第三話
1
矯正施設の近くでグロークと別れ、さらに北に上ること一時間、廃校になった旧小学校を改築した三階建ての建物が、スペクト博士の研究所になっていた。
ドリン共和国では戦後まもなく教育制度の刷新に伴い、それまで採用していた小中高の段階式を廃止し、小学校から高校までの年齢の生徒が一律に同じ学校、通称「統一学校」に通うことを義務付けられた。これは教育の平等化、一律化を目的とした制度改革であり、同時に大学制度もすべて廃され、統一学校の卒業までに職業適正の試験を受け、その結果に応じて、生徒はそれぞれの仕事に就職するようになった。
統一学校は一つの都市に三つから五つの割合で運営されているため、元々あった旧式の学校の建物は、もはやそのほとんどが無用の長物と化した。スペクト博士は、そのうちの一つを自らの研究の拠点として再利用しているのだった。
ハミセルは研究所の敷地に入ると、広々とした校庭に車を停めた。そこから階段を数段上がったところに、元々は子供たちが登下校の際に使う昇降口だったガラス扉の入口がある。今はただ閑散としているだけのロッカーが縦三列に並び、ドアから吹き込む風に揺られて、一つ一つの扉がキィキィと寂しげな輪唱を鳴らしている。昇降口を抜けると、板張りの廊下が左右に向かって伸びていて、その廊下の右手突き当たりが、どうやらこの研究所の受付になっているようだった。
「失礼します」
受付前に辿り着き、おそるおそるドアを横に開くと、たちまち薄暗い廊下が眩い光に照らされた。その中で数名の大人たちが書類だらけのデスクに座って、黙々と作業をしている。部屋の前方には横長の黒板が張られ、入口の向かい側にある窓からは外の校庭が見えている。喉の付け根の辺りがジクジクと疼くような、この感覚が郷愁というものなのだろうか。それはまさしく、ハミセルが子供の頃によく見た学校の職員室の雰囲気そのものであった。
「どうなさいました?」
近くのデスクに座っていた男性が、現れたハミセルに歩み寄る。M字に後退した髪の具合から見て、四十代後半か、五十代前半だろうか、つるりとした顔立ちの彼の胸元には「シン」と名札が付けられている。
「突然すみません、ここにスペクト博士はおられますか?」
「おられるもなにも、ここは博士の研究所であり、博士の自宅でもありますからね。博士は一年中、ここでお過ごしですよ」
「少し、お話をうかがいたいのですが」
通常、国の要人と面会するには、その都度かなり手間のかかる手続きを踏まなければならない。積み上げられた書類の一つ一つにサインをし、それを何人もの人間が順々に確認を入れて判を押す。一週間から、長い時には一ヶ月、半年と経ったあとにようやく申請が受理され、いざ面会の場に赴けば、そこでさらに一時間、二時間と待たされる。挙げ句の果てには、今日は本人の都合でキャンセルに、なんてことも珍しくない。
いざとなったらバーガルタンクの名前を使って強引にでも面会に漕ぎつけようという腹積もりではあったが、しかしその交渉にもそれ相応の胆力が要るであろうという覚悟を持って、ハミセルは胸ポケットに挿したボールペンを抜き取った。
「あぁ、それでしたら、ここを出てすぐの階段を使って地下に降りてください。目の前が長い直線の通路になっていますから、そこをしばらくまっすぐに行くと、研究室の札が掛けられたドアがありますので、ご自由にお入りいただいて結構です」
シンがあまりにもあっけらかんと言うので、ハミセルは思わずポカンと目を丸くした。
「え……と、すぐに会えるんですか?」
「ええ。今は別の方と面会しておられますけど、それでもよろしければ、どうぞ中でお待ちください」
「はぁ……」
「簡単に会えるのが、そんなに意外ですか?」
「ええ、まぁ」
「思考の源泉は思わぬところから湧き出てくる」
背後にある黒板の上方を見上げて、シンが言う。彼のその視線を辿ってみると、そこにいま彼が朗唱した文言が額縁に入れられ、掲げられていた。
「どういう意味なんですか?」
「ここの研究所の理念です。スペクト博士は常々言っておられます。自らの偏った先入観と偏見で、その思考の源泉に蓋をするような真似はしてはならないと。だから、自分に会いたがっている方がいれば可能な限り、すぐに会う。その出逢いに思いも寄らぬ閃きがあるかもしれませんからね。こんな寂れた学校の跡地を拠点としているのも、余計な分別のない、感じるがままの純粋なエネルギーを得るためだそうです。博士は死ぬまで、自らの研究に身を捧げるつもりでおられますから」
「死ぬまで、ですか」
「そのくらいの気持ちで、研究に没頭しているということです」
「なるほど、素晴らしい理念だと思います」
ハミセルはシンから入館証を受け取ると、それを首から下げて受付を辞去し、階段を地下に下ってスペクト博士の研究室を目指した。
ここを研究の拠点と定めた時に増築でもしたのか、いかにも教育現場然としていた地上とは打って変わって、地下には物々しい、陰気な雰囲気が漂っていた。なんだか高い山に登った時のような違和感が耳にあるのは、おそらく窓がなく空気が滞っているせいだろう。のっぺりとしたコンクリートの狭い通路を、低い天井から剥き出しの蛍光灯が照らしているため、そこをただ歩いているだけで言いようのない息苦しさを感じてしまう。
ひどい閉塞感に苛まれながらしばらく進んでいくと、廊下の中程でようやく、「第一研究室」の札が下がったドアを見つけた。口の中に溜まった緊張の唾をごくりと飲み込み、ノックをしようと手を持ち上げる。と、その時、ドアの向こうから、誰かを怒鳴りつける剣呑な声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。
2
税務部を飛び出し、ロンドは地下十五階に向かった。グロークからの電話によって予期せず生まれたこの最悪の仮説が事実であるとまだ決まったわけではない。この不安を杞憂に終わらせるためには、自らの目でそれを確かめるしかない。
未だ騒然とするスペクトルームの前を通り過ぎ、廊下の一番奥にあるVT1倉庫に足を向かわせた。VT倉庫の中でも一番古いVT1には、バーガルタンク開局当時のパルメカ税の徴収リストの他に、それ以前の試用期間に採取したパルメカ因子の記録も一緒に保管されている。
終戦の二年後、今から十八年前に政府がパルメカ因子の発見を公表し、それに伴いパルメカ税導入の法案を議会に提出すると、国内からはたちまち、個人の血液から分かるデータを国が徴取し管理するなど人権侵害の極みであり言語道断だと反発の声が上がった。その声は日増しに広がっていき、やがてブラズダー・デイと呼ばれる国内史上最大の暴動にまで発展する。デモ隊と国防軍、両軍共に甚大な被害を出したこの一件ののち、政府は折衷案として税導入の効果を実証するため数年間の試用期間を設ける決定をした。獄中の受刑者のみを対象に負の感情を抜き取り、出所後の再犯率の推移を検証したのだ。当然、受刑者から感情を抜き取るだけでも反発はあったが、戦勝国とはいえ戦後の貧困に苦しんでいた国民は断腸の思いでその試用期間の実施を了承した。
約五年の歳月をかけた検証結果は、事前に政府が想定していた通りのものであった。出所後の再犯率は大幅に減少し、治安の向上によって全体の事件発生率も激減した。二度目のパルメカ税導入の法案にほとんど反対の声が上がらなかったのは言うまでもない。スペクト博士が果たした世紀の発見は、その実力で国民の反発と疑念をねじ伏せたのである。
試用期間中、できるだけ多くのサルプルを集めるために、政府や省庁の役人からもパルメカ因子の採取が行なわれた。もちろん、ロンドも自身の血液を提供した。体の中から負の感情が抜かれていく時はその実感こそなかったものの、この国の光り輝く未来をそこに見たような気がして、夢見心地だったのをよく覚えている。
つまり、VT1倉庫に保管されているパルメカ因子の徴収リストは、当時の受刑者と役人たちのものがその大半を占めているのだ。月別でまとめられた資料の中でも最初期、十八年前のファイルを数冊棚から抜き取り、アルファベット順に並んだ名簿をAから一つ一つなぞっていった。何冊目かの中盤、Lの辺りで、マーカス・ロンドの名前に行き当たる。採取日はブラズダー・デイから三ヶ月後の十二月十四日。採取した感情の種類は怒り、苦しみ、悲しみの三つ。当時、役人から採取した感情は主にこの三つと決められていたから、特別他と比べて代り映えはない。さらに名簿をなぞっていく。ようやく探していた相手の名前を見つけ、感情サンプルの項目に目を走らせる。そこに書かれていたのは従来の怒り、苦しみ、悲しみの三つに加えて、後悔、恐怖、罪悪感の三つの感情。日付は十八年前の九月十五日、ブラズダー・デイの、その翌日だった。
ロンドはカビ臭いファイルを閉じ、深い溜息を吐き出した。最悪の仮説が、いよいよ現実味を帯びはじめていた。
すると突然、倉庫のドアが開いた。咄嗟にファイルを腕に抱き隠し、ドアの方を振り返る。
「ロンドさん、こんなところでなにをしているのですか」
「……フューリーか。いや、なんでもない。資料の確認をしていただけだ」
慌てて言い繕うロンドのもとに、フューリーがカツカツと足音を立てて近づいてくる。階級は二人とも同列の部長職だが、年齢はロンドの方が十以上も上である。
「ほう、徴取リスト……十八年前のものですか。誰の記録を確認していたんですか?」
「お前のだよ。局内の嫌われ者がいかにして今の階級まで昇り詰めたのか、その不正を暴いてやろうと思ってな」
「私はただ世の趨勢を読み取るのが上手いだけですよ」
「……そんなことより、スペクトルームに書き残されていたという古ドリン語の文章はもう見つけたのか? うちの部下のラブラクはとっくに見つけて、次の行動に移ってるぞ」
「ほう……だから彼らは早々と部屋を出ていったわけですか」
「あいつは古ドリン語が読めるからな」
「なるほど……」フューリーは思考を咀嚼するように一つ二つ頷くと、なにやら意味深長に口角を釣り上げニヤリと笑った。「彼を今回の捜査に指名したのはマッキング局長でしたね?」
「それがどうした」
「もしかするとこれは、我々が予想している以上に重要な局面なのかもしれません」
「なにが言いたい」
「いえ……とにかく今はお互い、事件の早期解決に向けて頑張りましょう。では、また」
フューリーはそう言うと、くるりとロンドに背を向け、VT1を出ていった。それから少ししてロンドも倉庫をあとにし、地下五階の税務部に戻った。忙しなくデスクの椅子に腰を下ろし、立ち上げたコンピューターでバーガルタンクのデータベースを開く。先ほどファイルで確認した人物の名前をそこに打ち込むと、その人が過去に採取してきた感情データの詳細が表示される。その人物は十八年前の九月十五日に一度目の血液採取をして以降、初めの頃は二週間に一度のペースで後悔と罪悪感の二つを抜き取っており、それが徐々に月に一度、二ヶ月に一度、半年に一度と頻度を減らしていき、最後に採取をしたのは五年前となっている。二ヶ月に一度のスペクト税を納めている記録はないが、これは政府上層部の人間としては珍しいことではない。それよりも、彼がなぜ五年前まで後悔と罪悪感を採取していたのかが問題だ。そしてなぜ、採取しなくなったのか。採取する必要がなくなったのか、採取する感情自体が彼の中から完全に失われたのか。
《殺したよ───》
ふたたび、十八年前の声が脳裏に響く。
《さっきの女はどうなった───》
《殺したよ。仕方ない。あれはなかったことにしよう───》
デスクの上に両肘をついて頭を抱え、滲み出る額の脂汗を手のひらで拭う。場合によっては今後、この手でハミセルを殺さなければならなくなるのではないか。いや、ハミセルだけではない。もしかするとエリスも自分が───。そんな予感が、ロンドの胸にむくむくと膨らみつつあった。
3
「お前の言う神っていうのは、やっぱりアレか。最近、街中でチラホラと噂になってる、あの神のことか」
ダイナスがフロントミラーを見上げて訊ねると、後部座席に丸まって座るペトリス・ジラームは震えるように頷いた。
「ああ……、この国に……真の平和をもたらす神が降臨するって話だ。俺も最初は馬鹿にしてたが……段々と、信じるようになった。だって、この国はどう考えたって普通じゃない。そうだろ? それなのに……それなのに、周りの人間たちは平然と……」
「さっきの女と同じかもな、ザック」
そう言って隣の運転席に顔を向けるが、ハンドルを握るザックは不機嫌そうに正面を向いたままなにも答えない。
「女……? その女は……反政府組織のメンバーなのか?」ジラームが伏し目にしていた顔を上げる。
「まぁな。もしかして知り合い……なわけねぇか。お前、別に反政府組織に入ってたわけじゃないんだもんな」
「……ああ」
「神の噂を流してる連中と、反政府組織の連中は同じじゃないのか?」
「さぁ……、知らない」
ジラームはふたたび伏し目になって、かぶりを振った。
遡ること数分前、矯正施設の敷地の外にある古い公衆便所で、施設から脱走した数値異常者のジラームを見つけたダイナスは、彼を連れてコンラルド通りに向かい、そこに待機していたザックの車に飛び乗った。後ろの席に乗り込んできた見知らぬ男にはじめは困惑していたザックだったが、すぐに状況を察知し、怒り、呆れ、数秒ののち諦めたように溜息をついて、車を発進させた。
「これがバレたら、俺もダイナスさんも終わりだ……」ザックが隣でぼやくようにひとりごちる。
「それじゃあ、バレないように頑張らないとな」
「バレないようにって……」
ザックのもう何度目かも分からない溜息が足元に沈む。彼の運転する警察の移送専用車両はダイナスの指示で、ひたすら西に向かっている。
「でも、なんで……なんであんたら、俺を施設に送り返さないんだよ」
後ろからジラームが前の二人のどちらにというでもなく訊ねる。依然として、その声には警戒心を滲ませている。
「嫌いなんだよ、あの施設」ダイナスが答える。
「嫌いって……あんたら、警察なんだろ? あっち側の人間じゃねぇか」
「君と同じなんだよ、俺たち」今度はザックがフロントミラーに目を向け、答えた。「俺もダイナスさんも、君と同じ数値異常者なんだ」
「な……そ、それじゃあ、なんで……」
「なんで施設に送られないのか。答えは簡単だ」ダイナスは口に咥えた煙草に火をつけ、助手席のウィンドウを少しだけ下げた。二月の冷たい風が車内に吹き込んでくる。「俺の知り合いが感情局のお偉いさんでな。その人が俺やザックの数値異常をごまかしてくれてるんだ。あんなところで研修を受けるなんて御免だからな」
「研修……? 違う、そんなんじゃない」
「地獄、だったな。お前、あそこに入れられて、なにをされた?」
訊ねた途端、ジラームの顔がふたたび青褪めていくのが分かった。当時の記憶を脳裏に蘇らせているのか、ごくりと生唾を飲み込む音が聞こえた。
「……入所してすぐ、まずは……このボロ布に着替えさせられた。そのあと施設の地下にある薄暗いホールに連れていかれて……そこで、他の数値異常者と一緒に整列させられた。よく分からない薬を飲まされ、意識が朦朧とする中、一時間に一度の頻度で血液を抜き取られた。俺はまだ……無事な方だったんだ。だから脱走ができた。でも……他の奴らは発狂したり、血を吐いたり、最悪の場合、その場で死んだり……。中には騒いでいた奴が急に落ち着きを取り戻して、ニコニコ不気味に笑い出したり……。ホールには俺みたいな数値異常者以外にもいろいろな奴らがいて、そいつらのほとんどは……なんというか、無表情で、よく分からないけど、訓練みたいなことをさせられてた」
「訓練……」
ザックが確かめるような目をこちらに向けてきたので、ダイナスはさりげなく眉を浮かせてそれに応えた。もう一度、フロントミラーに視線を上げる。
「その、急に落ち着きを取り戻した奴はそのあとどうなった? すぐに釈放されたんじゃないか?」
「そう……そうだよ、血液を抜き取られたあと、俺たちは症状別に分類されて、そういう奴らは施設の人間におめでとうとか終了だとか言われていたから……多分、早々に釈放されたんだと思う」
「なるほどなぁ……」
ダイナスの口から吐き出された紫煙が窓の右から左へ消えていく。そろそろ寒くなってきたので、まだほとんど減っていない煙草を道路に投げ捨て、ウィンドウを閉める。
「ど、どういうことだよ……」
「ほら、さっき、前にもお前みたいな脱走者が一人いたって話をしただろ? 一年くらい前の話だ。あの時、俺はそいつをすぐに施設に送り返した。いろいろあってな。そしたら、その二週間後のことだ。施設から釈放されたそいつが俺のところに挨拶にきたんだ。あなたのおかげで自分の愚かさとこの国の美しさに気づきました、なんて嘘くさい笑顔を浮かべてな。そのあと、そいつはどうなったと思う?」
「それは……、あんたが殺したって、さっき……」
「俺に会いにきた二日後、施設を出て働きはじめたレストランの屋上から飛び降りて、自殺したんだ。俺が矯正施設に送り返したせいでそいつの様子がおかしくなったのは間違いない。だから、俺が殺したも同然だ」
「そ、その男に、なにがあったんだよ……」
「さぁな。でも、ここにきてまた新たな脱走者が現れた。お前だ、ジラーム。だから俺は今度こそお前を保護すると決めた。一年前にあの男が自殺した理由も、これで分かるかもしれないからな」
「俺は反対ですけどね。こっちのリスクが大きすぎる」
「まぁまぁそう言わずに。ポジティブに考えてみろよ。これが大きなヤマになってそれを解決できりゃ、俺たち大出世だぜ?」
「その前に見つかれば出世どころかクビ、いや、それどころか投獄、施設送りです。この男の言うところの地獄行きですよ」
「だからバレないように頑張ろうって言ってんだろうが」
「……で? これからどうするつもりなんですか?」
「とりあえず、このまま西にまっすぐ車を走らせてくれれはいい」
「まったく……」
三人を乗せた移送専用車両はダイナスに言われるがまま、ひたすら西に向かって走行を続ける。
4
第一研究室の中から怒鳴り声が聞こえてきている。わざわざ顔を確かめるまでもなく、マッキングの声だと分かる。
「何度も言わせるな! できない理由などないだろう!」
「それはこちらのセリフだ。何度も言わせるな。人から信仰心は奪えない」
荒ぶる怒声に、落ち着きのある声が言い返す。ハミセルもテレビや局内放送で何度か耳にしたことがある、スペクト博士の声だ。酒焼けしたようなしゃがれ声だが、そこにはこちらの心臓を打つような力強さもあった。
「だが、結局は疑心も可能だったではないか」
「疑心にしても憎しみにしても完璧だったわけじゃない。君から取り除いてやった感情にしてもそうだ」
「俺は貴様に借りを作ったつもりはないぞ」
「私にしたって別に貸しを作ったつもりはないさ。とにかく、人の心からそう簡単に信仰心は奪えない。むしろ奪おうとすればするほど、君たちの首を絞めることになる」
「そんな弱腰とは、天下のエルヴィン・スペクトの名が聞いて呆れるな」
「好きに言えばいい」
「……まぁいいさ。どうせ今日中に法案は可決される」
「そうやってまた国民の感情を抑えつけるのか。先日のパルメカ税の徴収結果がなにを意味しているのか分からんのか」
「数値異常者が出たなら全員施設に送ればいい。数は多いに越したことはないからな」
「それが悪手だと気づけない君たちが哀れでならないね」
「この国の平和と国民の幸福のためだ」
「自分たちの保身と強欲さゆえだろう」
研究室のドアが乱暴に開き、中からマッキングが姿を見せた。苛立ちを露わにする彼は目の前で棒立ちになるハミセルに気がつくと、逆立てた眉を怪訝そうにひそめた。
「ラブラク……、なぜお前がここにいるんだ」
「お疲れ様です、マッキング局長」ハミセルは慌てて片手を額に当てて敬礼をした。「今回の事件で少し気になるところがあり、それについて少し、スペクト博士にご意見をうかがおうと」
「グロークはどうした」
「彼は今、矯正施設で起きた事件の応援要請を受け、そちらに向かっています」
「……あの役立たずが。今すぐこっちに……あぁいや、なんでもない。俺の方から連絡を入れる。まぁせいぜい頑張りたまえ。あんな老いぼれの意見なんて当てにするだけ時間の無駄だとは思うがな」
「はい……」
怒り肩で去っていくマッキングの後ろ姿を、しばらくハミセルは呆然と立ち尽くして見つめた。彼がグロークを役立たずと吐き捨てた理由も、そもそも彼がなぜここに来ていたのかも分からない。マッキングの姿が完全に見えなくなると、ハミセルははたと我に返って研究室に向き直った。右の拳を持ち上げ、ドアをノックする。
「勝手に入っておいで」
中から応答があったのでドアを開けると、そこは我が国最大の頭脳を誇る博士の研究室というより、庶民の家のリビングのような、こぢんまりとした造りになっていた。中央に横長のテーブルが置かれ、正面右手に据えられたキッチンの両脇には、背の高い木棚が一つずつ立っている。部屋の奥に鉄製のいかにも堅牢そうな扉があり、どうやらそこから先が本格的な研究室となっているようだった。
スペクト博士はキッチン脇の木棚の前で背伸びをし、一番上の引き出しの中から大きな紙箱を取り出そうとしているところであった。
「お……お邪魔いたします、自分は感情局税務……」
緊張のあまり声を上擦らせるハミセルに、スペクト博士はくるりと体を向けて、細めた目尻に深い皺を何本も寄せた。無造作に飛び跳ねた白髪頭はいかにも博士然としているが、実際に初めて相対してみると、テレビや写真で見る時のような近寄りがたい雰囲気はなく、むしろどこにでもいる優しい老爺のような親近感がある。身長は極めて低く、ハミセルの胸の高さほどしかなさそうだった。
「ラブラクくんだね。名前は?」
「えっ……と、はい、ハミセル……と申します。あ、あれ……ど、どうして私の……」
「汝、神の声を聞く時、神もまた汝の声を聞くと知るべし。今そこで君とマッキングくんが話している声が聞こえてきたのだよ」
「そうでしたか……」
「まぁまぁとにかく、中に入りなさい。外は冷えるだろう。なにか温かいものでも飲んでゆっくり話そう。さしずめ、今朝がた盗まれた感情データについてだろうがね」
スペクト博士はすべてを見透かしたようにそう言うと、木棚から取り出した紙箱をテーブルの上にどさりと置いた。
「はぁ……」ハミセルは促されるまま、テーブルの椅子に腰を下ろした。
「なにがいい? 昔からいろいろな国のお菓子や飲み物を集めるのが趣味でね。この箱はそんな私の趣味が詰まった宝箱なのさ」
「緑茶は……ありますか?」
先ほど警備室でシモンに出された緑茶の味を思い出し、駄目元でそう訊ねてみると、スペクト博士はニヤリと得意げな笑みを浮かべて、箱の中からティーバッグを一つ取り出した。
「もちろんあるとも。では、今日は緑茶にするとしよう。これも昔はもう少し気楽に飲めたものだが、この国が輸入規制をかけて以来、すっかり贅沢品になってしまったね」
「しかし、輸入規制はこの国の経済を守る上で仕方のないことです」
政府が海外からの輸入に関して厳しい規制を設けた理由はいくつかあり、一つ目はもちろん戦争である。敵対国に対する輸出入の全面規制は戦時中から引き続き行なわれていて、今のところそれが緩和に向かう見込みはない。あともう一つ、規制の大きな理由として挙げられるのが、国内産業の再興と自国民の雇用促進である。政府主導で国外の企業を排斥し、重点的に国内企業に大金を投資することで、国内経済の回転が潤滑になり、企業側の雇用意欲も戦後みるみると上昇した。
白艶の美しい二人分のカップにティーバッグをセットし、そこにスペクト博士が、お湯をとくとくと注いでいく。たちまち、部屋の中は茶葉の香りでいっぱいになった。スペクト博士はハミセルの向かいの椅子に座ると、紙袋から今度は大きなスチール缶を取り出した。中身はぎゅうぎゅうに敷き詰められたクッキーのようだ。
その中から一つ、特に色鮮やかなクッキーをつまんで口の中に放り込み、砂糖のついた指先と指先を擦り合わせて、「さて」と言う。「それじゃあ、そろそろ本題に入ろうか」
「はい……、お願いします」
ハミセルは胃の底から迫り上がってくる酸性の唾を無理やり飲み込み、コホンとひとつ咳払いをして気合いを入れた。せっかくここまでやってきたのだから、今さら萎縮してしまっては駄目だ。この事件はなんとしてでも自分の手で解決しなければならない。我が国のために、自分のために、そしてなにより、エリスのためにだ。
*
まず、ハミセルは国家保安省本部ビルの入館履歴の紙をテーブルに広げた。約二週間前の二月五日、午前十一時半のタイミングでスペクト博士とハース国家保安大臣、フロッシュ首相の三人がビルのセキュリティゲートを通過した記録がそこに残っている。
「ここに、あなたの名前が」
「うむ……」スペクト博士は広げた紙をしばらく見下ろしたあと、口の上の白髭を指先でぽりぽりと掻きながら、何度か顎を上げ下げさせた。「たしかに、二月五日の午前十一時半に私は国家保安省を訪ねているね。あそこにはスペクトルームの確認のために何度も足を運んでいるから、それ自体は別に珍しいことではないが……しかし、そうだな、あの日はたしかハースくんに呼び出されたんだよ。パルメカ税について、相談があるとね」
「パルメカ税の、ですか」入館履歴を二つ折りに戻して内ポケットに仕舞い込みながら、ハミセルは眉を寄せて聞き返す。
「先日のパルメカ税徴収以来、国民の中で数値異常者が爆発的に増加しているのは君も知っているね?」
「ええ、まぁ」
たしかに、それは局内でも喫緊の案件であった。一月の最終週に実施されたパルメカ税の定期徴収にて、大量の数値異常者が発生したのだ。ハミセルが担当しているパージスト州イルダ地区でも、のべ百二十五名もの数値異常者が記録された。
そもそも数値異常者という存在自体、限られた少数の人間内でしか共有されていないものであり、税務部所属のハミセルも二ヶ月前にペトリス・ジラームの名前を見るまではまったく認識していなかった。それが今回の爆発的増加で否が応でも局内全体の知るところとなり、政府はパルメカ税の改正案を可決させ、それまでの通例であった二ヶ月に一度の徴収から、一ヶ月に一度の徴収に変更した。そしてその翌日、つまり今日、国家保安省の地下十五階、スペクトルームに集められた国民の感情データが突然、何者かによって盗み出されたのであった。
「十三年前にパルメカ税の徴収を開始して以来、この量の数値異常者が一度に出たのは今回が初めてのことだった。その結果が出てすぐ、私はハースくんに呼び出された。それが件の二月五日に記録された私の入館履歴だよ。彼が私を呼び出した用件の一つは、パルメカ税の徴収頻度を二ヶ月から一ヶ月に変更することにリスクはあるかどうかの確認だった」スペクト博士はそこでひとくち緑茶を啜って、言葉を溜めた。「彼らはスペクト法を改正することで、この異常事態をなんとか収めようとしたわけだ」
「ど……どういうことですか?」
「そもそも数値異常というのは、血中にある特定のパルメカ因子が基準値よりも大幅に増加することで起こるのだが、君も知っての通り、パルメカ税の徴収の際、人間の血液から特定のパルメカ因子を完全に抜き取ることはない。あくまで軽減だ。軽減なのだから当然、血液には必ずまたパルメカ因子が生成される。政府はパルメカ税の徴収頻度を増やすことで、血中のパルメカ因子が一定数生成される前に、また抜き取ってしまおうと考えたのだ。そうすればパルメカ因子を基準よりも低値のまま平衡状態にコントロールできる。つまり、数値異常者をなくせる」
「そんなことが可能なのですか?」
「理屈では可能だ。しかし人間というのはそう単純な生き物ではない。必ずどこかでズレが生じる。計算上は平衡を保てるように思えても、その日の天候、気温、会話など、さまざまな要因によって、その平衡はいとも簡単に崩れる。もちろん、ハースくんにも同じように答えた」
「でも……」
「そう、政府は昨日、スペクト法の改正案を可決させた。私のその説得を押し切ってね。彼らもそれほど切羽詰まっていたということなのだろう」
「しかしその矢先に、感情データが盗まれた」
「大変な事態だな」と、そう言ってふたたび緑茶を口に含むスペクト博士は、どこか他人事のような口ぶりである。「だからこそ、先ほどマッキングくんがここに来た。私が前回、国家保安省で退けたもう一つの案件を再交渉しにね」
「どのような案件だったのですか、それは」
「人間の血中から、人の信仰心を抜き取ることはできるか」
スペクト博士は、被告に審判を下す裁判官のような目で、正面に座るハミセルの顔をじっと見つめた。
「信仰心を……?」
そういえば先ほどのマッキングとスペクト博士の会話の中でも、人の信仰心がどうのという会話が聞こえてきていた。
『───人の信仰心は奪えない』
『───結局は疑心も可能だったではないか』
と、そこでふとハミセルの頭の中に、また新たな疑問が浮かんだ。
「ちょ……、ちょっと待ってください。先ほどマッキング局長が言われていた、疑心とは一体どういう意味なんですか?」
パルメカ税の定期徴収によって、たしかに国民からは怒りや憎しみといった負の感情を抜き取ってきた。しかし、疑心が可能だった、とは一体どういうことなのか。人間の感情から疑心を抜き取るなんて、ハミセルは知らないし、聞いたこともない。
「……緑茶が冷めてしまった。少し場所を変えようか」
スペクト博士は二人のカップを手に取りキッチンに移すと、部屋の奥にある鉄製の扉に顎をしゃくった。
*
扉を抜けると、そこは異質で殺伐とした、まさに研究室と呼ぶにふさわしい空間であった。広さは手前の部屋の三倍から四倍はあるだろうか。部屋の至るところに大小さまざまな機械が立ち並び、無数の配線がそれらを互いに接続し合っている。素人目にはただ混線しているだけのようにしか見えないその配列も、スペクト博士の中では整然と秩序立てられた並びなのだろう。奥の一郭には折り畳み式のテーブルが三列に並び、その上になにやら禍々しい液体の入ったフラスコ瓶や、危うい気体を吹き上げる試験管やらが、これもまた一見すると野放図に放置されている。
中でも特に目を引くのが、入って正面に取り付けられた巨大なスクリーンである。小型の液晶パネルが縦に六つ、横に十一ずつ寄せ集まって、一つのスクリーンを形成している。一つ一つのパネルにそれぞれ別のコンピューターが連動しているらしく、そこに映し出されているのはすべて異なる図形や曲線、よく分からない数列なのだが、しかしそれを全体として俯瞰して見ると各々の光彩が一つの生命体のように蠢きながら、絶えずさまざまな文字───たとえばスペクト博士の「SPECT」であったり、パルメカの「PALMECA」であったり───を描き出している。
「悪いね、私の研究の話をするには、こっちの方が落ち着くもので」
「いえ……それで、先ほどの疑心というのは……?」
ハミセルはさっそく保留にしていた質問を、横に並んで一緒にスクリーンを見上げるスペクト博士に投げかけた。
「疑う心。そのままの意味だよ。考えてもみたまえ、おかしいとは思わないか? パルメカ税の徴収頻度を急に増やしても、突然音楽を禁止にしても、この国の誰も反対の声を上げないなんて」
「それは単に、政府に対する国民の信頼の現れなのでは?」
「ふふふ……」スペクト博士は意味深長に笑った。「思考停止と視野狭窄は身の破滅を招きかねないよ、ラブラクくん」
「……?」
「時に、人間と動物の違いはなんだと思う?」
「人間と、動物……ですか」
「それは、一度目で見たものを、ふたたび今度は心の眼で見ることができるか否かという違いだよ。動物は目で見たものをそのまま捉えることしかできないが、人間は自分の目で見たものを自分の心で見直すことができる。それを私は思考と呼ぶ。だから思考停止に陥ると表層的なものしか見えなくなり、やがては身の破滅を招くことにもなりかねない。観察は大事だよ、ラブラクくん。よく見ることだ。顔に付いた二つの目でなく、心にある一つの眼でね」
「すみません、よく意味が……」
ハミセルが正直に言うと、スペクト博士は肩を浮かせて、「そうだろうね」と、ふたたび笑った。「しかし、君のその反応こそが、君の質問の答えそのものなのだよ」
「どういう……」
「政府は国民から、疑うという感情を奪った。国民から心の眼を奪ったのだ。そしてまた、同じように今度は国民から信仰心を奪い取ろうとした」
「でも、どうして信仰心を……」
疑うという感情を国民から奪ったという、スペクト博士のその言葉はまだ理解しきれていないが、とにかく博士の主張としてはそういうことになっているのだろう。そして曰く、政府は今度は国民から信仰心を奪い取ろうとしており、スペクト博士はそれを拒んだ。と、そういうことらしい。
「今、この国で神の噂が話題になっているのを知っているかね? この国に真の平和をもたらす神が降臨するという、そんな噂だ」
スペクト博士が指先で円を描くようにして言う。
「一応……、なんとなくは耳にしていますが」
詳しいことはよく知らないが、最近、この国の至るところで『神の降臨』を謳う噂が出回っているというのは、たしかに耳にしたことがある。
「神の噂の起こりは定かではないが、私の認識では十八年前の時点ですでにそれは街中に存在していた。パルメカ税の徴収開始と共に次第に薄らいでいったが、初期の頃の数値異常者たちの間ではまだ生き続けており、それが今日まで連綿と語り継がれてきたのだ。数値異常者が街中で神の噂を語り、新たな数値異常者がそれを耳にする。そうやって噂は拡大していき、そうなるにつれ、その噂を耳にした健常者の感情にも乱れが起こり、数値に異常を来たすようになる。つまり、数値異常者と神の噂はまったく別の話などではなく、それどころか根底の部分で密接に繋がっているのだよ。だからこそ、これまで神の代わりのような役割を担ってきた政府の人間は、国民から信仰心を取り除こうした。これ以上、数値異常者の増加と共に神の噂が拡大すれば自分たちに対する信頼が揺らぎかねないからね」
「そんな馬鹿げた噂……」
信じる人間の気が知れない。十八年前にすでに信仰を捨てているハミセルにしてみれば、神の降臨などというものは単なる妄想でしかなく、その噂と数値異常者が結び付いているのなら尚更、数値異常者が健常者ならざる者であるなによりの証拠のように思えた。
「どれだけ馬鹿げていようが、それが政府にとっての脅威であることに変わりはない。だからおそらく、彼らは今日にでも愚かな強行策に打って出るだろう」
「強行策?」
「信仰の禁止を法律で禁止するのだ。パルメカ因子から信仰心を徴収できないのであれば、そうする以外に方法はない。法律で神の存在を否定することで、国民の信仰心を無理やり抑え込もうというわけだ。かつて、この国が音楽を禁止した時と同じようにね」
「……人間の感情から信仰心を抜き取ることは、やはり不可能なんですか?」
「いや、これもやはり理屈では可能だ」スペクト博士は平然と頷いた。
「では、なぜそれを博士は退けたんですか? 信仰を法律で禁止するのが愚かとおっしゃられるのなら、政府の要請に従うべきだったのでは?」
「なぜ……そうだね、今のこの国が嫌になった、とでも言っておこうか」
「そんな……」
ハミセルはこの時、初めてスペクト博士に対して嫌悪感を覚えた。政府からの協力要請を拒否するということは、自分が国家を危機に陥れようとする売国奴であると自ら白状しているようなものではないか。政府が国民の感情を管理するのは、国家と国民を逆賊から保護するための極めて有用な防衛手段である。そのための案を拒否しておいて次善の案さえ批判するとは、いくら天下のスペクト博士といえども、あまりに傲慢で無責任ではないのか。
「さて、他に質問はあるかね?」
失望感を露わに呆然とするハミセルだったが、不意に正面の巨大スクリーンに映る「VAGAL」の文字を目にして、肝心なことを思い出した。
「そうだ、古ドリン語……。事件のあったスペクトルームに、古ドリン語の文章が書き残されていたんです」
「ほう!」今までどの話をしてもどこか他人事だったスペクト博士が、そこで初めて強い関心を示した。「君は古ドリン語を理解できるのかね?」
「え……ええ、まぁ」
スペクト博士のその態度の変化に、ハミセルも思わずたじろいでしまう。
「今どきその言葉が分かる人間はかなり希少だ。私も専門ではないが、多少の心得はある。それで? そこにはなんと?」
「ボルカ・デ・フマニア・アン・デ・ドリネア。人は時にそれを神と見紛う、と」
「なるほど、人は時にそれを神と見紛う、か。問題は文頭のボルカ、つまり《それ》がなにを差しているのかだ。君はどう思う?」
「単純に考えれば、感情でしょうか」
「早計は大敵だよ、ラブラクくん。まずは状況を整理してみようじゃないか。その文章はスペクトルームのどこに刻まれていたんだね?」
「RLVに取り付けられたプレートの底です。バーガルタンクのスローガンが書かれた、あの」
「ということは、君の言う古ドリン語はもしかすると、そのスローガンに対応しているのかもしれないな。今ここで、その言葉を諳んずることはできるかね?」
「もちろんです。フィ・ルスト・ルース・アン・デ・バーガル。つまり、感情に支配される時代は終わった。博士のおっしゃるように二つの文章を対応させてみると……やはりここでのボルカのそれは感情を意味するバーガルを差していると考えるのが妥当では?」
「いや……」と言って、スペクト博士は小さな体で腕を組んだ。「私には、ボルカは文章全体を差しているように思えるね。感情に支配される時代は終わったという文言そのものに対する警句だよ。感情に打ち勝ったと思い込んでいる我々人間へのアンチテーゼだ」
「人間はまだ感情に打ち勝てていない、ということですか?」
「そういう捉え方もできる、ということだ。ところでラブラクくん、君はひょっとしてドリニアル教の聖典にも精通しているのかね?」
「精通というほどではないですが、多少は」
「それじゃあ、その聖典の序文に書かれた『FIRA DORINUS FI DORINEAという一文も分かるね?」
「ええ、神と神々、という意味ですよね」
ドリニアル教の聖典は一冊の本にまとめられていて、今でこそ見かけなくなったが、遥か昔は各家庭に一冊ずつ置かれているのが普通だったという。その一ページ目に聖典の内容とは独立した形で書かれているのが、『神と神々』という古ドリン語の一文であった。
「君はその言葉を、どう解釈する?」
「解釈……ですか」
と、その時、ビーッ! ビーッ! と虫の鳴き声のようなアラーム音が、研究所内にこだました。音のした方に目をやると、無数にあった機械のうちの一つの頭部に取り付けられた三角錐型のランプが赤く点灯していた。
「おっと……すまないが、ラブラクくん、今日はここまでにしよう。今の話は次に会うまでの宿題だ」
スペクト博士はそう言うと、アラームを止めて奥のテーブルに歩み寄り、そこに並んだフラスコ瓶を一つ一つ手に取りながら、中の液体を確認しはじめた。
「え……でも、まだ話は……」
「それもまた次回にしよう。これ以上、今の君になにかを説明しても、理解するのは難しいだろうからね」
「……分かりました。では、失礼します……」
「ああ、また会えるのを楽しみにしているよ」
こちらに背を向けたままヒラヒラと手を振るスペクト博士にハミセルは頭を下げて、研究室をあとにした。
5
背後で鉄の扉が閉まる音がする。ボルカ・デ・フマニア・ドロス・アン・デ・ドリネア。ハミセルという名のあの青年が口にした言葉を頭の中で反芻しながら、スペクトは口元の微笑を噛み殺した。無垢な若者の機嫌を損ねてしまっただろうか。しかし、変化というのは往々にして、現状に慣れている者にとっては心地の悪いものなのだ。情緒がひどく揺り動かされてしまうのも無理はない。
また会えるのを楽しみに、なんて言ってしまったが、その次が来る頃にはきっと事態も今とは大きく異なっている。それが明日になるのか、来年になるのか、はたまた永遠にやってこないか、それはまだ知る由もないが、少なくとも互いに無事ではいられまい。どちらかが死に、どちらかが生き残る。あるいは両者共に命を落とす可能性もある。スペクトにとって今の興味はもっぱら、果たしてその時、誰がここに刺客として現れるか、ということであった。
テーブルの上に並べたフラスコ瓶に専用のコルクで蓋をする。また失敗だ。世間では天才やら科学の権威やらと持て囃されてはいるものの、これまで繰り返してきた実験の99%は失敗に終わった。研究とは、そういうものだ。今回もまた、限りなく0に近い1%の成功を目標に実験を繰り返してきたが、どうやらその努力は結実しそうになさそうだ。天下のエルヴィン・スペクトの名が聞いて呆れる。まさに、マッキングの言う通りである。
正面の巨大スクリーンと向き合う格好で、椅子に座った。壁面に収納した板状のテーブルを引き出し、そこに嵌め込まれたキーボードに自らが立てた計算式を打ち込んでいく。これまでに起きた出来事と、これから起きうる出来事を数値に置き換え、それを掛け合わせて未来を予想する。簡単な計算式で確実性は低いが、先々のおおまかな指針を立てるには多少なりとも役に立つ。
「さて……この国の行く先はどうなる?」
巨大スクリーンの中で蠢いていた各々のパネルの光彩が、細かく離散し、ふたたび寄せ集まって、一つの文字を作り出す。
と、その時、地上一階の受付からジリジリと内線電話が鳴った。
「もしもし」
『博士にお電話が来ています』
「誰からだね」
『それが……博士に代わってくれれば分かる、と。ただ、この番号はおそらく国家保安省のものですね』
「なるほど、分かった。こっちに繋いでくれ」
受話器を耳に押し当てたまま、正面の巨大スクリーンを仰ぎ見る。そこに映し出された計算式の答えを飲み込むように、スペクトはゆっくり顎を引いて頷いた。
『DE ERDIA』
デ・エルディア。それは、古ドリン語で破局を意味する言葉であった。