プロローグ
GUKUS AUGERA, VAGALTE BOLUKA DORINUS SET
──────目を閉じよ、そこに感じるものにこそ、神々はいる。
*
デスクの上に積み上げられた書類の束を一枚一枚、チェックしていく。担当地区に住む国民すべての情報がここに集約しているのだから、その量となると膨大だ。
二ヶ月の一度、この時期になると毎日がこの気の遠くなるような作業の繰り返しである。別部署でデータ化して処理された感情そのものとはまた別の、納税者個々人の出生や仕事、結婚歴といったパーソナルな情報が一枚の用紙に履歴書のような形で書き記されている。パルメカ税の徴収をきちんと行なっている者の名前は黒文字で印字され、それが一期分の遅延者は青文字に、二期分の遅延者は黄文字に、三期分の遅延者は赤文字に変わる。赤文字の者は脱税の対象となり、矯正部に通達して矯正施設への送還手続きをすることになる。
ふと、書類の中の一人に目が止まった。「ペトリス・ジラーム」という名の二十歳の男性である。名前は黒文字で印字されており、過去に納税を怠った経歴もない。それなのに、どういうわけか名前の末尾に小さく※のマークが付けられている。こちら側の不備だろうかと不安に思ってそれまでの書類を見直してみると、ペトリス・ジラーム以外にも稀に、末尾に※の付いた名前があった。あまりにも小さく書かれているので、長らく見落としていたのだろう。単調な作業の連続に負けて、つい惰性になってしまっていたのかもしれない。ハミセルは取り急ぎ「ペトリス・ジラーム」の名前を目の前のコンピューターに打ち込んだ。
『ペトリス・ジラーム ドリン共和国パージスト州イルダ地区出身
二十歳 男性 独身 無職
前科なし パルメカ税滞納歴なし
※要経過観察』
一体なぜ前科もなければ納税義務も果たしている人間が要経過観察、つまりこのバーガルタンクの監視対象になっているのか。何人か別の名前を調べてみると、※の付いた者はみなおしなべて要経過観察とされていた。
「どうした、難しい顔して。腹でも痛いのか?」
不意に声をかけられ首を後ろに捻ると、同僚のジャック・グロークがいつもの彼らしいニヤケ面を浮かべて、ボサボサ頭をこちらに向けてきていた。彼は隣にある矯正部の人間で、ハミセルとは同期入局の腐れ縁である。
「……あぁ、いや、この要経過観察というのが気になって」
「あぁ、数値異常者のことか」
「数値異常者?」初めて耳にする言葉である。
「いや、税務部のお前が気にすることじゃないよ。そいつも別に、脱税をしているわけじゃないんだからな」
「たしかに……それもそうだな」
ハミセルは溜息をひとつデスクにこぼすと、気を取り直して、ふたたび書類の束に手を伸ばした。
*
国家保安省感情局、通称『バーガルタンク』は、ドリン共和国の首都アティアカの中心から南西に二キロ、国家の中枢機関が集まる一郭に、その巨大な本部ビルを構えている。国家保安省自体は昔からある組織ではあるが、感情局はまだ開設されて二十年に満たない、正確には十三年目の新入りである。
地上三十五階、地下十五階から成る味気のない直方体が空に突き刺し、その屋上にはこの国の国旗および国章と共に、旧来の剣と銃がクロスした国家保安省のエンブレムが風に吹かれて昂然とはためいている。
バーガルタンクはそのうち地下五階から地下十階を占めており、加えてビルの最下階の地下十五階には、バーガルタンクの、ひいてはこの国の最重要機密、すなわち国民の感情データが保管されている。
ハミセルはひと通り書類のチェックを済ませると、それを紙袋二つに押し入れ、非常階段を使って地下十五階まで下った。もちろんエレベーターを使えばすぐに着く距離ではあるが、彼はいつも余程のことがない限り階段を使う。カツン、カツンと鉄の階段が規則的に音を鳴らすのを耳にしながら、冷たい側壁を指先でなぞって下りていくのが、ハミセルにとっては数少ない自分だけの時間なのだった。
「それにしても、今や人間の感情さえデータ化して保管してるっていうのに、こうやって個人情報を紙で保管するってのはどうなんだ?」
ハミセルの手にぶら下がる紙袋二つを見下ろすようにしながら、グロークが呆れるように鼻で笑う。
「結局、デジタルは信用ならないからな。いざという時、頼りになるのはいつだって紙に書いたインクの文字だ」
「そういえば、なぁ知ってるか?」
「なにを?」
「政府の噂だよ。なんでも政府は今、秘密裏に人間兵器を開発しようとしているらしいぜ。この国のどこかに、その実験施設があるんだ」
「なんだそりゃ。人間兵器なんてどうやって作るんだよ」
「そりゃあお前、スペクト博士が発見したこのパルメカ因子だよ。パルメカの原理を利用するんだ」
「ふん、馬鹿馬鹿しい」
そんな非人道的で、荒唐無稽なことを我が国の政府がするはずがないだろう。そもそも今の政府は先の戦争の反省を出発点として生まれたのであり、このバーガルタンクも戦後復興の重要な一歩として発足した、いわば平和と反戦の象徴なのだ。人間兵器などという、いかにも旧時代の人間が考え出しそうな言葉は似つかわしくない。
その戦争が終結したのは二十年前、つまりハミセルがまだ二十歳の頃であった。一応は戦勝国という立ち位置に落ち着いたドリン共和国であったが、長年に及ぶ戦争の被害は甚大で、国の復興、経済の回復にはかなりの労力と時間を必要とした。凄惨を極めた戦争に対する怒りや嘆き、苦しみ、そしてそれらを飲み込むほどの空虚感。終戦直後のドリンは、国全体が混沌と停滞に苦しんでいた。
この国の科学の権威であるスペクト博士が人体の血液の中から感情因子、一般にパルメカ因子と呼ばれる物質を発見し、それを外部に抽出することに成功したのは、まさにそんな時期だった。スペクト博士が編み出したのは、数多ある人間の感情の中から特定の感情を抜き出す方法であった。
スペクト博士は、人間の心を動かし、行動に至らせる「感情」を生み出しているのは、魂でもなければ精神でもない、無論、神でもなく、脳にある扁桃体から前頭葉への信号を受け、神経を渡って血液で生成される物質、すなわちパルメカ因子であると突き止めた。パルメカとはドリン語で「分離」を意味する言葉である。特殊な機器を用いて脳波を測定し、そこに軽微な刺激を送る。その時に生まれるパルメカ因子とその他の物質を血中で分離させ、分離したパルメカ因子だけを抜き出すのである。
前提として、人間の脳および血液は極めて動的であり、絶えず感情も生み出されていく。そのため、感情というのは人間の日々の営みの中では最も欠かせない要素とされている。
スペクト博士が発見したこのパルメカ因子抽出の最大のポイントは二点あり、まず一つは抜き出せる感情が悲しみや怒り、憎しみなどといった「負の感情」に限られるという点。そしてもう一つは、感情の抽出で行なうのは枯渇ではなく、一時的な軽減という点だ。枯渇ではなく軽減なので、個々人の日常生活に悪影響を及ぼすようなことはなく、むしろ負の感情のみを軽減された国民は戦争によって生じた混乱から平静を取り戻し、その結果として、この国の戦後復興にも大きく寄与することとなった。
「パルメカ因子を使って、どうやって人間兵器を作るんだよ」
「聞くところによると、スペクト博士はすでに人体からパルメカ因子を根こそぎ抜き取ることにも、つまり軽減ではなく枯渇……いや、それどころか完全に消滅させることにも成功してるらしいんだ。そうすればほら、見事、個人的な感情は一切廃した、いわば政府に従順な人間兵器の完成だ」
「まさか、そんなのありえない。感情を廃した人間がどうして政府に従順になるんだよ。そもそも、そんな噂、誰から聞いたんだ」
「同じ矯正部のモントールだよ」
「モントールは誰に聞いたんだ?」
「さぁ、そこまでは」
「まったく、くだらない噂だな」
ハミセルは嘲るように鼻を鳴らして、地下十五階まで長々と続く薄暗い非常階段に規則的な足音のリズムをカツン、カツンと鳴らし続けた。
*
地下十五階に到着し、そこから冗長な廊下をまっすぐに進むと、厳重に施錠がなされた大きなドアに突き当たる。『SPECT ROOM』と刻まれたそのドアの左右にもそれぞれ等間隔でドアが連なっており、それが廊下の端から端まで続いている。各ドアには一つ一つにプレートが下げられ、ハミセルたちは『VT13』と書かれた、スペクトルームのすぐ隣にあるドアを開けた。VT13というのはつまり、バーガルタンク13番倉庫という意味である。
室内は感情局フロアの税務部や矯正部と同程度の広さをしていて、入口に面した壁を除く三つの壁面に沿って金属製の棚が立てられており、さらに部屋の中央部にも、同様の棚が縦に五列並んでいる。
十三年前の感情局発足以来、紙媒体でまとめられた国民のパーソナル情報はすべてこのVT倉庫群の中で管理されている。倉庫のナンバーを遡れば遡るほど、その情報も十三年前に遡っていく。ハミセルは手にぶら下げた紙袋から書類の束をごそりと取り出し、VT13の中でも一番日付の新しい棚の中にそれ押し入れた。
十二月を迎えた今、室内にある棚はそのほとんどが埋まっているので、順次、おそらくは年が明けたタイミングで、また新たにVT14倉庫が用意されることになる。地下十五階はすでに満室のため、次は地下十四階に、さらにゆくゆくは地下十三階、十二階へとVT倉庫の波は侵食していくはずだ。
壁面に立て置かれた棚と棚とのわずかな隙間に小さな窓ガラスが嵌め込まれていて、そこから隣のスペクトルームが見られるようになっている。スペクトルーム。このスペクトルームこそが、全国から集めた国民の感情データを一括に管理している場所であり、まさに国の最高機密、国家保安省の核とも言える一室なのであった。
広さはVT倉庫の二倍ほどだが、こちらとは打って変わってコンクリートの平原である。その一番奥のところに巨大な箱型コンピューター《RLV》が壁に背をつけ鎮座しており、その頭から無数に飛び出た蛇腹の管が、まるで親鳥が子に餌を分け与えるように、周囲に並ぶいくつもの小型の機械に繋がれている。《RLV》の腹部辺りには数十個のランプが横に連なり、それが一つ一つ、入れ代り立ち代り、色とりどりの光を放つ。それはまるでコンピューター自身が静かに呼吸をしているかのようでもあった。
あれが───あれこそが、この国の人間から二ヶ月に一度の頻度で集めてきた十三年分の負の感情。悲惨な戦争からこの国を見事に立ち直らせた人たちの努力、献身、そして平和を希求する純然たる想いから抜き出された、いわば感情のにがりである。
感情抽出法、いわゆるスペクト法が正式に施行されたのは十三年前。しかしその法案が最初に議会に上げられたのは、さらにそこから五年遡り、今から十八年前、スペクト博士がパルメカ因子を発見した年、戦争終結の二年後のことであった。
「十八年前の暴動、まだ覚えてるか?」
グロークが窓ガラスの向こうを覗き込むように体を前屈みにしながら、隣のハミセルに横目を向ける。
「忘れるわけがない」ハミセルは努めて平静を装い、肩をすくめた。
「あの機械を見てるとさ、あの日の暴動はなんだったのかなって、なんというか、どうしようもなく虚しくなるよな」
「まぁな……」
「さぁ、もう出ようぜ」グロークが窓から顔を離して、入口に向かって歩いていく。「こんな辛気臭いところに長々といたら、頭がおかしくなっちまう」
「だったらなんでいつも俺に付いてくるんだよ。お前は別に来なくていいのに」
そもそも今回のような書類の運搬は税務部の仕事であり、矯正部の人間が出てくる幕ではないのだ。
「お前の手伝いだって言ってここに付いてくりゃ、その間、仕事をサボれるからな」
「お前のそのサボりたいって感情もスペクト博士に頼んで抜き取ってもらったらどうだ。それこそ軽減じゃなくて消滅だ。そしたらお前もバーガルタンクに従順な仕事人間になれる」
二人は愉快に言い合いながら、VT13をあとにした。
*
感情局局長アルト・マッキングに突然声をかけられたのは夜の七時、ハミセルがその日の職務を終えて国家保安省本部ビルを退勤した直後であった。一階ロビーのセキュリティゲートを通過し、ガラス張りになった背の高い自動ドアをくぐって外に出ようとしたところ、後ろからマッキングに呼び止められたのだ。
「ラブラク! ハミセル・ラブラク!」
その声にハミセルは肩を跳ね上げ向き直り、すぐにぴしゃりと姿勢を正した。
「マッキング局長、いかがなさいましたか」
「いや、別にこれといった用はないんだがな。偶然、前を歩くお前の背中が見えたから、ちょっと声をかけただけだよ」
マッキングは口の上に蓄えた筆のような黒髭を掻きながら、鼻から息を吹き出すように、ふんと笑った。
ハミセルもこの国の所得事情に通じているわけではないが、感情局局員の給料が他所と比べて破格であることは重々承知していた。局長ともなれば尚更のことで、マッキングの肥えた腹回りを見るだけでもそれは容易に想像ができる。といっても、彼のような高官たちの激務を鑑みれば、その高給も分相応ではあるのだが。
「どうだ、今から少し二人で、夜飯にでも行かんか」
マッキングが片手を持ち上げ、ワイングラスを掴む仕草をする。彼はハミセルよりも身長は低いが、恰幅があるからか実際の数字よりも大きく見える。
「夜飯……ですか」
「たまにはいいだろう。部下から話を汲み上げるのも上司の大事な仕事の一つだ。そこの通りを左に折れたところに美味い店がある。さぁ、行こう」
その後、ハミセルはマッキングに連れられるがまま、本部ビルから歩いて数分の距離にあるレストランに足を運んだ。外から中の様子をうかがうとかなり混んでいるようだったが、忍びなさそうに店頭に出てきたボーイにマッキングがバーガルタンクのIDカードを見せると、ボーイは慌てて表情を翻し、すぐに店の奥の個室へと二人を案内した。
「好きなものを頼むといい。ここは鹿肉が美味いんだ」
マッキングは光沢のある革製のソファに腰を下ろすと、分厚い外套を脱いだ。脱いだ外套はそばに立つボーイが引き取り、ハンガーに掛けてくれる。
「鹿肉ですか。久しく食べてないですね。最近は私も粗食なものですから」
「私なんて使わなくていい。いつも通りのお前でいろ」
「は、はい、すみません」
「それにしても……粗食か。ふむ、たしかに見るからに痩せているようだが、ちゃんとしたものを食べてないのか? 給料はたんと貰っているだろう」
「そうですね、でも……、あまり食にこだわりを持つ性格ではないので」ハミセルは肩をすくめて、ありきたりの嘘をつく。
「まぁいいさ。自分の金だからな。自分の使いたいように使うのが一番だ」
やや経って、注文した料理が二人のテーブルに運ばれてきた。彼らのグラスになみなみと注がれた赤ワインは、このレストランの最上級品らしい。
「仕事はどうだ? 不満はないか?」
大皿に盛られたサラダをモシャモシャと咀嚼しながら訊ねるマッキングに、ハミセルは広げた手のひらをぶるぶると振った。
「不満なんて、そんな。感情局は僕にとってはまさに天職だと思っています」
ハミセルが前職である外務省から国家保安省感情局への異動を希望したのは、今から十三年前、つまり感情局が開局したその年であった。
「そうか、それならいいが」
短い相槌を打って、マッキングが今度は鹿肉のステーキにナイフを入れる。しばらく気まずい沈黙が流れたのち、ハミセルは、咲くかどうか分からない種を蒔くような思いで、会話のキッカケになりそうな話題を一つ、頭の中から捻り出した。
「……あ、そういえば」と、気持ちが上擦るあまり、思わず声を絡ませてしまう。「そういえば今日、いつものようにパルメカ税の徴収リストをチェックしていたら、少し気になる部分があったんです」
「ほう」グラスを口に傾けるマッキングの片眉が揺れる。その眼光も、たちまち獲物を狙う鷹のように鋭くなった。
「僕の担当地区の人間の中に数名、名前の後ろに※が付けられている者がいたんです。個人データを照合してみたところ、彼らはすべて要経過観察となっていました。納税の義務は果たしているのに、どうして我々の監視対象になっているのかな、と。同僚のグロークに訊ねると、それは数値異常者の印だと言っていました。数値異常者とは一体なんなのでしょう」
「ふむ……」マッキングはワインをひとくち飲んで、頷くように顎を引いた。「お前はたしかイルダ地区の担当だったな。担当になって何年目だ?」
「七年目になります」
「なるほど、それじゃあ今まで気づかなくても仕方あるまい。あの地区は比較的、安定しているからな」
「どういうことですか?」
「時々、そういう人間が出るんだよ。採取したパルメカ因子の数値が基準値よりも異常に高い人間がな。これまでは納税率の低い地区でより多くの数値異常者が出る傾向にあったが、ここ数年、イルダのような地区でもたまにそういう奴らが出てきてしまうようになった」
「なぜそんなことが起きるのでしょう」
「……さぁ、分からん」マッキングは一瞬、喉の先まで出かけた声を飲み込むように言葉を溜めた。「感情というのは、まだまだ我々の理解を超えた代物ということだろうな。本来その※マークは徴収現場からバーガルタンクに上がる前の段階で別処理されるはずなんだが、おそらく担当の人間が消し忘れたのだろう。しかしまぁ、所詮は要経過観察だ。それに、数値異常者の管轄は矯正部。お前が気にすることでもないさ」
「……そうですね、失礼いたしました」
たしかに、グロークにも言われたことだが、別部署の問題をいちいちこちらが気にしていても仕方ない。それよりもハミセルは、国内で数値異常という事案が発生しているにも関わらずそれに気がつけなかった自分に、忸怩たる思いを禁じえなかった。
「最近じゃ街中で変な噂も出回っているらしい。数値異常者との関連はないだろうが、良い兆候とは言えんだろうな」
「噂、ですか」
「ああ、そうだ」
マッキングはしばらく試すような目でハミセルを見ると、おもむろに立ち上がり、ハンガーに掛けた外套からシルバーのシガーケースを取り出した。
ハミセルも即座にそれに反応し、立ち上がって、スーツの内ポケットからマッチの箱を抜き取った。マッキングがソファに座り直して、取り出した葉巻を口に咥えると、用意したマッチを一本擦り、葉巻の先端に火をつける。
「噂といえば、僕もグロークから変な噂を耳にしました」
「というと?」
「なんでも……今の政府は秘密裏に人間兵器を作ろうとしているんだとか。スペクト博士はすでに人体からすべての感情を抜き取ることに成功していて……いや、とにかく、くだらない噂です。グロークも同僚のモントールからそれを聞いたと言っていましたが」
「人間兵器……たしかにそれは、興味深いな」
口元に意味ありげな微笑を浮かべるマッキング。その表情を見て、ハミセルはようやく自分の過ちを認識した。相手に話を合わせようとするあまり、つい余計なことを。そもそもマッキングは政府要職を歴任後、長年にわたって感情局内部監査部の部長を務めていた男なのだ。局長に就任するにあたってその任は解かれたものの、当時の威光が今もまだ根強く残っているのは周知の事実で、むしろバーガルタンクの長という立場を新たに戴冠した今、ただでさえ強大な彼の言葉の一つ一つにはかなりの重みが、たとえばくだらない噂話を周囲に流布する有害な局員に懲罰を与えるくらいには、宿っているに違いなかった。
「……も、もちろん、グロークもそんな噂、本気にはしていません。むしろけしからん噂だと嘆いていました」
「ふふ、なにをそんなに慌てているのだ」マッキングはハミセルの挙動を面白がるように笑いながら、フォークで突き刺した鹿肉を口に運んだ。
「い、いえ、それは……」
「俺がグロークを僻地に飛ばすとでも思ったか?」
「いえ……」
「安心しろ。グロークにはこれからも我がバーガルタンクで、国家のために、心血を注いでもらうよ」
「はい、失礼いたしました……」
ハミセルは肩を竦めて、こうべを垂らした。ワイングラスに手を伸ばし、口元に運ぶ。馴染みのない上質なアルコールが疲弊した脳天をぴりぴりと刺激してくる。
「時にラブラクくん、君は、神というものを信じているかね?」唐突に、マッキングがそんなことを訊ねてきた。
「……いいえ、僕にとっての神は、もう」
垂らしたこうべを左右に揺らす。かつてのハミセルはこの国に古くから伝わるドリニアル教の敬虔な教徒であったが、十八年前に起きたある事件を境に、彼は神への信仰を捨て去った。
「そうだな。君は正しい。この世界に神などいない。ただ敢えて神の存在を肯定するとするなら、それはおそらく、この国の平和を築き上げてきた我々自身、そう思わないか?」
「もちろん、そう思います」
実際、今のこの国の平和と繁栄があるのは、スペクト博士の大発見も当然あるが、それと同等、あるいはそれ以上に、ここにいるマッキングをはじめとした政府高官の不屈かつ高邁な精神の賜物なのだ。ハミセルは心の底から、そう思う。戦後の後遺症に悩まされてきたこの国を瀕死の状態から救い出してくれたのは、ドリニアルの神々ではなく、今の政府、そして我がバーガルタンクなのであった。
*
ハミセルの自宅は、国家保安省本部ビルからウィジー・サービスを使って数十分、首都アティアカの北西に位置する港町、ナディアの一郭にある。十年ほど前に中古で購入した二階建ての一軒家なのだが、高給の感情局員が暮らすにしては、土地も建物自体も、いささかうらぶれた印象が否めない。少なくとも最近アティアカの一等地に新築を建てたばかりのグロークや、郊外に宮殿のような大屋敷があると噂のマッキングと比べるお、その侘しさというのか、寂寥感は明白だった。
気づけば夜の十時を過ぎていた。凍てつくような厳冬の寒さをアルコールの残滓と一緒に歯で噛み潰すようにしながら、ハミセルは石塀の門扉を抜けて、中庭の飛び石を心持ち駆け足になって渡った。
「おかえりなさいませ、ハミセル様」
玄関を開けると、使用人のカリウス・クルネイラが沓脱ぎの上で頭を下げて、こちらを恭しく出迎えた。短い金髪を丁寧に七三に分けて、いかにも真面目そうな顔つきをしている。ハミセルよりも少しだけ背が高く、ハミセルと同じくらいの痩身である。
「ただいま。エリスは?」
「お変わりないです」
「そうか」
「……あれ、ちょっと」妻の寝室がある二階へ急ごうとするハミセルの背中を、カリウスが鋭い声で引き留めた。「夕飯、もしかして外で食べてきたの?」
「ん? あ、あぁ……うん。まぁな」ハミセルは首を後ろに捻って、取り繕うような苦々しい笑みを口元に浮かべた。
「帰りは? この時間から出てるバスはないはず。まさか、ウィジー・サービスを使ったなんて言わないよね?」
「あー……そのまさかかな。急に上司に誘われちゃって、仕方なかったんだ」
ウィジー・サービスとは国営のタクシーのようなもので、二十四時間、呼べばいつでもどこでも指定の場所に駆けつけてくれる送迎サービスである。ただし、その利便性ゆえ、それなりに値の張る移動手段のため、利用する人間はほとんど高所得者に限られている。
「ハミー、この家の懐事情を一番よく分かってるのはハミーだろ?」
カリウスとの出逢いは今から十八年前、彼がまだ十二歳の年のことであった。ある日突然両親を亡くして、文字通り路頭に迷っていたカリウスを、ハミセルが一時的な居候として保護したのだ。建前上、現在は住み込みの使用人とその雇い主という立場になってはいるが、正直なところ二人の関係性はそれよりも、親子や兄弟に近いものがある。ハミセルを出迎える際のあの恭しさも万が一の来客に備えたポーズのようなもので、家の中ではいつも砕けた口調で冗談を言い合っている。
「分かってるよ。すまない」
「あと、夕食も済ませてくるなら連絡してくれよ。こっちはハミーの分まで作って待ってるんだから。もう俺一人で全部食べちゃうからな」
「おう、そうしてくれ」
カリウスの愛くるしい文句をいなすように手のひらをくるくると回して、ハミセルはふたたび階段を昇った。二階に上がると、廊下を挟んで正面に三つの部屋が並んでいる。向かって左がハミセルの寝室、中央がエリスの寝室、右が誰も使っていない空室である。ハミセルは中央の部屋のドアノブを捻り、中に入った。
「エリス、ただいま」
妻のエリスは奥の壁際にあるベッドに横になり、枕にうずめた頭を少しだけ傾け、窓外の夜空に浮かぶ満月をじっと見つめている。
そばに置いてある四脚椅子に腰を下ろし、毛布の上の彼女の手の甲に手のひらを重ねた。トク……トク……と静かに波打つ彼女の脈動が、夜風で冷えて固くなったハミセルの皮膚をじんわりと溶かしていく。
「エリス、遅くなってごめんね。職場の偉い人に食事の誘いを受けたんだ。そこで久しぶりに鹿肉を食べたよ。酒も飲んだ。そのせいでさっきカリウスにまた怒られちゃった。初めて会った時はあんなにチビだったのに、今じゃすっかり俺よりも大人だ。明日こそは怒られないように、もう少し早く帰ってくるよ」
エリスはなにも答えない。窓の外に目を向けたまま───実際は窓の外に顔の正面が向いているだけで、その視線は虚空を彷徨っているだけなのだが───顔に無表情を貼りつけて固まっている。
「今度、三人でその鹿肉を食べにいこう。なかなか予約の取れないレストランだったみたいだけど、俺のIDがあればすぐに入れる。すごいだろ?」
エリスの腕からは細いチューブが伸びていて、それがベッドのヘッドボードに取り付けられた点滴器具に繋がれている。自律的な活動ができない彼女は点滴から栄養を体内に取り入れるしかなく、他にも定期的に脳波を測り、心臓や胃、肺といった臓器の活動状態を随時チェックする必要がある。
なぜ、こんなことになってしまったのかと今でも思う。事件は今から十八年前、二人の間に生まれた息子が一歳を迎えた年に起きた。
事件のキッカケは、スペクト博士のパルメカ因子発見に伴い、政府が議会に上げたスペクト法の制定案だった。二ヶ月に一度、国民全員から血液を採取し、そこから感情を抜き取るというこの法案は、当然、人権や倫理上の観点から猛反発を喰らった。反発の勢いは瞬く間にドリン共和国全土に波及していき、ついには国全体を巻き込む暴動にまで発展する。のちに悲劇の一日と呼ばれるその暴動の震源地でもあったアティアカには二万人ものデモ隊が一挙に押し寄せ、最終的にはのべ数千人にも及ぶ死傷者を出す大惨事となった。
その日、エリスは暴動の影響で外務省に籠城していたハミセルに必要な食事と着替えを渡すため、一歳になったばかりの息子ロノを連れて、秘密の地下通路を使って外務省本部ビルにやってきた。その地下通路は戦争時に政府要職の人間を避難させるため作られたもので、政府の中枢機関が密集しているアティアカの足下には、そういった政府および警察関係者のみに使用が許された通路が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。エリスも元はハミセルと同じ外務省に勤めていた身なので、その構造は完璧に把握していた。
国中を巻き込む暴動の最中、二人が大義を笠にして暴れ回る暴徒に襲われたのは、外務省に必要物資を届けたあと、ハミセルと別れ、来た道を戻って地下通路から地上に昇り出た、その直後であった。ロノはその場で命を落とし、エリスも一度は心肺停止に陥った。
昏睡状態が数日続き、やがてエリスが病院のベッドで意識を取り戻した時にはもう、すでに彼女は感情のすべてを失っていた。襲われた際の衝撃で脳に重度の障害を負ってしまったのである。犯人は今も尚、捕まっていない。そのため、エリスが暴徒化した人間に襲われたというのもあくまでハミセルの想像に過ぎないのだが、当時の状況から見て、それ以外の可能性は考えられなかった。
今のエリス、つまり、感情の一切を失ってしまった彼女の姿を知る者はごくわずかしかいない。ハミセル自身がバーガルタンクの職員だという立場上の問題もあるが、それ以上に、なんの腹の足しにもならない同情を受けるくらいなら、誰にも知らせないでいた方がマシだという気持ちがあるのもまた、正直なところではあった。
「それじゃあエリス、おやすみ。また明日」
エリスから手のひらを離した瞬間、たちまち自分の皮膚が季節を思い出したかのようにひんやりと冷え上がるのを感じた。彼女の寝室をあとにし、一階に下りてリビングに入ると、キッチンでカリウスが紅茶を淹れてくれていた。
「一杯どう?」
「気が利くな。ありがとう」
二人してダイニングテーブルの椅子に腰かけ、淹れたての紅茶をひとくち啜った。先日、税務部の部長から貰った外国産の高価な紅茶で、嘘か真か、この一杯だけで庶民の一日の食事代を賄えるらしい。
「ハミー、しつこいようだけど、お金の無駄遣いはできるだけ控えてくれないと」
「ああ、もう今日みたいなことはしない。分かってる」
バーガルタンクの給料はそれなりに多く貰っている。国民の一般的な収入に比べると、いささか貰い過ぎなくらいだとも思う。
しかし、その給料の大半がエリスの医療費に使われているため、実質的な生活水準は庶民のそれとほとんど変わらないのが現状だった。秘密にしているがゆえ堂々と病院に通うわけにもいかず、また、自宅療養となると医療機器の維持費等にも出費が嵩むのである。
「そういえば、まだ夢は見るのか?」
訊ねると、カリウスは口を歪めて頷いた。
「毎日じゃないけど、時々ね」
ここ数ヶ月、なにやら心地の悪い夢をよく見るのだという。暗闇の中、なにかを求めて、それに縋るような夢らしい。いつも聞こえてくるのは、金属製のネジかなにかが擦れる音と、ボッとなにかに火が燃え移る音。夢を見ている間は金縛りに遭っているかのように身動きが取れず、目を覚ますと滝のように汗をかいている、らしい。
「病院には?」
「今日の昼、行ってきた」
「先生はなんて?」
「またかって」
「また? 前にも同じようなことがあったのか?」
「ううん、そうじゃなくて、俺以外にも変な夢を見る人が最近、増えてきているんだって。先生にもその理由は分からないらしいけど」
木製のボウルに入れた安物のクッキーを一つ頬張り、カリウスは眠たそうに欠伸をした。釣られてハミセルも欠伸をこぼす。いつのまにか時刻は夜の十一時を回っていた。
その後、なんでもない会話を二つ三つ交わしたのち、飲み干した紅茶のカップをキッチンに戻して、ハミセルはリビングをあとにした。廊下の階段から二階に上がり、エリスの寝室を横目にしながら、自分の部屋のドアを開ける。
明日の朝になったらエリスが感情を取り戻しているかもしれない。毎晩、そんなことを考えながら眠りにつく。毎晩毎晩、一日一日を指折り数えて、もう十八年目だ。しかし、諦めるわけにはいかない。エリスは必ず帰ってくる。そうやって無理にでも信じていないと、今度は自分の心が、今にも壊れてしまいそうなのだった。
*
約二ヶ月後───。
議会によってスペクト法の改正案が可決され、それまで二ヶ月に一度だったパルメカ税の徴収がひと月に一度に変更された。
国家保安省本部ビルの地下十五階、スペクトルームに保管されていた国民の感情データが何者かによって盗み出されたのは、改正案可決の翌日のことであった。