか。

 政府が国民から疑う心を奪い取っただなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

 小さな交差点に差しかかり、ハンドルを切る。目抜き通りから幅の狭い小径に入り、そこをまっすぐに進んでいく。

 ふと、視界から次々と流れては消えていく建物の外壁や道路の片隅に、落書きのような模様が点々と描かれているのに気がついた。黒のスプレー一色で渦を巻くように描き殴られたそれは、グラフィティアートのような芸術性こそないが、こちらの胸になにかを訴えかけてくるかのような、無骨な迫力があった。

『───この国に真の平和をもたらす神が降臨する』

 ふたたび、スペクト博士の声が頭の中に反響する。笑わせるな。神などまやかしだ。神はエリスとロノを救わなかった。それが今さらになってふたたび降臨とは。だとしたらその神は今までどこにいたのだ。この十八年間、植物人間のようになってしまったエリスを気にかけもせず、どこでなにをしていたというのだ。

 久しく感じたことのない、妙な感覚だった。以前から政府や感情局の努力を無碍にするような輩に対しては嫌悪感を抱いてきたが、こんなにも腹の底からむかむかと怒りが込み上げてくることはなかった。そんなものは所詮、いつの世にも現れる無知蒙昧な馬鹿や不届き者たちの妄言に過ぎないと、ある種冷めた目で見ていたからだ。

『───これ以上、今の君になにかを説明しても、理解するのは難しいだろうからね』

 それなのになぜ───。政府に非協力的なスペクト博士に対してもそう、神の噂にしてもそうだ。なぜ、自分は今こんなにも怒り、苛立っているのか。もしかすると、今回こうしてわざわざ両親のもとに向かっているのも、この得体の知れない不快感を、あの二人に和らげてもらいたかったからなのかもしれない。

 しばらく車を走らせていると、自宅を背にして立つ父、カールの姿があった。よく見るとその手には汚れたタオルが握られており、それを足元に置いたバケツの水で濡らして、向かいの民家の壁を掃除しているところのようだった。

「父さん」

 車から降りて声をかけると、カールは掃除の手を止め、顔をこちらに捻って、いつもの厳めしい表情に嬉しそうな笑みを浮かべた。

「おお、ハミセル。久しぶりだな、どうした突然」

「ちょっと、仕事でこっちに来る用事があったから、ついでにね。父さんは? そこでなにしてるの?」

「これを消してるんだよ」

 カールが指差す壁に描かれていたのは、ここに来るまでに何度も見かけた、あの黒い渦状の落書きだった。その隣にはドリン語で、『SURGUKU SULABIA!(スルグク スラビア!)』つまり『目を覚ませ!』とある。

「これ、なんなの? 来る途中でもチラホラ見かけたけど」

「知らん。近頃、街の連中がこのマークを至るところに描いて回ってるんだ。しかも腹の立つことに、これをここに描いたのは俺と同年代の男ときたもんだ。当然、すぐに警察に連れていかれたようだが、まったく嘆かわしいよ」

「ふぅん……」

 なにが目を覚ませだよ、とハミセルは心の中で嗤った。いい歳をした大人が今さら馬鹿な若者の真似事をするなんて、果たして本当に目を覚ますべきはどちらなのかと言ってやりたいくらいである。

「まぁいいさ。今日はこの辺にして中に入ろう。腹は減ってるか?」

「うん、ぺこぺこだ」

 ハミセルとカールは軒先で久しぶりの抱擁を交わし、互いの背中を労るようにポンポンと叩き合った。



 家に上がると、たちまちジヴィレの香りがハミセルの鼻腔を撫でた。ジヴィレとは、トマトと鶏肉をスパイスと一緒に煮込んで作る、ドリンでは一番ポピュラーな郷土料理だ。家庭によってスパイスの種類を変えたり、ジャガイモやピーマンをごった煮にしたり、あるいは海鮮にしたりと違いはあるが、ラブラク家では基本、トマトと鶏肉以外は使わない。それがハミセルの母、セイルのこだわりなのである。

「母さん、ただいま」

 キッチンでまじまじと鍋と睨み合うセイルに声をかけると、彼女はびくんと跳ね上げるように顔を持ち上げた。

「あらまぁ、ハミセル。どうしたの急に」

「ちょっと二人の顔を見に立ち寄っただけだよ」

 驚き混じりに破顔するセイルに、ハミセルも思わず笑みをこぼしつつ、着ていた紺色のポロコートをラックにかけて、キッチンに向かった。セイルと抱擁を交わし、疲弊して乾いた口にコップ一杯の水道水を流し込む。

「仕事、忙しいんじゃないの? 特に今日はほら、ニュースにもなってるし」

「ニュース?」感情データの一件はまだ極秘だったはずだが。

「矯正施設から脱走者が出たって」

「あぁ……いや、そっちは俺の管轄じゃないから」

「それならいいけど。お父さんと心配してたのよ。脱走犯なんて危ない人、なにをするか分からないでしょう?」

「俺は心配なんかしてねぇよ。こいつは脱走犯なんぞにやられるほどヤワじゃねぇ。なぁそうだろ? ハミセル」

「だから、管轄じゃないんだって」ハミセルは呆れるように笑う。

「ところでハミセル、お腹は空いてる?」

「ぺこぺこだそうだ」ハミセルよりも先にカールが答える。

「そう、それじゃあちょっと早いけど、夕食にしましょうかね」

「やったね。来てよかった」

 食器棚から皿を取り出し、人数分のジヴィレを注ぐ。もくもくと立ち昇る湯気と香りが、異様な緊張で強張ったハミセルの表情筋をほぐしていく。余った皿にパンとサラダを乗せて、先にテーブルについていたカールの向かいの椅子に座った。セイルも少し遅れてやってきて、カールの隣に腰を下ろした。

 ジヴィレにパンにサラダというのは、それなりに裕福で食べるものにも困っていなかった戦前の頃と比べると質素な並びだが、今の国内水準に照らすと一般的だ。物価高や年金の引き下げなど苦しい面もあるにはあるが、その対価として安定した平和と治安が保たれているのだから仕方ない。エリスの治療費のため仕送りが少量になってしまっているのだけが、ハミセルとしても心苦しいところではあった。

「エリスはどうだ?」

 ナイフとフォークで鶏肉を切りほぐしながら、カールが訊ねる。その体躯は今年で七十五の年とは思えないほど頑健で、老いや衰えのようなものはいつまで経っても感じさせない。二十年前の戦争時にはすでに退役していたものの、彼は十代の頃から陸軍に所属していた生粋の軍人であった。

「まぁ、変わりはないよ」

「そうか……」

 カールはなにか言いたげに顔を渋くさせるが、それ以上はなにも言わずに、ほぐした鶏肉を口の中に放った。

 十八年前、エリスとロノの身に起きた悲劇を二人に伝えた時、セイルはその場に泣き崩れ、カールは怒りで顔を真っ赤に染め上げ、家を飛び出した。玄関の外でなんとか引き留めたものの、当時のカールの怒りようは尋常ではなく、そのまま彼を行かせれば第六感で犯人を見つけ出し、殺してしまいかねない勢いだった。それだけ、セイルもカールもエリスを、そしてロノを、愛してくれていたのだ。

「味はどう? ハミセル」セイルが大袈裟に明るい声で、話題を変えた。

「最高だよ。ね、父さん」

「ジヴィレは不味く作る方が難しいからな」

「美味しいってさ」

 やや経って、安物のワインで顔をわずかに紅潮させたカールがテレビをつけると、暗かった画面がまぶたを持ち上げるように明転し、そこに二人の男を映し出した。国家保安大臣カーコン・ハースと首相のアズリ・フロッシュである。フロッシュは見た目からしてずんぐりとしていて、油分の多い肌や混じり気のない軟毛の黒髪は若々しいというより、どこか頼りない。痩せ型で長身のハースと並ぶとその印象はさらに強まるが、実年齢でいうとフロッシュもハースと同じ六十七の年である。在任期間は歴代でも随一で、十八年前のブラズダー・デイの直後に病死した前首相に代わって着任し、それ以来、三度の再選を経て、今日までこの国のトップであり続けている。

 フロッシュはいつもの官邸会見室にて、横長のテーブルにハースと並んで座り、目の前に集まった記者団に向かって手元の原稿を読み上げている。その内容は先ほどスペクト博士が予想していた通り、信仰の禁止を法律で制定し、即時施行するというものだった。その中で今、フロッシュが説明しているのは、その決定に至った経緯と、その意義であった。

『───思えばこの国はさまざまな過ちを犯してきました。戦争に明け暮れ、多くの血を流し、悲しみを生み出し、憎しみを育んできました。その過ちの根底にあるのが神です。実体がなく明瞭さを欠いた神、そしてその神への盲目的な信仰が、この国を破滅の道へと突き進めたのです。そして今ふたたび、この国の至るところでそれが顕在化しているのは、多くの国民のみなさんの知るところでしょう。どうか、そういった曖昧模糊とした神に夢想を抱き、惑わされぬよう気をつけていただきたい。この国には、この国を守護する確固たるシステムがあります。それは過去の悲劇を乗り越えようやく手に入れた、みなさん自身の権利そのものです。どうかみなさん、今までのように我々を信じてください。政府、国家保安省、そしてバーガルタンクは、悪神からこの国を守り、今まで通りの安寧と幸福をお約束します』

 そこから先の説明はハースが引き継ぎ、今日から即時施行される新たな法律三点を、いつもの彼らしい淡々とした口ぶりで読み上げていった。その三点とはつまり、信仰の禁止、夜八時以降の無許可での外出禁止、認可されていない集会の禁止である。

「信仰の禁止……。仕方ないことなのかもしれないな、それも」

「そうねぇ……」

 カールとセイルが、どこか寂しげな表情を浮かべて、嘆息する。二人はドリニアル教を信仰している、今や珍しいタイプの夫婦であった。現在は信仰を捨てたとはいえ、元々ハミセルがドリニアル教に入信したのも、この二人による影響が大きい。しかし近頃、正確にはバーガルタンクが開局した十三年前から、カールとセイル、特にカールは、多くの国民と同様に現政府こそがドリニアル教の唯一神、つまり人間族と神族の争いに終止符を打ったキームシュの、その後継であると考えるようになった。

「そういえば少し前に俺たちのところにも変な勧誘が来たよな」カールがセイルに顔を向けると、セイルも困り顔でうんうんと頷いた。「みんなで神を信じて立ち上がろうってな。気味悪いから玄関から外に蹴り飛ばしてやったよ。お前らの言う神はクソだってな」

「そうだったんだ……」

 カールたちのように真にドリニアル教を信じている者からすれば、最近やたらと目につく神の喧伝は迷惑以外のなにものでもないのだろう。そうやって悪意を持ってうそぶく連中がいるから、神の存在が歪められてしまう。そうなるくらいなら全面的に信仰を禁止にした方が、ある意味で神への忠義を尽くすことになる。

 それにしても、スペクト博士の言っていた神の噂が身内にまで及んでいるとは、やはり数値異常者の増大と神の噂の連関は間違いないかもしれない。

 ふと、この家の向かいの民家にあの謎の黒い渦を描く、顔も知らない人物の後ろ姿がぼんやりと浮かんだ。そいつがこちらに振り返り、歯を剥き出しにして叫ぶのだ。

『目を覚ませ!』

 すると突然、ハミセルに急激な睡魔が押し寄せてきた。疲労が限界を迎えたのか、久しぶりの家族団欒に緊張の糸が緩んだのか、あるいは、冬の冷気で冷えた体に温かいジヴィレを流し込んだからかもしれない。まぶたが独立した意思を持ったかのように垂れ下がり、抗おうとしても敵わない。次第に意識も薄らいでいき、両親の声も徐々に耳に入らなくなってきた。

「どうした───ハミセル───」

「いや……ちょっと……だけ、眠……───」

 そのままハミセルはテーブルに俯し、眠りに落ちた。



 助手席の窓から、沿道のブロック塀に黒のスプレーで描かれた渦状の模様が見えた。それも一つではなく、至るところに点々と同じような模様が描かれている。

「なんだ、あれは」

「最近流行ってるらしいですよ、ああいうアート」

「最近? 最近っていつからだよ」

「さあ、知りませんよそこまでは」

「あ……あれは……神の印だ……」

 後部座席でしばらく微睡んでいたジラームが、フロントガラスから射し込む西陽に目を瞬かせながら、欠伸混じりにそう言った。

「神の印?」

「数値異常者がたまに見る夢に出てくるんだ。闇の中で黒いなにかが……中央の一点に向かって渦を描いていく……そんな夢だ」

「夢……おいザック、お前、夢なんか見るか?」

「いえ……覚えている限りでは」

「人によるんだよ」とジラームは言う。「俺たちはあんたらと違って……それだけ心に余裕がなくなって逼迫してるんだ。沸々と湧き出る感情に身も心も押し潰されそうになる。高い給料を貰って、休みの日には好きなことをして……、そんな、あんたらみたいな特権階級には分からないんだ」

「特権階級だってよ、ザック」

 ダイナスが座席シートに背中をくつろがせながら隣に視線を傾けると、ザックは下唇を突き出し肩をすくめた。

「俺たちだって退屈してるんだ。高い給料を貰ったところでなにに使うわけでもなく、休みがあってもなにをするわけでもない」

「俺たちは……その退屈を味わう余裕さえないんだよ」

「ま……、そうなんだろうな。要するに、最近大量に出てきてるらしい数値異常の奴らの心の叫びが、あの黒い渦の模様だってわけか」

「詳しいことは……分からねぇが」ジラームは言いながら、ふたたび欠伸を漏らす。先ほどから何度もそれを繰り返している。

「眠いのか?」ザックが訊ねる。

「あぁ、まぁ」

「無理もない。命からがら逃げてきたばっかりだもんな。しばらく寝ておけ。こんなことを言うのもなんだけど、この先、君に安眠できる保証はないからね」

「なぁザック、俺も眠いんだが」

「ダイナスさんはダメですよ」

「なんでだよ」

「だって、この車が今どこに向かってるのか分かってるのはダイナスさんだけなんですよ。ダイナスさんが寝ちゃったら、俺どうしたらいいんですか」

「いいんだよ、とにかく西に向かって走っていれば。港が見えたら起こしてくれ」

「港……って、海まで行くんですか? ドリンの西端じゃないですか」

「つっても、あともう少しだろ。頑張ってくれ」

 ダイナスはザックの肩をポンポンと叩くと、すでに閉じかけていた目を完全に閉じた。



 ぐるぐると、なにかが渦を描いて蠢いている。中心の小さな黒点に向かって、黒色の靄がかったなにかが呑み込まれていく。この言いようのない薄気味の悪さはなんだ。周辺の酸素がその渦に搾り取られていくような息苦しさだ。なぜ、こんなところにいるのだろう。自分は一体何者なのだろう。それさえも分からない。段々と息ができなくなってきた。渦の流れに引き寄せられて、自らも黒点の彼方へと向かっていく。終わりだ。いや、この行く先が果たして終わりなのかどうかも判然としない。ただ、なにか大切なものが失われていくような気がした。自分が自分でなくなるような気がした。渦に呑まれて、どこか遠くへ───。



 はたと目が覚め、俯していた頭を持ち上げた。一瞬、ここがどこだか分からなかった。辺りを探ると、見覚えのある壁掛けの時計が夜の七時半を差していた。

「あ、起きた」向かいに座る母のセイルが、目元に優しい笑い皺を寄せた。

「……ごめん、いつのまにか……」

「疲れてるのよ」

「そうかもしれない」

 それにしても、今の夢に出てきたあの不気味な渦はなんだったのだ。街中で目にした謎の模様と似ていたが、少しだけ違うような気もした。

「時間は大丈夫なのか?」

 カールが浮かせた眉で時計を差す。七時半からちょうど長針がひとつ動いて、七時三十一分に変わった。テーブルの食事はすでに下げられ、テレビも消されている。ここからハミセルの自宅までは車で一時間半以上はかかるので、そろそろ出ないと、またカリウスに叱られてしまう。

「うん、そろそろ帰ろうかな」

 立ち上がり、ラックに掛けていたポロコートを羽織る。リビングを出て、玄関で革靴に履き替えていると、ふと腰の高さほどの靴棚の上に、二つの写真立てが飾られているのに気がついた。

 一つには、ラブラク家の親子三人で撮った写真が入れられている。先の戦争でハミセルが徴兵される直前に、昔の自宅の前で撮影したものである。迷彩の軍服に身を包む十八のハミセル。その隣で顔を厳めしくするカールの手には、自前のライフルが握られている。現役の頃のカールは稀代の狙撃手として名を馳せた男で、今でもリビングの一郭には当時彼が授与されたいくつもの勲章が誇らしげに飾られている。そんなカールと二人でハミセルを挟むセイルの目は、出兵していく息子を憂いた涙で赤く腫れている。

 もう一つの写真立てに入れられているのは、四人の若者を写した一枚。四人それぞれ違った楽器を手にしており、ハミセルはギターを両手に抱えている。隣の写真とほぼ同じ時期、学生時代のハミセルが仲の良い同級生三人と組んでいたバンドの集合写真である。

「なにこれ、なんでこんな昔の写真を飾ってるの?」

「この間、久しぶりに昔のアルバムを見ていたら出てきたのよ。懐かしいでしょ」

「たしかに懐かしいけど……」

「思い出は放っておくと忘れてしまうものだからね。だから、たまにはこうして表に出してあげないと」

「別に忘れたわけじゃ」

 当時のバンドのメンバー構成はギターのハミセル他、ベース、ドラム、ヴォーカルの四人。ドラムの男は二十年前に戦地で命を落とし、メンバーで唯一の女性だったヴォーカルも終戦直前の空爆に見舞われ、落命した。今もまだ生きているのは、ハミセルと、ベースの男一人だけである。

「彼は元気にしてるの?」

「どうだろう、最近会ってないからなぁ」

「たまには会いなさいよ。小さい頃からの親友なんだから」

「あいつはあいつで忙しいんだよ、多分。……てか、音楽は全面的に禁止だよ。こんな写真を飾っていたら、母さんも父さんも捕まっちゃう」

「なに、大丈夫さ。この写真を撮った時はまだ禁止じゃなかったんだから」

「屁理屈だ」

「屁理屈と銃の腕前だけは一級品だからな、俺は」

 そう言って肩を浮かせて笑うカールの隣で、セイルも呆れるように目尻を絞る。そんな二人を見ているうちに、自然とハミセルも今だけは疲れも苛立ちも全部忘れて、心の底から楽しく笑うことができた。


 

 港町ナディアにある自宅に到着する頃には、すでに時刻は夜の十時を過ぎていた。外の石塀に沿わせて社用車を停め、門扉を抜けて玄関を開けると、沓脱ぎのところでいつものようにカリウスが待ち構えて立っていた。

「おかえりなさいませ、ハミセル様」

「ただいま。エリ……ん? どうした?」

 カリウスの表情が普段より少しだけぎこちない、ような気がした。

「いや、それが……」

 どこか言いにくそうにするカリウスの背後から、音が聞こえた。聞き馴染みのある音楽だった。ハミセルはすべてを悟り、深々と溜息をついた。

「……あいつが来てるのか?」

「うん……」

 眉を八の字に垂らして頷くカリウスの肩をポンポンと労わり、沓脱ぎを上がってリビングに向かった。ドアが近づくにつれ、聴こえてくる音楽も明瞭になる。懐かしくもあり、忌々しくもある音楽である。ドアノブを握る手にもつい力が入る。もう一度、足元にひとつ溜息を落とし、ドアを開いた。案の定、ダイニングの椅子に座って足を組む男の姿があった。

「オリー……」

「おー、ハミー! 久しぶりだな。キッチンにあった紅茶、貰ってるぞ」

 男が湯気立つ陶器のカップを眼前に掲げる。そのすぐそばで見知らぬ若い男が立っているのがチラリと視界に映る。

「それはエリスの紅茶だ。返せ」

「返せって、もうほとんど飲んじまってるよ」

「早く音楽を止めろ、オリー」

 どうやって見つけてきたのか、寝室に隠していたはずの旧式のラジカセがテーブルの上に置かれている。たまご型の小さなもので、カセットとCDを再生できる仕様になっている。流れているのは、ハミセルが学生時代に組んでいたバンドのオリジナルソングだった。所々で曲が止められ、「ダメだダメだ、もう一回」と偉ぶる男の声が挟み込む。その男というのが今まさに目の前にいる男で、ハミセルの親友で今はアティアカ署の刑事をしているオリベル・ダイナスである。

 演奏が再開し、ベースとギター、そしてドラムの伴奏がしばらく続いたあと、ヴォーガルの声がそっとこちらに語りかけるように歌いはじめる。

〈夢を見たの、夢だったのか、それも分からない───〉

「おいおい、自分たちの大切な曲に対して、それはないだろ?」

「誰かに聴かれたらどうするんだ」

「聴かせればいい。きっとみんなこの曲に夢中になる」

〈OHhhh、こんなクソッタレの世界、OHhhh、起きてもいいこたありゃしねぇぜ! OHhhh、こんなクソッタレの世界、OHhhh、寝てなきゃ損だぜ! 起きるだけムダだぜ───!〉

 つくづく、下手くそな演奏、下手くそな歌、下手くそな曲である。こんな曲に夢中になる人間なんているはずがない。ただ、問題はそこではないのだと思い直す。

「いや、そうじゃなくて、音楽を流すのも聴くのもこの国では禁止だ。お前はここの近隣住民全員を矯正施設送りにするつもりか?」

「お、じゃあもしそうなったら、俺がみんなの手首に手錠をかけてやるよ」

 なにを言っても埒が明かないようなので、仕方なくハミセルはテーブルの上のラジカセを強引に取り上げ、一時停止のボタンを押した。

「あと……この、横の彼は誰だ」

 改めて、先ほどからチラチラと横目に見えていた謎の若者に視線を向ける。ボロ布一枚で体を隠すような格好をしていて、頭髪は無理やり坊主にさせられたのか、枯れかけの原っぱのようになっている。

「こいつはな、えーっと……お前、名前なんだっけ?」

「ペトリス……ジラーム……」

 おそるおそる声を震わせる男のその名に、ハミセルは、どこか聞き覚えがあるような気がした。数秒経って、ハッとする。

「ペトリス……って、たしか二ヶ月前の徴収で要経過観察と……いや、先日の徴収の時にはもう施設送りリストに載って……おい、まさかオリー、お前……」

 頭の中ですべてが繋がり、ハミセルは引き攣らせた目で親友を睨みつけた。もしこの合点が正解なのだとしたら、この男は、ダイナスは、とんでもない罪を犯してここに来たということになる。理解ができなかった。なぜ、そんな、例の、あの、と、脳内に浮かんでくる言葉が文章になって口から出ない。

「そのまさか。今日、矯正施設から脱走した男ってのが、こいつだ」

「なんで……」

「こいつが施設から逃げ出して隠れていたところを俺が見つけて保護したんだよ」

「そうじゃなくて……! なんで……なんでさっさと施設に送り返さないんだよ!」

 言葉を詰まらせていた分だけ、空気の入った風船が破裂したような叫び声が口から溢れ出てきた。

「まぁちょっと待てよ。俺たちを追い返す前に話を聞けって」

「話……?」

「お前も、神の噂は知ってるだろ?」

「それがなんだ」

「こいつは数値異常者で、神の噂をよく知ってる。それに加えて、矯正施設の内情をその目で見てきた数少ない人間だ」

「だから……それがなんだってんだよ!」

「いいから、とりあえず一旦落ち着けって。落ち着いて、俺の話を聞くんだ」

「これが落ち着いていられる状況かよ、お前、自分がなにをして……」

「ハミー!」

 ダイナスが、こちらの心を穿つような目で声を張った。その視線から逃れるように、ハミセルは思わず顔を背ける。背けた先に、ジラームがいた。不安げに眉を垂らして、こちらをジッと見つめている。彼のその悄然とした表情は、親に泣き縋る幼子のようにも見えた。

「ロノ……」

 あの子が今もまだ生きていれば、このジラームという青年と同じくらいの年齢だったに違いない。だからだろうか、ハミセルはふと彼のその姿に、今は亡き息子の面影を見たような気がした。

「ロノ……?」ジラームが怪訝そうに首を傾げる。

「……いや、なんでもない。さっさと話を始めてくれ。簡潔に頼む」

 ハミセルは観念するように息を吐き、二人の向かいの椅子に腰を下ろした。



 ダイナスの話はハミセルにとって、にわかには信じがたいものであった。中でも特に、矯正施設の実態は自分の認識とはあまりに乖離しすぎている。劣悪な収容環境、相次ぐ拷問、薬物実験、挙げ句の果てには、そこで軍隊の訓練のようなものも行われていたなんて、そんな話をおいそれと受け入れられるはずがないだろう。矯正施設は、人間を蝕む負の感情をコントロールし、収容者を正道に導く健全な場所なのだ。平和と反戦の象徴たる今の政府が、その正道を自ら踏み外し、ふたたび戦争の引き金になるような真似をするはずがない。

「お前のその後輩だっていう男の口から、ここが割れる危険はないのか?」

「大丈夫。ザックは俺が一番に信頼してる男だし、なによりあいつも、俺やジラームと一緒で数値異常者だ」

「数値異常者? お前が?」ハミセルは項垂れていた顔を持ち上げた。

「ああ、もう何年も前からな。コネを使って、施設行きは免れてるけどな」

「なんで……なんで今まで黙ってたんだよ」

「言ったらお前、今と同じ反応をしただろうが」

「じゃあなんで今になって言うんだ」

「今がまたとないチャンスだと思ってるからだ」

「チャンス……?」

「俺の感覚を率直に言おうか」ダイナスはテーブルに片肘をついて、手のひらを広げた。「この国は狂ってる。十八年前から、ずっとな」

「…………」

 まさか親友の、しかも現役の刑事の口からも、今の政府を否定するような言葉が飛び出してくるとは。ハミセルは、握りしめた拳を目頭に押し当てた。体中の穴という穴から、よく分からない感情の澱のようなものが噴き出してしまいそうだった。

「お前らは数値異常者を異常と見做しているけどな、俺たちからしたら、お前たちの方がよっぽど異常なんだよ」

「……どういうことだよ」

「この国の人間は上の奴らに感情をコントロールされてるんだ」

「当たり前だ。それがバーガルタンクの仕事だ」

「それが異常だって言ってるんだ。よく考えろ。政府が国民から定期的に感情を抜き取るなんて普通じゃない。それなのに誰も文句を言わない。音楽の禁止も、さっき発表された信仰の禁止だってそうだ。なんで誰も反対しない? 感情をコントロールされてるからだ。お前たちは政府に心を操作されてるんだよ。パルメカ税の徴収の時に……なんか、こう、反骨心みたいなものも一緒に抜き取られてるんだって」

「それを感情局員である俺に言うのか……」

「俺は感情局員としてのハミセル・ラブラクに言ってるんじゃない。幼馴染で親友のハミーに言ってるんだ」

 こんなにも言葉に力を込めるダイナスを見るのは、戦争の時以来、約二十年ぶりのことだった。あの時も彼は、戦争の狂気に呑まれて足を竦ませていたハミセルに、今と同じような口ぶりで言ったのだ。

『ハミー、しっかりしろ、おいハミー』

『ダメだよ……俺は、怖くて……足が動かないんだ……』

『なぁハミー、よくある話だ。いいか、誰もが平等に死の危機に瀕してる時、なにがその人の生死を分けると思う?』

『なに……が……?』

『勇気だよ』

『勇気……』

『そう、勇気だ。生きてまた一緒にみんなで遊ぼうぜ。そのために今はとにかく勇気を振り絞るんだ』

 そう言って駆け出していくダイナスの背中は、いつもの不真面目さからは想像もつかないくらいに勇敢で、実際に彼はそれ以降、軍から勲章を授与されるほどの戦果を挙げた。その後、二人はそれぞれ別のタイミングで負傷し、戦線を離脱。結局、彼らが前線を離れているその間に、戦争は祖国の勝利で終結を見たのだった。

「……俺に、どうしろってんだよ」

「俺は警察の人間として、お前は感情局員として、二人で一緒に、この国の腐敗と欺瞞を国民に知らしめるんだ」

「この国のために命懸けで戦った男が、今度はこの国をぶち壊そうってか」

「戦争の時は大好きな国を守るために戦った。今回だってそうだ。俺が大好きだった国を取り戻すために、俺は戦うんだ」

 ハミセルは頭を抱えて俯き、そのまましばらく口を結んだ。頭の中でさまざまな思考が煩いハエのように飛び交っている。ゆっくりと息を吐き出し、口を開いた。

「……無理だよ。悪い、オリー。お前のことを信じたくないわけじゃないけど……でも、やっぱり俺には信じられない。矯正施設のことも全部、このジラームという脱走犯の嘘っぱちかもしれないだろ」

「ハミー、今までの固定観念を外すんだ。自分の信じてるものが絶対的に正しいとは限らないんだよ」

 スペクト博士から心の眼で見ろと言われた矢先、今度は親友のダイナスに固定観念を外せと迫られるとは。どいつもこいつも、まるで今までのことがすべて間違っていたのだと諭してくるかのように……。

「……無理なものは無理だよ、オリー。俺はバーガルタンクの人間だ。今の仕事に誇りも持ってる。そのバーガルタンクを裏切るようなことをするなんて……俺にはできない」

「ハミー……」

「今の話は聞かなかったことにする。この話はこれで終わりだ。オリーはオリーの好きなようにすればいい。俺は止めない。これが最大限の譲歩だ」

「な、なぁ、俺はどうすれば……」

 ジラームが困惑を露わにこちらを見ている。彼は息子のロノじゃない。そんなことは分かっている。それなのに、どうしてこんなにも彼に対して情を抱いてしまうのか。ハミセルはそんな自分が腹立たしくて仕方なかった。

「ハミー、一晩だけでいいから、こいつをここに泊めてやってくれないか。明日になったら、俺がまた引き取りに来るからよ」

 おそらくダイナスはこちらの協力が得られることを想定して、このジラームをここに連れてきたのだろう。その当てが外れたとはいえ、今から彼を外に連れ出してダイナスの家まで運ぶとなると、それ相応の危険を伴うことになる。

「……今晩だけだ」と、ハミセルは言って後ろのカリウスに視線を転じた。「今晩だけ上の空き部屋を使わせてやれ」

「う、うん、分かった」

 カリウスは少し不安げな顔で頷くと、ジラームを連れて、リビングを出ていった。

「ごめん、オリー」

 二人きりになったところで、ハミセルはダイナスに弱々と詫びた。

「いいよ、ハミー。たしかに、これはそう簡単に信じられる話じゃない」

「……なぁ、オリー。正直に答えてくれ。今のこの状況のまま事が進んでも、俺とお前は親友でいられると思うか?」

「この国が変われば、変わらず親友でいられる」

「変わらなければ?」

「どちらかがどちらかを殺すことになるかもしれないな」

 冷めた紅茶の最後のひとくちを啜ってそう言うダイナスの顔は、いたく真剣のようにも、冗談を言っているようにも、見えた。



 ウィジー・サービスに乗って去っていくダイナスを玄関先で見送ったのは、夜の十一時を少し過ぎた頃であった。夜八時以降の外出禁止はすでに始まっているが、ダイナスも一応は警察の人間なので捕まることはないだろう。

 それにしても、車がやってくるのを待つまでの間に、喋らなくてもいいことを喋ってしまった。今日の朝、スペクトルームで起きた盗難事件のことを、つい口を滑らせて教えてしまったのだ。ただ自覚していないだけで、心の底では親友に協力したいと思っているということなのだろうか。いや、そんなはずはない。朝からいろいろな出来事が立て続いたせいで、頭が疲弊し、普段の判断力が鈍ってしまっているだけだ。

 くたびれた白息を漏らしながら家の中に戻ると、ちょうどカリウスが二階から階段を下りてくるところだった。彼も疲れているのか、先ほどから何度も欠伸を繰り返している。

「お疲れ様。あの男は?」

「いま様子を見にいったら、気持ち良さそうに眠ってたよ」

「そうか……」ハミセルの口からも欠伸が漏れる。

「あの人、明日からどうするのかな」

「大丈夫だよ、オリーが責任持ってなんとかするさ。お前はなにも心配しないでいい。キッチンの後片付けは明日でいいから、今日はもう寝ろ」カリウスの肩を叩いて、階段を昇る。途中でふと「あ、そうだ」と思い出し、数段上から後ろを振り返った。「お前が最近よく見るっていう夢、あるだろ?」

「え? あぁ、うん」

「その夢になにか……いつも決まって出てくるものはあるか?」

「もの?」

「ものというか、なんというか」

「うー……ん、あ、そういえば」カリウスはこちらを見上げて少し考えてから、手のひらをポンと叩いた。「黒色の変な渦が出てくる。なんというか……その気味の悪い黒い渦に、いつも呑み込まれてしまいそうになるんだ」

「……そうか」

 ハミセルはそれ以上はなにも言わずに、カリウスに背を向け二階に上がった。エリスの部屋を押し開く。奥のベッドで眠る妻のそばまで歩み寄り、近くの四脚椅子に腰を下ろした。この時間ならまだ起きていることも多いエリスだが、今日はすでに枕に頭をうずめて、目を閉じている。

「エリス、ただいま。ごめんね、下がうるさかったろ?」

 手を握り、声をかけるが、当然エリスは反応しない。ただ、こちらの声を知覚してはいるようで、彼女はゆっくりとまぶたを持ち上げ、感情のない目を天井に開いた。

「あぁごめん。起こしちゃったね。さっきまでオリーが来てたんだ。そのオリーがさ、なんだか訳の分からないことを言い出すんだよ。政府に心を操作されてるとか、この国は狂ってるとか。聞けばあいつも……数値異常者なんだってさ。パルメカ因子の数値に異常が出たら、やっぱり頭もおかしくなっちゃうのかな。そうだろ? だって、そうじゃなかったら俺の頭がおかしいことになっちゃう。そんなことはないよね? 本当、馬鹿げてるよ。オリーも、スペクト博士も、多分、おかしくなっちゃったんだ。ねぇエリス、君もそう思うだろ?」

 エリスは天井に目を向けたまま、ほとんど瞬きすらしない。不意に、ハミセルは無性に涙を流したくなった。理由は分からない。ただひたすらに感情が昂り、目頭がじわじわと熱くなっていくのだ。ダイナスは、今のこの感情さえ、政府にコントロールされていると言うのだろうか。

「……そうだ、スペクト博士。この国の科学の権威に会ったんだ。というのも、実はね、今日の朝、俺がいま勤めている感情局っていうところで、ちょっとした……いや、かなりの事件があったんだ。感情データってやつが盗まれて、それで、その犯人を捕まえてくれってロンドさんに頼まれてさ。ロンドさんもまだエリスのことを気にかけてくれてるよ。早くまた二人で会いにいきたいな。あぁ、それで、ロンドさんはロンドさんで、マッキング局長から頼まれたらしい。信頼できる部下を一人、捜査に当たらせてくれって。それで俺が選ばれたんだ。すごいだろ? スペクト博士に会いにいったのは、その一環だ。わざわざ博士の研究所まで足を運んだんだけど……正直、あんまりいい印象ではなかったな。頭はいいんだろうけど、なんだかちょっと嫌味っぽ……───」

 その時だった。ハミセルは、喉の先まで出かけていた言葉を呑み込んだ。驚きのあまり目を見開き、声にならない声がこぼれ出る。

 エリスが、泣いていたのだ。

 初めは目の錯覚かと思った。しかし、窓の外から注がれる淡い月の光は間違いなく、彼女の渇いたその目から流れる一滴の涙を鮮明に輝かせていた。この十八年間で初めて目にする、彼女の感情の表出であった。

「エ……エリス? どうした? なにか言いたいの?」

 ハミセルは思わずベッドに前のめりになり、エリスの顔に耳を近づけた。しかし、今やただ呼吸をする器官としての役割しか果たせていない彼女の口からは、まともな言葉はなにも出てこない。か細い吐息が、こちらの耳の鼓膜に優しく触れるだけである。流れて生まれた涙の小川も、すぐに渇いて消えた。

 結局、エリスはそれ以上はなにも反応を示さないまま、ふたたび目を閉じ、深い眠りに就いてしまった。








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