匂い《皇 side》
◇◆◇◆
────同時刻、一階のリビングにて。
棚やテーブルを水拭きしていく私は、『はぁ……』と溜め息を零す。
伊月を抱き締めた時の感触を思い出しながら。
ほんっっっとに小さかったな。いや、身長は平均くらいあるんだけど。
でも、童顔と相まってより幼く見えるというか……それに腕凄く細かったし。
お腹も『内臓ちゃんと入っている?』って心配になるくらい、凹んでいて……愛おしさが、ヤバい。
『守らなきゃ』って、なる。
母性本能にも似た衝動が全身を駆け巡り、私は水拭き用のタオルを強く握り締めた。
「転倒は危ないから二度と起こってほしくないけど、伊月を合法的に抱き締められるのは役得すぎる」
『ぶっちゃけ、ご褒美』と考えつつ、私はテーブルを拭き終える。
と同時に、棚へ視線を向けた。
そういえば、あのぬいぐるみの正体バレなくて助かったな。
伊月に問い詰められたときは、内心ヒヤヒヤしたよ。
『てか、音の出るやつで良かった』と肩の力を抜き、私はスマホでWebカメラを起動した。
すると、リビングの様子が映し出される。
ぬいぐるみのある辺りから。
そう、アレの正体は────隠しカメラなのだ。
しかも、音声も取れる優れもの。
「位置や角度はこれで問題なさそうだね」
カメラ越しに見える景色を確認し、私はスマホを仕舞う。
と同時に、棚の上を水拭きした。
さてと、掃除はこれで粗方終わりかな。あとは食事作りと衣類の洗濯のみ。
「昼食にはまだ早いし、先に洗濯を済ませよう」
誰に言うでもなくそう呟くと、私は脱衣所へ向かった。
そこで箱に入れられた伊月の衣類を一つ一つ……一つ一つ丁寧に確認していく。
別にやましいことはない……とは言わないけど、これも立派な仕事だからね。
色物やセーターなどは分けて洗わないといけないし、ポケットにティシュなどが入っていたら大惨事だし……だから、これは必要なことなんだ。
よって、私は悪くない。
黒のスウェットやバスタオルを見つめ、私は『はぁ……』と感嘆にも似た溜め息を漏らす。
「洗うなんて、勿体ないな……このまま持って帰って、コレクションしたい。新品のものと交換なら、許してくれるかな」
数時間前まで伊月の着ていたもの・伊月の素肌に触れていたものと考えると、無性に取っておきたくなり……私は理性と葛藤する。
さすがに勝手に取っていくのは、窃盗と同じだよね。
でも、馬鹿正直に『ください』と言って貰えるかどうか……だって、普通は気持ち悪いと思うだろうし。
特に伊月は私の志望理由を聞いてドン引きしていたから、断られる可能性が高い。
『それどころか、嫌われるかも……』と思い悩み、私はお持ち帰りを断念した。
それはもう断腸の思いで。
「はぁ……なら、せめて匂いだけでも……」
虚ろな目でスウェットとバスタオルを見やり、私はそう呟いた。
すると、
「────何?匂いって」
と、後ろから声を掛けられる。
反射的に振り向く私は、伊月の姿を見るなり呆然とした。
『もしや、今の……聞かれていた?』と狼狽える私を前に、伊月は小首を傾げる。
どうやら、言葉の意図は分かっていないらしい。
『なら、まだ何とかなるかも……!』と希望を見出す私の前で、伊月はハッとしたように顔を上げた。
「皇、お前まさか……」
嗚呼……これは絶対にバレた。終わった。
出勤二日目にして、解雇なんて最悪すぎる。
まだあんまり仲良くなれていないのに。
『連絡先だって、交換してないんだよ……』と嘆く中、伊月は私の方へ近づいてきた。
かと思えば、こちらへ手を伸ばす。
一瞬殴られるのかと思い、身構えるものの……伊月の手は私の横を通過して、棚にある瓶を掴んだ。
「ほら、やるよ」
そう言って、伊月は手に持った瓶を差し出す。
あまりに予想外な出来事にポカンとしていると、彼はパチパチと瞬きを繰り返した。
「なんだよ、その反応。ウチの柔軟剤を使ってみたかったんじゃなかったのか?」
『もしかして、俺の勘違いだった?』と焦る伊月に、私は心の底から脱力した。
あー……ビックリした。匂いを嗅ごうとしていることが、バレたのかと思った。
『そういう方向に考えてくれたのか』と安堵しつつ、私は表情を和らげる。
と同時に、有り難く瓶を受け取った。
勘違い云々のことはさておき、伊月と同じ匂いになれるのは素直に嬉しいから。
「ありがとうございます。伊月様の柔軟剤、一度使ってみたかったんです。助かります」
『早速明日から使いますね』と述べる私に、伊月はホッとしたように胸を撫で下ろす。
自分の予想が的中して、安心したのだろう。
「おう。ソレ、結構いい匂いだから個人的にはオススメ」
なるほど、伊月はこういう匂いを好んでいるのか。
しっかり、覚えておこう。
柔軟剤の入った瓶をギュッと握り締め、私は『もっと伊月の色んなことを知りたい』と願う。
好きな人のことは髪の毛の数まで、把握しておきたい性分のため。
『とりあえず、ヲタクってことは分かっているんだけど』と思案する中、伊月はふと掛け時計を見る。
「あっ、そうだ。昼飯のことなんだけど、今日はいいわ。ゲームのイベントに集中したいから」
ここに来た当初の目的はソレだったのか、伊月は『晩飯だけ頼む』と言い残して踵を返した。
さっさと退散していく彼を前に、私は『分かりました』と声を張り上げる。
じゃあ、夕食はガッツリ目にした方がいいかな?
お腹空いているだろうし。
それに今のままだと、あまりにガリガリすぎる。もっと太らせないと。
抱き締めた時の感触を思い出し、私は密かに伊月増量計画を画策するのだった。




