第一話
1
国家保安省本部ビル地下五階、感情局フロアはいつになく騒然としていた。日付は二月十九日の日曜である。
「状況は?」息を整えながら、近くにいた税務部職員に声をかける。
「いえ、私も今さっきここに到着したばかりで、なにがなんだか」
「そうか……」
休日だったハミセルのもとに部長から「至急、国家保安省に出勤されたし」との御達しが来たのが今朝六時過ぎ。詳細の説明は省かれたものの、これは当局始まって以来最大の危機だと部長が言うので、ハミセルは寝惚け眼を冷や水で叩き起こして、ここバーガルタンクに馳せ参じたのであった。
「ラブラク」
後ろから肩を叩かれ振り返ると、いつもはボサボサ頭のまま出勤してくるグロークが、なぜか今日に限って、しっかりと髪を梳かしてそこに立っていた。
「グローク、久しぶりだな」
「おう、久しぶり」
同僚のモントールが不慮の事故で命を落とし、傷心のグロークにマッキングがしばらくの療養を提案したのが、ひと月ほど前のことになる。その間、この男がどこでなにをしていたのかは知る由もないが、見たところ調子は良さそうだった。
「それにしても、一体どうなってるんだ?」
「今から数時間前、警備の人間がスペクトルームからの緊急信号に気づいて現場に駆けつけたところ、RLVの電源が落ちて、中のデータも完全に失くなっていたらしい」
「本当に盗まれたのか? システムエラーの可能性は?」
「いや、そっちの可能性は低い。RLV内部に侵入の痕跡がわずかに残っていたらしいから、何者かがコンピューターをハックして盗み出したんだろうって話だ」
「でも、誰がこんなことを……」
すると今度は、フロアの奥の方から、「ハミセル!」と、こちらの名を呼ぶ声が聞こえた。感情局税務部部長マーカス・ロンドの声である。
「ロンドさん」ハミセルは部長デスクに駆け寄った。「すみません、遅くなりました」
「構わん。それより、休みの日にすまなかったな」
「いえ、問題ありません」
ロンドは元々、外務省時代のハミセルとエリスの上司であった。エリスはロノの出産を機に退職したものの、ハミセルが感情局への異動を希望した十三年前にロンドもまた感情局への異動が決まり、今もこうして同じ職場で働いている。
また、ロンドはエリスの現状を知る数少ない人間のうちの一人でもあった。ただし、エリスがなぜ感情を失ってしまったのか、その経緯までは、ハミセルもまだ伝えてはいない。大恩ある上司に隠し事をするのは忍びなかったが、多忙の身である彼に余計な心配はさせたくなかったのだ。
そのためロンドの認識では、エリスが感情を失った理由は、十八年前に彼女が自転車の横転事故を起こしたからだということになっている。その際に受けた頭部の打撃と、息子を亡くしたショックで、脳と心が壊れてしまったのだ、と。
「さて、状況はすでに聞いているな?」言いながらロンドは煙草を咥え、自分のマッチでその先端に火をつけた。寝不足なのか、六十を超えて前髪の後退が進んだ額が脂で少々てかっている。「事は一刻を争う。上からも即時解決せよとの命令が出ている」
「あの、ロンドさん。一つ疑問があるのですが」
「なんだ?」
「あの感情データがこの国の最高機密であることは理解しています。ですが、感情はあくまで感情です。しかも物質ではなく、単なるデジタルデータに過ぎない。爆弾でもなければ、細菌兵器でもありません」
「つまり、なにが言いたい?」
「つまり、あのデータを盗んだところで、それが核兵器並みの武力やコンピューターウイルスになるわけでもない。犯人はどうして大きなリスクを冒してまで、こんな馬鹿げた真似をしたのでしょうか」
「それは違うよ、ハミセル」
ロンドが銀の灰皿に煙草の先を押しつける。彼の背後では古びた換気扇が、ギシギシと軋むような音を立てて苦しそうに回っている。
「違うとは?」
「この世の営みの根底にあるもの、それが感情だ。感情が人間を人間たらしめる。それはお前もよく分かっているはずだ。デジタルだろうがなんだろうが、お前の言うように感情は感情なんだよ」
「…………」頭の中にエリスが浮かび、ハミセルはグッと唾を飲み込んだ。
「だからこそ、今回の事件は国家を揺るがす危機なのだ。なんとしてでも犯人を捕まえ、事件を解決せねばならない」
「はい、それは重々」
「そこで、お前だ」
「はい?」
「今回の事件の捜査を、お前に任せたい。事件の性質上、警察と協力して捜査をするわけにもいかないからな。身内で解決するしかない」
「で、でも、なんで俺が……」
「マッキング局長が直々にお前を指名してきたんだよ。随分と信頼されてるじゃないか。俺にとっても、お前は誰よりも信頼できる部下だ。それにお前は……」ロンドは鷲のように出張った鼻先に眼鏡を下げて、ハミセルの姿を上目で見上げた。「このバーガルタンクに懸ける想いが誰よりも強い。そうだろう? お前しか適任はおらんのだ」
「しかし……」
「安心しろ。さすがに一人じゃ重荷だろうから、誰かと二人体制で捜査しろとのことだ。ちょうど、あそこで暇そうにしている人間が一人いるみたいだな」
「暇……あぁ、あいつですか」
フロアの入口に目をやると、たしかにそこに、慌ただしく行き交う局員たちに紛れて、ひとり暇そうにしている男が、こちらをジッと見つめるようにして立っていた。
2
「ロンドさん、どうぞ」
事務員のリンダがデスクにコーヒーを運んできたので、ロンドは簡単に礼を言って、ひとくち啜った。ビクンと肩を跳ね上げ、すぐにカップを口から離す。リンダが淹れるコーヒーはいつも熱すぎるのだ。それでいうと外務省時代のエリスはコーヒーを淹れるのが人一倍うまかった。「沸騰したばかりのお湯でコーヒーを淹れると、せっかくの香りが逃げちゃうんですよ」と、笑顔でそう言う彼女の姿が脳裏に浮かび、それと入れ替わるようにして今度は、たった今このフロアを出ていったばかりのハミセルの姿が浮かんだ。
デスクに両肘をついて、疲弊した目頭に指の腹を押し当てる。思わず深い溜息が漏れた。デスクの上に積まれた書類の端が、その溜息でひらりと揺れた。
感情局局長アルト・マッキングから内線で直接このデスクに連絡が来たのは、今からおよそ十五分ほど前のことであった。
『よう、ロンドくん。無駄話をしている暇はないから要件だけを話す。そこにお前の部下のハミセル・ラブラクはいるか?』
「ハミセルは……いえ、まだここには。先ほど連絡をして呼び出しましたので、もうまもなく来るのではないかと」
『今回の一件、ラブラクに捜査をさせろ』
マッキングはまるでチェス盤に並べた自分の駒を淡々と采配するかのように、温度のない声でそう言った。
「ハミ……いや、ラブラクにですか? どうしてまた……」
『保険だよ。万が一、今回の事件が早期に解決できなかった場合、誰かがその責任を負わなくてはならない。もちろん正式な捜査はこちらでも行なうが、あいにく捨ててもいい駒はこちらにはいないのでな』
「あいつをスケープゴートにする、ということですか?」
『問題があるか?』
「…………」重低音で響くマッキングのその声に、ロンドも声を詰まらせる。「いえ、問題はありません」
『見張りとして、そばに一人付けさせろ。そうだな……矯正部のジャック・グロークが近くにいれば、そいつがいい』
「グローク? しかしあいつとハミセルは旧知です。責任問題になった時、あいつがハミセルだけにそれを負わせるとは……」
『問題ない。あいつにやらせろ』
「……はい、承知しました」
『しかしまぁ安心したまえ。あくまでこれは保険だ。犯人はすぐに捕まる。万が一のことは起こらない』
「はい……」
マッキングとの通話を終えて数分後、ハミセルが息を切らしてやってきた。まるで図ったかのように、彼のすぐそばにはグロークの姿もあった。それからロンドは努めて平静を装いハミセルを呼び寄せ、マッキングの命令通りの指示を与えて、まさに今、フロアを出ていく彼の後ろ姿を見送ったのだった。
ハミセルとはもう二十年近い付き合いになる。戦争から帰還した彼が、従軍先の上官の推薦で外務省に入省してきたのが最初の出逢いだった。当時のハミセルは重度のPTSDを患っており、生気というものを失っていた。
そんな彼に生きる気力を取り戻させた人物こそ、他ならぬエリスであった。エリスを眼差す時の愛に満ちた彼の目は今でもよく覚えている。その愛にほだされ、とうとう自分も彼を好きになってしまったと、わざわざこちらに相談をしにきた時の、エリスのあの赤らんだ顔もよく覚えている。
もし仮に、万が一のことが、つまり今回の事件が未解決に終わるなどという事態になった場合、ハミセルは一体どうなってしまうのか。別の部署に飛ばされてしまうか、あるいは感情局自体から追い出されるか、最悪の場合、逮捕されて矯正施設に送還されてしまう可能性も否定はできない。
しかし、何事においても言えることだが、有事の際になにを優先すべきかというのが最も重要な問題なのだ。長年の情で繋がる好漢か、それとも愛する我が国の平穏か。答えは一つしかない。無論、我が国の平穏である。
そもそも事件が解決すればいいだけの話なのだ。ハミセルには少々荷が重いだろうが、マッキングが言うにはすでに上層部の人間も事件解決に向けて動き出している。戦後この国に長らく平和と安定をもたらしてきた彼らがそう簡単に下手を打つわけがない。
「リンダ」フロアの片隅でゴミ箱の処理をしていたリンダをふたたび呼び寄せる。彼女はバーガルタンクが開局した当初からここで事務をしてくれているベテランで、たしか年齢も自分と同じくらいだったはずだ。「すまないが小腹が空いてしまった。そうだな……、なにか甘いものを、なんでもいいから持ってきてくれないか」
「クッキーでよろしいですか?」
「ああ、よろしく頼むよ」
ロンドは部長デスクの椅子に背中を深く寄りかけ、額に滲んだ脂汗をハンカチで拭った。デスクの上のコーヒーカップを手に取る。ひとくち啜ると、先ほどは熱すぎて飲めたものじゃなかったコーヒーが、ちょうどいい具合に飲みやすくなっていた。
3
地下五階のフロアをあとにしたハミセルは、グロークを連れ立ち、廊下の突き当たりにある非常階段を目指して歩いた。事件の捜査といっても、なにからまず手をつけたらいいのかすら分からないような状況だったが、グロークの提案で、ひとまず渦中のスペクトルームに足を運んでみようということになったのだ。
「なぁ、今回の犯人はどういうつもりなんだと思う?」歩きながら、グロークに訊ねる。「感情データを盗んだところで、悪用するなんて不可能だと思わないか?」
「悪用って、なんだよ」
「よく分からないけど……たとえば、盗んだ負の感情データをマイクロチップに移して、それを脳に埋め込む。そしたら負の感情に満ちた人間を作れる、みたいな」
「まさか、そんなの技術的に不可能に決まってるだろ」
「それはそうだろうけど、ほら、前にお前が言ってたあの噂。感情を根こそぎ抜き出して、人間兵器を作るって話。あれの逆バージョンだよ」
「人間兵器? なんだそりゃ」
「なんだそりゃって、前にお前が言ってたじゃないか。政府が人間兵器を作ろうとしてるって噂があるって」
「政府が? なに言ってんだ、バカバカしい」
「……お前、休暇の間に記憶喪失にでもなったのか?」
呆れるように言いながら、廊下の壁面に三基並んだエレベーターの前を通り過ぎようとすると、グロークがそこでピタリと足を止め、先を行くハミセルの背中を呼び止めた。
「おい、どこ行くんだ?」
「どこって、階段だけど」
「エレベーターで行った方が早いだろうが」
「え?」
「え、じゃねぇよ。ほら、さっさと行くぞ」
「……あぁ、分かった」
先ほどから会話が妙に噛み合わないのは気のせいだろうか。外見はよく知るグロークそのものなのに、中身だけがまったくの別人に変わってしまったかのようだった。そんな、漠然とした違和感を抱きながらも、その違和感の正体は分からないまま、ハミセルは、ちょうどやってきたエレベーターに乗り込んだ。
地下十五階に到着し、エレベーターを降りると、そこに集まっていたのは、テレビでしか見たことがないような錚々たる顔ぶれであった。国家保安省ほか、外務省や防衛省、さらには首相周りの役人までもが、おしなべて厳めしい表情を浮かべて行き交っている。ただならぬ緊張感がフロア全体に漂い、それが波及して、ハミセルの肌を粟立たせた。
正面に見えているスペクトルームに向かって直線の廊下を歩いていると、すれ違った壮年の男に突然、肩を掴まれた。
「おい、誰だお前たち」
顔を見てもピンとこないあたり、おそらくは他省の役人かなにかなのだろう。随分と横柄な態度で、露骨にこちらを見下してきている。各省、階級が部長以上になるとスーツの襟に位を示すバッジを付けることになるので、ハミセルたちの襟にそれがないことに気づいて、声をかけてきたのだろう。
「お疲れ様です。感情局税務部所属、ハミセル・ラブラクと申します」
ハミセルが背筋を伸ばして名を名乗ると、次いでグロークも、いつもの彼らしくない畏まった態度で自分の名前を口にした。
「ここは今、立ち入り禁止だ。お前たちのような下っ端が来ていい場所ではない」
「い、いや、しかし我々は……」
「聞こえなかったか? さっさとここから去れと言っているんだ」朝早くからの異常事態のせいで気も立っているのだろう。男は脅すような目つきでハミセルたちを睨めつけた。「あと五秒以内に出ていかなければ、お前ら二人まとめて……───」
と、男がそう言いかけた、ちょうどその時、正面のスペクトルームがビーッとアラームを鳴らし、入口のドアがプシューッと空気の抜けるような音を立てて、横に開いた。中から現れたのは、感情局局長アルト・マッキングであった。
「おぉ、来たか、ラブラク、グローク」
片手を広げて近づいてくるマッキングの姿に、壮年の男はそれまでの威張るような態度を急変させた。
「マ……マ……」と、まるで空気を求めて水面でもがく魚のように、口をぱくぱくと開けたり閉めたりしている。
「俺の部下たちになにか?」マッキングが男をギロリと睥睨する。
「い、いえ、失礼いたしました……!」
逃げるように去っていく男を一瞥したのち、ハミセルはマッキングに頭を下げた。
「局長、遅くなって申し訳ありません」
「構わないさ。急に無理を言ってすまなかったな」
すると、マッキングの背後から突然、ゆらりと影がかかるように長身の男が現れた。国家保安大臣カーコン・ハースである。ハミセルとグロークは咄嗟に手のひらを額に当て、敬礼した。
「ほう……君がハミセル・ラブラクくんか」
灰色の髪の毛を後ろに流したハースは、縁なしの眼鏡の奥から品定めをするような目でハミセルを見下ろした。
「お世話になっております。感情局税務部所属、ハミセル・ラブラクであります」
「うむ……期待しているぞ」
ハースが言葉を発するたびに、緊張感に包まれたこの空間がピリピリと震えるような錯覚を抱く。しかし、期待という言葉を口にしたわりには、あまり彼はハミセルやグロークに興味はなさそうだった。
エレベーターに乗り込み、ハースは早々と地下十五階から姿を消した。彼の姿がドアに隠れて完全に見えなくなると、そこでようやく二人も敬礼を解き、改めて、その場に残ったマッキングに向き直った。
「大臣は今から首相官邸だ」
「官邸ですか」
「事態はそれほどまでに緊迫しているということだよ」
マッキングは二人を引き連れスペクトルームの前まで足を運ぶと、壁面に取り付けられた機械にIDカードをかざし、十三桁の暗証番号を入力した。そこからさらに指紋認証、虹彩認証を経て、ふたたびIDカードを、今度は機械に薄く切り込まれた溝のところにスライドする。すると、目の前の鉄製のドアが解錠を報せるアラームを鳴らし、プシューッと静かな音を立てて、ゆっくりと開いた。───瞬間、空気が変わった、ような気がした。
4
細い筒状の煙草がじりじりと短くなっていくのをぼんやりと感じながら、目を閉じ、狭い室内に流れる下手くそなギター、下手くそなベース、下手くそなドラム、そして下手くそなヴォーカルの歌声に五感のすべてを委ねる。オリベル・ダイナスにとってそれは、鬱屈した日々の中で唯一、心の安らぐ時間であった。
「違う違う、そうじゃねぇよ……」
寝言のようにボソボソとつぶやく。
「もう一回、最初からやり直しだ……」
錆びついた蝶番が苦しそうに鳴いて、窓のない仄暗い部屋の中にゆっくりと部屋の外の明かりが漏れ入ってくる。ノックもなく入ってきたのは、後輩のザックである。彼は流れている音楽に気づくと辟易と溜息をついて、木棚の上のラジカセを止めた。
「ダイナスさん、ここで音楽を聴くのはやめてくださいって、いつも言ってるでしょ」
「あぁ? なんでだよ」
ダイナスは閉じていた目を開け、煙草の先で灰皿のふちをトントンと叩いた。仕事をサボりたくなったら、この部屋に一人で篭って音楽を聴く。それがいつもの彼の習慣だった。アティアカ警察署の刑事部第一警備課にある、埃被った資料室である。
「法律で禁止されているからに決まっているでしょう。警察である我々が積極的に法を破ってどうするんですか」
「ここで聴くだけなら誰にもバレないだろうが」
「いや、バレバレです。少なくとも第一警備課の人間には。誰かが密告でもしたらどうするんですか」
「お前はするのか? 密告」
「しないと言い切ることはできません」
「正直だな」
音楽法の施行によって音楽の制作、演奏あるいは鑑賞、またそれに準ずる行為が禁止になったのは今から約六年前。スペクト法の施行からおよそ七年後のことであった。音楽による情動の揺さぶりが人間の心に支配欲や欺瞞、怒り、憎しみ等の悪しき感情を芽生えさせ、果ては戦争という悲劇を起こさせた、というのが音楽法制定の論拠であり、そしてそれは、徴収したパルメカ因子を性別や年齢、被徴収者の経験、立場などさまざまな角度から検証した末に出された政府およびスペクト博士の結論でもあった。パルメカ税の導入によって国の安定を実感していた国民から反発の声はほとんど上がらず、この法律が立案され、議会で可決、そして施行されるまで一週間とかからなかった。
「だいたい、音楽のなにがいいんですか?」
「これはな、俺が学生時代に仲間と組んでたバンドの曲なんだよ。戦争が始まって、すぐに解散しちまったけどな」
「だからなんなんですか」
「自分の曲くらい、好きなように聴かせてくれってことだ」
「駄目です。さぁ、そろそろ行きますよ」
ザックのこの憎たらしい態度は昔からで、今年で四十になるダイナスとは十五も歳が離れているのに、時々そのことを忘れそうになる。
「冷たいねぇ。感情ってもんがないのか、お前には」
「それがあるから、こうして優しく言ってあげてるんじゃないですか」
「……ま、それもそうだな」
二人はアティアカ署を出ると、署の入口で待機していた専用の車に乗り込んだ。助手席に腰を下ろしたダイナスが首を後ろに捻ると、すでに後部座席には今回の送還対象である罪人の女が手首に手錠をかけられ座っていた。資料によるとまだ二十二歳の若者のようだが、それにしては随分とくたびれた表情をしている。後ろで結えた髪の毛は使い古された竹ぼうきのようで、頬は痩せこけ、肌も黄ばみ、もう何日もまともに食事をしていない顔つきだ。
十八年前のブラズダー・デイをピークに年々その数は減ってきているものの、依然としてこの国にもまだ反政府を標榜する組織は点在している。この女も、そういったグループのうちの一つに所属していたらしく、街の外れの裏路地で一般人を組織に勧誘していたところを警察に見つかり、拘束された。取り調べの結果、これまでに二度、パルメカ税を滞納していたことが判明。警察署内でパルメカ因子の数値に異常が出たため、矯正施設への送還が決定した。彼女を施設へ移送するのが、今回のダイナスたちの仕事であった。
「ったくよぉ、反政府を掲げるなら、もっと上手くやれよな」
「ダイナスさん、こんなところでそういうことは言わないでください」
「でも実際そうじゃねぇか」
「ダイナスさん」
「へいへい、黙りますよ」
ザックにぴしゃりと制され、ダイナスは溜息混じりに肩をすくめた。紙箱から新しい煙草を一本取り出し、車のシガーライターで火をつける。その間も後部座席の女は口を真一文字に引き結んだまま、太ももの上に力なく置いた手の甲を見つめている。
「ところで」署を出発した車が赤信号に捕まったところで、ハンドルを握るザックがダイナスの方に目をやった。「さっき言ってた、バンドの仲間は今どうしてるんですか?」
「あー……バンドは俺も含めて四人編成だったんだけどな、そのうち二人は死んで、今も生きているのは俺と、あと一人だけだ」
「へぇ、今はなにをやられてるんですか、その人」
「バーガルタンクで真面目に働いてるよ」ダイナスは助手席のウィンドウを少しだけ下げ、そこから煙草の煙をふぅと外に吐き出した。「ハミセル・ラブラクっていう、筋金入りの優男だ」
*
国家保安省管轄のもと運営されている矯正施設は、首都アティアカの中心から東に約五キロ、工業地帯として栄えた戦前の面影を失くした荒れ野の中に、まるで平坦な皮膚に一つだけ浮き出た出来物のように居を構えている。
今から十三年前、バーガルタンク開局に伴い開設された当初はパルメカ税の脱税者や反政府的な思想犯といった特定の人物のみを収容していたのだが、六年前、それこそ音楽法の制定と共に対象が拡大され、現在は殺人や強盗などといった従来であれば刑務所に収監されるはずだった受刑者も時折、こちらの施設に収容されるようになった。
施設を取り囲む鉄製のゲートの手前で一旦、車を止める。傍らの柱に取り付けられた機械にポリス・コードを打ち込むと、しばらくして柱の窓から守衛の男が顔を覗かせる。その男といくつかやり取りをしたのち、目の前のゲートが鈍重に開く。車を中に進入させて、施設の入口前でふたたび止めた。施設自体は飾り気のない黒塗りの直方体をしていて、ひらけた空から射し込む太陽の光をぬめりと反射させるその姿は、さながら地球に不時着をした宇宙船のような異物感がある。
ダイナスとザックは後部座席の女を車から降ろし、そのまま彼女を連れて施設の中に足を踏み入れた。向かって正面右手に受付があり、そのすぐそばに大人がひとり通れるくらいの小さな扉がある。扉にはちょうどダイナスの目線の高さに磨りガラスが嵌め込まれているが、ひたすらに黒く滲んでいるだけで中の様子はうかがい知れない。
「コード98526、ロウラ・デヴィキ。第三級国家反逆の咎でアティアカ警察署より連行してきた。引き取りを頼む」
ダイナスが言うと、受付から五十代くらいの女性が一枚の用紙を手にして現れた。ペンと一緒にそれを受け取り、諸々の引き継ぎ事項をそこに書き込む。今回の彼らの仕事は、それで終わりだ。
「どうもご苦労さまでした。では、ここから先はこちらで」
女性は回収した用紙をカウンターに仕舞うと、受付から出てきて罪人の女ロウラ・デヴィキのシャツの背中を捻り上げた。ロウラ・デヴィキに抵抗の意思はないようで、やられるがまま女性に体を引き摺られていく。
「おい、あんま乱暴にすんなよ」
「お構いなく」
この女性がどことなくダイナスに対して警戒心を見せているのは、以前、彼がここの職員と一悶着を起こしたからだ。この矯正施設は国家保安省の中でも特に秘匿性の高い場所とされていて、感情局員の中でも限られた人間しか立ち入ることができない決まりとなっている。もちろん警察の人間の介入も許されてはおらず、罪人の受け渡し自体も、いつも受付までとなっている。
ダイナスはそれを知っていながら、以前に一度、その取り決めを破り、連行してきた罪人と一緒に扉の中に入ろうとしたのだ。当然、その目論見は未然に防がれたのだが、それ以来、職員たちはダイナスに対して露骨に嫌悪感を示すようになった。
受付の女性は扉を開けると、その中にロウラ・デヴィキの体を、まるでゴミでも放るかのように押し入れた。中は暗がりでなにも見えないが、奥の方から、なにかが地面を擦るような音がうっすらと聞こえてきている。
すると、その時だった。それまでずっと口を閉ざしていたロウラ・デヴィキが突然、くるりと首を後ろに捻り、ダイナスたちに向かって震えるような声をあげた。
「神は必ずやってくる。神がこの国を救ってくださる」
「神……?」
暗がりで影になった彼女のその言葉を、ダイナスはぼそりと反芻した。
「神は、必ず私たちに自由を取りも……───」
「黙れ!」ロウラ・デヴィキの言葉を無理やり遮るように、受付の女性が眉を逆立て、声を荒げた。呆然とするダイナスたちを一瞥し、ぎろりと細めた目に警告の意思を滲ませる。「これ以上の詮索は無用です。どうぞ、お引き取りを」
そのまま彼女はロウラ・デヴィキと共に、扉に向こうに姿を消した。
*
けたたましい警報音が矯正施設の敷地内に鳴り響いたのは、二人が施設の入口を出て自分たちの車に乗り込もうとした時だった。静まり返っていた施設がたちまち騒然となり、入口からは物騒な武器を手にした職員たちが軍隊アリのようにゾロゾロと溢れ出てきて、お前はあっちだ、お前はこっちだ、と叫び合っている。
「なにかあったんですかね?」運転席に乗り込みながら、ザックが言う。
「さぁ……」
「さっきの女が暴れてるとか?」
「まぁ……、ありえなくもないな」ダイナスは助手席のドアに伸ばしかけていた手を一度引っ込め、ちょうど入口から出てきた三十代くらいの男性を呼び止めた。男性の手には猟銃が握られている。「ちょっと君、なにがあったんだ?」
「あんたは……」男性は、声をかけてきた男がダイナスと分かると、すぐに表情を厳めしくさせた。「あんた、また性懲りもなくここに来たのか」
「仕事だよ。で、なにがあった」
「脱走だよ。収容者が一人、いなくなった」
「そいつの名前は?」
「あんたに教えるわけがないだろう」
「そりゃそうだ」
慌ただしく去っていく男の後ろ姿を眺めながら、ダイナスはしばらく唇を揉むようにして押し黙り、運転席のウィンドウを叩いた。
「どうしました?」すでに運転席についてエンジンをかけていたザックが、下げたウィンドウから頭を出す。
「施設を出て建物の裏手側に回ったところにあるコンラルド通り、分かるよな? 悪いが、先にそこに行って車を停めといてくれ」
「先にって、ダイナスさんはどうするんですか?」
「ちょっと用事ができた。俺もすぐに向かうから、頼んだぞ」
ダイナスはそう言い残し、施設の左手側にある給仕棟へと足を向かわせた。この矯正施設の敷地内には、横長の建物が計三棟、下向きのコの字の形で、施設本棟を取り囲むように建っている。そのうちの一つが給仕棟になっていて、ダイナスはその給仕棟を端から端へ歩いていき、角のところで左に折れた。
コの字型の上辺と左辺のちょうど接点にあたるこの場所は、施設正面から見ると完全な死角となっている。一見するとただ草木が野放図に生い茂るだけの手入れの行き届いていない場所なのだが、その草木を奥まで掻き分けていくと、施設の内と外とを隔てる巨大な鉄壁の付け根のところに大きな穴ができているのが分かる。大きな、と言っても、大人がひとり腹ばいになってなんとか通れるくらいの穴である。その穴は敷地の外まで通じており、百メートルほど進んだ出口を抜けると、少し離れたところに古びた公衆便所が建っているのが見える。
その穴を通って敷地の外に這い出たダイナスは、そのまま公衆便所に向かい、積年の砂埃でざらついた入口のドアを押し開けた。元々は大昔に工場で働く男たちのために建てられたものだからだろう、中で男女の区別はされておらず、右に三つ個室が並び、左に三つ小便器が並んでいる。
一番奥の個室の中から、何者かの消え入るような吐息が聞こえた。ダイナスは新しい煙草にマッチで火をつけ、そのドアを開けた。
そこにいたのは、無造作に頭髪を刈られた若い男であった。布切れのような衣服を身にまとい、便器と壁の隙間の地べたに体を畳み込むようにして座っている。騒動の原因、施設から逃げ出した脱走犯と見て間違いなかった。
「あぁ……」男は、現れたダイナスを見上げて、絶望するように小さく唸った。
「やっぱりここにいたか。安心しろ、俺は施設の人間じゃねぇよ。警察だ」
「警察……」この男にとっては施設の人間と警察の人間にさしたる違いはないのだろう。青褪めたその表情から、さらに血の気が引いていく。「な、なんでここが……」
「少し前にもいたんだよ。お前みたいな奴が。それを俺がここで見つけたんだ。その時は偶然だったけどな」
「そ、そいつは今……」
「死んだよ」
「……あんたが殺したのか?」
「まぁ、そんなところだ。お前、名前は?」
訊ねると、男は一瞬だけ躊躇うように目を逸らしたが、すぐに観念して口を開いた。
「ペトリス……ペトリス・ジラーム」
「なんで施設に入った? 脱税か? それとも……」
「違う……! パルメカ税の徴収は毎回必ず受けていた! け、けど……その時の数値に異常が出て、それで……」
「なるほど、数値異常者か。お前、あの施設でなにを見た?」
「じ、地獄ッ……!」男は唾を飛ばして、この世の憎しみのすべてを湛えたような目でダイナスを睨み上げた。