表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/24

第二話


 入局以来、初めて足を踏み入れるスペクトルームは、そこだけ磁場が狂ったかのような重々しさの漂う異質な空間だった。乾燥しているのに湿度を感じ、酸素濃度が薄く、息苦しい。事件があった影響というよりは、この無機質なコンクリートに囲まれた部屋の至るところに、これまで徴収してきた国民の負の感情が沈着してしまっているような閉塞感だ。

 二ヶ月前に隣室のVT13倉庫の窓ガラスから覗き見た時はひと気もなく深閑としていたスペクトルームは今、一つの体の中で蠢く無数の細胞のように、難しい顔をしたこの国の重鎮たちで埋め尽くされている。

 隣に立つマッキングの内ポケットの中で彼の携帯端末がプルルルと鳴った。彼は舌打ち混じりにそれを取り出すと、ハミセルとグロークに視線をやった。

「悪いが俺も今は手一杯でな。あとはお前たちに任せるが、それでいいな?」

「はい、了解しました」

 そのままマッキングは誰かと通話しながら、スペクトルームを出ていった。局長である彼が敬語で応答していたので、電話の相手はおそらくハースか、それよりも上の人間だったのだろう。そもそもこの場所は普通の電波が届かないよう特殊な電波妨害システムが張られているのだが、マッキングをはじめとしたこの国の要人たちの携帯端末はさらに特殊な回線を使用しているため、地下深くにいようが空高くにいようがどこでも連絡を取り合うことができた。

 マッキングが去り、いよいよ味方を失ってしまったハミセルたちは、なにから手をつけたものかとしばらくその場に立ち尽くすしかなかった。すると、そんな二人のもとに、一人の男がつかつかと歩み寄ってきた。

「君たち、ここでなにをしている?」

 国家保安省感情局内部監査部部長、エファク・フューリーである。年齢は四十五歳と、ハミセルとは五つしか変わらないが、その堂々たる佇まいには五十代、あるいは六十代と見紛うほどの風格がある。ポマードで固めた髪はいかにもインテリといった感じで、凛と伸びた背筋はどこかハース大臣を彷彿とさせる。彼が今のポストに就任したのは五年前、前任のマッキングが感情局局長に昇格した際の交代人事であった。

「はっ、国家保安省感情局税務部所属のハミセル・ラブラクと、こちらは矯正部所属のジャック・グロークであります。アルト・マッキング局長の命のもと、今回の事件の捜査にあたらせていただくことになりました」

「ハミセル……そうか、君が」フューリーは値踏みするような目でハミセルを見やり、そのままグロークにも視線を転じて、なにかに得心したのか小さく頷いた。「……なるほどな。皮肉というのか、なんというのか。面白くなりそうだな」

「……? どういう意味でしょうか」

「いいや、なんでもない。ところで、ラブラクくんは感情局に来る前はどこにいたのかね?」

「外務省に所属しておりました」

「その前は?」

「その前は……学生の時分に戦争に参加したので、陸軍に従軍を」

「うむ。やはりな」

「あの……それがなにか関係しているのでしょうか」

「いや……してないな」

 フューリーは鼻を鳴らして、かぶりを振った。どこか人を食ったような態度である。そういえばいつだったか、どこかで彼の悪い噂を耳にしたなと、ハミセルはふと思い出した。自分の昇進と保身のためなら平気で仲間を裏切るというような、そんな噂だ。局内では彼のことを「風見鶏野郎」と揶揄する声も少なくなかった。

「それで、私たちはまずなにをすればいいのでしょう」

 グロークが訊ねると、フューリーは肩をすくめてそれに答えた。

「捜査をするんじゃないのか?」

「ですから、その……」

「必要になればこちらからまた君たちに声をかける。とりあえず君たちは君たちだけで、なんとかやってみたまえ」

「しかし……」

「まぁせいぜい、下手を踏まないことだな」

 フューリーはハミセルとグロークを順番に見やると、それ以上はなにも言わずに、二人のもとを離れていった。にべもないとはまさにこのことである。しかし、たしかにこれは国家規模の大事件なのだから、組織の末端がしゃしゃり出たところで邪険に扱われてしまうのも無理はないよな、とハミセルは思った。



 事件の大元であるコンピューター《RLV》のそばまで近寄ってみると、それはVT13の小窓から覗き見るよりも、当たり前だが、さらに巨大で、言葉にはしがたい威圧感のようなものがあった。しかし、いつもなら箱型の機械の腹部で明滅を繰り返している無数のランプが今はその色彩を失い、唯一、床との接地面にある通気孔から鳴る空吹きだけがゴウンッゴウンッと渇いた唸り声をあげている。それはまるで天寿を全うした老獣の最期の姿のようで、ハミセルはそこに、なんとなく寂寞とした哀愁を感じた。

「ランプが消えている以外に、変わったところはないな」

 グロークが機械全体を見渡すようにしながら言う。たしかに、色鮮やかだったランプが消灯している以外に、たとえばRLVと周辺機器の接続部分が焦げついていたり、細かいコードが錆びついていたりといった、いわば事故的なエラーが起きてしまったような形跡は見当たらない。やはり何者かが外部からこのコンピューターをハッキングし、中に保管されていた感情データを抜き取ったということなのだろうか。

 RLVの下部に少しだけ出張った箇所があり、そこに銀色に鈍く光る鉄板のプレートが取り付けられている。横に一メートル、縦に数十センチといったところか。すでに現代では使われなくなった古ドリン語で、

FI RUSTO(フィ ルスト ) LUUS AN DE(ルース アン デ ) VAGAL(バーガル)

 つまり、

《感情に支配される時代は終わった》

 と刻み込まれたプレートだ。これは、スペクト博士によるパルメカ因子の発見を政府が発表した際に用いた言葉で、それがそのままバーガルタンク開局時のスローガンになったものだった。《RLV》という名称も、このスローガンが元になっている。Rusto Luus Vagalの頭文字を取って、RLVである。

 と、その時、ハミセルはふと、プレートのふちのところの一部に、小さな傷ができているのに気がついた。取り付ける際になにかで削ってしまったのだろうか、それにしてはまだ真新しそうな傷である。なんとなく少し気になって、腰を屈めて底を覗き込んだ。その瞬間、ハミセルは、目を見張った。

BOLUKA DE(ボルカ デ ) HUMANIA(フマニア ) AN DE(アン デ ) DORINEA(ドリネア)

 そこに刻み込まれていたのは、《しかし、人は時にそれを神と見紛う》という意味の古ドリン語であった。

 そもそも、この国の名前にもなっているドリンとは、古ドリン語の《DORINUS(ドリヌス)》つまり《神々の〜》という言葉に由来している。ドリン共和国は元々、この世の森羅万象に神々の存在を見出す多神教の国だったのだ。

「グローク、これを見てくれ」

 ハミセルがグロークにも底を見るよう促すと、彼は腰を屈めて上を見上げたまま、怪訝そうに片眉を捻った。

「……なんだこれ、誰かの落書きか?」

 彼がその文章を落書きと勘違いしてしまうのも無理はなかった。今のドリン共和国に古ドリン語を解読できる人間は政府要人も含めてほとんどいない。元々、今や数少なくなったドリニアル教の敬虔な教徒だったハミセルだからこそ(教徒であっても古ドリン語を読める人間は多くないが)、偶然にも、その文章を読み取ることができたのだ。

「古ドリン語だよ。人は時にそれを神と見紛うっていうのは多分、ドリニアル教の聖典に出てくる一節をもじってるんだと思う」

「なんだそりゃ」

「聖典の内容は知ってるか?」

「なんとなくは知ってるよ。神の部族と人間族が喧嘩を始めて、それを神と人間の子供が仲裁するって話だろ」

 正確には、神族と原初の人間族の間で起こる争いの物語で、その争いの最中に突然、神族と人間族の子であるキームシュが降臨し、二つの種族の間に入って平和のための仲裁をする、という物語である。民俗学的には神話に分類されるが、ドリニアル教の教徒たちは古くからこれを聖典として定めていた。

「その聖典によく出てくるのが、『人はそれを神と見做す』っていう言葉なんだ。ドリニアル教では、木にも水にも空にも土にも、この世のすべてのものに神が宿っているとされているからな」

「あれか、アニミズムってやつか」

「まぁ、そんなところだ」

 今もアニミズム信仰を続ける地域は世界各地にあると聞くが、この国に限っていえば、その流れを汲む元来のドリニアル教を今も信仰している人間はほとんどいない。時代が進むにつれ聖典の解釈にも幅が生まれ、平和をもたらした仲裁の神キームシュこそが唯一神であるという一神教の概念が誕生したからだ。しかし、その一神教としてのドリニアル教でさえ戦前の時点で他国の文化の流入もあり形骸化していて、戦後に至っては形而上のなにかを信仰すること自体、かなり希薄化していた。

 さらに今の政府が発足すると、国民の神離れはより一層加速した。政府こそが神の代替者だと見做されるようになったからである。

 そのため、一神教の教徒にせよ多神教の教徒にせよ、ハミセルのようにドリニアル教の聖典を読んだ経験のある人間は、今やほとんど皆無に等しいのだった。

「それで、そのドリニアル教の聖典をもじった文章が、なんでこんなところに刻み込まれているんだ?」

「さぁ……」

 首を傾げて、もう一度プレートの底を下から見上げる。ペンではなく、釘か、あるいは錐のような先鋭の道具でそれは刻まれていた。体勢を戻し、辺りを見渡す。まず誰にこれを報告すべきか考え、すぐに思い直した。どうやらこの文章に気がついている人間はまだ誰もいない。幸い、こちらの様子を気にするような人間もいない。もしかすると、これは自分にとってチャンスなのかもしれない。そう思った。

「とりあえず、フューリーさんにこのことを……」

 先んじて行こうとするグロークの肩をハミセルは掴んで止めた。

「待て、グローク。フューリーさんにはまだ言うな。いや、誰にもだ」

「あ? どうして」

「この文章が今回の事件に関わってるかどうかはまだ分からない。そんな不確かな情報を上に渡しても、相手の仕事を増やしてしまうだけだ。もう少し、俺たちで調べてみよう」

 もし今回の事件を自らの手で見事解決できれば、今よりも高いポストに昇進することができるかもしれない。そうすれば給料も上がり、今も自宅のベッドで横になるエリスの治療の質も格段に上げられる。もちろん、手柄を独り占めしようなどとは思っていない。要はタイミングの問題だ。まだ研いですらいない一粒の米を渡すか、作りたてのリゾットを皿いっぱいに盛り付けて上納するか。そういう風に考えれば、己のエゴと組織への忠誠にも矛盾は生まれない。

「調べるって言っても、これだけのヒントじゃなにも分からないだろ」

「そうでもないさ。この古ドリン語の文章が今回の事件に関係して書かれたのだとすると、これを書いたのは感情データを盗んだ犯人と見て、まず間違いない」

「おいおい、待てよ。感情データはこのRLVのコンピューターをハッキングされて盗まれたんだ。なんでわざわざ犯人がここに来て、そんな文章を書いていくんだよ」

「ハッキングで盗まれたわけじゃないとしたら?」

「なに?」

「冷静に考えて、RLVのセキュリティがそう易々と破られるはずがないとは思わないか?」

 事件のあらましを聞いた時から、ずっと疑問に思っていたことではあった。ここに保管されている感情データは、国家機密レベルの代物なのだ。当然、それを保護するためにはそれ相応のセキュリティが必要になる。そもそもこの地下十五階のスペクトルームは、その存在すら世間一般には知られていない。要するに、ネットワーク上からこの秘密の部屋に侵入し、RLVの感情データを盗み取ることなど、ただの一般人には到底、不可能なのだ。

「でも、コンピューターには侵入された痕跡があるって」

「そっちの方がカモフラージュだったんだよ。犯人は俺たちにそう思わせて、捜査を撹乱しようとした。つまり、事件は実際にこのスペクトルームで起きていたんだよ」

「待て待て待て」グロークが広げた手のひらをハミセルの眼前に突き出す。「たしかにネットワークを介してのハッキングは難しい。だけど……わざわざこの国家保安省のビルに生身で侵入して、わざわざ地下十五階まで下りて、厳重に閉ざされたこの部屋のロックを解き、保管されている感情データを、なんだかよく分からんが手持ちの機器に移し、そして誰にも気づかれないまま地上に上がってビルを出ていく。そっちの方が明らかに難しいだろ」

「たしかに、外部の人間ならまず無理だろうな」

「外部の人間ならって……お前、まさか」

「ああ、もしかすると犯人は、この国家保安省の内部にいるのかもしれない」



 スペクトルームをあとにした二人は、エレベーターで地上に移り、そのまま国家保安省本部ビル一階の裏手にある警備室に向かった。今回の事件がネットワーク上による犯行ではなく、生身の人間によるものだとすれば、このビルに設置してある無数の監視カメラに、その姿が捉えられている可能性は十分に考えられる。もしそこに怪しげな人影が映っていたなら、事件は九割がた解決したも同然だった。

「いらっしゃい。今度は比較的、表情の柔らかい方たちですね」

 訪ねてきた二人を招き入れたのは、白髪を側頭に少しだけ生やした老齢の男性だった。このビルの守衛長を任されている人物らしく、その落ち着いた佇まいと色褪せた紺の制服からも彼の経験値の高さが感じられる。胸に付けたネームプレートには、「シモン」とあった。

「すでに他の人間がここに来たんですか?」

「ええ、もちろん。事が事ですからね。怖い顔をした方たちが数名、ゾロゾロとここの監視カメラの映像を確認されていきましたよ。……あぁ、よろしければ」

 シモンはハミセルたちを部屋の片隅にある手狭な休憩スペースに促すと、簡易椅子に腰を下ろした二人に淹れたての緑茶を差し出した。

「どうも……」ハミセルは白磁器の中で湯気を立たせる緑色の湯を、物珍しげに見下ろした。

「緑茶はお好きですか?」

「いえ、初めていただきます」

 ひとくち啜り、その味の奥ゆかしさに思わず驚いてしまう。苦いのに、甘い。これまで飲んできたコーヒーや紅茶にはない、不思議な味だった。

「美味しいでしょう? 知り合いから貰った品でね、東洋産の良いお茶なんですよ」

「美味しいです」ハミセルは頷き、姿勢を正した。「それで、監視カメラを見た彼らは、なにか言っていましたか?」

「いいえ、なにも。なにせ昨晩から今朝にかけて、取り付けた監視カメラに怪しげな人影なんて一人も映っていませんでしたから」

 腰を痛そうにしながら、シモンが向かいの椅子に腰を下ろす。一瞬、ハミセルはこの男こそが犯人なのではないかと勘繰ったが、いかにもアナログそうなこの老人に感情データを盗む技術も目的もあるとは思えなかった。

「そうですか……」

「それに、犯人はネットワークを介してデータを盗んだと聞いておりますが、であれば、そもそもカメラに犯人の姿が映ることもないのではないでしょうか」

「ここに来た人間がそう言っていましたか?」

「ええ、地下十五階のあの部屋に誰かが侵入するなんてありえないと、みな口々にそう仰っていました」

「……ちなみに、たとえば監視カメラに映らずに地下十五階まで行く、なんてことは可能でしょうか」

「無理ですね」シモンは断言した。「もちろん方法はあります。しかしそれは事実上、不可能な方法です」

「というと?」

 訊ねながら、ハミセルは無意識に緑茶をもうひとくち啜っている。なんともクセになる味である。隣のグロークを一瞥すると、彼はあまりそれには関心はなさそうだった。

「この警備室には裏口がありますから、そこから中に入って、非常階段を使って地下十五階まで下りる。ビルの入口やエレベーター、各フロアに監視カメラは付いていますが死角がないわけではないので、そのようにすれば移動はできます。しかし……」

「そうするには、まずこの警備室に入る必要がある」

「そう。今日は私も一晩中ここにいましたが、この部屋にこっそり忍び込んでくるような輩はおりませんでした」

「本当ですか?」

 相手を穿つような目をして、グロークが前のめりになる。感情局員と、いち警備員という立場の違いがそうさせているのか、彼に遠慮や気兼ねのようなものはまるでない。

「嘘なんて言いませんよ、私は」

 戸惑うように眉を八の字にして苦笑を浮かべるシモンには、たしかに嘘を言っている様子はなさそうだった。

「あと一つ、簡単な質問をいいですか」ハミセルは人差し指を立てた。「ボルカ・デ・フマニア・ドロス・アン・デ・ドリネア。この言葉になにか心当たりはありませんか?」

「……ほう、古ドリン語ですね」一瞬、シモンの顔つきが変わった、ような気がした。「ドリニアル教の聖典に書かれている言葉と似ているようですが、少し違う」

「古ドリン語が分かるんですか?」

「母親がドリニアル教徒だったもので、少しだけですがね。しかし、それが一体どうしたというんですか?」

「RLVのプレートの底に、それが書かれていたんです」

「なるほど……人は時にそれを神と見紛う、ですか。いや申し訳ない。それがなにを意味するのかは、私には皆目見当もつきませんね」

 その後、ハミセルたちは念のため、このビルの入館履歴を確認させてもらうことにした。渡された紙の枚数は何十枚にも及んだ。コンピューター上に記録されたデータを、わざわざシモンが紙に印刷してくれたのだ。さすがにここでそのすべてを確認するわけにもいかないので、とりあえずは直近三ヶ月分の履歴に目を通してみることにした。

 ハミセルはもちろん、グローク、マッキング、ハース、ロンド、フューリーといった国家保安省内部の人間がリストのほとんどを埋め尽くす中、時折、当省の所属ではない人物の名前も散見された。防衛省の官僚から警察幹部まで。その中の一人に、ハミセルは注目した。

「エルヴィン・ヴェルネル・S・スペクト。スペクト博士もこのビルに来たことがあるんですか?」

 二週間前の二月五日、午前十一時半と十二時に二度、パルメカ因子の発見者であるスペクト博士が国家保安省のセキュリティゲートを通過していた。

「あの人はいわばバーガルタンクの生みの親ですからね。地下十五階のあの部屋をスペクトルームと名付けるくらいだ。気まぐれでRLVの状態を確認しにきていても、不思議ではありませんね」

「なるほど……」

 手元の紙をまじまじと見つめて思案顔になるハミセルに、シモンは表情を緩めて、さらに言った。

「気になるなら、直接スペクト博士に話を聞きにいったらどうですか?」

「博士に……ですか?」

「ええ、本人に聞くのが一番でしょう」

「……分かりました、そうします。お邪魔しました」

 受け取った入館履歴の束のうちスペクト博士の名前が記された一枚だけを胸の内ポケットに仕舞い込み、ハミセルはグロークを連れて、警備室をあとにした。



 その後、二人はバーガルタンク専用の車両に乗り込み、アティアカ北東部に位置するスペクト博士の研究所を目指して国家保安省本部ビルを出発した。

 アティアカ署のある通りの交差点で信号に捕まり、車が止まる。助手席の窓から外を覗くと、車道の向こうに巨大な自然公園が見えた。所狭しと連立する木々のその奥で、石造りの古い建造物が頭の突端をのぞかせている。ドリニアル教の聖地、ロノークス神殿である。神族と人間族の子キームシュが両族間の争いを仲裁するために降臨したと言われている場所で、度重なる戦争の影響で古代の建造物がことごとく破壊されていく中、今なお奇跡的に残存している唯一の宗教建築物だ。

 ハミセルにとってここは、エリスにプロポーズをした思い出深い場所でもあった。陸軍時代の上官の推薦で外務省に入り、そこで出逢ったエリスに一目惚れをして、二十歳という若さに任せて結婚を申し込んだ場所である。その年にエリスは身ごもり、無事に男の子を出産した。生まれてきた子はプロポーズの場所にちなんで、ロノと名付けた。

「なぁ、ラブラク。お前、俺になにか隠してないか?」

 信号が青になり、グロークがアクセルを踏み込みながら唐突に言った。

「……え?」

 はたと我に返って、神殿に向けていた目を隣に移す。

「今日のお前、なんかいつもと違う気がするんだよな。スペクトルームであの変な文章を見つけた時も、こうやってスペクト博士の研究所に躊躇なく向かっているのも。変に気合いが入ってるというかさ。だって、スペクト博士はこの国の最重要人物だぜ? そんな人物に一介の感情局員が直接会いにいこうだなんて、普通、脳裏にもよぎらねぇよ」

「マッキング局長から直々に指名されたんだ。そりゃあ気合いも入るさ」

「いやぁ、絶対にそれだけじゃないね。俺には分かる。なにか理由があるんだろ? ほら、同期の俺に打ち明けてみろよ」

「…………」ハミセルはしばらく歪めた口を引き結び、やがて、この際だから言ってしまおうと思うに至った。グロークとは十三年来の付き合いである。本当のことを打ち明けたところで、下手な同情をしてくることもないだろう。「分かった、白状するよ。たしかに俺はまだ、お前に言ってないことがある」

 エリスの病状や息子の死、そして、そうなってしまった経緯等々、ハミセルは、今まで黙っていたことのすべてを洗いざらい打ち明けた。十八年前の事件の詳細を職場の人間に明かすのは今回が初めてのことであった。

「───まぁ、そういうわけだ。だから俺は、エリスの治療費のためにも、なんとしてでも今回の件で成果を上げないといけないんだ」

 二人を乗せた車は目抜き通りから駅を越え、今や荒れ野に成り果てた工業地帯を横目にしながら、さらに北へと進んだ。次の分岐を目的地とは逆に曲がると、そのまま矯正施設へ続く道に出る。

「そのこと、局内で知ってる人間は他にもいるのか?」

「いや、いない。唯一ロンドさんには妻の現状と、息子が死んだことは伝えているけど、なんでそうなったかまでは言ってない」

 ずっと秘めていた隠し事を初めて言葉にしたからか、なんだか途端に疲れが出たような気がした。座席シートを少しだけ後ろに倒して、指の腹で目頭を押すように揉む。込み上げてくる欠伸を噛み殺し、内ポケットから入館履歴を取り出してそれを眺める。

 不意に、おや……と、あることに気づいた。スペクト博士と同じ二週間前の二月五日の午前十一時半に、国家保安大臣であるハースとドリン共和国首相のアズリ・フロッシュという大物二人が、揃ってセキュリティゲートを通過しているのだ。その後、十二時ちょうどにスペクト博士がふたたびゲートを通過し、その十五分後にフロッシュが通過している。

 これは単なる偶然だろうか……?

 すると突然、車内の無線がザー……ザー……と砂を掻き混ぜるような音を鳴らした。キンッとハウリングしたのち、機械越しのくぐもった声が、『たった今、矯正施設から一名、脱走者が出た』との一報を告げた。近くにいる矯正部の人間は至急、施設まで応援に来られたしとのことだった。

「おいおい、マジかよ」

 グロークが露骨に顔をしかめて、舌打ちをする。彼も矯正部所属の人間なので、応援の要請を受けた以上、事件の捜査よりもまずはそちらを優先しなければならない。

「行くのか?」

「こんなに近くにいるんだ。行くしかねぇだろ」

 グロークは次の分岐を右に折れると、しばらくして車を路肩に停めた。運転席を降り、すぐ近くに見えている矯正施設に向かって走っていく。彼のその後ろ姿を見送ると、ハミセルは助手席から運転席に体を移し、改めて、スペクト博士の研究所を目指して車を発進させた。



 ただでさえ国家保安省全体を巻き込む大事件が起きているというのに、畳み掛けるようにまた別の事件が起きるとは。ロンドは、ようやく取り戻しかけた平静をふたたび乱し、薄くなった髪の毛を掻きむしった。

「おいリンダ! コーヒーが空だ! 早く新しいのを淹れてこい!」

 事務員のリンダを呼びつけ、思わず怒声を浴びせてしまう。こうも事件が何度も続けば気持ちが荒れてしまうのも当然だが、しかし今、ロンドの胸に渦巻いているのは、ハミセルへの複雑な感情であった。

 今回の事件が早期に解決できなかった場合、マッキングは、ハミセルにそのすべての責任を負わせると言った。絵に描いたようなスケープゴートだ。しかし、あくまでそれは万が一の策であり、上層部は上層部ですでに事件解決に向けて動き出しているとのことだった。百戦錬磨の彼らのことだ、これ以上不測の事態が重ならない限り、事件は滞りなく解決する。そう思っていた。それなのに、ここにきてまた、新たな不測の事態が起こってしまった。矯正施設から一名、脱走者が出たというのだ。

 ペトリス・ジラーム。数日前に矯正部が捕えて送還した二十歳の数値異常者、らしい。公にはしていないが、数値異常も脱税と同じで、それが三度続けば矯正施設に送るという決まりになっているのだ。その施設から脱走した、ということは、このジラームという男はまだ感情を矯正されていないということになる。もし仮にこのままジラームが逃げおおせ、行く先々で施設の実態を吹聴すれば、国民の反感を招き、これまでバーガルタンクが積み上げてきた努力のすべてが水泡に帰してしまいかねない。感情データを盗んだ犯人とジラームになんらかの繋がりがあるとすれば尚更だ。そうなるともはや、ハミセル一人で解決できる問題ではなくなる。その時点ですでに彼の首ひとつでは済まないレベルの話ではあるが、それでも、いやむしろだからこそ、上層部は彼を厳粛に処分するだろう。スケープゴートとは、まさにそういうことなのだ。

『───結婚するんです』

 二十年前、ハミセルがエリスを連れて、自分のところへやってきた日のことを思い出す。戦争の余韻を長らく引きずっていた彼が、溶けた餅のように口元を綻ばせてそう言うのだ。反対する理由はなにもなかった。息子が生まれ、ロノと名付けたと聞かされた時も、自分のことのように喜んだ。エリスとはハミセルと出逢う前から共に外務省で働いていたから、生まれたばかりの子を幸せそうに抱く彼女の姿を見ているだけで、子宝に恵まれなかったロンドの心も満たされたものだった。

 それだけに、十八年前の事故を知った時は、満たされた分だけ心が抉られた。開局まもないバーガルタンクへの異動をハミセルが願い出てきた際にも引き留めはしなかった。突然の事故で息子の命と共に妻の感情を失ったのだ。感情というものに対して、強く思うところがあったに違いない。ロンド自身にもバーガルタンクへの異動命令が下されたのはまったくの偶然であったが、憔悴した部下を案じていた彼にとっては願ってもない人事であった。

「部長、部長にお電話です」

 部下の誰かに名前を呼ばれて、ロンドは無意識に俯していた顔を持ち上げた。

「誰からだ」

「矯正部のジャック・グロークからです」

「……分かった。こっちに繋いでくれ」

 受話器を耳に押し当て、応答ボタンを押す。グロークの声が聞こえてくる。

『あ、もしもし。お疲れ様です、ジャック・グロークですが』

「どうした」

『すでにそちらにも情報はいっていると思いますが、先ほど矯正施設から脱走者が一名出たようでして、それに伴い自分にも応援要請が入ったので、一時、ラブラクの監視からは離れることになります。マッキング局長にはこのあと自分から連絡を入れますが、一応、念のためロンドさんにもお伝えしておこうかと』

「そうか、分かった。それで、ハミセルは今どこに?」

『スペクト博士の研究所に向かっています。というのも、RLVのプレートの底に不可思議な古ドリン語が刻まれていまして、ラブラクはそれを刻み込んだ人物こそが、今回の事件の犯人なのではと踏んでいるようなんです。確認してみると二週間ほど前に国家保安省の入館履歴にスペクト博士の名前があったので、それじゃあ博士のところに行ってみようということに』

「そうか……」

 混乱する頭ではグロークがなにを言っているのかほとんど理解できなかったが、スペクト博士にしても、古ドリン語にしても、そもそも犯行はネットワーク上で行なわれたものなのだから、事件とはあまり関係なさそうだな、とは思った。

『あぁ、あとそれから別件で一つ、面白い話を聞きました』

「なんだ」

『十八年前、ラブラクの妻と息子の身に起きた本当のことですよ。実はあいつの妻と息子はブラズダー・デイで暴徒化した市民に襲われていたんです。それによって息子は死に、妻は感情を失った』

「なに……?」

 ロンドは初め、自分の耳を疑った。十八年前のことでハミセルの口から暴徒という言葉が出てきたことは一度もない。不運な自転車事故によってロノは命を落とし、エリスは感情を失ったはずだ。

『事実、あいつは今、妻の医療費のため金を欲している。いや、もっと言えばあいつが今、最も欲しているのは感情そのもの、なのかもしれません。どちらにせよ、これは万が一の時のための大きな材料になります。マッキング局長もさぞお喜びになられるでしょう』

「ちょ、ちょっと待て、その暴徒の話は、ハミセル本人がそう言っていたのか?」

 心臓が早鐘を打つのを全身に感じる。視線はデスクの上に向けられているが、なにを見ているのかは自分でも定かではない。

『ええ、もちろん』

「……分かった。もういい、切るぞ」

 ロンドは言って、投げ捨てるように受話器を戻した。

《───》

 十八年前の、あの時の会話が不意に頭の中に蘇る。

《殺したよ───》

 受けた返り血をハンカチで拭いながら、彼はそう言った。あの時の言葉が今になって、まったく別の意味合いを帯びて、最悪の仮説を想起させる。

《仕方がない。あれはなかったことにしよう───》




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ