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お国によって違う挨拶

 利秋様は私の腕をいつの間にか自分の左腕に絡め、そして連れ去るという言葉が正しいぐらいに私を強くひっぱった。

 だが、中庭に入る一歩手前、大きな金木犀がある場所で足を止めた。


「兄様?」


「もう利秋様でいいよ。」


「え?」


 利秋様は、彼は、私を私が初めて見る事になった表情で見下ろしていた。

 女性だったらたぶん全員が全員喜ぶような、熱っぽい情熱を瞳に浮かべて、夢見るようにして微笑む美しい利秋様。

 私はその目で見つめられた事で足元がふわふわしてしまった。


 なんてはしたない!

 私は利秋様への気持ちを捨てる覚悟を決めたのでは無くて?


 自分に叱責を浴びせてみたが、私の理性こそ私の心に囁いた。

 こんな素敵な人にときめかない女こそいないでしょう、と。


 そうだ、利秋様は誰よりも優しいが、そんな彼の優しさなど知らなくても誰もが恋をするだろう、彼こそ誰もが夢見る王子様の外見をしている人なのだ。

 そう見えるのは、彼のスタイルが当世風の流行に乗っていないからだろうか。


 彼の髪形は軍人というには長すぎる短髪であるが、そのふんわりした髪型は町中で見かける異国人風のようでそうではない。

 エゲレス人やアメリカ人が男性の証の様にして顎まで伸ばしているもみあげ、そんなものが無いすっきりとしたものなのだ。


 あら、そういえば利秋様の髭顔なんて見た事が無かったわ。


 利秋様が出会った頃のまま私の中で初恋の人でいらっしゃるのは、きっと、私が彼のそんな無精ひげ姿などの汚い所を見た事が無いからであろうか。


 そこで、私は寝起きの衛の姿を思い出した。

 衛こそ、とっても小汚くなっていても、全く汚く感じないどころか、あら、寝起きの顔が可愛いと思ったことだってなかったかしら?と。

 藤吾の眠そうな時の顔に似ているって、今朝だってそう思ったのじゃなくて?と。


 そうだ、そうだ、衛だってもみあげなんか作っていない。


 無精ひげだらけの寝起きの彼が身だしなみを整えれば、軍人らしい短い髪はパリッとして艶やかで、折り目正しい軍人そのものの翳り一つ見えないように整えた髭のない顎となるのだ。

 そうか!きっと私は男臭く見せる男性のおしゃれこそ嫌いなんだわ!


「りま?何を考えているのかな?」


「あ、もみあげが無いのは素敵だなって!」


 ぶっ。


 利秋様は吹き出すや背中を逸らせて笑い出し、私は桐生家での彼の姿だと思い出してしまい、もう彼の妹として横にいられ無いのだと寂しい気持ちになった。

 そして散々に笑い転げた彼は再び私を見つめ返し、だが、私の胃がひっくり返りそうな甘い視線を私に向けて来たのだ。


 向けられればタキが何でも言う事を聞いてしまう視線。


 でも、私には一度もそれを向けてくれなかったのに、利秋様は、今や私だけにそんなうっとりさせるような視線を向けて来ているのだ。

 ようやく彼の甘い視線を経験できたと喜ぶべきなのに、怖いと背中に悪寒が走ったのは何故だろう。


「りま。」


「え、あ、はい!」


「あれは君に優しくしてくれるか?」


「え、ええ!勿論ですわ。」


 わっ!

 利秋様の右手が私の腰に回された。

 私の右手は彼の左腕にかかっている状態で、彼はいつのまにやら私の右手を持ち上げると、私の手の甲にキスをした。


「きゃ!」


「エゲレス式の挨拶だよ。少尉の妻ならば、そのうちに異人にこうして挨拶される事になる。」


「ま、まあ。」


「けれど、彼は陸軍。陸軍はフランス式だ。これとは違う。」


「フランスとエゲレスは違いますの?」


「教えてあげよう。」


 利秋様の顔が傾いて私に近づいてきたのはなぜかしら?


「お、お兄様?」


 私は慌てて利秋様の胸元を左手で押さえた。


「あ、あの。」


「あれは君を喜ばせてくれるのか?」


「は、はい!衛様と先だっての日曜日には新橋から汽車に乗って横浜に参りましたのよ!私も藤吾も初めての汽車でございましょう。はしゃいじゃって、はしゃいじゃって……あら、お兄様?」


 あ、兄様の顔がピタリと止まり、近づいてきた事が幻覚だと思う程にすっと頭を元通りにした。

 私が急に寒気を感じるぐらいに、私に回されていた腕の存在も何もない。

 それどころか、利秋様は頭が痛いかのようにして、眉間に右手の指先を当てて目を瞑っていらっしゃるじゃないの。


「お、お兄様?ほ、ほんとうに心配なさらなくて大丈夫よ。衛様は本当に素晴らしいお方なの。」


 利秋様がいつもの兄様では無いのはどうして?

 私は不安ばかりで、そのうちに視界がぼんやりしてきた。


「……りま。泣くんじゃない。私は心配なんだよ。君みたいな無垢でしかなかった娘が、男の欲望に晒されて傷ついていないのかと、心配で心配で堪らないんだ。あれは普通以上に大男だ。君は大丈夫なんだよね?」


 ああ、そういう事か。

 嫁ぐ前にタキが教えてくれた、男と女がしなければならない怖い事について、私を妹として大事にしてくれた利秋様は心配なさっていたのだ。


「あ、あの、私が世伽が怖いと申しましたら、わ、私がそれを望むまで待つとおっしゃってくださって!だ、だから、恐ろしい事など何にも!」


「あの馬鹿は君に指一本触れていないのか!」


 私は初めてと思える利秋様の怒鳴り声にかなりびくっとした。


「あ、兄様?」


 利秋様は聞こえるぐらいにぎりっと歯噛みすると、私をぱっと解放した。


「すまない。私は急用を思い出した。」


「兄様?」


 利秋様は私から身を翻すと、一瞬で消えてしまったと錯覚する勢いで、私の元から去って行ってしまった。


「お兄様はどうなさった、……あ、夜のことなど言ってはいけなかったのね!ああ!西洋では肉体関係のない結婚は無効になるのだもの!」


 私は自分の考え無しでお喋りな口元を両手で覆うしか無かった。

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