記憶喪失前の俺がだいぶやらかしてた件
俺は交通事故にあったらしい。
まるで人ごとのように語るのには理由がある。それは俺が記憶喪失になったためだ。
そう医師は語る。
彼は俺の知識分野に欠落は見られなく、思い出に当たるエピソード記憶が失われるうんたらかんたらとか話してた。
正直そのおじいちゃん医師が何を話しているのかよく理解できなかった。
その話を聞いた、たぶん俺の両親と思われる男性と女性は膝から崩れ落ちた。
退院の許可が出たため自宅と思わしき場所に帰るが、その家を見て『ここが俺の家だったのか』とか他人事のように考えていた。
両親と共に自宅に入る。
「ここが駆の部屋だ」
父に言われて案内された部屋に入る。
部屋の棚には多数のトロフィーとメダルが置かれており、それを見た俺は事故前の自分が何かに熱中した人物であると理解した。
机の引き出しを開ける。
するとレターセットの下に一枚の便箋があった。
その便箋を手に取り、読んでみる。
『手取り合う 雨降る夜の 四阿か』
なんだこれ。
五七五? 俳句かこれ……。
しかし宛名が無い上、そもそもこの五七五は手紙のていを成しているのか怪しい。
全く意味が分からないので、手掛かりを探るべくその引き出しをガサゴソと漁る。
するとはしがきと思われる便箋を見つけた。
そこには『懸想文』と書かれている。
懸想文ってなんだっけ。俺は記憶を呼び起こそうとする。
幸い知識に異常は見られないからな。
――懸想文。それは恋文、所謂ラブレターのことである。
過去の俺、ばっかじゃねえの!?
こんな怪文書、相手に意味が通じる訳ないじゃん!
その時、チャイムの音が鳴り響いたので便箋を元の位置に戻し、引き出しを閉め部屋を出た。
玄関へ向かうために階段を降りようとしてると、母が一人の少女と話していることに気づいた。
「あのね、芹那さん。今は駆と会わない方がいいと思うの」
「お母さま。でも貴方は昨日、早めに駆くんに顔を見せてほしいと頼んできたではありませんか」
「それが、事情が変わっちゃって……」
階段を降りてる途中でそんな会話が聞こえてきた。
トントンッと足音を立てながら全ての段を降りきった俺に視線が集中する。
一つは母の視線。
もう一つは芹那と呼ばれた少女の視線。
「か、駆……! 事故にあったって聞いたけど、怪我は大丈夫なの!?」
めっちゃ食い気味に来るじゃん、この子。
「軽い打撲はあるくらい。ただ、記憶喪失になったらしくて君のことが思い出せない」
その言葉を聞いた彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
俺はどうしていいか分からずわたわたとしていたが、彼女はハンカチを取り出して涙を拭った。
「私が誰だか本当に分からないの?」
「わからん。さっき会話が聞こえてきたから、君の名前が芹那だってことは知れたけど」
「小学生の時、私をいじめっ子から守ってくれたことも?」
「ああ、分からん」
「駆はサッカー部のエースだったけど、私にしつこく付きまとってくる先輩を呼び出して説教したことも?」
「――ああ、分からん」
「私は文芸部に入っているけど、川柳コンテストで金賞を取ったときに抱き合って喜びを分かち合ったことも?」
「ちょっとわからないっすね……」
過去の俺、何やってるんだよマジで。
羨まけしからんとか考えていたら、予想外の言葉が飛んできた。
「――四阿で一緒に雨宿りしたことも?」
「黙秘権を行使します」
さっきの懸想文にそんなことが書かれていたな。
『知らない』と嘘をつくわけにはいかないという感情と、過去の俺の想いを踏みにじりたくないという感情が心の中で渦巻いていた。
俺は何となく察したのだ。
記憶喪失前の俺は、この子に好意を持っていたのだろうと。
「これ以上一緒にいると、駆に負担を掛けそうだから私は一回帰るね。何かあったらスマホで連絡頂戴。スマホって分かる? 記憶、残ってる……?」
「安心しろ、その辺の記憶は大丈夫らしい。何かあったらスタンプ連打するから覚悟しとけよ」
「……うーん、性格は記憶喪失前に近いのよね」
「俺は俺だからな」
若干暗くなりかけているその空気を茶化し、できるだけ話題を明るい方に持っていこうとする。
その俺のアホな言動を聞いた芹那は安堵したらしい。彼女はホッと胸をなでおろす。
彼女を見送り、俺は部屋へと戻った。
◇
記憶はある日突然戻る可能性もあれば、一生戻らない可能性もあるらしい。
そのようにあのおじいちゃん医師は話していた。
朝食のトーストを齧りながら、時計を見る。
登校するには良い時間だろう。
身支度を整え、玄関の扉を開けて外に出た。
「あら、おはよう」
「……おう、おはよう。芹那――さんは何故ここにいる」
「芹那でいいわ。お願い、そう呼んで。それはともかく、そもそも一緒に学校に通うんだってぐずっていたのは貴方の方じゃない?」
過去の俺、マジで何やってんの?
いや、気持ちは分かるよ? 好きな子と登校したかったんでしょ?
だが、そのツケは別人に生まれ変わった俺に回ってくるんだが。
芹那と共に登校している途中で、大まかにだが俺らの関係について聞いた。
なんでも俺らは幼馴染と呼ばれる関係だったらしい。
幼稚園児だったころからの付き合いだとか。
登校中の会話で気づいたことがある。
彼女は惚けた眼差しで俺を見つめることもあれば、視線が合ったかと思うと焦った様子を見せながら目を逸らす。
その頬は若干赤みを帯びていた。
恋愛って人ごとになると色々と目につくようになるのな。
過去の俺は彼女に好意を持たれていたのだろう。
……あれ? これ、両片思いじゃね?
おい、過去の俺。この問題を俺にどうしろというんだ、答えてくれ。
◇
「おっ、時久夫妻のお出ましだ」
ガララッと教室の引き戸を開けると、そう声をかけてくる男子がいた。
「芹那には星屋って苗字があるだろ。ところであんた、誰?」
「おい、マイブラザー。俺の名前を忘れたなんて冗談きついぜ」
「マジで覚えてないんだよ」
「……マジなやつ?」
「マジなやつ」
ということで彼と会話して情報交換をする。
俺の親友だとか抜かした彼の名は岸谷裕幸というらしい。
裕幸は俺が記憶喪失だと知ったが、昔と同じように接すると宣言した。
「駆。貴方、部活はどうするの?」
「あー。休部届、出しとくか。部活やってる場合じゃねえ!」
授業を終えた後、職員室に行って休部届を提出した。
休部理由は事故の後遺症によるもの。
顧問の石口先生は渋々であったが、その休部届を受け取った。
「エースが不在になるのは痛いな」
「すみません。でも記憶無しじゃ何かと問題があるでしょうし」
「だな。……いつか戻って来いよ」
「善処します」
しかし、断りもなく急に部活を辞めるのは良心が痛んだ。
そのためサッカー部の練習場に顔を出し、部員に挨拶だけ済ませておく。
その後、グラウンドの隅っこでぽつんと体育座りをしながらサッカーの練習を眺めていた。
あっ、あの軌道だとゴールに入らんな。
案の定そのボールはゴールバーに弾かれ、宙高く舞う。
どうやら体はサッカーのことを覚えているらしい。
「よう、マイブラザー。何黄昏ているんだ?」
「サッカーの練習風景を見て、懐かしくなった過去の俺が表に出てくる手はずをだな」
「中二病か」
裕幸は陸上をやっているらしい。
彼の足元には陸上用のスパイクシューズがあった。
「お前は陸上の練習はいいのかよ」
「いいんだよ、休憩時間が長めのインターバル走ってことにしとく。……で、本題なんだけどよ。星屋さんとはどうなのよ?」
「なんもないぞ」
「は? お前、それでいいわけ? 好きなんだろ? 彼女のこと」
「芹那のことを好きだったのは過去の俺だよ。今の俺じゃない」
淡々と事実を述べるが、芹那が魅力的な女性であることは今日一日過ごして十分わかった。
明るい性格。クラスメイトの話を聞いてはよく笑う彼女のその笑顔。話題の引き出しの多さ。美貌などなど。
「去年の文化祭の時、あんなに仲良さげに一緒に出し物を見て回っていたのにか?」
「俺ら、そんなことしてたの?」
「ああ。あれ以来駆と星屋さんはデキてるって話になって、よく時久夫妻って呼ばれるようになった。なおお前らは否定はしなかった」
ほんとさあ……。
俺が否定しないのはまだ分かるよ? 過去の俺は芹那のことが好きだったからな。
でも何で芹那も一緒になってその言葉を享受しているんだよ。
……まあ、好かれていたんだろうな、過去の俺。
裕幸との会話はほどほどにして、俺は校舎内へと戻る。
そして、教室に戻り鞄を回収した後で文芸部がある部室を訪ねた。
その部室の中には一人の影。
「たのもー!」
「……駆、何やってるのよ。サッカー部のほうはいいの?」
「ああ、無事休部が認められた。んで、暇だから芹那に会いに来た」
「暇だから、ね」
あからさまに不機嫌になるんじゃないよ、芹那さん。
「他の部員は?」
「部長はお茶請けのお菓子の買い出しに行ってる。他の部員は掛け持ちが多いから今はいないかな」
「ふーん」
俺は部室内に入り、芹那の正面の席に当たるパイプ椅子を引いてそこに座った。
彼女は怪訝な表情を浮かべる。
「そうだ、芹那に渡すものがある」
俺は鞄から一つの封筒を取り出し、芹那に手渡した。
彼女は恐る恐るその封筒を開ける。
そして中に入っている一枚の便箋を手に取った。
「手取り合う 雨降る夜の 四阿か」
便箋に大粒の雫がいくつか滴り落ちる。
その彼女の哀愁の表情を見て、俺は美しいと思ってしまった。
どうやら俺は腐っても駆という人物であるらしい。
思い出があろうがなかろうが、彼女に惹かれるのは時間の問題だったのだ。
「駆、四阿の件、知らないって言った」
「知らないとは言っていない。黙秘権を行使したまでだ。……まあ、過去の俺との思い出、大事にしろよ」
「それって、――それって! じゃあ私たちの気持ちはどうなるのよ……。ずるいよ、駆」
これ以上彼女を傷つけたくない。
心の中で過去の俺が悲鳴を上げているかのようだった。
「安心しろ。今の俺ともフラグは立ってるから」
「……えっ」
鈍感か。
記憶喪失前の俺らの仲が進展しなかった理由も分かる気がする。
「皆まで言わせる気か。なら言ってやるよ。今の俺も結構芹那のこと、好きだぜ? 前ほど仲良くできるかは分からんが、まあ頑張ってみる」
はらりと一枚の便箋が地面に落ちた。